礼拝説教ダイジェスト:2001年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「ミレニアムはどこに」
聖書:ヨハネの黙示録20章1〜6節(千年間の支配)(新共同訳・新約・p.476-477
2001年1月1日(月)日本キリスト教団河北地区・新年礼拝説教
  キリスト教の暦で言えば、この2001年は、「第3のミレニアム」の幕開けという事になります。でも、「ミレニアム」という言葉は本当は「至福の千年間」という意味なのに、世の中ちっとも至福でも何でもないのに、どうしてみんな「ミレニアム」という言葉を使いたがるのでしょうか? また、黙示録に予言された「ミレニアム」は、いったい本当にやってくるのでしょうか?
  第3ミレニアムの年頭にあたり、「本物のミレニアム」は一体どこに見つけることができるのか、少し考えてみましょう。

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 「見えないものを見に行こう」
聖書:コリントの信徒への手紙T 13章12節(そのときには顔と顔を合わせて見る)(新共同訳・新約・p.317
2001年2月14日(水)同志社香里高等学校・同和教育アッセンブリー・アワー講演
  わたしは、普段の暮らしからは見えない、あるいは見えてこないようなところに出かけてゆくのが好きです。
  何年生きたとか、どんな人生経験をしたとか、自分はどんな地位にあるとか、そういうこととは関係なく、自分の立場にこだわってしまうと、人間というのは、いろんなものが見えなくなってしまうのではないでしょうか。
  これは個人についても社会についても同じ事です。わたしたちは、実に多くの人たちを「見えないところ」に押し込めて、都合よく生きています。でも、それが全国レベル・国家レベルの「イジメ」になっていることもあるのです。
  わたしたちの社会が何を無視し、何を排除し、何を見ないようにしてできあがっているのか、それを見に行きたいと思いませんか?

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 「わたしが悪かった」
聖書:ルカによる福音書 23章32−43節(十字架につけられる)(新共同訳・新約・p.158−159
2001年3月28日(水)キリスト教学校教育同盟・全国中高研究集会・第3日目朝拝説教
  最近世の中では、「子どもが悪くなった」という声がよく聞かれます。しかし、そんな事が言えるような「悪くない」大人は、どこにどれだけ見つけることができるというのでしょうか?
  誰が子どもに暴力を教えたのか? 誰が人に迷惑かけなければ何をやってもいいという生き方を教えたのか? 誰が子どもをだまして、子どもに金を使わせて食っているのか? それらは大人です。そんな生き方でも生きてゆけると実例つきで見せているのは、大人です。
  人間を造った神が、地上に満ちた人間の悪に対して、この失敗作・欠陥品をこの世に創造してしまったことを責めて、自らを処刑させるほどに自罰しておられるのに、自分たちが生んだ子どもたちの悪に対して、大人が自らを悔い改めないならば、それは欺瞞といえるのではないでしょうか?

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 「わたしが悪かったU:責を負う神、自罰する神」
聖書:コリントの信徒への手紙T 1章18−25節(神の愚かさ、神の弱さ)(新共同訳・新約・p.300
2001年4月1日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教
  1880年4月13日、新島襄は、問題行動を起こした学生たちを罰する代わりに、「これは校長の落ち度、不徳のいたすところである。よって校長を罰する」と、自らの手を杖が折れるほどに打ち叩きました。有名な「自責の杖」事件です。
  新島の心の中には、イエス・キリストが自ら十字架の苦しみを受ける事で、人間の罪を贖った(あがなった)聖書の出来事があったと思われます。しかし、本当にそうだとすれば、よく考えてみると、彼の十字架に関する考え方は、ちょっと変わっています。
  なぜなら、私たちはふだん教会では、「神さまが自責の念にかられて、自分を十字架で罰せられた」とは教えられていないからです。
  でも、ひょっとしたら新島の感性は案外的をついているかもしれません。神は、この罪だらけ・悪だらけの人間社会を見て、そんな人間を造ってしまったご自分を、最も責めておられるかもしれないからです。
  いちばん人間の罪を悔いておられるのは神さまなのかもしれない。その線で、少し人間と神の関係について考えてみましょう。

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 「身代わりを見棄てることなかれ」
聖書:マタイによる福音書 18章12−14節(「迷い出た羊」のたとえ)(新共同訳・新約・p.35
2001年4月10日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週祈祷会奨励
  「贖罪論(しょくざいろん)」という教えがキリスト教にあります。「イエス・キリストは私たちの罪のために十字架におかかりになり、私たちの罪は赦されました」という、あの論理です。
 しかし、この教えは、罪意識に悩み苦しむ人の心を癒し解放してきた反面、まったく逆に、自分の悪さ加減にまるで無神経なくせに、「私たちは赦されているのですから」と言いつつ、平気で人を傷つけつづけるという、とんでもない怪物クリスチャンを数多く生み出してしまったことも事実です。
 今回は、
この「贖罪論」を見直し、さらに新たな視点から、イエスの十字架の出来事をとらえなおすことを試みてみたいと思います。

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 「実は『彼』はそこにいる:チルチル&ミチル、マルティン、そしてイエス」
聖書:ルカによる福音書 24章28−35節(イエス、エマオに現れる)(新共同訳・新約・p.161
2001年5月20日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教
  メーテルリンクの有名な作品「青い鳥」。チルチルとミチルの家にあったのですが、いったい二人は「もともと青い鳥だったのに、それに気づかなかった」だけなのでしょうか? それとも二人が苦しい旅路から戻ってきたときに「その鳥は青く変わったのでしょうか?
  この不思議な物語が、今日の聖書の箇所、「エマオで弟子たちの前に現れたイエス」の物語を理解する核となります。
  そして、どうすればエマオで弟子たちが出会ったように、私たちもイエスに出会えるのでしょうか……。
  それを見事に文学的に表現した作品が、トルストイの「靴屋のマルティン」です(原題名:愛のあるところに神がある)。
  二つの物語と、聖書の物語をもとに、私たちがイエスをどこに発見
できるのか。どのようにすればイエスを見ることができるのか。考えてみましょう。

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 「すがりつくのはおやめなさい」
聖書:創世記 4章1−16節(カインとアベル)(新共同訳・旧約・p.5−6
2001年8月12日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教
  献げ物に目を留めてもらったアベルと、目を留めてもらえなかったカイン。この有名な物語で、主なる神は「お前が正しいのなら、顔を上げられるはずだ」とカインに声をかけます。つまり、神に喜ばれない献げ物をしたことがカインの罪なのではなく、神に評価されることを願って、それが期待通りにいかないと暴力を働くエゴイズムが問題なのです。
  それは、自分で自分を認めることが出来ず、権威やカリスマなどにもたれかかって自らの正当性や強さを確認したがる権威主義です。
  また、ヨハネによる福音書20章には、イエスの遺体を私物化しようとしたマグダラのマリアに、イエスが「わたしにすがりつくのはよしなさい」と告げたことが記されています。イエスは、そして神は、人間の期待を都合よく投影されることを拒絶しておられるのです。
  「わたしにすがりつくな」「お前が正しいのなら、顔を上げなさい」。それらの御言葉から、神は私たちに、自らの信仰に照らして正しいと決断した道を進みなさい、と望んでおられることが分かります。エデンの園を去るカインに「誰も彼を撃つことがないように」と与えられた「しるし」とは、人がどんな道を歩むとしても、その人は攻撃されるべきでない、という神の守りの「しるし」なのです。

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 「誰のために死なれたのですか」
聖書:ヨハネによる福音書 10章11−18節(イエスは良い羊飼い)(新共同訳・新約・p.186−187
2001年9月23日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教
  9月11日、ニューヨークとワシントンで、世界貿易センタービルとペンタゴンに民間人を乗せたまま旅客機で突入するという、残忍きわまるテロが起こってしまいました。そしてアメリカは現時点で着々と、首謀者とされるオサマ・ビン・ラディン氏の組織、および彼をかくまうアフガニスタン・タリバーン政権への報復戦争を準備しています。
 どちらの陣営も、「神は我らを祝福したもう」「神は我々の殉教をもって天国に引き上げてくださる」と、互いに神を引き合いに出して、自分たちを正当化しています。
果たして、いったい宗教とは何なのでしょうか?
 宗教は、世界のいたるところで、国家、民族、あるいは特定の利益団体のマインドコントロールに利用されています。宗教とは、そうやって人間個人の判断を失わせ、集団のために命を献げることを正当化するものなのでしょうか。
 イエスはどうだったのか。彼が自分の死についてどう考えていたのか、その手がかりとなる聖書の箇所から考えてみましょう。

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 「平和のリスク/常識を超えて」
聖書:マタイによる福音書 5章38節(復讐してはならない)(新共同訳・新約・p.8
2001年11月9日(金)同志社香里中学校高等学校・宗教週間・早天祈祷会奨励
  「常識」という言葉を、最近よく耳にします。
  アメリカがテロに対して報復の攻撃をするのを、肯定するのは「当たり前だ」という言葉もよく聞きます。
  しかし、常識がいつも正しいとは言えないのではないでしょうか。むしろ、常識に反して主張された事が、その後の歴史で結果的に正しいと証明されたこともあったのではないでしょうか。
  今回のアメリカの報復決議に際して、たった一人勇気ある反対を主張した、バーバラ・リー下院議員の発言を参考にしながら、平和を主張してゆくことに、どのような勇気が必要なのかを、語ってみたいと思います。

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 「隠れたところで、聞こえぬ声を」
聖書:マタイによる福音書 6章6節(祈るときには)(新共同訳・新約・p.9
2001年11月15日(木)大阪女学院・伝道週間・中学校礼拝奨励
  ブッシュ大統領も、オサマ・ビン・ラディン氏も、自分たちの戦争を聖戦だと言い、神さまが味方しているように主張しています。
  しかし、神さまは本当はどこにいらっしゃるのでしょうか? どこで何をしているのでしょう? 神が本当にいるのなら、この世に戦争なんかなくなっているはずなのではないでしょうか?
  神はなぜ沈黙を守っておられるのか。
神はなぜ助けの手をさしのべてくださらないのか。
  実は、この現代世界において、神はどこで発見できるのか。そのことについて、述べてみたいと思います。

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 「数に足らぬわが身なれど」
聖書:サムエル記上 16章1−13節(ダビデ、油を注がれる)(新共同訳・旧約・p.453-454
2001年12月2日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・アドベント第一聖日礼拝説教
  クリスマスの讃美歌に「エッサイの根より、生いいでたる」という有名な歌があります。
  
エッサイという人物は、ダビデ王の父親にあたる人です。しかし、この父親にとって、ダビデはどんな息子だったのでしょうか? ダビデが置かれた境遇と、神がダビデを王として選んだ理由には、深い関係があります。
  そしてその理由は、ダビデだけでなく、私たち自身の生き方にも関係してくるものなのです。

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 「小さくて、大きな希望」
聖書:
 イザヤ書11章1−9節(平和の王)(新共同訳・旧約・p.1078

 ルカによる福音書1章26−38節(イエスの誕生が予告される)(新共同訳・新約・p.100
 ルカによる福音書2章1−7節(イエスの誕生)(新共同訳・新約・p.102−103
 ルカによる福音書2章8−14節(羊飼いと天使)(新共同訳・新約・p.103

 マタイによる福音書2章1−11節(占星術の学者たちが訪れる)(新共同訳・新約・p.2
2001年12月24(月)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス燭火礼拝説教
  大きいことはさほどいいことではありません。強いこともあまりいいことではありません。力をもって問題を解決しようとする人は、報復につぐ報復で、無限の暴力の連鎖を生み出してしまう危険性を持っています。
  その点、クリスマスというのは面白い出来事です。救い主がこの世の誰よりも一番弱く小さな赤ん坊として生まれたというからです。
  救い主が赤ん坊となってこの世に生まれたという、このクリスマスの意味を、いま一度深く考えてみましょう。それは、ひょっとしたら、私たちが悩んでいる人生の行き詰まりや、世界の平和のために障害になるものを乗り越えてゆけるヒントになるかもしれませんよ。

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