礼拝説教ダイジェスト:1999-2000年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「あなた」
聖書:ヨハネの手紙T 4章7〜12節(神は愛)(新共同訳・新約・p.445)
1999年10月17日(日)キリスト教学校教育同盟・関西地区・新人教師研修会・聖日礼拝説教
  ハワイのある教会に、こんな言葉がかかげてあったそうです。「単語6つで言える最も大切な言葉は?」。答は、“I was wrong, please forgive me.”(わたしが間違っていました。ゆるしてください)です。次には、単語5つで言える最も大切な言葉は? 単語4つでは? 3つでは? と続き、最後に「単語1つで言える最も大切な言葉は?」と質問までやってきます。さぁ、みなさんは何だと思いますか?
  それは、本当にわたしたちが互いに送りあいたい思い、献げあいたいメッセージであるはずです。

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 「愛されていることに気づいていますか」
聖書:マタイによる福音書1章18〜25節(イエス・キリストの誕生)(新共同訳・新約・p.1〜2)
聖書:ルカによる福音書1章26〜38節(イエスの誕生が予告される)(新共同訳・新約・p.100)
聖書:ルカによる福音書2章1〜7節(イエスの誕生)(新共同訳・新約・p.102〜103)
1999年12月24日(金)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス音楽礼拝説教
  この世を救う「救い主」というのですから、強く・賢く・全知全能であって欲しいものです。しかし、神さまは「救い主」を赤ん坊の姿でこの世に送り込まれることを考えつきました。
  無力の極みとも言える赤ん坊の姿で救い主をこの世に生まれさせるというのは、神さまのユーモアであると同時に、深い人間への愛の現れでもあったのです。私たちは、今年もこの赤ん坊を心のうちに迎えることで、何に気づくことができるのでしょうか。

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 「ジュビリー2000」
聖書:レビ記25.8−17(ヨベルの年)(新共同訳・旧約・p.202−203)
2000年1月5日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・2000年新年祈祷会奨励

  世の中「2000年問題」とか「Y2K」と騒がしいのですが、実はキリスト教にも「2000年問題」はあるのです。2000年はカトリックがはじめた「聖年」の制度によれば、ちょうど「大聖年」、「ヨベルの年」にあたるのです。
  この「ヨベルの年」、長年の間にたまった不良債権を放棄したり、奴隷を解放したりする、なかなか注目すべき古代ユダヤの制度です。そこには、神さまからあずかったこの世の財産を、健全に運営しようとする知恵があらわれています。
  わたしたちはこの知恵を現代にも生かすことはできないでしょうか。

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「この罪深き者をこそ用いて」
聖書:出エジプト記3章1−14節(モーセの召命) (新共同訳・旧p.96−97)
2000年3月26日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

 モーセは被差別者であり、犯罪者でもあります。
 紀元前1250年ごろ、ヘブライ人は、エジプト人の奴隷とされ、人口調整のために子どもたちを虐殺される 立場でした。しかも、モーセはエジプト人を殺害し、エジプト人から追われるだけでなく、 同朋のヘブライ人からも仲間はずれにされざるをえなかったのでした。
 そんな天涯孤独の彼に、神がその名として語る「わたしはある」という言葉は、何を意味するのでしょうか?
 神は、殺人者モーセを、そのままで赦したのでしょうか?
 「罪深き者」モーセの宣教活動は、彼自身の人生にどんな意味を持っていたのかを考えてみたいと思います。

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「神の赦しを乞い、人の赦しを乞い」
聖書:ルカによる福音書23章13〜25節(イエス、死刑の判決を受ける)(新共同訳・新p.157-158)
2000年4月18日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週祈祷会奨励

  イースターを前にした1週間。「受難週」と呼ばれるこの時期、 キリスト者は「自らの罪を思い起こし、悔改める時を持つ」といいます。
  しかし、すでにイエスの十字架によって自分たちの罪は赦されていることを知っているキリスト者が いかに悔改めのポーズをとっても、年中行事または恒例行事となってしまった「悔改め」は、 もはや八百長でしかないのではないでしょうか。
  一体、イエスは誰のために、何のために十字架で殺されたのでしょうか?
   「イエスが私たちの罪のために死んだ」とは、どういうことなのでしょうか?
  「キリスト者の罪深さ」を掘り返しつつ、問いたいと思います。

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「パン屑だけでもいただきます」
聖書:マルコによる福音書10章13〜16節(子どもを祝福する)(新共同訳・新p.81)
2000年5月28日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

  日本キリスト教団は幼児が聖餐式のパンとワインに預かることを認めていません。
  また、信者でない人は、聖餐式の間、信者だけがパンとワインを食しているのを、黙ってみていなければなりません。これは客観的に見ると実に妙な光景です。果たしてこれは、聖書から見て妥当なことなのでしょうか?
  初期のクリスチャンたちがめざしていたのは、オープンな食卓なのか、クローズな秘儀なのか? それを聖書を通して、探ってみましょう。

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「あなたしかいない」
聖書:出エジプト記20章1〜6節(十戒第1〜2戒)(新共同訳・旧p.126)
2000年7月30日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

  十戒の第1と第2の戒めは、神から人への遠距離恋愛のラブレターのようなものです。 それは都合のいい恋人ではなく、苦楽を共にする濃い絆を求める愛の告白です。
  神と人の愛を恋愛にたとえることには危険もあるが、 苦楽を共に負う愛し方を人にも神にもできる人は幸福ではないでしょうか?

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「人みな神の子」
聖書:ヨハネによる福音書10章31〜39節(あなたたちは神々である)(新共同訳・新p.187−188)
2000年8月20日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区カウンセリング研究会夏期合宿・聖日礼拝兼閉会礼拝奨励

  (カウンセリング研究会に集う学校の先生方といっしょに行なった礼拝)
  『神の子』とは、実はイエスだけのことではありません。イエスは「人間は神々なのだ」と言っておられます。 私たちは、先に生まれても、後から生まれても、同じ根っこから地上に生えてきたタケノコのように、 共に神の子なのです。
  私たち先に生まれた者たちは学校で、後から生まれたたくさんの神の子たちを前にしているのです。

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 「あなたしかいないU〜あなたがいなくても」
聖書:マルコによる福音書10章1〜12(離縁について教える)(新共同訳・新p.80-81)
2000年9月24日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

  (「あなたしかいない」の毒消しバージョン)
  「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という御言葉を、多くの人がイエスによる離婚の禁止だと思っています。しかし、イエスがおかれていた時代・社会の状況を無視して、聖書の1節だけ切り取って現代の状況に当てはめても、それは適切とは言えません。
  イエスが生きておられた当時の「離縁」とは、夫側の都合で好き勝手に妻という「私有財産」を(合法的に)「処分」できる、本当にひどいものでした。
  イエスは、生活を奪われ、生きる場所を奪われた女性たちのおかれた状況を前に、「離縁」のテクニックについて論議する無責任な男性たちに警告を発したのでした。
  私たちはむしろ、どうすれば「神が結び合わせている関係」と呼ぶにふさわしい人間関係を造っていけるかどうかをチャレンジするべきではないでしょうか。

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 「メシアの死/対峙する生き方」
聖書:マタイによる福音書16章21〜28節(イエス、死と復活を予告する)(新共同訳・新約・p.32)
2000年10月12日(木)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖書研究祈祷会奨励

  バビロン捕囚を始め、周囲のあらゆる国々に占領・支配されつづけてきた歴史を持つユダヤ人にとって、自分たちの民族的独立と、自治の実現は、永年の悲願でした。
  当然、イエスも同じように「イスラエルを救ってくれるメシアではないか」と期待され、ペトロもそうだったからこそ、イエスが殺されることを認めたくなかったのです。
  それでもなお、十字架の死に向かってゆくということは、これは、人々の期待を裏切ると言う良心の呵責なしにはなされえなかった決断ではなかったでしょうか。
  そして、いま私たちの教会は「イエスの十字架を背負う」とは、どういうことなのでしょうか。考えてみましょう。

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 「よく調べてから信じなさい/希望の証拠」
聖書:ヘブライ人への手紙11章1〜3節(信仰)(新共同訳・新約・p.414)
2000年11月12日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

  ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という聖句は、誤解を受けやすい御言葉と言えるでしょう。それは実は、決して、「石にかじりついても」とか「ただ信ぜよ」という態度を押しつけるものではありません。むしろその反対で、徹底的に疑って調べてゆくような態度を勧めているのです。
  この聖句を丁寧に読み直しながら、ヘブライ人への手紙を記した著者が示そうとした「キリスト者の希望の証拠」を、そして、現代の教会に対して今も問いつづけてられている、その「問い」を受け止めたいと思います。

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 「テオトコス:神の母マリアの導き」
聖書:
ルカによる福音書1章26〜38節(イエスの誕生が予告される)(新共同訳・新約・p.100

ルカによる福音書1章46〜56節(マリアの賛歌)(新共同訳・新約・p.101

ルカによる福音書2章8〜21節(羊飼いと天使)(新共同訳・新約・p.103
ルカによる福音書2章22〜35節(神殿で献げられる)(新共同訳・新約・p.103〜104
2000年11月12日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

  年に一度、クリスマスくらいは、プロテスタントの教会で聖母マリアについてお話する事があってもいいでしょう。
  マリアは、特別な人だったから「救い主を産む」という使命を引き受けることができたのでしょうか。それとも、彼女は普通の人間で、彼女が神に選ばれたのは、全くの偶然だったのでしょうか。
  マリアを見つめなおす事で、私たちは自分自身のありさまを、生き方を、見つめなおすことができるのです。

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