メッセージ・ダイジェスト 2010

礼拝説教ダイジェスト:2010年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「誰がまことに幸いか」
聖書:ルカによる福音書1章46〜56節(マリアの賛歌)
2010年12月24日(日)日本キリスト教団香里ヶ丘教会クリスマス・イヴ音楽礼拝説教
 受胎告知を受けたマリアが親類のエリサベトの前で神にささげた「マリアの賛歌」は大変有名で多くの人に愛されており、『マニフィカート』という名で親しまれています。
 しかし、この「マリアの賛歌」は後半部分まで読み進んでゆきますと、なにやら穏やかではありません。「飢えたものが満たされ、思い上がる者は引き降ろし、貧しい人は豊かになるが、満腹している者は空腹のまま追い返される」とイエスは言ったのです。
 このメッセージは一見過激ですが、よく読んでみると、ごく当たり前の人間らしい生活ねの願いに過ぎません。すなわち、支配からの「自由」と、食べ物や安全などの「安心」との2つを求めているに過ぎないのです。それが、一切保証されなかった時代の一人の少女の胸の痛みが伝わります。
 しかしマリアは、それを実現してくれる主の誕生のために、自分が決定的に大切な役割を与えられたことを、心から喜んでいます。彼女は「自分は幸いな者だ!」と言っています。
 この幸いを分け合うために、私たちにできることは何でしょうか?     
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 「自由と恐れ」
聖書:ルカによる福音書10章38〜42節(マルタとマリア)
2010年11月21日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 女性と男性が、恋愛や結婚抜きで友情を深めることはできるでしょうか? 今、私たちが住んでいる社会はかなりな範囲で自由な恋愛ができますが、かつては自由な恋愛など無く、男尊女卑的な結婚のシステムがあるだけでした。古代のユダヤ人社会では、はっきり言って女性は男性の私有財産で、自由に処分もできる持ち物だったのです。また、女性は自由に夫以外の男性と会話をすることさえも許されていませんでした。
 しかしイエスは、そのような女性と男性の境界線を大胆に越えて、女性に友情を求めてゆきました。マルタとマリアのエピソードには、昔ながらのジェンダー・ロールに縛られたマルタと、よその男と話し入るマルタという好対照の女性が現れます。イエスが求めていた人間関係とはどんなものだったのでしょうか? そこには、あれほど民衆の支持を集めて当局に恐怖を与えたイエスが、なぜ人びとに「十字架につけよ」と叫ばれてしまうようになったのかという謎が隠されています。
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 「We Are Not Alone. (わたしたちはひとりぼっちじゃない)」
聖書:マタイによる福音書18章20節(二人、または三人が……)
2010年9月19日(日)同志社女子高等学校修養会聖日礼拝説教
 マルティン・ブーバーという宗教哲学者がいました。彼は「我と汝」「我とそれ」という言葉を使って、人間が他者と結ぶ関係の質を論じ、「我と汝」の関係が人間にとっていかに大切かを説きました。
 しかし、今はこの「我と汝」の関係が急速に失われ、あらゆる関係が「我とそれ」という利用と支配の関係に陥っています。このような世界に生きていては、私たちは孤独にならざるを得ません。私たちの今の世の中は、この「我とそれ」による孤独が、疫病のように蔓延しています。
 この寒々しい状況に対して、もう一度希望を持つようにと呼びかけられた、ひとつの信仰告白があります。それをご紹介したいと思います。なぜなら、この告白は、教会の中にいるクリスチャンだけではなく、教会の外のすべての人に対しても宣言されたものだからです。     
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 「You Are Not Alone. (きみは一人じゃない)」
聖書:マタイによる福音書6章6節(隠れたところにおられる神に祈りなさい)
2010年9月18日(土)同志社女子高等学校修養会開会礼拝主題講演
 今から31年前、The Policeというバンドの "Message In A Bottle"という曲が世界的に大ヒットしました。人は皆、孤独を抱えていますが、孤独なのは君だけじゃない、実はこの世界は孤独な魂がひしめき合って暮らしている。人は一人ぼっちのような一人ぼっちではない、ということを伝えようとした歌だと思います。
 この修養会のテーマは「You Are Not Alone〜きみは一人じゃない」ですが、そんな言葉を自分から人にかけることができたら、そんなにいいでしょうか。
 実際には私たちは、そんな言葉を誰か他の人からかけてもらいたくてたまらない、というのが正直なところではないでしょうか。
 私は、神さまはTwitterのような存在かも知れないと思うことがあります。世界中の人がさまざまな悩みや喜びを祈りに託してつぶやくのです。神さまのタイムラインにはたくさんの人のつぶやきが流れています。それに対して神さまは、いちいち返事をすることはありません。それは余計なおせっかいだからです。でも、返事はしなくても、ちゃんとフォローしてくれています。
 私たちも、互いに「あなたをフォローしているよ」という、無言のメッセージが送れるようになりたいですね。     
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 「行って、あなたも同じようにしなさい」
聖書:ルカによる福音書10章25〜37節(善いサマリア人)
2010年9月12日(日)日本キリスト教団はりま平安教会聖日礼拝説教
 キリスト教は隣人愛の宗教だ、とはよく世間で言われていることです。しかし、イエスは果たして「隣人愛」を説いたのでしょうか。
 実は「隣人愛」という概念はユダヤ教の時代からありました。それをキリスト教も受け継いだのです。しかし、イエスは実は「隣人愛」という狭い概念から飛び出て、「愛敵」を説いていたのです。しかし、これを書記のキリスト教徒たちは受け止めきれず、また現在の私たちも、それははるかな地平として眺めるのみで、それを実行することは、ごくわずかな限られた人たちの除いて、私たちにとってはほぼ不可能です。
 しかし、私たちが何度失敗しても、イエスはあきらめません。はるかな理想を目指して、私たちはイエスについてゆくことを望みます。
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 「Take It Easy. (気楽に行こうぜ)」
聖書:マタイによる福音書20章1〜16節(「ぶどう園の労働者」のたとえ)
2010年8月1日(日)日本キリスト教団大阪大道教会聖日礼拝説教
 「ぶどう園の労働者」のたとえ話は有名ですが、この物語はまじめな人が読むと、「おかしな話」となります。当然ですね。12時間働いた人と1時間しか働かなかった人が同じ賃金をもらうなんて、そんなことが現実にあったら、誰もまじめに働かなくなります。
 しかし、これは寄せ場の日雇い労働者のお話です。夜明けに雇われなかった人は、体が弱い、あるいは年をとっているために、不必要な人間として見捨てられた人です。激しい人間の生存競争の中で敗者となった者、そのために今日、明日を生きる糧を得られず死んでゆく人たちです。
 そして、おそらくイエス自身も、生前大工とは言いながらも、本来の木工業などでは食べてゆくこともできず、ぶどう園の日雇い労働などにも駆り出されていったのでしょう。そして、同じ労働者仲間に「天の国というのは、こんな風に働いても、働かなくても食べてゆける国のことだよな」と言って、周囲を笑わせていたのでしょう。
 今、日本はかつての栄光を取り戻そうと、必死に政府主導で大人も子どもも「がんばれ」「がんばれ」と声をかけられている時です。しかし、そんな声にまじめに従っていては、私たちは殺されてしまいます。手を抜けるところは手を抜いて、私もあなたも自分というものを大事にできる程度にいたわり合って、お互いを楽にさせあいながら生きてゆきたいものです。
 イエスの反骨精神にならって、「よし、今日もがんばらないぞ!」と声をかけあって、生きてゆきたいものです。     
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 「がんばらなくてもいいんだよ」
聖書:ルカによる福音書15章11〜32節(「放蕩息子」のたとえ)
2010年6月27日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会聖日礼拝説教
 「放蕩息子」のたとえ話を読むと、多くの人が、まじめに働いていたお兄さんに同情します。お父さんの言いつけを守ってまじめにがんばってきたのに、お父さんは、自分の財産を放蕩につぎ込んですってんてんになった弟が戻ってくると、お兄さんをそっちのけで喜びます。
 この「言いつけ」という言葉は「掟」とも訳される言葉で、ユダヤ教の戒律のこと、「律法」のことをさす場合にも使われます。このまじめなお兄さんは、いっしょうけんめい律法を守って生きているユダヤ人のことをさしていると読んでもよさそうです。それに対して、弟のほうは豚の世話をさせられていますが、豚はユダヤ人は食べません。ですから、これは異邦人の雇われになって、(ユダヤ人から見れば)汚れてしまった人ということになります。
 神は、異邦人に接して汚れた人、しかも神からの恩恵を無駄遣いしてしまった人。そういう人を愛しているよ、というわけです。神から見れば、がんばらなかった人も大切な神の子どもなのですね。
 わたしたちは、がんばらないと評価されない世界に生きています。人間はそういうシステムを作ってしまいました。しかし、神の目から見れば、がんばらなくても生きていて良いのです。がんばっても、がんばらなくても私たちは神に愛された、神の子です。
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 「神さまをどうイメージするか」
聖書:ルカによる福音書24章13〜27節(エマオ途上の道で)
2010年5月9日(日)日本キリスト教団香里ヶ丘教会聖日礼拝説教
 神さまをどうイメージすればよいのか、という質問を受けたことがあります。しかし、私は原則的には、神さまのイメージなど持たないほうがよい、と考えています。しかし、そうは言っても、何のイメージも持たずに信じるということが、なかなか難しいようです。人間はかつて、「王」「父」「羊飼い」「友」……いろいろなイメージを神に投影して、神を描写しようとしてきました。しかし、それらが逆転写するように、人間の社会における王や父に投影されたとき、人間の社会や家庭は悲惨な経験をしてきたのではないかと思います。
 あえて1つ神のイメージ、あるいは救い主のイメージを、と言われれば、私は、イザヤ書53章の「主の僕(苦難の僕)」のイメージをあげたいと思います。それがいちばんましなイメージだろうと思います。もっとも人を傷つけず、もっとも弱い救い主です。むしろ、この主の僕は、自分の傷で人びとの傷を癒すのです。      
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 「意味など無くても人は生きる」
聖書:マタイによる福音書6章26〜29節(空の鳥、野の花)
2010年5月2日(日)日本キリスト教団香里ヶ丘教会聖日礼拝説教
 マタイ福音書に収められた「空の鳥、野の花」の聖句は、たいへん有名な箇所です。ここを読んで、食べるもの、着るものにお金をかけずに質素な生活を心がけなさい、という教訓を読み取る人は多いのではないかと思います。つまり、そこそこ収入のある人に対して、「贅沢をするな」と言っているのです。
 しかし、イエスの元来のメッセージはそういうものだったでしょうか。イエスは、もっと生きる価値の無い者、生きる意味を失った者の目線で言葉を発していたのではないかと思われます。
 それは、パウロの「働かざる者食うべからず」という発想とも、まったく異なる立場の思想です。働かなくても、好きなことをしていても、人間は生きていること自体が「良し」とされることなのだ、とイエスは言い切っています。それは、普通の世の中の価値観から見れば、とんでもなく非現実的なことかも知れませんが……      
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 「神に見捨てられてもよい」
聖書:ローマの信徒への手紙9章1〜3節(肉による同胞のためならば)
2010年2月7日(日)日本キリスト教団北六甲教会聖日礼拝説教
 パウロは一般的には、エルサレムのイエスの直弟子集団と対照的に、異邦人伝道をもっぱら行った人である、と紹介されることが多い人物です。
 しかし、彼の心の中にあったのは、自らの「肉による同胞」としてのユダヤ人の救いという問題でした。それは、彼自身の「ユダヤ人でありながら、キリスト者である」ということの実存をかけた問いであったといえるでしょう。
 彼はもともと大変民族主義の強い律法学者でした。師匠のガマリエルが止めても聞かないほどの熱心なキリスト教の迫害者でした。しかし、その根底には、ディアスポラのユダヤ人としての、エルサレムにおける孤立感があったものと思われます。その孤立感ゆえに、彼は一層熱心なユダヤ教徒たろうとして、自分を矛盾の中に追い込んでしまったのでした。
 キリスト者となってからも、彼はそう簡単には他のキリスト者たちの信頼を得ることはできませんでした。彼は、ユダヤ教徒の中でも孤立し、キリスト者の間でも孤立しながら、肉による同胞の救いについて、考え続けていたのでした。
 「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」というのは、明らかに言いすぎです。しかし、そこまでしてでも同胞の救いを願う彼の気持ちを私たちも共有できるのではないでしょうか。なぜなら、私たちはこの日本において圧倒的少数者で、肉による同胞たちの間でいつも孤立感を感じながら、しかし、肉による同胞の救いのためにキリストの道を宣べ伝えようとしているからです。      
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 「いたはる」
聖書:創世記3章17〜19節(呪いとしての労働)
2010年1月5日(水)日本キリスト教団香里ヶ丘教会新年祈祷会奨励
 創世記の3章後半は、人間に対する神の呪いの言葉です。そこでは人間の労働というものが、神ののろいの結果だという考えが述べられております。これは、この言葉が編み出された当時の庶民にとって、いかに労働というもの、そして食べ物を得るということが苦渋に満ちたものであったかを示すものだといえるでしょう。
 しかし、現代を生きる私たちが、人生の苦労に対峙するにあたって、このような言葉が励ましや力になりうるでしょうか。
 イエスは私たちの人生の苦労に対して、なんと言っておられるでしょうか。
 マタイの福音書11章28節以降には、「すべて疲れた者は私のもとに来なさい」と記されています。ここは文語訳で読むと、どうなるでしょうか。
 「労」という漢字にはどのような意味の広がりがあるでしょうか。
 そこにはイエスの「労」というものに対する優しい眼差しと招きがあるのです。      
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