2005
礼拝説教ダイジェスト:2005年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「救いなき者に救いを
聖書:ルカによる福音書2章1−7節(イエスの誕生)
2005年12月24日(土)日本キリスト教団香里ケ丘教会クリスマス・イブ音楽礼拝説教
  イエス誕生の光景……母マリアと父ヨセフに見守られ、羊や馬やロバたちが見守り、羊飼いらや三人の博士たちが拝みにやってくる……そのような温かく和やかな生誕の情景の中に、すでにイエスの死が予見されているのをみなさんはご存知でしょうか。
  イエスはこの世の人の死に方のなかでも最も屈辱的で最も残虐な処刑方法で殺されます。その受難を通して、イエスは私たちと共に、あるいは私たち以上に苦しみを受けることによって神の愛を示したと考えるのがキリスト教です。
  それは不器用で愚かに見える愛かも知れません。しかし、栄光に満ちて光り輝いている救い主など、この世の現実の世界で答のない苦しみや救いのない悲しさを味わっている人に、なんの救いを与えてくれるでしょうか。それは不器用で愚かな愛かもしれないけれども、苦しんでいる人にはそんな愛し方以上の愛があるでしょうか。
  救いようのない悲しみ、苦しみを抱えている人にとっては、救い主自身の救いのなさが、救いになるのです。
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 「羊飼いのみなさんへ
聖書:ヨハネによる福音書10章11−15節(良い羊飼い)
2005年10月16日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区新人教師研修会閉会礼拝奨励
  いま日本で牧師としての仕事をしているのは、実は学校の先生ではないのか、と思われます。キリスト教学校の先生は、子どもたちの指導だけではなく、その背後にある家庭の問題にまで関わらざるを得ないことも多く、また地域社会とも結びつきがあり、そして、礼拝などを通して、見えない力がわたしたちを愛していることを指し示す大切な役割を果たします。それは、たとえばアメリカの西部開拓時代に、村や町の中心にある教会の牧師が担っていた仕事なわけです。
  わたしたちは羊飼いでありますが、同時に一匹の羊でもあります。そして、わたしたちを導く更なる羊飼いをあおぐ者でもあります。
  信じる・信じないに関わらず、わたしたち全てを導く羊飼いが、わたしたち全てを愛している、という考えはいいものだと思うのです。そのような世の中や運命や摂理や神に対する信頼があって、初めて自己愛が生まれ、そして子どもたちへの愛が生まれるのではないでしょうか。
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 「弱い者のすることこそ
聖書:マルコによる福音書10章13−16節(子どもを祝福する)
2005年10月2日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区若手教師「祈りの会」礼拝奨励
  幼い時に神さまのことを教えてもらった子どもは、素直に祈りによって神さまに頼ることをおぼえます。しかし、人はだんだんと大人になってゆくにつれて、そのような子ども心を失ってゆきます。
  子どもは無力だからこそ祈ります。無力だからこそ、神を、人を、未来を、希望を、信じることしかできません。逆に言うと、信じることが無力な子どもたちの力になっているのです。わたしたち大人が信じようとしないのは、自分の力のみを信じなければならない、自分しか信じるものはない、と思い込んでいるからだと思います。
  しかし、そんな大人が壁にぶつかったとき、挫折したとき、自分の力ではどうしようもないような辛い出来事にぶつかったとき、
子どもと同じような無力な状態に陥ります。そのとき、子どものように信じる力を持っているか、持っていないかは、大きな違いを産むのではないでしょうか。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「わたしの祈りは聴かれているか
聖書:マルコによる福音書14章32−42節(ゲツセマネの祈り)
2005年8月14日(日)日本キリスト教団箕面教会聖霊降臨節第14主日礼拝説教
  長年クリスチャンをしている人でも、自分の祈りが本当に神さまに届いているのだろうか、と不安になることはあるのではないかと思います。信仰初心者ならなおさらのことです。特に苦しみのただ中にあるときには、神さまは本当に私の祈りを聴いていてくださっているのか、あるいは神などそもそも存在するのか、と疑ってみたりすることが私たちにはあります。
  イエスがゲツセマネで祈った祈りは、かなえられなかった祈りの典型的なものです。イエスは個人的には自分が苦しみを受けることを望んでいなかったことがこの祈りの言葉からわかります。しかし、彼は祈りの最後に「それでも、神さま、あなたの御心が行なわれますように」と付け加えることは忘れませんでした。ここに、私たちの祈りの模範があるのではないでしょうか。
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 「討ち死にのカミか、平和の神の子か
聖書:マタイによる福音書5章9−11節(平和を実現する人びとは幸いである)
2005年8月7日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会平和聖日礼拝説教
  日本には戦争で討ち死にした人をカミとして祀る宗教が存在しています。そのことによって、戦争に参加して死ぬことに何か尊い意味があるかのように国民に教え、すすんで戦争への協力をさせるように仕向けるためのこの宗教が、先の大戦は終わった今でも存続しているのです。戦争の遂行者をカミとして崇めるこの宗教は、直接平和を実現をする人を神の子でする聖書の信仰と、全く対極的な方向を向いていると言わざるを得ません。
  昨今の政治や教育の事情を見ていると、「平和を実現する者は神の子と呼ばれる」という聖書の言葉を信じて実行しようとする者のほうが、この世の中で少数派になってしまう日が間近に迫っているように感じられます。そのような社会情勢のなかで、わたしたちは、平和を実現しようとすることで、義のために迫害されることがあっても、それゆえに幸いであるとまで思えるような野太い信仰が与えられることを、神さまに祈らないといけないのではないでしょうか。
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 「ひとりではない
聖書:マタイによる福音書6章5−6節(祈るときには)
2005年7月31日(日)日本キリスト教団光明園家族教会聖霊降臨節第12主日礼拝説教
  わたしたちは、自分が孤独であるという現実から逃避するために、群れて騒いでいることがあるのではないでしょうか。しかし、本当に人と、そして神と出会うためには、人はいったん本当の「孤独」を体験しなければなりません。「孤独」の静寂とやすらぎの中では、人は誰に対しても飾る必要がありませんし、飾ることもできない自分を恥じる必要もありません。隠れたところにおられる神は、そんな隠れた自分の本当の姿を見つめ、受け止め、受け入れてくださるのです。「孤独」を本当に知ることこそが、「本当の自分を知っている神」と出会うチャンスなのです。つまり、「孤独」であることで、人は、実は本当な自分は「孤独ではない」ということを知るようになるのです。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「思いを尽くし、力をも尽くし
聖書:マルコによる福音書2章1−12節(中風の人を癒す)
2005年7月17日(日)日本キリスト教団マラナ・タ会伝道礼拝説教
  イエスは、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、(全身麻痺の病人に対して)『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが簡単か」と、イエスのライバルたちに問いを投げかけました。みなさんは、どちらが簡単だと思いますか? 『あなたの罪は赦される』と言うほうが難しい、と思うならば、それはイエスのライバルであった律法学者たちと同じ発想に陥っていることになります。「神以外には人の罪を赦す方はいない」、だから「人に『あなたの罪は赦される』なんて言うことのほうが難しい」と考えるのはここでイエスにケンカを売っている律法学者の発想と同じです。それでも、大胆ですね、ここでのイエスの「『罪は赦される』と言うほうがカンタンじゃないか」と言わんばかりの挑戦的な問いかけは。このことを通して、イエスは何を訴えようとしたのでしょうか。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「誰の人生もミッション
聖書:マタイによる福音書25章14−30節(「タラントン」のたとえ)
2005年7月10日(日)日本キリスト教団阿倍野教会聖霊降臨節第9主日礼拝説教
  みなさんが「タラントン」という貨幣の価値がどれほどか、ご存知でしょうか。タラントンというのは、実はかなりの大金で、イエスがこのたとえ話をした当時の人びとにとっては、一生かかっても稼げないほどの金額だったのです。そのタラントンをふんだんにいただいた僕たちが、ある者は商売をして更にもうけをあげ、ある者は土のなかに埋めてしまいます。ここに、神さまからあふれるほどの才能や適性などの恵みをもらっていても、そんな自分のなかのいただき物を生かす人と眠らせている人の生き方の違いがはっきりと描かれています。本人が地中に埋めたまま気づかずに生きていようが、気づいて有効に生かそうが、とにかくわたしたちひとりひとりには、その力量に応じて賜物が与えられている。そして、それはこの世で、どんな職業や奉仕活動であろうとも、神に与えられたミッション(使命)として働き、生きるために与えられているのです。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「大切なものは近くにある
聖書:創世記21章9−21節(ハガルとイシュマエル)
2005年6月12日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区 若手教師「祈りの会」奨励
  ハガルの物語は、追い詰められた絶望状況の中で、心の視野が狭くなってしまった人のことが描かれています。アブラハムとサラに追放され、絶望したハガルは、本当はすぐそこにあったはずの井戸にも気づかず、自分たちは荒れ野で死ぬのだ、と泣きます。そして神に「目を開かれる」のです。
  わたしたちも、日々追い詰められる状態のなかで、ともすれば心の視野狭窄に陥ってしまうことはないでしょうか。
  しかし、同時にわたしたちは、実はその視野狭窄から目を開いてくれる、なんでもない小さな喜びにも、実は時折出会うことがあるのです。宝物は、実は自分の足下の身近なところにある。ちょっと視点をズラせば見えるようになるものなのかもしれないのです。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「それはあなたが言ったことだ
聖書:マタイによる福音書26章57−68節(最高法院で非合法の裁判を受ける)
2005年2月13日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・レント第一聖日礼拝礼拝説教
  聖書を多少ていねいに読んでいきますと、イエスが「それはあなたが言ってることだ」「それはお前が言っているだけだ」という、彼の口癖が浮かび上がってきます。イエスは「あなたは神の子ですか?」「おまえはメシアにでもなったつもりか」と、彼のシンパやライバルに問われるたびに、「それはお前さんが言ったことだよ」と返していたのでしょう。イエスが自分のことを「神の子」あるいは「人の子」と思っていたかどうかは、可能性としては五分五分です。むしろ彼の心の中も、「自分が来るべき『人の子』なのか、それともオレは死んでここで終わるのか」と、揺れていたことでしょう。そして、断末魔の叫び「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか!」という叫びの真の意味はなんでしょうか?
  わたしたちは、イエスを安易に「よみがえられる予定の救い主」という目から見るのではなく、ひとりの人間イエスの苦悩、苦痛に目を向けなければならないのではないでしょうか。
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 「本当にほしいもの
聖書:マタイによる福音書7章7−12節(求めなさい)
2005年1月21日(金)梅花中学校・創立記念礼拝奨励
  梅花学園の創立者・澤山保羅が愛した聖書の言葉、それはマタイによる福音書7章12節「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」でした。人にしてもらいたいと思うことを、人にしてもらう前に、自分から人にしてあげなさいよ、ということが言われています。そして、イエスは子どものことをたとえとして話し、「いいものを欲しがる子どもに、悪いものをあげたいとは思わないだろう?」と問います。しかし、現代の世の中は、「よいもの」を求めようとしても、「よいもの」の中に「悪いもの」を混ぜたり、あえて「悪いもの」を安く売って儲けようとする大人がたくさんいます。そんな世の中で、あなたは本当に「よいもの」を求め、身につけ、人にもあげることのできる人になれるでしょうか?  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「カンタンではないけど単純なこと
聖書:マタイによる福音書7章7−12節(求めなさい)
2005年1月20日(木)梅花高等学校・創立記念礼拝奨励
  梅花学園の創立者・澤山保羅が愛した聖書の言葉、それはマタイによる福音書7章12節「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」でした。「人がしてほしいと思うことを」ではありません。「(あなたが)人にしてもらいたいことを」なのです。ここで問われているのは、「あなたが人に望むことはなにか」、「あなたは本当に自分にとって良い物を望んでいるのか」ということです。自分の価値観というものが問われているのです。人を自分のために利用するようなことを、人に望んでばかりいる人は、逆に孤独の地獄に落ちてゆきます。では、人を孤独から救うのはなんでしょうか?  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「創 (KIZU)」
聖書:創世記1章1−10節(光と闇、天上と天下の水、海と陸の創造)
2005年1月5日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・新年祈祷会奨励
  「創造」の「創」という文字は、「はじめ」とも読みますが、「きず」とも読みます。特に、他でもない、刃物で切った傷のことを指します。なぜ、物事のはじまりや物を作ることを示す文字が、同時に「きず」をも示すのでしょうか。それを考えるなかで、「傷つくこと」によってしか、人生の新しい段階は始まらないのだ、ということ。また、私たち自身の人生は、傷つき続けることによって形作られ、そのことによって本当に私たちの魂は個性化され、私たちは私たち自身になるといえるのだ、ということを、みなさんとともに考えてみたいと思います。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)

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