2008
礼拝説教ダイジェスト:2008年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「わたしはあなたとともにいる
聖書:マタイによる福音書1章18〜25節(イエス・キリストの誕生)
2008年12月24日(水)日本キリスト教団香里ヶ丘教会・クリスマスイヴ礼拝説教
 マタイによる福音書におけるイエスの生涯の叙述は、「インマヌエル:神は私たちと共におられる」という宣言から始まります。そして、この福音書の中間には、「2人、3人が私の名によって集まっているところには、わたしも共にいる」、最終部には「わたしは、いつまでもあなたがたと共にいる」という宣言でしめくくられます。マタイによる福音書は、つまるところ、「神が(そしてイエスが)わたしたちと共におられるのだ」ということを語るために書かれた書物であると言ってもいいでしょう。
 クリスマスは、神がこの世に人間の姿でやってこられた、という物語でありますが、ここに神の捨て身の愛を見ることができます。神はご自分が人間と共にいる、ということを示すために、人間の人生を始めから終わりまで生きて、そして死ぬということをされたわけです。神の子だから特別というわけではありません。人間と共に生まれ、生き、人間の中でももっとも惨めな死に方をしました。そのことによって、もっとも惨めな人と共にいようとされたのです。
 この神の心意気を意気に感じて、私たち自身この愛にならって、愛する者になりたい。そんなクリスマスでありたいものです。
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 「あなたにひとつ欠けているもの
聖書:レビ記19章11〜18節、マタイによる福音書19章16〜22節、ローマの信徒への手紙13章8〜10節
2008年11月30日(日)日本キリスト教団蒲生教会・特別伝道集会説教
 聖書によれば、ある青年がイエスのところに来て、「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいでしょうか」と尋ねました。イエスは、誰に対してでも優しくいつくしみ深いのかというと、そういうわけではありませんで、この青年の質問をかわそうとします。しかし、青年はしつこく食い下がるので、イエスは「完全になりたければ、持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言います。結局、永遠の命については、この物語は何も私たちに教えてくれません。残るのは、とにかく「貧しい人々に施すためのお金が必要だ」ということだけです。
 イエスにとっては、「永遠の命」を得ることよりも、貧しい人に、たとえ一時でも、食事を与え、飲み物をあげるお金が必要でした。そういう行いは、大きく社会を変える力を持っているわけではありませんが、しかし、目の前のこの人が苦しんでいるのに、何もしないで入れるだろうか、という切々たる感情があふれています。
 イエスはともに食べ、ともに飲み。ともに祈ることが好きな人でした。私たちが求められていることも、このイエスのわざを受け継ぐことなのではないでしょうか。   
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 「もらうより、あげるほうが幸せ
聖書:使徒言行録20章33−35節(受けるより与えるほうが幸い)
2008年11月16日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会・伝道礼拝説教
 人は何のために努力するのか。それは自分のためだと答える人が多いでしょう。しかし、自分のためだけに生きていることが、本当に幸福なんでしょうか。
 本当に幸せなことは、何かのために、また誰かのために「使命感」を持って生きることなのではないでしょうか。「使命感」は「ミッション」と言い換えることもできます。これは神から与えられた使命という意味が含まれています。私たちはミッションをもった会社員、ミッションを持った芸術家、ミッションを持った経営者になるという生き方があります。イエスが「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言ったごとく、私たちは自分以外の人のためにその時間と労力を費やすことに喜びを感じることができるのです。   
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 「人生はギフトか? 〜たとえ問題だらけでも〜
聖書:ルカによる福音書16章1−8節(不正な管理人のたとえ)
2008年10月19日(日)日本キリスト教団横浜港南台教会・伝道礼拝説教
 マタイ福音書の「タラントン」のたとえを読むと、「タラントン」は「タレント」の語源であり、「ギフト」という意味も持つ、私たち一人ひとりはみな何らかのギフトを持っているのだ、ということが言われています。しかし、この「タラントン」のたとえを読むと、これはギフトというより、投資あるいは出資に近い発想です。なぜなら、タラントンを僕に預けた主人は、帰ってきてから僕たちがいくらもうけたかをチェックするからです。そして、お金を地に埋めて確実に保管した人が、叱られてしまうのです。
 しかし、今回の聖書箇所「不正な管理人」のたとえは、主人から受けた借財を、その主人の財産管理人が証文を改ざんして軽くしてしまう話です。不正なやり方で自分を守ろうとするこの管理人を、主人は(おそらく、あきれて、苦笑しながらでしょうが)ほめます。不正をほめるという、この不思議な話は、この世で私たちが抱えている問題だらけの人生を、「タラントン」のたとえのように、それで最大限がんばって生きろ、と要求するのではありません。そうではなく、小さな存在である人間どもが、姑息な知恵を働かせて、自分たちの負い目を軽くしあうようにしたとしても、それはそれで神さまはゆるしてくださるだろうよ、という物語なのです。
 こんなふうに、「もっと楽に生きてもいいんだよ」ということを、わたしたちに教えてくれる聖書の箇所もあるのです。  
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 「あなたの神は本物ですか?
聖書:マルコによる福音書9章38−41節(逆らわない者は味方)
2008年8月31日(日)日本キリスト教団紅葉坂教会・伝道礼拝説教
 「神さまなど絶対にいない」と思っている人の数は多いのですが、「なんとなく神さまのような存在がいてくれるような気がする」というあいまいな思いを抱いている人も、案外たくさんいます。しかし、そういった思いを持っている人に、「あなたの神は本物の神ですか?」と聞いたらどうなるでしょうか。
 わたしに初めて聖書という書物の存在を教えてくれたのは、ある「異端」と呼ばれている宗派の人でした。「異端」であることは後になってから知りましたし、今はその宗派の考えを捨てているのですが、それでも、わたしに聖書を初めて教えてくれたという意味では、わたしはその宗派に感謝しているのです。
 イエスの名を使って奇跡を起こしている人に対して、イエスの弟子たちは「自分たちに従わない者は、排除しろ」という思いを抱きます。しかし、イエスはそういう弟子たちを戒め、イエスの名によって人を癒す行為を、弟子たちによるエルサレム教団とは違う者たちが行っていても、「いいではないか」と言った、そうマルコは書いています。そして、そのような閉鎖的な教団主義で異分子を排除しようとする者は、海に投げこまれてしまえ、とマルコのイエスは言うのです。
 人はみな何ほどかは求道者です。自分だけが正しいと思うのではなく、「イエスならどうしただろう」ということをいつも洞察しながら、生きてゆきたいものです。  
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 「がんばらない、気にしない、裁かない
聖書:コヘレトの言葉7章15−22節(賢すぎるな、愚かすぎるな)
2008年8月10日(日)日本キリスト教団香里が丘教会・聖日礼拝説教
 旧約聖書の「コヘレトの言葉」という文書は聖書全巻の中でも異彩を話す書物です。キリスト教の正典の中でも「すべては空しい」、「飲み食いして楽しむがよい」と言ってくれる本は希少価値だと思います。
 そんな中でも、今回の聖句は「人の言う事をいちいち気にするな」と述べているたいへん貴重な個所です。私はここ3年来うつ病を患っていますが、このコヘレトの言葉に慰められ、励まされました。
 北海道の浦河町に「べてるの家」という精神障がい者の作業所がある事をみなさんはご存知でしょうか。そこでは浦河教会が母体になって、弱い人間が弱いままで認められ、生かされ、社会に進出してゆくという貴重な取り組みがなされています。そこから発信される情報は、日頃人に言えない弱さを抱えている人間みんなに希望を与えています。
 決してがんばらない、人の言う事をいちいち気にしない、自分を許すかわりに人も裁かない。そういうやわらかい生き方もあるのだと、浦河の取り組みから教えられます。 
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 「あるに甲斐なき我をも召し
聖書:マルコによる福音書3章13−19節(12人を選ぶ)
2008年6月29日(日)日本キリスト教団高の原教会・主日礼拝説教
  イエスの主だった弟子が12人であったということは、実は自明の前提ではありません。これはイスラエルの12部族を象徴させるために作られたフィクションではないかということが現在疑われています。しかし、その12人として選ばれたメンバーたちの人選には、何らかの意図なりメッセージなりを感じざるを得ません。
  イエスの弟子たちとして選ばれた人びとは、いずれも差別を受けていた人、罪人とよばれていた人、テロリストを名乗る者、病人などでした。イエスの弟子集団を見て、地位も財産もある人びとは、非常にうっとうしく、できれば関わり合いになりたくないと思ったことでしょう。
  しかし、イエスは言ったことでしょう。「そのままでいい」と。「あなたはあなたのままでいい。そのまま、俺についてきてくれ」とイエスは人を招いたのです。これは現代を生きる我々にとっても同じことです。イエスについてゆけば、新しい人生の扉が開きます。イエスは私たちを、そのままで愛してくださいます。
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 「何ゆえに死したのか」
聖書:マルコによる福音書6章34−43節(五千人に食べ物を与える)
2008年3月18日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週祈祷会奨励
  「イエスがなぜ死んだのか?」この問に対する模範解答は、「それは人間の罪を贖うために、おひとりで罰をお受けになったのです」ということになることでしょう。しかし、それはいわば後付けの理由なのであって、本当にイエスが殺されざるを得なかったのかの原因について何も説明していません。イエスの死を問うことは、イエスの生き様を問うことになるのです。
  事柄を「誰といっしょ食事をするのか」という問題だけを見ても、イエスは当時の食事の規定を大幅に破り、地位のある者やさほど位の高い人でなくても、決していっしょに食事を取ろうとしないような、徴税人や娼婦たち、つまり「罪人」とされた人びとと、もっぱらいっしょに食事をし、酒を飲み交わしていたのでした。彼が「大食漢で大酒飲み」と呼ばれていたのは、そういう背景があります。
  イエスの招きは人を選びません。イエスの食卓はすべての人に向かって開かれています。それは、当時の人びとにとっては、食事と身分の秩序を乱すものでした。それゆえに彼は殺されました。しかし、私たちはこのイエスについてゆこうとしています。だとすれば、どんな生き方で応答してゆけるでしょうか。
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 「囲いの外の羊をも」
聖書:ヨハネによる福音書10章16節(囲いの外の羊も導かねばならない)
2008年2月24日(日)日本キリスト教団大阪大道教会・主日礼拝説教
  ヨハネによる福音書には、イエスが「この囲いの外にも羊がいる。この羊をも導かねばならない」という言葉が記録されています。仮に「囲い」というものを、教会とするならば、イエスは教会の囲いの外にいる人をも導くのだ、と言っていることになります。
  私たちクリスチャンは「囲いの中」でのみクリスチャンなのではなく、「囲いの外」の人びとに対して宣教してゆくことが望まれています。
  それは、具体的には、この世の人びとに「仕えてゆく」あるいは「支えてゆく」という生き方になるでしょう。それは、世の中の傾向に迎合してゆくということではありません。本当の意味で、この世でなくてはならぬ働きをするとは、どういうことなのでしょうか。
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 「正しい者も正しくない者も」
聖書:使徒言行録24章14−15節(パウロ、フェリクスの前で弁明する)
2008年1月27日(日)日本キリスト教団高槻日吉台教会・主日礼拝説教
  パウロは、エルサレムでユダヤ教指導部に逮捕され、カイサリアに連れて行かれて、時の総督フェリクスの前に訴えられました。パウロがいかにいかがわしい新興宗教の主謀者であるかを訴えるユダヤ教大祭司のアナニアに対して、パウロは、「私の信仰とあなたの信仰が根本的に違うということはないのだ。同じ神を礼拝しており、同じ復活の希望に生きているのだ」と弁明します。
  その際パウロは、「正しい者も正しくない者も」同じ復活の希望に生きているのだと言います。これはファリサイ派出身の彼としては面白い発言です。なぜなら、ファリサイ派は、律法から見て「正しい者」だけが復活すると信じていたからです。しかし、パウロは「正しくない者も」復活すると述べています。すなわち、彼にとっては律法的に「正しいか正しくないか」は問題ではないのであり、それゆえにあくまで信仰による救いが絶対であったからです。
  このパウロの弁明を聞いて、大祭司は非常に不機嫌になったでしょう。そしてパウロの態度は、規範に対する逸脱、違反、異端にしか見えなかったことでしょう。しかし、パウロは自分が信じてことがすべてひっくり返る回心の体験を持っています。彼にとっては、規則による正しさが必ずしも神の目に義とされる基準にはならないことを痛いほどわかっていたのだろうと思われます。
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 「イエスよ、わたしを思い出してください」
聖書:ルカによる福音書23章39−43節(イエスと2人の犯罪人)
2008年1月13日(日)日本キリスト教団岡山教会・伝道礼拝説教
  十字架につけられていた受刑者は、イエスに「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と言いました。しかし、イエスはこう答えました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同43)。
  「あなたが死んだあと、わたしはあなたを思い出してあげよう」というのではありません。そうではなく「いま、あなたとわたしは一緒に神のもとで喜びに入ることができるのだ」とイエスは言うわけです。
  苦しみの全くない人生、重荷のない人生というものはありえません。この世はさまざまな「苦」に満ち満ちています。このような「苦」を癒してくれるものは何でしょうか。
  たった一人で苦しんでいるとき、人はその苦しみに押しつぶされそうになります。しかし、いつも同じ苦しみを味わってくれている人がそばにいるとしたら、私たちの苦しみは和らぐのではないでしょうか。イエスという方は、それを実際にやろうとした方ではないでしょうか。
  イエスは人間として受ける最大限の苦痛を味わいながら、「わたしはあなたと共にいる」というメッセージを発しました。
  私たちが、「苦しいです」「痛いです」と訴えるとき、「わたしも苦しい」「同じ痛みを私も味わっている」と応えてくださる。その「共苦」がイエスの畢生のメッセージだったことを受けとめ、私たち人間も、互いに痛みを受けとめ思いやりを持ちながら、生きてゆきたいものです。そこに「苦」を癒す秘密が隠されているのではないでしょうか。
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