2007
礼拝説教ダイジェスト:2007年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「根拠なき希望」(「恐れることはない」改題)
聖書:マタイによる福音書1章18−25節(イエス・キリストの誕生)・ルカによる福音書1章26−38節(イエスの誕生が予告される/受胎告知)
2007年12月24日(月)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス・イヴ音楽礼拝説教
  大工のヨセフとマリアが暮らしていた2000年前のパレスティナ地方は、庶民の生活は2重3重にも階層構造になっている権力から根こそぎむしりとられており、貧しい一般大衆にとっては、何の希望もなく、喜びもなく、常に恐れ、脅えながら暮らしていかなくてはなりませんでした。
  そんな苦しい暮らしの中で、ヨセフは自分の家族だけは小さな幸せを守ろうと思っていたに違いありません。しかし、その小さな希望も、マリアの婚前の妊娠といできごとによって、もろくも崩されてしまいました。
  どこにも希望を見いだすことができなくなったヨセフに、希望を与えてくれたのは、「夢」でした。夢のお告げというのは、悪い言い方をすれば根拠がありません。しかし、根拠などなくても、その夢はヨセフの心を癒し、新しい人生へと歩みだす勇気を与えてくれるものでした。
  神は私たちに、絶望のさなかにあっても、「根拠もなく」希望を抱くことができる力をお与えになったのでした。
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 「最初は小さな勇気から」(または「信じる勇気」)
聖書:マタイによる福音書1章18−25節(イエス・キリストの誕生)・ルカによる福音書2章1−7節(イエスの誕生)
2007年12月8日(土)同志社京田辺クリスマス燭火讃美礼拝説教
  イエス・キリストの両親は、大工のヨセフとマリア。そんなことは誰でも知っています。しかし、この二人がどうやって夫婦となったのか、それは一筋縄ではいかないものでした。
  ヨセフは、マリアのお腹の中の子どもを自分の家族として受け入れることに、少なからず勇気を必要としました。マリアも、ヨセフ以上に、真実を告白する勇気を必要としました。しかし、マリアは、ヨセフが自分を信じてくれることを信じることにしました。ヨセフも自分が信じられているということを感じ取ることができました。
  自分が信じられているということほど人を強くしてくれることはありません。ヨセフはマリアの信頼に応えて彼女を信頼し、ヨセフの信頼はマリアの心を支えたのでした。この二人にあやかって、私たちも小さな勇気を持ち寄って、希望のある明日へと歩んでゆきたいものです。
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 「人の子イエスの感性に寄り添う」
聖書:マタイによる福音書5章21−26節(腹を立ててはならない)
2007年11月11日(日)日本キリスト教団甲南教会秋の特別礼拝説教
  イエスは「腹を立ててはならない」、また「他人の妻をみだらな思いで見てはならない」と言います。このような内面のありかたへの要求は、私が教えている高校の生徒らにとっては、人の精神の内容への不当な介入だ、というふうに受け取られるみたいです。
  しかし、このような、人の怒りやみだらな思いに対するデリケートな感性に寄り添うということもあってもよいのではないでしょうか。
  イエスは人間となられた神であり、人間の苦しみを全て味わわされた、と言われます。そして、それと同時に、イエスは全く罪のないままに十字架にかかられた、とも言われます。これは矛盾に感じられます。なぜなら、人間の苦しみの中には、罪深い自分を矯正することができない悩み、苦しみというものもあるからです。イエスが人間の苦しみを知っていたということは、彼自身が罪深い気持ちを抱いたり、罪深いことをしてしまい、そのことを痛恨するということもあったはずなのです。
  ですから、イエスの罪に対するヒリヒリするような、まるで青春時代のような感性の背後には、彼自身の罪との戦いが秘められているのです。
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 「いつかは和解できるかも知れない」
聖書:マルコによる福音書3章20−21節(イエスの身内が彼を取り押さえに来る)
2007年10月23日(火)同志社大学火曜チャペルアワー奨励
  マルコによる福音書には、マタイやルカといった後代の福音書とは違い、喜ばしい生誕の場面がありません。むしろ、身内の人びととの不和があったのではないかと思わせるような記事があります。イエスは、自分のやろうとしていることの目的や方法を、家族には理解してもらえなかったのではないでしょうか。
  私たち自身も、親の期待通りに生きることができなかったり、自分が選んだ道を家族が祝福してくれない、むしろ恥に思われてしまうということがあるかも知れません。私自身も、何度も何度も両親の期待を裏切り、傷つけてきました。自分では正しいと思った判断でも、その判断が人を傷つけてしまうということがあるのです。
  私はここで、私自身の家族に起こった小さな変化のお話をしようと思います。そして、時間さえかければ、人は和解する可能性があるのだ、それを可能性として切り捨てないで、長く生きることに越したことはないのです。
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 「人はパンだけで生きるのではない」
聖書:申命記8章2−3節(人はパンだけで生きるのではない)
2007年9月2日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・主日礼拝説教
  申命記8章3節の、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉は、みなさんもお聞きになったことがあるのではないかと思います。新約聖書でイエスが、荒れ野で断食をしたとき、悪魔の試みを受けたときに、発した言葉です(マタイ4章)。マタイにとっては、荒れ野をさまようイスラエル民族の40年の苦しみと、イエスの40日間の断食は、重なり合ったイメージでとらえられていたのでしょう。
  「人はパンだけで生きるのではない」というのは、パンに満ち足りた余裕のある人が発した言葉ではなく、飢えている状態で発せられた言葉です。本当に食べるものがないときに、「私たち人間はパンだけで生きているわけではないんだ。神の戒めによって生きるのだ」という言葉を口にしながら、イスラエルが歯を食いしばって飢えに耐えた体験から出ている言葉なのです。神の戒めとは何か。それは「盗まないこと」「むさぼらないこと」。そして乏しい食べ物を分け合って満足することです。教会とは、ともに飢え、共に分けて食べ、飲む共同体なのです。
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 「あなたは神の宝である」
聖書:申命記7章6−8節(神の宝の民)
2007年8月26日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・主日礼拝説教
  申命記7章は、泥沼のような自民族中心主義の言葉が並べられておりますが、その中で、この6−8節だけが、その泥沼の中の宝石のように、小さく輝いております。ここでは神がなぜイスラエルをご自分の民として選ばれたのか、を説いています。神がイスラエルを選ぶのは、他のどの民よりも貧弱であったからです。私たちは、神の選びと言うのは、もっとも貧弱な人びとの集まりに向けられるのだということを認識しなければなりません。
 
 力強さ、強大さを誇りたくなる誘惑が、人間には必ずあります。それは教会という群れにおいても、同じです。強い教会、大きな教会、にぎやかな教会、そういったものにあこがれる信徒も牧師もいます。しかし、神が喜ばれるのはそういうものではない、ということを、ここに確認しておきたいのです。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「はらわたのちぎれる想い」
聖書:申命記6章4−9節(聞け、イスラエルよ)
2007年8月12日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・主日礼拝説教
  「聞け、イスラエルよ」から始まる申命記6章4節以降の言葉は、「シェマー」と呼ばれる、ユダヤ教における中心的な祈りです。シェマーの言葉に続く、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉は、ユダヤ人なら誰でも知っているものでした。
  ですから、律法の専門家がイエスに、「もっとも大事な律法は何か」と問われて、このシェマーの言葉を口にし、またレビ記19章の言葉を引用して「隣人を自分のように愛すること」と答えたのも、当時のユダヤ人男性としてはごく自然なことでした。しかし、イエスはそれが正しいと認めるだけではなく、それを「実行しなさい」と律法の専門家に、そして私たちに迫ります。
  律法の専門家は苦しまぎれに、「ではわたしは隣人とは誰ですか?」と言ったものですから、イエスに「サマリア人に助けられたユダヤ人のたとえ話」と聴かされることになります。サマリア人は、傷ついたユダヤ人を見たとき、「はらわたのちぎれる想いで」ユダヤ人を助けた、と語られます。イエスが私たちに迫るのは、この「はらわたのちぎれる
想い」で人を愛することができるか、ということに他ならないのです。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「生きているうちにこそ (II)」
聖書:ルカによる福音書16章19−31節(金持ちとラザロ)
2007年5月6日(日)日本キリスト教団高の原教会・主日礼拝説教
  「金持ちとラザロ」の物語は、死んだ後の裁きを警告するお話というよりは、生きている間に私たちが気づかなければいけないことは何か、について書かれた物語と言えるでしょう。特にこの物語の最後に語られるアブラハムの台詞「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」は、非常に皮肉に、私たちの信仰にゆざぶりをかけます。
  なぜなら、私たちが私たちの主イエスご自身が「死者の中から生き返る者」その人であると教えられてきているからです。もちろん、福音書作家ルカは、イエスの復活をこの福音書のラストシーンで描くつもりなのです。しかし、それを描く前に、「たとえ死者の中から生き返る者がいても、あなたがたが聖書に耳を傾けて聞き入れ、従う生き方をしないならば、何の意味があろうか」という風に、釘をさしているわけです。この問いかけは重い、と言わねばなりません。
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 「本当に、この人は神の子だった」
聖書:マタイによる福音書27章62−66節(番兵、墓を見守る)
2007年4月5日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週祈祷会奨励
  マタイとマルコの福音書を読み比べてみると、ごくごく初期のクリスチャンたちの間で伝えられていたのは、「イエスは復活して現れた」ということではなく、「墓が空っぽであった」ということなのではないかと思われます。彼らがつかんでいた事実は「墓が空っぽ」であったということのみだったのです。復活ということは、それからしばらくたってから生まれてきた教説であろうと思われます。
  イエスの癒しや救いというものは、実は受難で完結しているのではないでしょうか。バッハの『マタイ受難曲』がイエスの十字架の受難と死を描いているだけで、クリスチャン以外の多くの人に慰めと癒しを与えている事実を考慮すると、イエスの死は、信徒であるないにかかわらず、人を癒す愛があふれているのであり、イエスの受難だけで、われわれ人間は救われうるのだということがわかってくるのであります。
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 「恐怖のはじまり」
聖書:マルコによる福音書13章3−13節(終末の徴)
2007年2月11日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・信教の自由を守る日礼拝説教
  マルコによる福音書13章3節以降は、「マルコの小黙示録」と呼ばれ、世の終わりについてのイエスの語りが記録されているところです。この箇所に書かれたとおりには、世界は終わりませんでした。いまもわたしたちは連続する歴史の中を生きています。しかし、この小黙示録の言葉は、今の時代に生きる日本のわたしたちの状況と大いに重なり合うものが感じられます。それはたぶん、マルコが時代の激動を感じ取ったその時期と、わたしたちが今まさに迎えようとしている時代の危険な臭いが、似ているものだからなのでしょう。
  マルコの小黙示録は、戦争の騒ぎや戦争のうわさに人びとが惑わされ、クリスチャンは迫害を受けることを予測しております。今、まさに日本のクリスチャンは歴史上何度目か迫害・弾圧を経験しようとしているのではないかと私は思います。迫害にあったとき、わたしたちは「話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と、お任せする気持ちになれるでしょうか。
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 「エヴァー・グリーン」
聖書:詩編90編1−6節(人の世が生み出される前から、あなたは神)
2007年1月9日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・新年祈祷会奨励
  冬枯れから春の兆しを感じるようになるまでの季節は、世の中のあらゆる命が、生まれ、そして死んで、また生まれて……というサイクルを無限に繰り返してきたことを思わせます。それと同時に、そんな冬枯れの季節のなかで、いつも緑を保っている常緑樹の姿は、変わりゆく世代を越えて続く「永遠なるもの」を私たちに想い起こさせます。
  私たちが毎年新しい歳を迎えるこのしきたりも、過去のことを送り去って、新しい気持ちで生きなおすにはよいのですが、それと同時に、そのような移り変わりの中にあっても変わらないものを思い起こしているのも大切なことではないかと思います。移り変わる生活の中で、私たちが保ち続けなければならないものとは、一体なんでしょうか……。
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