2006
礼拝説教ダイジェスト:2006年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「希望への責任」
聖書:ルカによる福音書2章1−7節(イエスの誕生)
2006年12月24日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会クリスマス・イブ音楽礼拝説教
  クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日ですが、イエスの誕生を迎えたマリアとヨセフが置かれていた境遇は、とても明るい希望がわいてくるような状況ではありませんでした。彼ら夫婦は、夫ヨセフの故郷であったにもかかわらず、そして出産を間近に控えた妻を抱えていたにもかかわらず、彼らを受け入れる親戚ひとりいないという打ち捨てられた状況でした。
  しかし、そんな失望と絶望のさなかにある若い夫婦のところに、イエスという赤ん坊が生まれます。その子は、意気消沈しがちな二人の希望となるべき存在でした。けれども、その希望は、彼らに大人としてもっとしっかりすることを要求する存在でした。希望というのは、待っていて幸せを与えてくれるものではなく、自分で育ててゆかねばならない、ということを、私たちはここで学ぶことができます。赤ん坊に対して大人が責任を持たねばならないように、私たちも未来への希望に対して責任を負っているのです。
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 「多数決では決められない」
聖書:マルコによる福音書4章30−32節(「からし種」のたとえ)
2006年10月28日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会聖日礼拝説教
  今日はプロテスタントが宗教改革を記念する日曜日です。1517年10月31日、ドイツのマルティン・ルターが95か条からなる質問状をたたきつけたのがこの10月31日のいう日です。世間では最近はハロウィーンのほうはポピュラーなようですが。
  宗教改革の出来事というのは、つまるところ、多数決では負けてしまった人々が、それでも真理は多数決では決められない、と信じて立ち上がった出来事ということができるでしょう。ルターはヴォルムス帝国議会で、多数決によって「異端である」と決議されましたが、それでも、彼は自分の信仰、信念を曲げることなく、「我ここに立つ。神よ、われを助けたまえ」と祈り続けたのでした。
  わたしたちクリスチャンも日本では圧倒的に少数派です。しかし、だからこそ、多数決ですべてを決めてしまうことの危険性や、少数派のなかにも貴重な見解がありうるのだということを知っています。小さく、弱い声を聞き分けうる私たちでありたいものです。
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 「キリスト教のダブル・スタンダード」
聖書:マタイによる福音書5章43−45節(父は悪人にも善人にも太陽を昇らせる)
2006年10月1日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区若手教師祈りの会奨励
  『デスノート』というマンガがあります。その中に、警察も裁判所も裁ききれない悪を「デスノート」によって裁く謎の存在「キラ」を、世界中の人びとが「神」としてあがめるようになる、という展開が描かれています。このストーリーは、逆に、「この世には神はいない」と言っているように感じます。「この世に本当に神がいるのなら、なぜ世界中から戦争や犯罪がなくならないのか」という疑問がいやでもわきあがってくるからです。宗教というものは、人間の力を越えて善を奨励し、悪を裁くものであってほしい、という期待をかなえることを望まれているのではないでしょうか。そして、そんな宗教はないことが、逆に「神はいない」という失望にもつながっているのではないかと思います。
  イエスの「神は悪人にも善人にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせる」という言葉は、このようなドライな感覚を言い表したものかも知れません。その一方で福音書記者のマタイは、善人が神に報われ、悪人が裁かれることを懸命に説いています。キリスト教には、このように、イエスとマタイに分かれたような、ダブル・スタンダードが存在しています。このダブル・スタンダードを賢く用いることが、キリスト教の知恵と言えるのではないでしょうか
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 「神さまにお任せして生きよう」
聖書:コリントの信徒への手紙一1章26−31節(神は無力なものを選ばれる)
2006年8月27日(日)日本キリスト教団光明園家族教会 聖霊降臨節第13主日礼拝説教
  わたしはうつ病を患っています。このことは、わたしを徹底的な無力感や虚しさ、そして自殺願望へとたたきこみます。「いま自分が『死にたい』と思っているのは、病気のせいなんだ」と自分に言い聞かせるので、生きることは精一杯な時もありました。
  そんなある日、わたしは、ある老学者で話す機会が与えられました。その人は、かつての日本の戦時体制によって、殺されると思うほどの恐怖を味わった人です。また彼は、戦後も政府や軍によるキリスト教弾圧の歴史を解明してゆく歴史学者として歩み続け、そのために脅迫を受けたこともありました。しかし、その人を支えていたのは、実は単純素朴な信仰だったのです。
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 「自分の足で歩けるように」
聖書:使徒言行録3章1−10節(ペトロ、足の不自由な男をいやす)
2006年8月13日(日)日本キリスト教団高槻日吉台教会 聖日礼拝説教
  イエスの死後間もなく、イエスの弟子であったパトロとヨハネは、ユダヤ教の神殿に祈りに出かけます。すると「美しの門」というところに置かれた足の不自由な男が物乞いを始めました。ペトロは「私を見なさい」と言い、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、手を差し出しました。男は手を引かれて立ち上がり、歩いたり踊ったりして、神を賛美しました。
  しかし、この物語は、私たちの現実から見ると、どんな意味があるでしょうか。私たちの現実とは、手を差し伸べて、「イエス・キリストの名によって、立ち上がれ」と言ったところで、病気や障害が治るはずもないし、いやむしろ、高齢化してゆくにしたがって、どんどんからだの自由が奪われてゆく、というものではないでしょうか。
  それでは、この物語から私たちが学びうることは一体何なのでしょうか。
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 「二振りの剣」
聖書:ルカによる福音書22章35−38節(財布と袋と剣)
2006年8月6日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会 平和聖日礼拝説教
  ルカによる福音書には、イエスが逮捕される直前、弟子たちに「剣を用意しておけ」と命じる場面が描かれています。イエス受難直前といえば、「剣を取る者は、剣で滅びる」というマタイ福音書の言葉のほうが有名ですが、実はこのように、イエス自身が「剣を用意しておけ」と命じる場面もあるのです。これは、明らかに「敵を愛せ」、「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」と言ったイエスの命令とは矛盾します。そして、現代の我々が「最低限の防御力としての軍備は必要ではないのか。あるいは、防衛のための武力行使は許されるのではないか」という思いがちになるとき、その後押しをしてくれそうな聖書の箇所であります。
  ルカはなぜこのような言葉をイエスに言わせたのでしょうか。ルカの属していた教会はどのような恐怖の経験をしていたのでしょうか。恐怖にかられると、人は軍備への誘惑にかられます。私たちはこのルカの置かれた状況を客観的に見据えつつ、あらためて、イエスの絶対平和主義をいかに我々の時代において実現するかを考えなければなりません。
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 「神がお望みならば」
聖書:使徒言行録21章7−14節(パウロ、エルサレムに行く)
2006年7月31日(月)キリスト教学校教育同盟 第50回事務職員夏期学校 第3日目 朝礼拝説教
  「イン・シャー・アッラー」という言葉をご存知ですか? イスラームで使われるアラビア語です。「神がお望みならば」という意味です。もっとくだけた表現で言うと、「もし、神さまがそういう風に望んでくださったらね」ということです。イスラーム圏の人びとはみな、何か約束をするときに、「はい。イン・シャー・アッラー」と、この言葉をつけます。もし、約束したとおりに物事がいかなかったら、「それは神が望まなかったからだ」というわけです。これがまじめな日本人には、とてもいいかげんに感じられて、なかなか受け入れがたいようです。しかし、これは考え直すと、とても人にやさしい考え方とは思えないでしょうか。人間のやることには、計画通り行かないことや、思わずトラブルが発生するリスクが常につきまとうからです。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「分けても減らない火のように」
聖書:マタイによる福音書13章31−33節(「からし種」と「パン種」のたとえ)
2006年7月30日(日)キリスト教学校教育同盟 第50回事務職員夏期学校 第2日目 キャンドル・ライト・サービス説教
  炎は不思議です。ふつうの物体なら分ければ分けるほど、サイズは小さくなります。しかし、炎は広げれば広げるほど、無限に広がって行くのです。ちょうどこのキャンドルの火が時間をかけて広がってゆくように。
  火を消すのは一瞬で済みます。そしてその火を再びつけてゆくのには、時間がかかるのです。かつて私たちキリスト教学校のキリスト教の火は、軍の圧力、暴力によって、吹き消されました。そして今、それぞれの学校でキリスト教の炎は再び細々と燃えるようになりました。しかし、この炎はいつ吹き消されるかもわかりません。この火を少しずつでも広げてゆきたいものです。
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 「いと小さき者に仕える」
聖書:マタイによる福音書25章31−40節(すべての民族を裁く)
2006年7月30日(日)キリスト教学校教育同盟 第50回事務職員夏期学校 第2日目 主日礼拝説教
  この聖書の箇所は、キリスト教版閻魔大王です。この大王は、「私の兄弟であるこの最も小さい者にしたことは、わたしにしてくれたことなのである」と言います。この最も小さい者のなかには、私たちが日々相手にしている子どもたちも含まれるのではないかと思うのです。
  たしかに日本の子どもたちは経済的には豊かになりました。しかし、その経済力は自分のものではありません。彼ら彼女らの生活費や学費を出してくれる周囲の大人たちの思惑に反して生きることは非常にむずかしい存在なのです。ひょっとしたら、子どもというのは、「勉強」という名の労働を搾取されている、貧しく小さくされた人びとなのかも知れない、と思うのです。
  しかし、この小さな人びとである子どもたちが描く夢や希望を実現するために、手助けをし、実現のために仕えることで、彼ら彼女らは自由と本来の力を発揮します。その姿が、逆にわたしたちを励まし、喜びを与えてくれるのです。
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 「愛をもってこれを貫く」
聖書:コリントの信徒への手紙一12章31節b−13章13節(愛)
2006年7月29日(土)キリスト教学校教育同盟 第50回事務職員夏期学校 第1日目 夕礼拝説教
  「キリスト教学校で働くこととは?」という課題が私たちに与えられていますが、これはいったいどういうことなのでしょうか? キリスト教とはなんでしょうか? ある学校の創立者は、キリスト教とは「愛をもってこれを貫くということに尽きる」と言いました。それでは「愛」とはいったい何なのでしょうか? 日本語で「愛」と一言に言いますが、新約聖書が書かれたギリシア語では、もっとたくさんの愛の種類が単語によって使い分けられています。「アガペー」がその最も貴い呼び名です。
  しかし、キリスト教は「アガペー」の言葉に値しないような血なまぐさい歴史をもっています。どこが「愛の宗教」と言えるのでしょうか?
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 「この愛は信じられる」
聖書:ルカによる福音書15章11−32節(「放蕩息子」のたとえ)
2006年6月5日(月)同志社香里中学校・高等学校・春季宗教教育強調週間・早天祈祷礼拝奨励
  私が人生に失敗して、同じキリスト教の牧師からも見捨てられ、教会という世界から出て行けと迫られたとき、絶望のどん底から救い上げてくれた聖書の言葉が、このルカによる福音書の「放蕩息子」のたとえなのです。
  聖書の言葉のどこまでが、イエス自身が語った言葉なのか、ということは、特にこういう長い物語の場合はかなりまゆつばものになるわけですが、たとえそうであったとしても、この物語を書いた人(仮にルカと呼ばれているこの著者)がいるということ、このことは私にとって、大きな救いなのです。
  
この物語に書かれた愛の形は信じられる。この物語を書いた人は信じられる。私はそう思うのです。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「睡魔」
聖書:マルコによる福音書14章32−42節(ゲツセマネで祈る)
2006年4月12日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週早天祈祷会奨励
  祈っていたイエスと、眠っていた弟子たち。イエスは「誘惑に陥らないで起きて祈っていなさい」と告げますが、弟子たちは睡魔に負けて、眠ってしまいます。私は眠るこの人たちの気持ちがよくわかります。不安や恐怖にさらされると、眠ることでその場から自分の精神を守ろうとする体のつくりになっている人がいるのです。
  また、ユダだけがイエスを裏切ったわけでもありません。イエスの弟子たちは全員イエスを裏切ったのです。また、あるいは最近発見された「ユダの福音書」という文書には、ユダはイエスのもっとも忠実な僕であったと記されています。もっともイエスが信頼していたからこそ、イエスはユダにイエス自身を当局に売る役をまかされたのではという推測も可能なのです。
  ユダも、ペトロたちも、決して生き方上手な人生ではありませんでしたが、その点では弟子たちは私たち自身と似ているのかもしれません。
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 「昔も今もかわりなく」
聖書:マルコによる福音書15章15−20節(イエス、兵士から侮辱される)
2006年2月26日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教
  イエスという人物が受けた「受難」というできごとは、キリスト教の中にパッケージされてしまった「受難」というイメージから一歩踏み出て、客観的な歴史的な目で観ると、これは単に世界一の軍事力を持つ大国が、占領下の囚人をいかに手荒く拷問にかけるか、という事件なのだということがわかります。そしてこれはイエスだけではなく、この時代のローマ帝国ならどこでもなんどでも行われていた処刑法なのです。
  昔も今もかわりなく、軍事大国は占領先の人間を虐待します。現にいま米軍が駐留しているイラクでは、兵士の暴力と劣化ウラン弾の放射能汚染によって、国そのものを存続さえも危ぶまれる状況にあります。この、いまも行われている暴力・虐待を放置しているような私たちは、たとえ目の前のイエスがその暴力にさらされている場面を目の当たりにしたとしても、たぶん何もできないでしょう。その痛みをかんじ、徹底的に考えることなしには、レントの意味はないのです。
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 「ドキュメント」
聖書:マルコによる福音書1章9−11節(イエス、洗礼を受ける)
2006年2月18日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区若手祈りの会奨励
  洪水のときに一番足りなくなるものはなにか。いま私たちが直面している情報洪水のなかで、本当に必要なのはどんな情報なのか。
  私たちは、何千年もの昔から、かなりの精度で受け継がれた情報を、聖書という形で手にしています。もちろん聖書の中には
今の時代には合わない、古くなって使えなくなってしまっている部分情報もあります。しかし、そのような歴史・社会形態の違いを超えて、私たちの宝になるような言葉もたくさん収められています。それらの言葉に支えられ、また生かされ、力づけられた者として生きて行くのが私たちではないのか。またこれらの宝のような言葉に基づいて教育を行っていかなければならないのが私たちの立場であるのかも知れません。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「見えない神から見える神へ」
聖書:マルコによる福音書1章9−11節(イエス、洗礼を受ける)
2006年1月6日(金)日本キリスト教団香里ケ丘教会・新年祈祷会奨励
  1月6日は教会暦では「公現日(こうげんび)」あるいは「顕現日(けんげんび」といいます。もとは東方教会の伝統に起源を持ち、イエスの少年時代の出来事から洗礼に至るまでのできごとを記念する日でした。イエスが洗礼を受けた時に神の「あなたはわたしの愛する子」という宣言がなされたので、この日から神がこの世に現われたという意味で「神現祭(しんげんさい)」と読んでいる教派もあります。つまり、この日から見えない神は、見える神へと姿をわれわれ人間の前に現されたのだという考え方です。
  しかし、「見える神」という思想はたいへん危険な思想であると言えます。なぜなら私たちは、あらゆる形の「見える神」をあがめることで、権力の横暴や暴力を振るってきた歴史を持つからです。なぜキリスト教の神は「見える神」の時代を30数年のイエスの生涯に限って、その後は「見えない神」に戻されているのか、また、なぜイエスは「見える神」としてのその生涯を、一切の王権や権威といったものと無縁なものとして送られたのかを、考えてみたいと思います。
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