2004
礼拝説教ダイジェスト:2004年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「ひとつの光
聖書:ルカによる福音書2章8〜15節(羊飼いと天使)
2004年12月24日(金)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス・イヴ礼拝説教
  救い主・神の子が生まれたという喜びの知らせは、なぜ救い主を待ち望む人々のところではなく、むしろ当時、もっとも信仰が薄く、神から離れていると思われていた羊飼いたちのところに最初に届いたのでしょうか。わたしたちは、この物語の意味をよくかみしめてみる必要があるでしょう。
  羊飼いたちは、世間のひとびとからも疎ましがられ、当時の習慣やしきたりを支配していた宗教においても卑しい者とされていましたから、羊飼い本人たちも、くだらなくてまじめに神など信じる気にはなれなかったでしょう。神など信じるより、今日のメシ、明日の暮らしです。しかし、そのような人にこそ救いの喜びが最初に告げ知らされた、ということ。そして彼らは「そこまで天使が言うのなら、その救いの主という者を見てみようではないか」と行動を開始したのです。
  同じように、神などいない、自分の暮らしで精一杯だ、という気持ちになっても、今の世の中不思議ではないけれど、ここで心にひとつの光をともし、行動を始める勇気が、世界を変えるためには必要なのではないでしょうか。
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 「“よい知らせ”を持って、出て行こう
聖書:マルコによる福音書1章1〜20節(洗礼者ヨハネの宣教〜イエスの宣教)
2004年10月31日(日)日本キリスト教団石橋教会・聖日礼拝説教
  「宣教」とはなにか。みなさんは、宣教とは教会にたくさんの人に来てもらうことだと思っていませんか。でも、それは本当は全く逆なのです。むしろ、教会が栄えることとは全く関係なしに、教会から宣べ伝える者が出て行き、キリスト教に入信する可能性のあるなしに関係なく、他者の人生の幸福のために尽くすこと。その行為自体がキリスト者の証しとなるような行い。それが宣教なのです。
  そのことを、イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの宣教、イエス自身の宣教、イエスに癒された者による宣教……という3段階を仮定して考えて見ましょう。
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 「兵士と奴隷 〜汝のため立てられし人柱
聖書:ヨハネによる福音書10章17〜18節(わたしは命を自分で捨てる)
2004年8月22日(日)日本キリスト教団月寒教会・主日礼拝説教
  平和は大切、人殺しはやめよう、人類はみな家族……というスローガンは間違ってはいません。しかし、わたしたちの社会は、たとえどこかの国や民族や武装集団と交戦状態になっていなくても、常に、ふつうに経済生活、消費生活を続けてゆくだけでも、兵士や奴隷といった人びとを作り出して、その人びとの命を食いつぶすことが不可欠な状況になっているのです。いわば、私たちの社会は、「人柱」を要求しているのです。それが本当の豊かさ、平和などと言えるでしょうか。
  そして、それはイエスが生きていた2000年前もそうでした。イエス自身も、暮らしを捨て、家族を捨てて出るまでは、社会の誰かを「人柱」にして生きざるを得ない、ひとりの市民に過ぎなかったのです。そのような社会生活に対して、イエスはどのような答えを出したのでしょうか。あるいは、どのような問いかけを残したのでしょうか。
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 「ただいま
聖書:ルカによる福音書15章11〜24節(放蕩息子のたとえ)
2004年8月1日(日)日本キリスト教団光明園家族教会・聖日礼拝説教
  説教というよりは、個人的な証のようなお話になりますが、私の祈りの原点は、20年前に関西学院大学のワークキャンプメンバーとして参加した、光明園家族教会の礼拝でした。
  しかし、大学を卒業した後、わたしは長島のこと、光明園のこと、そして家族教会からも心が離れ、もっとも親しくしていただき、祈りとはなんたるやを教えてくださった方との交わりも、その方が亡くなったこともしばらくは知らなかったほどに風化させたままにしていました。
  その冷たい心の持ち主を、今回20年ぶりに引き戻し、引っ込み思案な私を、教え子の生徒たちと共に、長島まで連れて来てくださった神のさりげない導きを証したいと思います。
  神の導きは、派手な出来事の連続などではなく、何気ない、どうということのない平凡な、偶然の一致の積み重ねの中に現れるのです。
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 「religio : レリギオ…つながりを求めて
聖書:マタイによる福音書18章18〜20節(二人または三人)
2004年7月31日(土)同志社国際高校サービス部&同志社香里高校ボランティア部 合同夏合宿@邑久光明園 夕礼拝奨励
  「宗教」の語源は“religio”(レリギオ)、「つなぐもの」、「つながり」という単語です。「宗教」という日本語の漢字の意味を超えて、じっさいには「レキギオ」は、人と人をつなぐことによって人を救うものの総称なのです。
  イエスの「二人または三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもいる」という言葉は、宗教の本質を見事に言い表しています。人は集まり、つながることによって、無意味と孤独という人間をいちばん苦しめるものから救われるのです。
  しかし、人と人の「つながり」は、いったん内向きにこりかたまると、とんでもない排除と暴力の装置になります。これは宗教でも民族主義でも共産主義でも国家主義でも、あるいは愛校心でも、友達関係でも同じです。
  ですから私たちはいつも、新しい出会いとつながりに心を開いておかなくてはならないのです。
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 「ひとり、祈る
聖書:マタイによる福音書6章5〜15節(祈るときには)
2004年7月25日(日)関西地区キリスト教学校若手教員「祈りの会」奨励
  誰も見ていないところで祈れる人が、真実に愛することのできる人なのではないでしょうか。
  イエスはどのように祈るのが望ましいと言ったか。それを凝縮しているのが「主の祈り」です。
  「主の祈り」に先立つ記事を見れば、イエスは「ひとりで祈ること」「短く祈ること」を弟子たちに教えていたことがわかります。
  ひとりになれる場所で、自分の言葉を使って、ながながと難しい描写はいらない、本当の自分は神にすでに知られていると思って、神さまに人生をお任せして生きれば、深い祈りに支えられた味わい深い人生を送れるような気がします。
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 「99匹の病める羊たち
聖書:マタイによる福音書 18章10−14節(「迷い出た羊」のたとえ)(新共同訳・旧約・p.35)
2004年6月8日(火)同志社大学火曜チャペルアワー奨励
  99匹と1匹の羊のお話で、わたしが思い浮かべる情景は、いじめられて、いたたまれなくなった1匹の羊がさまよい出でたのを、残った99匹が「あいつが勝手に『迷い出て行ってしまったんだよ』と口をそろえて言う様子です。
  この羊のたとえが人間社会をあらわしているのだとすれば、人間社会では、1匹の羊に暴力のはけ口を集中させることで、99匹の表面的な安定が保たれるような、そんな景色が往々にして見られるのではないでしょうか。
  しかし聖書は、羊飼いがこの1匹の羊を「見つけに行く」、そして「見つけたら、喜ぶ」と記しています。その1匹は再び計100匹の群れに戻されます。そして、戻ってからが本当の強さ、寛容さが要求されるときなのです。
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 「わたしを思い出してください
聖書:詩編 22章2−9節(新共同訳・旧約・p.852)
聖書:ルカによる福音書 23章32−49節(二人の犯罪人と十字架上のイエス)(新共同訳・新約・p.158−159)
2004年4月7日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週早天祈祷会奨励
  イエスといっしょに処刑された犯罪人の一人は、イエスに「御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。
  人にとって最もつらいことは、自分の人生には何も意味がなかった、自分は生きていても生きていなくてもいいような存在なのだ、と心底から思ってしまうことだと思います。処刑される犯罪人だけでなく、わたしたちもそのような感情を人生のうちに何度も味わいます。
  しかし、そのような時こそ、わたしたちは神に、「わたしを思い出してください!」「わたしをおぼえてください!」と求めなければならないのではないでしょうか。「わたしの人生は意味があるはずです!」「意味もなくあなたはわたしを創らなかったはずです!」と神に問いたてないといけないのではないでしょうか。
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 「裏切り者の行く末
聖書:マタイによる福音書 26章69−75節(ペトロ、イエスを知らないと言う)(新共同訳・新約・p.55)
2004年2月29日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難節第一主日礼拝説教
  ペトロはユダと同等、いやそれ以上の裏切り者であると見ることができます。ユダは死んで自分の罪深い人生にピリオドを打ちました。しかしペトロは3度も自分にとって大切であるはずの人を裏切りながら、その後ものうのうと生き続けています。
  ガリラヤ湖畔に戻ったペトロによみがえったイエスは話しかけます。それによりペトロは自分がいかに人を愛せない人間であるかを思い知らされます。しかし、イエスと同じ苦しみの道を歩むことで、再びイエスとつながる新しい道を示されます。これは苦しみを与えられると言う意味では罰ですが、それはイエスと同じ道だという意味では救いなのです。
  イエスはご自身の痛みを通して、世の苦しんでいるすべての人の傍に立ってくださいますが、ご自身がこの世ではスキャンダラスな人間として裁かれたことを通して、同じように人の道を踏み外した者として裁かれざるを得ない者のそばにも寄り添ってくださる方なのです。
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 「Beloved
聖書:ローマの信徒への手紙 9章25−26節(愛されなかった者を愛された者と呼ぶ)(新共同訳・新約・p.287)
2004年2月8日(日)関西地区キリスト教学校新人教師「祈りの会」・開会礼拝奨励
  学校は子どもを社会で「生きる力」を身につけるために、鍛える場所です。そこでは、生きるために強さ、優秀さが必要だとし、努力する人間を歓迎・評価します。
  その一方で、キリスト教学校のキリスト教は、時折それとは逆のことを主張したりします。たとえば、努力しても、しなくても、神から見れば人間として生きる権利はまったく同じように確保されているのです。こういうキリスト教の考えを、「甘い」と言って嫌う先生がいます。
  しかし、弱肉強食ばかりを教えようとする教師は、やがてその弱肉強食の論理によって裁かれます。強さも優秀さも、年を取れば失われるものですから、年を取るごとに自分はもっと優秀で強い若手によって、ダメ人間の烙印を押されるようになるのです。学校での自分の存在意義さえもわからなくなってしまうのです。

  それではキリスト教的な「生きる力」とはどういうものなのでしょう? (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「『正しさ』よりも大切なこと」
聖書:マタイによる福音書 9章9−13節(マタイを弟子にする)(新共同訳・新約・p.15
2004年1月25日(日)日本キリスト教団東神戸教会・主日礼拝説教
  イエスは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とおっしゃいました。
  「いけにえ」を求める考え方は、罪に対する罰、あるいは贖いというものをはっきりさせる考え方。つまり、「正しさ」を求める考え方です。しかし、正しさを求めすぎる考え方の持ち主が、「ただひとりの神」をその基準として、自分や他人を裁き始めることほど危険なことはありません。
  「ただひとりの神」「ただひとつの真理」という言葉が好きなクリスチャンが多いですが、聖書が教える「ひとつ」は、間違ったことを排除した結果として残る「ひとつ」の正しさではなく、天地創造以来、神がすべてのものを「分けて」創り上げられた、この世の雑多な一見無関係なすべてのものを含めて、全体で「ひとつ」だという考えなのです。
  神は、光と闇を単に分けられただけです。闇を切り捨てて光を残したわけではありません。逆に、闇あってこその光なのです。闇を抱えた人を闇を抱えたままで招く、それがイエスのやり方です。 
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 「終わり、祈り、始まり」
聖書:ペトロの手紙T 4章7−11節(神の恵みのよき管理者として賜物を活かす)(新共同訳・新約・p.433
2004年1月7日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・新年祈祷会奨励
  個人、または社会が限界状況を迎えたとき、神は介入して最善を行われるということを信じたいと思います。
  「終わり」とは「限界」であると同時に、「完成」でもあります。人間の限界を、神が終わらせ、新たな、人間の予想もつかない完成に導いてくださいます。そして、その「完成」から、わたしたちは新しい歩みを始めることができる。すなわち「終わり」とは、同時に新しい「始まり」でもあるのです。

  終わらせ、始める、神の介入のわざは、しかし人間には予想もつかないタイミングで、しかも予想もつかない展開で起こります。その予想もつかない神のわざを最善のものとして受け入れるために、「祈り」が必要なのです。
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