メッセージ・ダイジェスト 2011

礼拝説教ダイジェスト:2011年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【メッセージ・リスト】……要旨

 「追いやられる者の間に」

聖書:ルカによる福音書2章8〜20節(羊飼いと天使)
2011年12月24日(土)日本キリスト教団香里ヶ丘教会クリスマス・イヴ音楽礼拝説教
 クリスマスの物語は、「神が与える喜びは、私たちの想定外のところにまずやってくる」というメッセージがこめられています。
 ヨセフとマリアという若い婚約者たちは、「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と蔑まれるような村の出身、しかも貧しい底辺労働者の世帯です。
 また、救い主の誕生を最初に知った羊飼いたちは、人々から忌み嫌われる職業の人びと。救い主の誕生を知ったという博士たちは、ユダヤ人が思いもかけない方角からやってきたのであり、救い主の誕生は救い主を待っていたはずのユダヤ人に最初に知らされたのではなかったのです。
 神の救いのメッセージは、まず人から見捨てられ、あるいは人に追いやられた人びとの間にやってくる。これがクリスマスのテーマなのです。
 このクリスマスの喜びを、私たちは、私たちの視野から追い出して、普段は見ないようにしている人のところへと届ける者とならなくてはいけません。   
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 「Let It Be (レット・イット・ビー)」
聖書:ルカによる福音書1章26〜38節(イエスの誕生が予告される)
2011年12月11日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝宣教
 マリアはナザレという、どちらかといえば人が蔑むような地域の村に住んでいた平凡な少女でした。しかし、そんな彼女を運命、あるいは摂理が否応なしに非凡な人生へと投げ込みます。
 これは実は特別なことなのではなく、わたしたちの人生も、一人ひとり独特で、大変特殊なものであります。そして、誰一人として、自分でこの時代のこの場所に生まれて来たいと思って生まれてきた者はいません。わたしたちはこの人生に投げ込まれてきたのです。そして、この人生を引き受けて生きる以外に道はありません。
 ですから、マリアの「あなたのおっしゃる通りになりますように」という告白は、わたしたち一人ひとりにとっても真実なのです。   
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 「本当に人を愛せるか」
聖書:ヨハネによる福音書21章15〜19節(イエスとペトロ)
2011年11月13日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会聖日礼拝宣教
 本日の聖書のテクストは、イエスの死後、ガリラヤ湖のほとりでイエスを偲ぶ弟子たちのもとにイエスが現れ、イエスがペトロに3度「わたしを愛しているか」と訊く場面です。この物語がペトロの3度の否認とセットになっていることは明らかです。しかし、原典に沿ってギリシア語をたどると、ここでの「愛している」には2種類の単語がうまく使い分けられており、劇的な効果を高めているのですが、それは日本語ではまったくわかりません。
 この物語を忠実に丁寧に読むと、ペトロの苦しみ、イエスの赦し、そしてペトロの生き直しへといたるドラマが浮き上がってきます。
 それはわたしたちが、最終的にどうすれば本当に人を愛せるようになるのか、のヒントとチャンスに関わる問題につながってゆきます。   
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 「ぼくの後ろに道はできる」
聖書:ヨハネによる福音書14章6節(イエスは道であり、真理であり、命である)
2011年11月8日(水)同志社香里中学校高等学校秋の宗教週間早天祈祷礼拝奨励
 高村光太郎の詩に「道程」という作品があり、「ぼくの前に道は無い。ぼくの後ろに道ができる」という言葉がよく知られています。
 ぼくが小学生時代に出会った、道なき道を行く人のお話をします。その人に出会ったおかげで、ぼくは聖書を読むようになり、そして今も聖書を読むのが本職になってしまいました。その人がぼくに与えた衝撃は強いものでしたが、同時に静かなものでした。   
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 「悔い改めるイエス」
聖書:マルコによる福音書7章24〜30節(シロ・フェニキアの女性)
2011年10月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 普通、イエスが文字通りの神の子ではなく、まぎれもない人間であると考える人でも、イエスがまさか罪を犯すということは無いだろうと思っていると思います。しかし、今回の聖書の個所は、イエス人種差別あるいは民族差別を行ったという記事です。
 ユダヤ人は昔も今も、強烈な選民意識を持っており、自分たちが特別に選ばれた民であるという意識を持っていますが、当時イエスもそのような意識を共有していたようです。そして、彼の救いの関心はイスラエルの子達、すなわちユダヤ人にのみ向けられていたのであり、異邦人に対しては向けられていなかったことが、今回の物語でわかります。
 しかし、イエスの差別発言と診療拒否に対して、一人の強い女性が立ち向かいます。そして、その言葉のやりとりによって、イエスも悔い改めてゆくのです。   
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 「敵の隣り人となる」
聖書:ルカによる福音書10章25〜37節(善いサマリア人のたとえ)
2011年9月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 善いサマリア人のたとえ話は、「隣人愛」の物語であるととらえている方が、クリスチャンにもクリスチャンでない方にも広くおられるようです。
 しかし、これは正確には隣人愛の物語ではないのです。というのも当時のユダヤ人にとって「隣人」とは、自分たちと同じユダヤ人のことでしかなかったからです。
 このたとえ話は、ユダヤ人にとって「隣人」とは到底思うことのできない、「敵」であるサマリア人がユダヤ人を愛してくれた、という想定外のストーリーだったのです。
 つまり、これはユダヤ人の間で常識になっていた「隣人愛」をひっくり返す、挑戦的なたとえ話です。それは「隣人」と隣人ではない者を分け隔てようとする同胞に対する問題提起なのでした。
 したがって、イエスにおいては「隣人愛」というものは、「愛敵」によって初めて完全なものとされるのです。その詳細を読み解いてゆきましょう。   
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 「イデンティテート」
聖書:フィリピの信徒への手紙3章20節(本国は天にあり)
2011年9月13日(日)同志社香里高等学校ロング礼拝奨励
 「イデンティテート」という言葉を聞いた事がありますか? 実は英語に直すとわたしたちのよく聞いたことのある言葉になります。
 みなさんは「イデンティテート」を大切なものだと思うでしょうか。それが大事だと言う人は多くいます。しかし、そんなものは実は人前でいくらでも使いまわせるペルソナ(仮面)に過ぎないのです。それは自分を表現する形容詞でしかありません。それで自分のすべてが人に伝わるかというと、そんなことはありません。
 わたしたちは、何者でも、何に所属する者でもなく、ただの「わたし」なのだ、ということを出発点にしたほうがよいのではないでしょうか。。   
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 「知られざる神に」
聖書:使徒行伝17章22〜34節(パウロ、アテネで説教する)
2011年8月14日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 アテネを訪れたパウロは、その町に「知られない神に」と刻まれた祭壇を見つけ、その言葉を切り口に神を宣べ伝え始めます。ローマで祭られている神々はもっぱら像に刻まれ、造られた形を持っています。しかし、「知られざる神」だけは姿、形、声、においもありません。パウロが伝えたかった神とは、このような、人間に把握されることは決してない神なのです。
 そして、わたしたちが、この決して人間には「知られざる神」を信じ、共に生きるとは、この世の目に見える何物にも依存せず、所属せず、完全に自由な者として生きるということです。それは「無」あるいは「無我の我」(日野原重明)と呼べるかも知れません。
 日本人に対して伝道する時、私たちは「多神教と一神教の違い」などを引き合いに出し、「一神教は日本人に馴染まない」と簡単に判断することがあります。しかし、日本人への伝道で一番ネックになるのは、「私は日本人だ」というアイデンティティの理解です。自分のアイデンティティを「国籍」「人種」「民族」「宗教」「会社」「家」といった集団や組織に根拠を置くのは、簡単に自分のアイデンティティを確認する方法ですが、それが世界に争いと敵意を産んできたこと覚えておかなくてはなりません。
 わたしたちは天に国籍がある人間です。それはキリスト教という宗教、教会という組織や制度に所属するという意味ではありません。まったくつかみどころの無い、存在するかどうかもわからない愛に自分を任せてみて、この世から完全に自由な者であるという意味なのです。   
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 「耶蘇の奴隷」
聖書:ヨハネによる福音書8章31〜32節(真理はあなたたちを自由にする)
2011年7月31日(日)日本キリスト教団香里ヶ丘教会主日礼拝説教
 新島襄は「耶蘇の奴隷」と人から呼ばれ、「真理の囚人こそ真の自由人である」とも述べた人です。真の自由人とは、どのような人のことを言うのでしょうか?
 私は世の中のほとんどの人は、自由というものを「欲望を満たす権利と能力」のことだと思っているのではないかと思います。それは、一概に悪いものとは言えません。しかし、時に人間は、その欲望の奴隷になってしまいます。また、自分以外の人を自分の奴隷にしてしまい、自由と権利を、あるいは命までも奪ってしまうことがあります。
 わたしたちが自分も他人も、自分の欲望の奴隷にしないためには、どう生きてゆけばよいのでしょうか。そのキーワードが「耶蘇の奴隷」「真理の囚人」であります。
 わたしたちが自らをキリストと共に十字架につけて殺してしまい、自らの中に復活のキリストを受け入れて、自分はキリストの器として働く。そこにキリスト教的な愛の信仰があります。   
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 「根拠などありません」
聖書:コリントの信徒への手紙13章1〜13節(愛について)
2011年7月17日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝説教
 恋人どうしの会話で、「あなたはどうしてわたしのことが好きになったの?」とか、「あなたはわたしのどこが好きになったの?」と聞くことがあるのではないかと思います。このような会話の背後には、誰かに好意を持たれるのは、何か理由があるからだ、という暗黙の前提のようなものがあるのではないかと思われます。でも、実際に人を好きになるのは、どこが好きとか、なぜ好きというより、直観的に「この人が好きだ」と恋に落ちてしまうことが実は多いのではないだろうかとも思ってしまいます。
 神の人間への愛も、このような「根拠のない愛」ではないかと思われます。自分が何か立派な働きをしたからとか、信仰が深いから愛するというのではなく、ただそこにいるあなたが愛おしい、という愛なのです。
 これはまじめな人にとっては面白くない愛かも知れません。「善人にも悪人にも雨を降らせる」神、「放蕩息子」の帰還をまじめな兄よりも還元して祝う父……でも、仕方がありません。神の愛は成果主義や実力主義ではないのです。ただそこにあなたがいる、だから愛おしい。それが神の愛です。   
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 「イエスとの出会い直し」
聖書:使徒行伝9章1〜9節(サウロの宗教体験)
2011年7月10日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 サウロが初めてイエスと出会ったのは、使徒行伝に書かれているように、ダマスコに向かう途中の旅路においてであったと言われています。しかし、この出来事の史実性は低く、実際にはサウロの心の中の死と再生の体験であったと言う説があります。
 サウロが必死になってイエス派のユダヤ人たちを迫害したには、それなりに生い立ちに関連した理由があると思われます。しかし、度重なる迫害によって、彼は後味の悪い思いを積み重ねて行ったでしょう。そして自分のやっていることが本当に神の前に正しいのか、疑問を持たざるを得なかったのではないでしょうか。そして、ついに彼は自分の心のバランスを失って、ある種の宗教体験をすることになります。
 しかし、それは光と音の体験ではなく、イエスの十字架を共に我を殺すという、根源的な体験であったのです。   
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 「真理の囚人」
聖書:ヨハネによる福音書8章31〜32節(真理はあなたたちを自由にする)
2011年6月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 同志社の創立者新島襄は、「耶蘇の奴隷」と人から呼ばれ、自らも「真理の囚人」と称しました。そして「真理の囚人こそ真の自由人なり」と言いました。「真理の囚人」が「真の自由人」とは、どういうことなのでしょうか?
 わたしたちはヨハネ8:31−32の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉を聞きなれてはいますが、そのとき与えられる自由とはどんな自由なのでしょうか? 
 わたしたちが普段、自由だと思っていることを再考し、検証しながら、本当の自由人になるためにはどうすればよいのかを、一緒に考えて見ましょう。   
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 「自由と暴力」
聖書:マルコによる福音書11章15〜19節(神殿から商人を追い出す)
2011年6月21日(火)同志社大学今出川校地火曜チャペルアワー(クラーク・チャペル)奨励
 イエスは危険な男です。多くの人が優しく、いつでも笑っているようなイエス像を思い浮かべるのに反して、このテクストに書いてあるのは、イエスのよる暴力沙汰です。
 かつて、非暴力的抵抗と暴力による抵抗という、2つの対照的な道をたどった2人の牧師tがいました。
 一人はキング牧師。彼は、どんなに暴力を振るわれても、絶対に自分たちからは暴力を使わないという壮絶な闘いによって、黒人の公民権を勝ち取りました。
 一方、ボンヘッファーはヒトラーの暴虐を止めるために、暗殺計画に加わります。「敵を愛せ」「殺してはならない」そのような聖書の言葉は十分知り尽くしている牧師が、それでも暗殺に加わることを決断しました。
 自由を求める時、自分が暴力を振るわなかったとしても、必ず暴力を受けます。自由を主張するには、暴力を受ける覚悟がいるのです。みなさんは、それでも自由を求めることができるでしょうか?   
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 「いいかげんな教え」
聖書:使徒言行録2章1〜13節(聖霊が下って各国語を語る)
2011年6月12日(日)日本キリスト教団飯塚教会主日礼拝説教
 ペンテコステです。おめでとうございます。ペンテコステは大変不思議な物語ですが、実は旧約聖書の伝統にのっとって意図的にバラバラにされた言語に、今度はそれぞれの言語で神の福音が広められる……それは神の罰としての言語の壁を、神の恵みが乗り越えるという画期的な転換と言えるでしょう。
 この「何語であっても構わない」というスタンスは、たとえばイスラームの方々が見ると、「なんといういいかげんな教えだ!」ということになるでしょう。イスラームではアラビア語のクルアーン以外にはクルアーンはありえないからです。翻訳はいくら出されても構わないのですが、どれも解釈書でしかありません。
 しかしキリスト教ではそうなっていません。世界中のあらゆる言語に訳そうという運動が非常に熱心に勧められています。このような宗教の信者なのですから、わたしたちは互いの読み方、解釈の仕方について、絶対に否定しない事に心がけないといけません。加えて他者からよく学ぶ姿勢も必要でしょう。   
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 「土の器にある宝」
聖書:コリント人への第二の手紙4章7〜11節(為ん方尽くれども望みを失わず)
2011年5月22日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 わたしたちは時折、「もうだめだ。自分の力ではどうしようもない」という絶望状態に陥る時があります。また、そういうことはあまり人には話さないものですので、人知れず苦悩を抱えている人は案外たくさんいるものと思われます。
 しかし、どん底の深みに陥った時に、ふと自分のものではない力が底のさらに底からわき上がってくることがあります。それはわたしたち自身の力ではないのですが、すでにあらかじめわたしたちに与えられていたものです。
 どん底の行き詰まりの中で湧き出てくる力を、パウロは「宝」と呼びました。そしてその宝は「土の器」の中に秘められています。それは畑の中に隠された宝であり(マタイ)、人間という「神の宮」に収められた神の霊でもあるのです。この力を信じて、わたしたちは困難に立ち向かって生きてゆくことができます。   
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 「理由などいらない」
聖書:ヨハネによる福音書9章1〜5節(目が見えない人に罪があるか)
2011年4月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 大きな災害や疫病が人間を襲う時、また一人ひとりの人生に暴力や病気や死が襲う時、わたしたちはすぐに理由を求めたがります。そして、「天罰」という考えが人の心を蝕んでゆきます。
 生まれつき目の見えない人と出会ったとき、弟子たちはその障がいが誰の罪のせいなのかを問いました。しかしイエスは、その人の障がいは誰の罪の故でもない、すなわち、天罰など無いと言い切っています。そして、それは神の業が現れるためである、とはっきり言いました。
 これはどういう意味なのでしょうか。また、神の業というのはどんな内容で、誰が現実にすることになるのでしょうか。ご一緒に考えてまいりましょう。     
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 「初夢」
聖書:マタイによる福音書7章7〜8節(求めなさい)
2011年1月6日(木)日本キリスト教団香里ヶ丘教会新年祈祷会奨励
 今回のお話は、奨励というよりは、昨年までの振り返りと新年の抱負のような話です。
 昨年、2010年で私は、現在の職場に赴任して以来抱いていた3つの夢を実現しました。そして、今年は新しい夢に向かって努力しようとしています。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる」という御言葉は確かであるということは、これまでの自分の人生で確信しました。これからもこれを信じて、進んでまいりたいと思います。     
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