message digest 2012

礼拝説教ダイジェスト:2012年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージ・リスト】……要旨


 「終わりの時が来る」
聖書:マルコによる福音書9章38−40節(逆らわない者は味方)
2012年12月2日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会アドヴェント第1主日礼拝宣教
 「世の終わり」ということを現実的に感じる時代になりました。新しい政権は発足したばかりですが、現段階で、徴兵制、原子力発電所、労働問題……日本の終わり、あるいは世界の終わりをも近づけるような懸念が私にはリアルに感じられます。
 政治家、財界人は弱者が自ら進んで、喜んで原発労働者や兵役に志願するようになる巧妙な仕組みを作ろうとしています。しかし、それは国の未来そのものである若い人たちを現在の年寄りのために食いつぶすような政策です。今、富をむさぼっている人々は、本当は国の未来などどうでもよいのです。
 世の終わりというものをリアルに感じたヨハネの予言は外れました。しかし、彼を支えた信仰は他人事ではありません。危機の時代にヨハネがなお信じようとした未来を私たちがまた信じることが、私たちがこれからの時代を変えてゆくために、少しでも神の支配に近づけてゆくために、必要なのではないでしょうか。     
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 「相通じる祈りの心」
聖書:マルコによる福音書9章38−40節(逆らわない者は味方)
2012年12月2日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会アドヴェント第1主日礼拝宣教
 アドヴェント第1週が始まりました。しかし、まだ秋の名残があり、京都などでは紅葉を鑑賞に多くの観光客が寺社に集まっています。
 私は神社仏閣を訪れるのが好きです。もちろんキリスト教の伝統ある建物を訪問するのも好きですが、日本ではどうしても伝統ある宗教的な建築というと、神社やお寺ということになります。
 神社やお寺を訪問すると、深夜や早朝といった人のいない静かな時間に、おそらく日課にしておられるのであろう、真摯な祈りをささげている人の姿を観ることがあります。そういう姿を見ると、私はキリスト教だけが正しいのではなく、それぞれに人の祈りは尊いのだと感じさせられます。
 そもそもクリスマスそのものが、元々はキリスト教とは違うものをキリスト教の中に取り入れて、行われるようになった行事です。しかし、日本では特にプロテスタントが日本の宗教を裁き捨てました。その結果、日本人の間にキリスト教に対する尊敬と軽蔑の混じった視線を生んだに終わりました。
 私たちは、もう一度、日本人の宗教心、信仰心に対する経緯と融和を考えるべきではないでしょうか。  
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 「友なき者の友となりて」
聖書:ルカによる福音書19章1−10節(徴税人ザアカイ)
2012年11月25日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ザアカイという徴税人がエリコの街に住んでいました。徴税人は、異邦人であり異教徒であるローマ人に収める税を取り立てる仕事で、ユダヤ人の間では穢れた異邦人の利益のために働く裏切り者で罪人でした。イエスはこの徴税人が町中の人に嫌われ、孤立しているのを見つけ、すぐに「あなたの家に宿を取りたい」と言いました。このためにイエスは罪びとの家の客になるという悪い風評にさらされることになります。
 イエスの行いは、大多数の人に忌み嫌われても、孤立している少数派の味方になろうとするものです。それは社会の中の大多数の人に、イエス自身が嫌われることも覚悟しての行いでした。このような愛を、私たちは必要とするときがあります。どんなに罪深くても、明らかに自分が悪いことをしているときでも、一方的に味方になってくれる人が必要なのです。イエスはそれを引き受けてくださったのでした。
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 「古代人の癒し」
聖書:マルコによる福音書1章40−45節(重い皮膚病の人を癒す)
2012年10月14日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 聖書にある「重い皮膚病」という言葉は、もともとヘブライ語の「ツァラアト」という言葉です。これは現在の私たちの言う何という病気かはわかりません。しかし、これをギリシア語で書かれた新約聖書では「レプロス」と表記されてしまいました。このため長い間、この箇所は「らい病」と日本語では表記されてきました。しかし2000年前後に訂正が行われ、現在では「重い皮膚病」となっています。
 イエスの癒しの特筆すべき点は、彼が、この皮膚病が確かに「穢れ」であると認識しながらも、それにひるまず、最初から穢れに対して勝っている者であるかのように、このツァラアトの患者に「触れた」ということです。彼は自分には穢れはうつらないと考えていたか、あるいは穢れてもかまわないという姿勢で挑んだのでした。
 このようなイエスの行動は、2つの明らかに異なる人々の反応を引き出すことになります。  
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 「自分は救えない」
聖書:マルコによる福音書15章29−32節(自分は救えない)
2012年9月23日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスが十字架にかかって処刑されるとき、群集はイエスに対して、「他人は救ったのに、自分は救えない」と嘲りの言葉を浴びせました。しかし、本当は人間は自分のことを自分では救えない生き物なのではないでしょうか。つまり、イエスが自分を救えないでいるのは、まさにイエスが人間であった証拠であるとは言えないでしょうか。イエスは徹頭徹尾、人間として苦しみや哀しみを味わい尽くして命を落としていったわけです。そこには輝かしい栄光も何もありません。しかし、だからこそイエスならわたしの苦悩や痛みをわかてくれるだろうと私たちは思うことができるのではないでしょうか。
 自分で自分のことを私たちは救えません。しかし、それでよいのではないでしょうか。自分は救えなくても、他者のためにできることはあります。人はお互いに他者のために何かをなし、自分も他者に何かをしてもらって生きるものではないでしょうか。自分のことひとつ満足にできないで……と言う人もいます。しかし気にすることはありません。人間とはそういうものなのです。
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 「重荷を下ろそう」
聖書:マタイによる福音書11章28−30節(重荷を負っている人は私のところに来なさい。休ませてあげよう)
2012年8月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 日本は年間3万人近くの人が自殺をするという「自殺大国」です。この背景には「頑張る」ことを美徳とする日本人の心情も関連しているでしょう。しかし、頑張らないと生きていけない世の中、頑張らない人が蔑まれ、経済的利益を上げない者は頑張らなかった者としてあざけられる世の中は、本当に人間にとって生きやすい世の中と言えるでしょうか。
 聖書の中では、「重荷を負う」という言葉はたいていよくない意味で用いられますし、逆に人に対する愛や善意を表す言葉として、「重荷を下ろす」「重荷を負わせない」という表現が用いられます。イエスも「重荷を負う人は来なさい。休ませてあげよう」と言いますし、人に重荷を課す者たちを非難しています。
 私たちの教会は、果たして、イエスの言葉を実践する者として、人の重荷を下ろしてもらう場所になっているでしょうか? それともイエスが非難したような、人に重荷を課し、もともとあった重荷をさらに増し加えるようなことはしていないでしょうか?     
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 「まっすぐに見る」
聖書:マルコによる福音書1章16−20節(4人の漁師を弟子にする)
2012年7月22日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスが最初の弟子として4人の漁師に声をかけたとき、彼は4人の漁師たちを「まっすぐに見た」と原語では書いてあります。
 イエスの弟子たちはこの漁師たちをはじめ、いずれも世の中で虐げられていたり、気味悪がられたり、忌み嫌われていた人たちでした。誰もがこの世で「何者でもない者」、誰にも省みられない者でした。しかしイエスは、そのような人々を「まっすぐに見る」ことで、一人のかけがえのない人間としての存在に気づかせ、目を開かせたのでしょう。そして、「他の人の目も開きに行こうじゃないか」と誘った。それが「人間をとる漁師にしてあげるよ」ということでした。
 私たちも私たちが出会うすべての人に対して、「まっすぐに見る」者でありたいものです。     
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 「あなたは平気でいられますか?」
聖書:ルカによる福音書16章19−31節(金持ちとラザロ)
2012年7月10日(火)近江兄弟社高等学校1年生「平和礼拝」奨励
 金持ちとラザロの物語を読んで、昔のヨーロッパの大金持ちたちは、自分たちが死んだ後、地獄で永遠の火に焼かれるのはいやだなあと思ったのでしょう、たくさんのお金や土地を教会に寄進して、それが今の福祉施設の基になりました。それにくらべて日本はどうでしょうか?
 私たちは今、平和に暮らすことができていると皆さんは思っているかも知れません。でも、私たちが平和に安楽に暮らせている背後で、まるで戦時中にように死と隣りあわせで、また2,3年以内に自分が確実に死ぬとわかっていながら私たちのために戦っている人たちがいます。それは原発労働者の人びとです。
 原発で最も危険な仕事をする人は、一番貧しい日雇い労働者です。そして彼らは大量に被爆して、どんどん死んでゆきます。その死の上に、私たちの世の中のエネルギーが支えられています。そういう状況で、あなたは平気でいられますか?     
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 「敵を友にすることはできるか」
聖書:マタイによる福音書5章43−44節(敵を愛しなさい)
2012年7月1日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 みなさんはこの2012年6月に非核三原則を破る法案が衆議院を通過したのをご存知でしょうか。原子力を「安全保障」のために、すなわち軍事用に使ってもよいという法案が密かに可決されていたのです。国会議員たちの頭にあるのは北朝鮮の脅威でしょう。そして確かに、国際社会の力関係はきれいごとではすみません。
 しかし、私たちは当面は抑止力としての武器兵器を持たざるを得なかったとしても、最終的な世の終わり、すなわち世の完成においては、地上のすべての民が敵であることをやめ、友となるという究極の目標が実現されると思いたい。それがあと何百年、何千年かかっても、日々の地道な努力をやめてはならないのです。     
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 「ホスピタリティのはじまり」
聖書:マタイによる福音書25章31−40節(最も小さな一人にしたこと)
2012年6月24日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 教会が何かもっと世の中の役に立つことはできないかと思う人びとと、教会は社会活動ではなくもっと伝道に力を入れなくてはならないと思っている人びとがいます。しかし、伝道か社会かという二分法は、あまり現実的ではありません。私たち自身が社会に生きている限り、社会と教会とは互いに影響を与え合うものです。
 私は、多神教的な日本の風土での伝道において、古代ローマの状況がよく参考になるのではないかと思い始めています。キリスト教は最初は迫害される小さな新興宗教の運動に過ぎませんでしたが、なんだかんだ言って、300年ほどかけてローマ帝国の国教になってしまいました。その根底にあるのは、キリスト教がそこまで力を持ちえたのは、キリスト者たちが地道にイエスの「ディアコニア」の運動を受け継いで実践し「ホスペス」という施設を運営するようになり、社会には必要不可欠な福祉を提供するようになったからだ、という説があります。
 この「ホスペス」の働きを2000年間積み上げてきたヨーロッパと日本の違いは歴然としています。しかし、私たちはその歴史を受け継いでいるのですから、その流れに参加することは大変妥当なことではないかと思います。     
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 「泣く人と共に泣く」
聖書:ローマの信徒への手紙12章15節(喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く)
2012年5月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 去る2012年3月25日〜30日、東北の大震災の被災地に訪問してきました。1年も経ってしまっていまさら……などと思っていたのですが、報道で見聞きする様子とは違い、現地の復興はまだまだ、というより、むしろ本当の苦しみがこれから深刻になってゆくという予感さえしました。
 被災した方のお話を聴くには慎重さが必要なのですが、私たちは当時の様子を語ってもいいという方を紹介してもらい、お話を直接伺うことができました。それは涙なくしては聴くことのできないものでした。
 何か特別なことが私たちにできるというわけではないのですが、まずは「泣く人といっしょに泣く」という感情の共有がすべての出発点ではないかと思いました。理性的でばかりはいられません。やはり笑いや涙を共有しなければ、何も始まらないというのも真実ではないでしょうか。     
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 「わたしたちの復活、わたしたちのガリラヤ」
聖書:マルコによる福音書16章1〜8節(復活する)
2012年4月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会復活節第2主日礼拝説き明かし
 マルコによる福音書のみならず、すべての福音書の復活物語は、それぞれ独自の物語世界を保持しています。それぞれの復活物語が私たちに訴えかけようとしているものは、それぞれに違うのです。
 殊にマルコによる福音書の復活物語は、復活したイエスの姿を描かず、「ガリラヤに行けばイエスに会える」というメッセージを残して終わっています。ガリラヤに行きなさい、そうすればイエスを見ることができるということです。では、ガリラヤとはどういう場所でしょうか?
 ガリラヤはイエスが親しく近づき、特に愛した貧しい人びと、病を負った人びと、差別される人びとが住んでいる辺境の地です。大地主やローマ帝国にこってり絞り上げられる二重の税に、多くの人が苦しんでいた、搾取される被差別地域でした。そこでないとイエスには会えないよ、ということをマルコは述べているのです。
 では、わたしたちの生きているこの現代においてガリラヤとはどういうところなのでしょうか?     
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 「十字架を見た人びと」
聖書:マルコによる福音書15章33〜41節(イエスの死)
2012年3月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会受難節第4主日礼拝説き明かし
 イエスの受難の物語は実際に起こった出来事を報告しているのではありません。そのほとんどは教会の典礼の中で使われたプログラムなのであり、おそらく確かなのはイエスはたった一人で十字架にかけられて死んだ、ということだけでしょう。
 男性の弟子たちは全員逃亡し、女性の弟子たちだけが追及を逃れ、イエスの十字架を目の当たりにすることができました。そして、その死のありさまを男性の弟子たちに伝えたのでしょう。
 たった一人で自分たちの愛する先生を、自分たちの身代わりに死なせてしまった弟子たちの自責の念はいかばかりだったでしょうか。そうやって救われた自分の命を弟子たちは何に使おうとしたのでしょうか。そして、私たちは自分の命をどのように使えばよいのでしょうか。。     
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 「ユダの復権」
聖書:マルコによる福音書14章17〜21節(裏切り者の出現を予言する)
2012年2月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会受難節第1主日礼拝説き明かし
 受難節に入りました。この季節になると私はユダという人物について思いをはせずにはおれません。通常は裏切り者として片付けられているような人物です。
 しかし、古今の文学作品ではユダは無視できない魅力的な人物として描かれることが多いですし、『ユダの福音書』という初期キリスト教文書も発見され、ユダの位置づけも一度根本的に考え直してもよいのではないかと思います。
 ユダという人物の取り扱い方は不当かもしれません。それは、イエスの死後、ペテロを中心に発展していったエルサレムの教会によって、意図的に貶められていった可能性があるからです。私たちはユダのようなスケープゴートを作ってはいけない。この聖書の箇所は反面教師として読むべきなのかも知れません。     
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 「心を高く上げよう」
聖書:ヘブライ人への手紙12章4〜7節(罪と戦って血を流す)
2012年2月19日(日)日本キリスト教団近江金田教会特別伝道礼拝説教
 「心を高く上げよう」というのは元来はラテン語の祈り「SURSUM CORDA」です。私はこの言葉に、長崎の26聖人殉教地で衝撃的に出会いました。死に場所に向かって歩かされるキリシタンたちは、どのような思いで「心を高くあげよう」と祈ったのでしょうか。
 私たちはみな死にます。死が近づいてくると、自分が本当に何をしなければならないのかが純粋に見えてきます。
 何をするのがいちばん尊いことで、何がいちばん意味のあることであり、残った人に与えることができるのでしょうか。
 それを今回、じっくり考えてみたいと思います。     
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 「大群衆を満腹させた男」コンポーザーズ・カット
聖書:マルコによる福音書6章30〜44節(5000人が満腹になる)
2012年1月22日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし原版
 下の「大群衆を満腹させた男」の初版です。長すぎるので約半分の長さにカットして実際の礼拝ではお話しました。最初に書いたのはこちらの原稿です。
 教会での実施版の内容に加えて、マルコ福音書における「弟子の無理解」のテーマや、紀元後70年のエルサレム陥落という社会的状況も踏まえたお話になっています。
 長い説き明かしですが、お時間のある方はどうぞお読みください。     
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 「大群衆を満腹させた男」
聖書:マルコによる福音書6章30〜44節(5000人が満腹になる)
2012年1月22日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 男性だけで5000人の大群衆を満腹にさせた奇跡物語は、すべての福音書に収められている大切な物語です。しかし、これは事実を記録したものではありません。そうではなく、物語の中の場所や数字が解釈のための重要な手がかりとなります。
 この物語の背景にあるのは、初代教会において早くも分裂してしまった「ヘブル語
を話すユダヤ人」信徒と、「ギリシア語を話すユダヤ人」信徒の間に生じた対立です。
 しかし、パウロはこの2つの群れが、本当は「ひとつの命のパン」であるイエスによって養われた者どうしではないか、と呼びかけます。
 どのような立場であろうとも、さまざまな信仰の形があったとしても、教会はイエスという命をパンをいただいている限り、「ひとつ」なのです。     
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 「友なるイエス」
聖書:ヨハネによる福音書15章14〜15節(あなたがたはわたしの友である)
2012年1月6日(金)日本キリスト教団香里ヶ丘教会新年祈祷会奨励
 私見ですが、日本キリスト教団の教会の多く、特に都会の中規模以上の教会は、知的ではありますが気難しいムードの漂う教会が多いように感じます。また、牧師やベテランの信徒の中には非常に論争好きな人がおられます。カトリックや聖公会の教会の信徒の交わりの中で、プロテスタント主流派のような気難しい神学議論や信仰理解についてのディスカッションを見たことがありません。
 私はこれからの教会において、必要とされるのは、「ホッとできる場所」「信頼できる友を発見できる場所」ではないかと思います。「こうでなければならない」という思い込みに偏らず、「あれも、これも、やらなければならない」と力むのではなく、「みんな違って、みんないい」「できないことはやめておこう」でいいのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書によれば、イエスは私たちを友と呼んでくださいました。頼れる兄貴のような友です。イエスという友と連座して、新たな友を作りましょうと地域に呼びかける協会でありたいものですね。     
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