message digest 2013

礼拝説教ダイジェスト:2013年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】
「神さまのサプライズ   
聖書:ルカによる福音書2章1-7節(イエスの誕生)
2013年12月22日(日)日本キリスト教団徳島北教会クリスマス主日礼拝説き明かし
 イエスの誕生は、「用意のできた人」の所に起こったのではありません。「用意のできていない場所」に、「用意のできていない人の所」に救い主が誕生したという物語です。いわば、イエスの誕生が神さまのプレゼントだったとすれば、そのプレゼントはサプライズのプレゼントだったのです。
 神から与えられる希望は、思いもかけない場所に用意されているということ。また、それはすでに与えられていて、私たち自身がただ気づいていないだけなのかもしれないということ。そのことを、この物語は告げているのではないかと思われます。
 私たちは闇夜のような世の中にあっても、ひょっとしたら自分が見落としている場所、まったく期待していないところに、神さまがサプライズのプレゼントが隠されているかもしれません。そういう思いで、少し私たちは楽観的になってもいいのかもしれません。


「食う寝る所に住む所   
聖書:マタイによる福音書7章12節(人にしてもらいたいことを人にしなさい)
2013年11月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「人にしてもらいたいことを人にしなさい」というイエスの教えは、ユダヤの格言である「人にしてもらいたくないことを人にするな」をもじったものであると言われています。「人にしてもらいたくないことを人にしない」というのは簡単です。何もしないのが無難だということになるからです。しかし、「人にしてもらいたいことを人にする」には困難さがつきまといます。なぜなら、自分がしてほしいことを、相手が望んでいるかどうかわからないからです。
 しかし、私たちが福音書を読むとき、イエスがどんな行いで人に接していたのかというと、それは食べるものを提供したり、病気を癒したり、孤独を埋めてあげたりといったことに集中していることに気が付きます。つまり、人間として最低これだけは必要だというものが欠けている人に、それを補ってあげていたわけです。
 ですから、あまり難しく考えなくてもいいかもしれない。食べるもの、飲むものを共有し、一人ぼっちにはしないということ。それだけでじゅうぶん。それ以上のことは贅沢なのかもしれません。


「イエスと農   
聖書:マタイによる福音書20章1−16節(ぶどう園の労働者)
2013年11月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは洗礼者ヨハネの弟子になる前、何を生業として生きていたのでしょうか。大工とは伝えられていますが、大工の仕事の合間に兄弟たちの農業を手伝ったいただろうという学者もいます。だとすれば、イエスが農業関係のたとえ話をよくしたのもうなずけます。彼は農園での肉体労働を体験しており、同じ農園で働く人びとにリアリティをもって話しかけることができたのでしょう。
 農業というのは、人の口に入るもの、人の命を養うものを作り出す業です。そして、食べるという行為は人間の営みの基本中の基本です。どんなにお金持ちでも、どんなに貧乏な人でも、腹
一杯になるのに必要な食糧の量は大差がありません。今日のたとえ話の中での1デナリオンというのは、そのような人間の一日の食べる量の目安のしての金額でしょう。せめてそれくらいは、働こうが働くまいが、もらえてもいいだろう。それが神の国ってものだろう、とイエスは言いたかったのではないでしょうか。

「仮説:日本人は実態としては一神教的である   
聖書:マタイによる福音書28章16−20節(全ての民を弟子にせよ)
2013年10月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「日本人は多神教だから寛容だ。西洋人は一神教だから頑固なんだ」と言う人がたくさんいます。一応社会科を教えている先生でもそういう風に思い込んでいます。しかし、日本人は本当に寛容でしょうか? 日本人の社会は、多様性を認めているでしょうか? 日本人の間には非常に強い同調圧力が働いているのではないでしょうか?
 日本人は実態としては非常に一神教的な特徴を示しています。それは明治時代に近代天皇制によって培われたものでしょう。古来からの神道と違って、明治期の近代天皇制は、実は西洋におけるキリスト教的な要素に強く影響を受けていると言われます。だとすれば、日本の国家主義が一神教的なのは当たり前です。
 その根底にあるのは、「日本人であること」にアイデンティティを持つ、いわば「日本教」のようなものであり、それで日本人の実存的なニーズは満たされているのであり、それをキリスト教に置き換えるのは非常に困難であると言わざるを得ないのではないでしょうか。


「ステファノという男   
聖書:使徒言行録7章54節−8章3節(ステファノの殉教)
2013年10月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ステファノという人物は、ひょっとしたら私たちのキリスト教信仰、少なくともパウロの理解したキリスト教の理解の原点に存在する人ではないかと思います。
 ルカが描くステファノの殉教の姿には、イエスの十字架の死が二重写しにされています。そして、彼の死に様は、その時代の初代教会の人々が、パウロのような迫害者に襲われて命を落とす時に示した姿、すなわち、敵である迫害者のために祈りをささげながら死んでいった姿をも代表しています。
 つまり、イエスを信じて生きるとは、その死に際しても、敵のために祈りながら死ぬことであり、それがイエスに倣い、イエスに続いて死ぬことだと理解されていたということです。
 そして、パウロは自分が迫害するキリスト者たちが、このように自分のために祈りながら死んでゆくのを見続けているうちに、精神の崩壊を体験したのであろうと思われます。そして、彼はその精神の崩壊を経験して回心し、自らキリスト者に改宗しました。
 おそらくパウロは使徒言行録の著者ルカに、「私の原点にあるのは、ステファノなのだ」と語ったのではないでしょうか。だから、ルカはパウロの最初の登場の場面をステファノの殉教の場面においたのではないかと思われますが、いかがでしょうか。


「平和は骨が折れるもの   
聖書:ローマの信徒への手紙14章17−19節(義と平和と喜び)
2013年9月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 パウロは「義と平和と喜び」と語っています。私はこの順番で、「義(正義)」があってこその真の「平和」であり、真の「平和」であってこそ「喜び」が生まれるものなのだと言っているように受け取るのがよいのではないかと思います。
 ここで言う「平和」とは「平穏」とは違います。表面上平和に見えるのは、「平穏無事」でしかありません。たとえば、自分が、あるいは誰かが、「自分さえ我慢すればそれでことを荒立てずに済むのだから……」と泣き寝入りしているのなら、それは「平穏」ではあるかもしれませんが、真の「平和」ではありません。
 「平和」をもたらすためには、義、すなわち、正義が必要なのです。誰もが泣き寝入りしないように、みんなの意見をぶつけ合って、多様な意見があることを認め合い、誰もが命も尊厳も冒されることなく、否定もされることもない共存を作り上げなくては、真の平和とは言えません。そうでなければ、平穏ではあっても、喜びは訪れないのです。
 平和を作り出すのは非常に骨が折れることですが、私たちはどんなに時間がかかっても、平和を作るための対話を続けてゆかなくてはいけないのかもしれません。


「ただ空があるだけ   
聖書:ヨハネの黙示録21章1-4節(新しい天と地)
2013年9月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「天国」という言葉を死後の世界のことのように教えている教会が増えているようです。しかし、聖書における「天の国」、「神の国」、「楽園」とは、「行く」ところではなく、「来る」ものであると描かれています。それはあの世のことではなく、この世に到来するものであるとされているのです。聖書の中には、死後の世界としての天国についてはほとんど書かれていません。
 教会で天国について教えられる場合、ほとんどの場合が、「天国に入れるか、入れないか」という文脈でであろうと思われます。「洗礼を受けなくては天国には行けない」と簡単に言われます。しかし、どうして、死後の世界まで差別と分断を作らなくてはいけないのでしょうか? 
 地上の世界であれ、死後の世界であれ、国境線をわざわざ引くのはもうやめにしてもよいのではないでしょうか。天国などない、ただ空があるだけ。国境もない、ただ地球があるだけ。それでよいのではないでしょうか。


「狭き門とはどのような形をしているのだろう   
聖書:マタイによる福音書7章13-14節(狭い門)
2013年8月25日(日)日本キリスト教団千里聖愛教会主日礼拝説教
 確かに聖書には「狭い門から入りなさい」と書いてあります。それでクリスチャンは、ついつい、クリスチャンらしくあるためには、何か難しい関門をくぐらないといけないのではないかと思って、いろいろな教会で、いろいろな戒めを作って、人間を縛り付けてしまうのです。
 しかし、そうすることは実は「広い門」ではないかと思うのです。クリスチャンであるために、何か不自由な条件を与えるというのは、クリスチャンでなくても、誰でも考えそうなことです。だから、それは多くの人が通る道なのです。
 そうではなく、人間から一切の束縛を取り払ったらどうでしょうか。私も、あなたも、あの人も、ありのままの人間性を認めて、自由に生きてみたらどうでしょうか。どんな過去を持つ人も、どんな個性や生き方をしている人も、ありのままに受け入れることができるでしょうか……。


「クリスチャンは政治とどう関わるか   
聖書:マルコによる福音書12章13-17節(皇帝への税金)
2013年8月11日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「皇帝への税金は律法に適っているか、適っていないか」というイエスに対する質問の場面は、イエスは政治に対してどのようなスタンスをとっていたのかを知る箇所のひとつです。
 イエスは「皇帝への税金(人頭税)」を一見否定していません。ローマに対して、反抗しようとか抵抗運動をしようという姿勢を示してはいません。
 しかし、そのあとに「神のものは神に返せ」と言っています。これは、「神のために捧げるもの」だと言いながら集めた神殿税を私腹を肥やすために使っている神殿貴族の祭司長たちに対する痛烈な皮肉であったと考えられます。「お前たちはローマへの神殿を現実にいまおさめているわけだ。それなら、神のものを返すと言っている神殿税を、本来の神の目的のために使ったらどうか」と言っているわけです。
 イエスは政治的な運動を志したわけではありませんが、ガリラヤの貧しく、虐げられ、見下げられた人びとの生活を圧迫しているのは、神に一番近いと自称している祭司長たちではないかという義憤からエルサレムにやってきた考えられます。そういう意味では、正確には政治運動ではありませんが、しかし、政治家たちには政治運動に見え、非常に危険な動きに見えたことでしょう。
 私たちはこのイエスの言動から、自分たちがどのようにこの世の状況に対して関わってゆくべきなのか。それをひと時考えてみたいと思います。


「人は生まれながらに罪深いか   
聖書:ローマの信徒への手紙5章12-14節(アダムとキリスト)
2013年7月28日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「原罪」という教義のもとになっているのが、本日の聖書の箇所です。そして、このパウロの手紙をもとに、アウグスティヌスが原罪の教義を確立しました。
 しかし、私はこれらの人々の罪の概念が抽象的であることが問題だと思います。私たちはこのような古代人の抽象的な罪があたかも実在するかのような考え方をもう捨てるべきではないかと思います。なぜなら、宗教的な罪意識が深い人が、現実の社会生活や人間関係の中で、人を傷つけたり、踏みにじったりすることにあまりにも鈍感であったり、あるいはそれとは全く逆に、大して悪いこともしていない人が、必要以上に自責の念にかられて鬱状態から抜け出せなかったりといったケースもあります。
 私たちは、この抽象的な「原罪」意識を捨てて、個別具体的に、人を傷つけているのか、人の尊厳を貶めているのか、人の権利を奪っているのかということを、問題にしてゆくしかないのではないでしょうか。


「キリスト教は『普通』です   
聖書:ローマの信徒への手紙1章13-15節(ローマへの志)
2013年7月14日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 キリスト教は「普通」です。と言っても、ここでの「普通」は「普通列車」の「普通」です。一般的に、普通列車は各駅停車の意味でつかわれることが多いです。
 普通列車は停まる駅を選びません。どの駅でも停まって、すべての人を乗せてゆきます。これに対して、急行列車や特急列車は停まる駅を選びます。それも、人がたくさん乗り降りする都心部や観光地に停まります。
 なぜこんな話をするのかと言いますと、初期のキリスト教は、都心部を中心に伝道され、広まったからです。その立役者パウロは、都市から都市へと特急列車のように幹線道路を使って移動しながら、同じどころに長期間とどまらず、伝道して回ったからです。
 これに対して、イエスは各駅停車の人生でした。ガリラヤ湖の周辺の村や町を順番に訪ねて回り、出会う人、出会う人に声をかけて、一人ずつ癒し、諭してゆきました。このようなイエスの宣教のわざに学ぶことはなんでしょうか。


「どうぞ誰でもおいでください   
聖書:ルカによる福音書5章27−30節(レビを弟子にする)
2013年6月30日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 徴税人レビという人物は、現在の日本においてはどういう位置づけの存在でしょうか。それは、たとえば、海兵隊の暴力や性犯罪に恐れ、悩まされている基地の街で、その海兵隊の基地のための経費を集めて回っている日本人のようなものです。面白い仕事であるはずがありませんし、人から面白く思われるはずもありません。
 そのような嫌われ者のレビが自宅にイエスを招き、イエスはレビや他の罪人と呼ばれていた人びとと一緒に宴会をした、というお話です。
 ユダヤ人、特にファリサイ派の人びとは、誰と食事をするか、また誰と食事をするべきではないかということに、実に潔癖であったと言われます。彼らから見れば、イエスの行いは、言語道断、神に対する反逆と言ってもよいほどです。
 しかし、イエスは断固たる決意をもって、罪人と呼ばれた人びととの食事を続けました。それは、これまで神に愛されたことなどない人に神の愛を、また罪深いとされた人に赦しを告げ知らせるためでした。そして、この断固たる慣習破りの食事が、のちの教会の基になっていったのです。
 私たちは、私たちの交わりに誰をもえり好みしてはなりません。私たちは「誰でも受け入れる者の群れ」となってこそ、「イエスと共にある教会」と言えるのです。


「天罰なんか、ありません   
聖書:創世記6章5−8節(洪水)
2013年6月9日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 礼拝の中で聖書を批判するというのは、非常に抵抗があるわけですが、批判しなければならない箇所というのは、あります。それが本日の箇所、ノアの箱舟と洪水の物語です。
 このお話をしようと思ったきっかけは、ある方からのメールです。その方は、韓国のメディアが「日本に落ちた原爆は、人間の手を借りた神の懲罰だ」というコメントを流したことに憤り、「お前はどう思うのか」と問いかけてこられたのです。
 私が考えるには、天罰というものは、この世にはありません。なぜ、あの人が被害にあい、私は生き残ったのか、選びということはありません。選ばれた者という考え方は、選ばれなかった者がいるという考え方と表裏一体です。選びということを主張するのは、裁きと表裏一体なのです。
 もし本当に神がいらっしゃるとしたら、神はこの世の何事にも物理的な物理的な力を及ぼさない方でしょう。では、その無力な神はいったいどこにおられるのでしょうか? また、何のためにおられるのでしょうか? 一緒に考えてみましょう。


「隔ての壁を超える者たち   
聖書:使徒言行録2章1−13節(聖霊が降る)
2013年5月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 よく知られているペンテコステの出来事です。教会の誕生日とも言われています。
 この物語は、エルサレムから始まって、東西南北あらゆる地域、当時考えられていた全世界に福音が広がってゆくのだという宣言です。
 しかし、あらゆる民族のあらゆる言語に訳されて広がってゆくということは、翻訳によって意味が多少置き換わったり、解釈が入ったりする余地を残しているということになります。キリスト教は「言語の宗教」とよく言われますが、それは「翻訳を許す言葉の宗教」であり、このあたりは、アラビア語に非常にこだわりを持つイスラームとは大きな違いがあります。
 日本語一つとっても、これまでさまざまな翻訳が作られ、訳者たちはどのような日本語で福音を伝えるか、非常に苦労してきました。その結果、さまざまな解釈が残されることになりました。その解釈の幅を「豊かさ」ととらえるか、リスクととらえるかは意見の分かれるところでしょうが、キリスト教はその始まりから翻訳の宗教であったのですから、基本的には解釈の多様性については、寛容な姿勢を持つはずなわけです。


「見えなくてもそこにいる   
聖書:ルカによる福音書24章13−35節(エマオで現れる)
2013年5月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イースターとペンテコステの間に位置するこの主日に、エマオ途上でイエスが現れた物語をひもときましょう。
 これは不思議な話です。2人の弟子がそばを歩いている旅人がイエスだと気づかず、夕食の食卓で旅人がパンを裂いたときに、イエスだとわかったが、その瞬間見えなくなった、という奇妙な物語です。
 しかし、この物語は、私たちが主の晩餐、すなわち聖餐において、どのようにイエスと出会えるのか、また復活したイエスはどこにいるのか、ということを教えてくれる象徴的な物語なのです。
 エルサレムから西へ西へと進んでゆくイエスの福音、それはイエス自身が導くのであり、イエスは種の晩餐を続ける弟子たちのパン裂きの行為の中に存在しているのです。


「この人を見てください -月になろうよ-   
聖書:コリントの信徒の手紙(二)4章1−6節(イエスのために仕える僕)
2013年4月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 パウロは、コリントの信徒への手紙の(二)で、自分のことを評価せず、自分が伝えた福音を曲げてしまっている人びとに対して、まっすぐに、誰から見ても明らかな生き方で、すべての人の良心に自分たちをゆだねようではないか、と呼びかけています。そして、せっかくイエスが覆いを取り去って、律法の本来目指すべきであった神の意志を明らかにしたのに、あなたがたはまた覆いをかけてしまったではないかと批判し、今一度イエスに立ち返って覆いを取り去ろうではないかと言います。
 覆いを取り去られた者は、自ら神の光を反射する鏡のようになります。別のたとえで言えば、神が太陽であり、私たちは月です。月のように、自分からの光ではなく、神からの光を反射して輝き、世の光となれることができたら、どんなに良いでしょうか。


「イエスの復活」   
聖書:マルコによる福音書16章1~8節(空の墓)
2013年4月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスの復活について、どこまでが事実なのでしょうか。当時のユダヤ教の文書では、墓が空っぽであったこと自体は否定されていません。おそらく空の墓を女性の弟子たちが発見したのは本当のことだったのでしょう。そして、彼女たちは「だれにも何も言わなかった」と書かれていますが、これはマルコがエルサレムの12使徒教会を批判するために、「12使徒は何もわかってはいない」という主張を混ぜたためでしょう。
 イエスの墓が空であったという知らせは、イエスの死にどうしても納得がいかなかったイエスの支持者たちに大きな衝撃を与えたに違いありません。やがて、彼らはその衝撃を聖餐式によって伝えてゆくことになります。その過程を私たちもたどってゆきましょう。


「イエスの受難」   
聖書:マルコによる福音書15章33~41節(イエスの死)
2013年3月24日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レントも大詰めです。この機会に、イエスの受難が歴史的にどうであったかということを確認しましょう。
 イエスの受難物語の中で、歴史的事実と思われるところは多くはありません。おそらく最後の晩餐の制定の言葉は、あの通りだったでしょう。また、ゲツセマネで逮捕され、翌朝杭に打ち付けられて殺されたのも事実でしょう。そして、おそらくイエスが最後に「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしを見捨てたのですか?」と嘆いたのも事実だったでしょう。
 そこにあるのは、実に情けない、恥と苦痛と絶望に満ちた一人の人間の無残な死に様です。ここから私たちは何が得られるのでしょうか。何のために私たちは、このレントに教会に集い、何を思うべきなのでしょうか。それを考えてみましょう。


「呼び集められた家族」   
聖書:マルコによる福音書6章1~6節(ナザレでは受け容れられない)
2013年2月24日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスが「預言者が敬われないのは故郷においてのみである」という言葉を残した有名な場面です。
 家族の中で異質な存在、変わった存在は疎ましがられ、厄介者扱いをされます。当人にとってみれば、家族だからこそ理解してもらいたいのですが、家族の者は「家族なんだから迷惑をかけないでくれ」と思っているのです。個性の強い者、変わり者にとって、家族とは実に居心地の悪い場所なのです。家族よりも、最初からある程度距離が取れている他人と一緒にいるほうが、よほど楽なのですね。それと同じことがイエスの場合にも起こったようです。
 イエスにとって血縁の家族は、それほど重要なものではありません。自分のありのままを受け止め、理解し、共に生きてくれる人こそが、本当の家族の名に値するのです。そういう家族をイエスは自分で歩き回って集めました。イエスに呼び集められた者たちがイエスの家族になりました。
 私たちもイエスに呼び出され、その呼びかけに応えたからこそ、ここにいるわけです。互いの違いを認め合い、楽しみ合い、共に生きる神の家族を大切にしましょう。そして、いつでも異質な人を受け容れられるオープンな場にしましょう。


「愚かなほど気前良く」   
聖書:マタイによる福音書5章38~42節(太っ腹のすすめ)
2013年1月27日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出せ」というのはよく知られた聖書の言葉です。
 しかし、ここでまとめられた一連の言葉は、「復讐をするな」という内容から、次第に「欲しがる者や奪おうとする者には与えてやれ。借りたいと言う者には貸してやれ」という内容に変化していっています。つまり、これは「復讐をしない」ということだけに限定されない、「太っ腹で大きく構えろ」という教えのまとまりと読むことができます。
 太っ腹で、自分を痛めつける者にも寛大に接し、自分を利用しようとしたり、自分に何かを要求する者にも、惜しまず与えてやる……それで誰に何が伝わるか、わかるわけではありませんが、それでも誰も気づかないということはないと思うのです。100人のうち3人でも、「何か変なやつだな」と思ってくれたら、それだけでも十分です。そこから何かが伝わる道が開かれます。
 あるいは誰に理解してもらえなくても、神のみが知っているのだと思い、生きてゆくのもキリストの道ではないでしょうか。



「終わりの始まり」   
聖書:マルコによる福音書1章1-15節(イエスの福音の始め)
2013年1月10日(木)日本キリスト教団香里ヶ丘教会新年祈祷会奨励
 新年の集いということで、最初に書かれた福音書の最初の部分をテクストにいたしました。しかし、始まりの箇所であるにも関わらず、この箇所は終末への予感一色に染め上げられております。
 なぜイエスはこの時、世の終わりと神の国の到来を直観したのでしょうか? それはおそらく、自らが育ったガリラヤ地方で困窮にあえぐ民衆を見たからでしょう。そして、その困窮の根源にあるものが、エルサレムの神殿、いやその神殿に巣食っている祭司や律法学者たちの不義だということに気づいたからでしょう。
 しかし、イエスや洗礼者ヨハネ、そしてパウロも自分が生きている間に終末が来ると思っていたにも関わらず、彼らは終末を見ることなく生涯を終えました。それどころか、それから2000年近くたった今も、終末はまだ訪れていません。
 そして、イエスが終末の接近を感じたときの、何倍も何十倍もの残酷さをもって、「世も末」の状況が迫ってきております。

 いま、もしイエスがここに蘇ったら、何を感じ、どんな言葉を吐いたでしょうか。私たちは彼の予感が的中しなかったといって落胆している場合ではありません。彼の覚えた憤り、悲しみを思い起こし、この世に関わっていかなければならないのではないでしょうか。


 




 

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