メッセージ・ガイド 2009

礼拝説教ダイジェスト:2009年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「命を捨てるために来た
聖書:マタイによる福音書1章18〜25節(イエス・キリストの誕生〜ヨセフへの予告)
2009年12月24日(木)日本キリスト教団香里ヶ丘教会クリスマス・イヴ音楽礼拝説教
 イエスの誕生物語の中で、ヨセフが何回夢を見たか知っていますか? なぜヨセフはこんなに何回も夢でお告げを受けるのでしょうか? それは旧約聖書に答があります。
 イエス誕生の物語には、モーセやダビデの姿も見え隠れしています。どうして、こんなにイエスの誕生は旧約聖書と関連があるのでしょうか?
 それは、イエスの生涯と死は既に旧約聖書に予言されているのだと、イエスの弟子たちが解釈したからです。弟子たちにとっては、自分たちの見捨てた師が、なぜこの世にやってきて、そしてなぜあんな残酷な死を味わわねばならなかったか、その謎を解く必要があったのです。そうでなければ、イエスという存在を理解できなかったのでした。
 そして彼らは、旧約聖書の中にイエスの生涯と死が予告されていることを知り、それを礼拝の中で物語として再現するようになりました。そして、その礼拝における物語を基礎にしながら、福音書は形作られていったのです。
 更に、イエスの誕生物語は、イエスの死を根底に置いています。つまり、イエスの誕生の意味は、イエスの死を抜きにしては理解できないのです。その隠されたメッセージを読み解いてゆきましょう。      
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 「この生きにくい時代に
聖書:マタイによる福音書2章9〜16節(ヘロデ、子どもを大量虐殺する)
2009年12月17日(水)同志社国際中学校高等学校教職員クリスマス礼拝説教
 イエス・キリストの誕生の背後には、たいへん血なまぐさい話が横たわっています。イエスが無事に生まれ出た背景で、ベツレヘム周辺の2歳以下の男児は全員虐殺されたというのです。これは、本当にあったことなのでしょうか。私は史実ではないと思います。しかし、ヘロデならやりかねない、という民衆の理解があって、このような物語ができたのだとは思います。
 この時代、ヘロデのようなローマから委託された王による残忍な支配、またユダヤ人社会の上に君臨する最高法院など、民衆は二重の権力の支配を受けました。また、ローマから派兵されてきた軍隊も街中で暴力をふるい、民衆は安全は守られていませんでした。このような不安定で抑圧的な世の中では、まともな精神状態で生きることも難しかったと思います。
 このような世の中で、赤ちゃんが与えられるとは、どういうことでしょうか? それは闘いに巻き込まれるということです。救い主が与えられるということは、キリスト教においては、安楽を与えられるということではない、ということを、この物語は象徴的に表しています。      
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 「生まれてきてくれて、ありがとう
聖書:ヨハネによる福音書3章16節(神は独り子をお与えになるほどに世を愛された)
2009年12月16日(水)同志社香里中学校高等学校合同クリスマス放送礼拝奨励
 クリスマスプレゼントはもうお決まりですか? みなさんはまだプレゼントをもらうことの方が多いでしょう。でも、大人になるにつれ、もらうよりもあげることのほうが多くなってゆきます。人の親になると、自分は何ももらわなくても、子どもが生きているだけで感謝したくなるものです。子どもが生きているという現実そのものが親にとってはプレゼントであり、宝物です。
 もちろん、親にも自分の人生の課題やハードルや、失敗、挫折がありますから、いつでも良い親を演じているわけにはいきません。しかし、だからといって親があなたのことを愛していないということは、ほとんどないと思います。親から子へのメッセージ、ほんとに伝えたいことは、「生まれてきてくれて、ありがとう」というメッセージなのです。
 世の中は競争社会で、能力のある者や運のいい者だけが生きる価値があるかのように言われます。しかし、私たちはあえてこれに反抗し、主張しなければなりません。人間は生きている限り、生きてそこに存在しているだけで、尊いのです。だから私たちは互いに、「生きていてくれて、ありがとう」と伝え合わなければならないのです。      
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 「みんなが生きてゆく権利
聖書:マタイによる福音書20章1〜16節(「ぶどう園の労働者」のたとえ)
2009年11月15日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会・主日礼拝説教
 「ぶどう園の労働者」のたとえ話は、よく知られてはいますが、難解な箇所です。高校生の中には、この話はおかしい、と言い切ってしまう子もいます。しかし、この物語は、定まった季節にしか雇われない、定食のない底辺労働者の物語であることを前提にしますと、少し事情がわかりかけてきます。このぶどう園の主人は、他の雇い主に雇ってもらえない、高齢で病弱な労働者を雇おうとし、できるかぎりその生活を支えてやろうと思ったわけです。いわば、これは一種の社会福祉の話、生活保護の話なのです。そういうものが完備されているような社会、それをイエスは「神の国/天の国」と呼んだわけです。
 しかし、そんな「天の国」を地上に実現させることに、まだ人類は成功していません。最近では「ベーシック・インカム」という方法があると聴きます。その方法がベストかどうかはわかりませんが、少なくともイエスの示した理想を目指しているとはいえるでしょう。  
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 「たとえ名は残らなくても」 または 「無名の良心
聖書:コリントの信徒への手紙(1)3章10〜11節(イエス・キリストという土台)
2009年10月27日(火)近江兄弟社高等学校3年生「創立者礼拝」奨励
 近江兄弟社は、学校と産業がキリスト教主義で一体となった、たいへん珍しい共同体です。その創立者ウィリアム・メレル・ヴォーリズさんは、かなり広く知られていますが、妻である一柳満喜子(ひとつやなぎ・まきこ)さんのことは、あまり広くは知られてはいません。しかし、現在の学園につながる教育事業の理念を作り、実質的に子どもに接していったのは、満喜子さんでした。一柳満喜子さんの生き方を通して、私たちは、自分の名前が残ろうと残るまいと、やるべきことをやる、良いと思ったことをする、そういう私心のない人になりたいものだと思います。
 私は、自分が働いてきた職歴を通じても、世の中を本当に動かしているのは、たくさんの名もない良心の人なのではないか、あるいは、世の中が崩壊せずに済んでいるのは、実は危ないところに行ってるんだけれども、無名の良心の人がそれを食い止めていてくれているからではないか、そんな風に思います。    
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 「祈りのシンパシー
聖書:マルコによる福音書9章38〜42節(逆らわない者は味方)
2009年8月16日(日)日本キリスト教団香里ヶ丘教会・聖日礼拝説教
 皆さんは、キリスト教の洗礼を受けていない人が、礼拝の司会者の立場でお祈りをしたら、その祈りは有効だと思いますか? それとも無効だと思いますか?
 私は、日常的に、クリスチャンではない人が礼拝でお祈りをする場面に居合わせています。
 私たちは、キリスト者だけが救いに至るのだという考えは捨てなくてはならないと思います。救いに至るには、いろいろな道がある。「私にとっては」それはキリスト教である。あなたがキリスト教を選んでくれたらうれしいけれども、しかし、他の道があったっていい。とりあえず、このキリスト教を試してみるかい? と勧めることはできますが、それ以上に「他を捨てて、ここに来なさい」と言うことは私にはできません。それは、この宗教多元化の時代に、避けては通れない課題だろうと思います。
 教会に属していなくても、教会から公式の認可がなくても、イエスの名によって人を愛することは、有効なのです。むしろマルコが描いたイエスは、教会以外にイエスの名を用いることを許さない教団主義者たちをたしなめています。
 教会の内であろうと、外であろうと、神さまの愛の御業は自由自在に働くのです。    
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 「生きている意味なんて
聖書:ローマの信徒への手紙13章8〜10節(隣人愛)
2009年6月14日(日)日本キリスト教団札幌北光教会・聖日礼拝説教
 ある日、教え子から「人間の生きている意味ってなんですか?」と問われました。それに対して私はその子が満足のいく答え方をできませんでした。
 人はなんのために生きるのか、について考える時私が思い出すのは、父の死に際のときのことです。父が死ぬ直前、必死に自分の身を死に引き渡すまいと闘ってくれたのは、ただひとつ「息子に会いたい」と思う一心からでした。生きる意味、目的とか高尚なものではなく、ただ「会いたい」というそれだけのために人は生きられるのです。人とのつながりの中に、私たちは「生きたい」という気持ちをいだくことができるのです。
 
パウロのローマの信徒への手紙とマルコの福音書を読み比べると、もっとも初期のクリスチャンたちに伝えられていたイエスの掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」だったことが浮かび上がってきます。このシンプルなイエスの言葉の言い伝えに基づいて、パウロは「愛こそが律法を全うする」と書きました。「ほかにどんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという掟に要約される」と言い切ったのです。
 隣人に対する愛とは何でしょうか。何かできることが愛でしょうか。しかし、その人のために祈ること。あるいは、「あなたにここにいてほしい」「あなたに会いたい」と思うだけでも愛ではないでしょうか。なぜならば、そういう気持ちだけでも、人は自分が愛されたことを知り、生きている喜びを感じることができるからです。
 愛の形は千差万別です。ということは、生きている意味は人の数だけあるということなのです。    
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 「神の汚れた手
聖書:ヨハネによる福音書12章24〜26節(キリストを模範とせよ)
2009年4月8日(金)日本キリスト教団香里ヶ丘教会・受難週祈祷会奨励
 現代の殉教者とも言うべき人びとを模範として生きることは、たいへん難しいです。しかし、私たちの理想として、殉教者のことを心に留めておきたいものです。それらの人びとは、キリストの受難を自分でも体験し、キリストにならって命をささげていったからです。
 その中で、ディートリッヒ・ボンヘッファーは異色の存在といえます。彼はたとえばキング牧師やコルベ神父らのように、完全な非暴力主義者として歩む道を放棄したからです。彼はナチスの収容所で処刑されたのは、彼がドイツ軍情報部に潜り込み、ヒトラー暗殺計画に加わって活動したからでした。軍の情報部に入ることも、たとえ相手がヒトラーでも、その命を奪おうとすることも、彼の本意ではなかったのでしょう。しかし、彼は、机の上から保身の言葉を連ねるより、ヒトラーの暴挙を具体的に停める行動を、最悪の選択肢のなかでも比較的納得できるものとして選び取ったのでした。
 その背景にあるのは、イエス自身が、この世で弱くされた人びとを愛するために、大胆に当時の社会における罪を破り続けていったという歴史です。
 イエスは当時の社会によれば罪びとだったかもしれません。しかし、彼はそのことによって人間を解放し
ようとしました。同様にボンヘッファーも、当時の法律で言うところの犯罪者になろうとも、たとえ人を殺そうとも、暴挙をやめさせることが、イエスに服従する者から見れば当然だったのでしょう。イエスの受難を思い起こし、従うというのは、そうそう甘いものではないのです。      (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「高みより深みを
聖書:フィリピの信徒への手紙2章1〜11節(キリストを模範とせよ)
2009年1月9日(金)日本キリスト教団香里ヶ丘教会・新年祈祷会奨励
 私はこれまで「わかりやすい」説教や文章を書くことで伝道に努めてきたと思っています。しかし、これからは、キリスト教信仰の「わかりにくい部分」、神秘的あるいは霊的な部分を語ってゆきたいと思っています。果たして大失敗するかもしれません。あるいは、本当は言葉を尽くした先の沈黙に、神は潜んでおられるのかもしれません。
 その際、私たちは、神の「高さ」を声高に述べ立てるのではなく、神の「低さ」、あるいは私たちの存在の根底におられるその「深さ」において、神を理解してゆきたいと思います。聖書が私たちに求める生き方は、キリストの行いにならって「へりくだる」ことであり、キリストとともに生きて、死ぬことだからです。キリストは、自分の力でキリストになったのではありません。神に高みに上げられてそうなったのですから、私たちについては何をかいわんやです。
 私たちは、自分で自分を高める必要はないのです。キリストがそうしてくださったように、私たちもへりくだって他者につかえる人生をおくらせていただけるように祈り、導きを願いたいものです。
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