礼拝説教ダイジェスト:2002年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「『カクレ』キリシタン」
聖書:マルコによる福音書 13章9−13節(終末の徴)(新共同訳・新約・p.88−89
2002年2月24日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難節第2聖日礼拝説教
  日本で信仰を明らかにして生きてゆくのは大変なことです。誰でもある程度は「カクレキリシタン」的にならざるをえません。
  「カクレキリシタン」は、迫害から命を守るために潜伏した、かつてのカトリックの日本人信者たちですが、長すぎた潜伏生活の間に、「カクレ」る必要もないほどに、すっかり仏教や神道とも妥協し、融合し、キリスト教とは呼べないものに変質してしまいました。
  その一方で、新約聖書は、この世で生き残るための方策というものを提示せず、むしろ、いかにキリストの十字架に己も続いてゆくか、という初期のクリスチャンたちの覚悟を物語っています。
  やむを得ず「カクレキリシタン」的になる人を責めることはできませんが、この世で器用に生きてゆくクセのついたクリスチャンは、次第にクリスチャンではなくなってゆく危険性をもはらんでいます。
  クリスチャンはいつでも、この世に対して迎合せず、他の誰でもない神さまが温かい眼差しを向けてくださっていることを信頼し、しっかりと独り立ちした精神の持ち主として生きる、何度挫折しても、少なくともその事をことを志しつづける者でなければならないのであります。

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 「曖昧なるままに人生を引き受ける」
聖書:創世記 3章1−13節(蛇の誘惑)(新共同訳・新約・p.3−4
2002年8月11日(日)日本キリスト教団鴨東教会・聖霊降臨節第13聖日礼拝説教
  有名な「蛇の誘惑」の物語は、本当は「神に反逆して人間が自由を手に入れた話」ではなく、「人間が自由を放棄したがっている話」です。
  神がダメだと言ったからダメなのだ。蛇がやれと言ったからやったのだ。どちらにしても自分の行動の動機も他人だし、責任も他人。「わたしがこうなのは、あの人のせいです」と責任転嫁するのは、自分の行為を司っているのは他人ですと言っているのと同じ、自分の自由意志というものを否定し、行動の自己責任を放棄しているのです。
  いまは「何が正しいことなのか」「何が本当の善悪なのか」について、多くの人が確かな答に逃避したがる時代です。しかし、そんな確かな答はない。むしろ、善悪入り乱れ矛盾に満ちた人生を、曖昧なるがままに受け入れ、赦してくださる神の愛を信じ、わたしたちも赦し合うのでなければなりません。そうでなければ、互いに他者の過ちや欠けを裁きあったり、自分の人生がどこか素直に受け入れきれない人が発生するこの状況をとめることはできないでしょう。

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 「農とイエス」
聖書:マルコによる福音書 4章26−29節(成長する種のたとえ)(新共同訳・新約・p.68
2002年8月18日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖霊降臨節第14聖日礼拝説教
  ルカやマタイと違い、マルコによる福音書におさめられたイエスのたとえ話には、その多くが農業や植物に関するものです。マルコはイエスの復活を描く時も、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。あの方にはガリラヤでお目にかかれるだろう」としめくくります。マルコはたいへんガリラヤ志向が強いのです。
  首都エルサレムから「辺境の地」「異邦人のガリラヤ」と偏見の目で見られていたガリラヤで、イエスは大工として父のもとで働きながら、羊飼い・農民・漁師などの暮らしをつぶさに見て育ちました。それがイエスの教えと行動の随所に現れているし、何と言っても彼は、首都からやってくるキャリア組のラビと違い、ガリラヤ地方たたき上げのラビとして圧倒的に地元の指示を受けていたのでした。
  だから、マルコは「ガリラヤに行かなければイエスのことはわからない」と主張したのです。このことから考えるに、私たちが都会の視点ではなく、地方の農村の視点から福音を読み直してみる、ということを学ぶことができるのではないでしょうか。
  殊に、昨今のように、食品に関するスキャンダルが多い世の中で、直接人の口に入り、人を生かすものを生産する人の立場から、福音を読み直すと、イエスの言葉のリアリティがより迫ってくるように感じるのです。

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 「ふたご」
聖書:ヨハネによる福音書 20章24−29節(イエスとトマス)(新共同訳・新約・p.210
2002年9月22日(日)日本キリスト教団宇治教会・主日礼拝説教
2002年9月29日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・主日礼拝説教(改訂版)
  新約聖書において「ふたご」と言えば、イエスの十二弟子のひとり、トマスです。というのも、トマスという名前は、もともとヘブライ語の「双子」という言葉からきているからです。おそらくペトロがそうであったように、本名ではなくニックネームだったのでしょう。つまり、トマスは双子の片方だったから「双子」と呼ばれていたのです。
  
しかし、12人のうち半分の6人までが、兄弟揃ってイエスの弟子に入門しているのに、どうして双子のトマスだけがひとりぼっちなのでしょうか。それは古代においては、双子は忌まわしい存在、不吉な存在なので、片方あるいは両方が出生間もなく殺されることが多かったからです。つまり、トマスが生きている背後には、誰か彼の兄弟あるいは姉妹が命を奪われているという犠牲があるのです。
  イエスの弟子たちは、みな愛していたはずの師を見捨てて逃げてきてしまいました。自分が生き延びるために、イエスを見捨てる。それは、自分自身がここに生きているのは、双子の兄弟の命が奪われたからだ、というトマスの心の闇に横たわる影と重なり合うものでした。
だから、彼は必死に「俺は信じない」と抵抗しました。しかし、彼は意識では拒否していても、心の深層ではイエスの死の意味がわかっていたのです。
  だから、イエスが再び、今度は彼の前にも時、トマスは有無を言わさずイエスを信じることができたのでした。
  トマスは、「人間は常に誰かの犠牲の上に生きている」という現実を誰よりも痛感し、そして、そこから「生かされていることの痛み」を自覚し、「赦されて」自らを変えてゆこうとした、最初の人となったのでした。

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 「ベツレヘムの痛み」
聖書:マタイによる福音書 2章1−12節(占星術の学者たちが訪れる)(新共同訳・新約・p.2
2002年12月1日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・待降節第一主日礼拝説教
  イエスはベツレヘムにお生まれになったと書かれています。しかし、クリスマスの美しく牧歌的なイメージとは裏腹に、いま現実のベツレヘムにおいては、今まさにイスラエル軍の装甲車が町を制圧し、聖誕教会の入口は装甲車で封鎖され、自爆テロと報復攻撃の応酬が行われているのです。そのような報に接しながら、わたしたちは笑ってケーキを食べ、デートをし、歌を歌っていられるでしょうか?
  「ベツレヘムにメシアが生まれた」と、となえることの意味と問題点をおさえながら、このクリスマスの備えを行う季節、どのように過ごすのか、じっくりと考えてみましょう。

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 「平和を告げる意外な知らせ」
聖書:ルカによる福音書 2章8−14節(羊飼いと天使)(新共同訳・新約・p.103
2002年12月24日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマスイヴ音楽礼拝説教
  羊飼いたちにメシアの誕生を告げた天使たちは、「地には平和」と歌いました。
  実はこの時代「世界は平和だ」と言われていました。「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」です。しかし、それとは異質なものとして、あえて天使たちは「地には平和があるように」と歌うのです。
  「ローマの平和」は
、軍事力によって各地の抵抗を押さえつけ、重税を絞り上げる事で成立した平和の事でした。確かにそれを平和と呼ぶ人たちが多いのですが、しかし、私たちの欲しい平和はそのようなものでしょうか? 私たちはもっと「平安」な、本当の平和が欲しいのではないでしょうか。
  「地には平和を」。これは、力と力のせめぎ合いのバランスを「平和」「安全保障」という言葉で呼ぶことに慣れっこになっている現代の私たちにとっても、意外な知らせであるはずです

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