message digest 2014

礼拝説教ダイジェスト:2014年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
本文をお読みになる場合は、要旨のタイトルの横にある木のボタンをクリックしてください。

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【メッセージの要旨】
「クリスマスの香り」   
聖書:ルカによる福音書2章1−7節(イエスの誕生)
2014年12月28日(日)日本キリスト教団徳島北教会歳末礼拝説き明かし
 「クリスマスの香り」というタイトルをつけましたが、どちらかというと「クリスマスの匂い」という題名にしようか迷っていました。
 というのは、キリストの誕生の場面として描かれているのは、家畜の糞尿にまみれて、自力での分娩であり、決して衛生的でも医療が整っているわけでもなかったというのがここで描かれている状況だからです。
 そして、ここに招かれたのは、ルカの福音書によれば、野宿生活をしていた羊飼いたちです。羊飼いも、動物たちの匂いや野宿生活でしみついた自分たちの体臭から、一般市民からは非常に忌み嫌われていた人たちです。けれども、彼らが救い主が生まれた家畜小屋に入ったら、何の違和感もない、自分たちと同じ匂いがする場所だな、と親近感を感じたのではないかと思います。
 羊飼いたちにとっては、「私たちのところにまず救いが来たのか」ということを、匂いで直感的に感じ、喜んだに違いありません。神が一番最初にご自身の身を投げ出されたのは、そんな生活と糞尿の匂いがプンプンする場所だったということから読み取れることは何でしょうか?


「生きづらい時代に生きる力を」   
聖書:ガラテヤの信徒への手紙2章20節(生きているのはもはや私ではありません)
2014年11月23日(日)日本キリスト教団鶴川教会主日礼拝説教
 生きづらい時代になりました。しかし、放っておけば、もっともっと生きづらい国になってゆくかもしれません。放射能、軍隊、貧困、それらが日本を襲い、これからの若い人はどんどん生きづらくなってゆくでしょう。この国の政治家は、日本の指導者でありながら、私利私欲に走り、日本を滅亡させる方向に向かわせています。このような時代には私たちはどこで生きる力を得ればよいのでしょうか。
 日本を変える特効薬は私には見つかっていません。しかし、この私たちを疲弊させる世の中で疲れ切った私たちを休ませてくれるのは教会です。そして、優しさと支えあいを与えてくれるのも教会です。ここで私たちは再び生きようという力を得て再び世の中に出てゆきます。
 そして、この教会で得られる「すっぴんの愛」を胸に、私たちはその愛を教会に来ていないひとりでも多くの人と共有するために生きていきませんか?


「人は何があれば生きてゆけるか」   
聖書:ローマの信徒への手紙12章9−15節(愛には偽りがあってはなりません)
2014年11月16日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 クリスチャンであっても、牧師であっても、「自分はどうしたら元気に生きてゆけるだろう?」、「いったい喜ばしく生きるには何が必要だろう?」と悩むことが頻繁にあります。救われきってしまったクリスチャンにはなかなかわかってもらえない悩みが私たちにはあります。
 人生はいろいろ苦労が伴います。苦労のない人はいません。人は自分から好き好んで苦労を味わいたいとは思っていません。しかし、不思議なことに、苦労している人こそ、他人の気持ちが悪い、苦労の多い人のそばに行くと、癒されるような気がするし、「この人なら話が分かってくれるのかな?」と思うことができます。苦労はしたくないものですが、苦労した人は人を癒す力を持つようになるのですね。
 人をもっとも苦しめ、生きる力をそぎ落とし、場合によっては死に至らしめてしまうのは、「孤独」です。孤独は人を殺します。
 パウロはこの「孤独」を嫌というほど味わった人でした。このパウロがいかにこの孤独の中で生き抜いていったかを見つめてみましょう。


「自己チューよりタコチュー」   
聖書:ローマの信徒への手紙14章7−8節(生きるとすれば主のために生きる)
2014年11月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「他己紹介」というゲームがあります。自分の紹介を他人に任せてしまうゲームです。本来は自分が主役であるはずの自己紹介を、他人に任せるところがスリリングです。しかし、私たちは、ひょっとしたら、自分が主役の人生を生き過ぎているのかもしれない。
 自分の人生の主役は実は自分ではない、と考えてみてはいかがでしょうか。すなわち自己中心的生き方から、他者
中心的な生き方への転換です。
 他者、それは他の人間のことでもありますが、私たちが想定する絶対的な他者は神です。パウロはこの神という絶対他者に自分を明け渡すということを主張しています。そのような生き方によって、本当の自分の人生を獲得するという考え方はできないでしょうか。


「いつ実がなるかわからない木を育てる」   
聖書:ルカによる福音書13章6−9節(実のならないいちじく)
2014年10月26日(日)日本キリスト教団八尾教会献堂58周年記念特別礼拝説教
 教育というのは、水に文字を書こうとするごとく果敢ない業であるが、岸壁に文字を刻むがごとく真剣に取り組まねばならない、という言葉を残した哲学者がいます。私たちは、子どもたち、若者たちにどのように接すればよいのか、ということを悩みますが、実は、かつての若者も今の若者もさほど変わりません。ただ、若者や子どもを取り囲む環境は大きく変わりました。そのために、じっくりと立ち止って人生や死の意味といった正解のない問いと向き合う時間を奪われてしまっています。
 したがって、そのような問いに直面するのは、学校教育を卒業してから、あるいは仕事が一段落してからとか、仕事を失ったときといったときなのかもしれません。そのとき、子どもは子どもでなくなっており、若者は若者でなくなっているかもしれません。
 ですから、子どもである、若者であるということの年齢に関係なく、「人生の思春期」、「私の思春期」を迎えた人がいつでも立ち寄れる場所にするように、私たちは教会という場所を整えたいと思うのですが、いかがでしょうか?


「天国のマンション」   
聖書:ヨハネによる福音書14章1−7節(天国のマンション)
2014年10月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会野外礼拝説き明かし
 イエスは、「私の父の家には住む所がたくさんある」と言いました。この「住む所」というのは、今でいうと、リゾート・マンションのようなところをイメージした言葉です。神の家というのは当然、無限の広さを持ち、永遠に続くものであろうと考えたでしょう。ですから私たちは死んだら、永遠に神の家にあるマンションの部屋で安らかに憩うことができるというのです。
 これはイエスが言ったことかどうかはわかりません。しかし、ヨハネとパウロは、このように自分の魂が行く末のことを考えて、信徒の人々の問いに答えたのでしょう。もしこれが本当なら、どんなにありがたいことでしょうか。私たちは、亡くなった後のことを楽しみにしつつ、しかし、この世のこの体を神の霊の入れ物として大切に生きてゆきたいと思います。


「アンパンマンの哲学」   
聖書:マルコによる福音書11章22−26節(主の晩餐
2014年10月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会世界聖餐日礼拝説き明かし
 福音書に記された「主の晩餐」の記事を根拠に、「洗礼を受けた者しか聖餐に与ることができない」と主張する人たちがいます。しかし、イエスの生前、誰もイエスの洗礼を受けた人はいませんでしたし、キリスト教会さえも存在していませんでした。
 その「主の晩餐」の記事は、パウロの手紙にも出てきますが、これはキリスト教会の早い時期から礼拝の中で伝えられてきた聖餐式の式文からの引用であると考えられます。ですから、過越しの祭のときに行われたということも、マルコの挿入であるという可能性もあります。
 このように批判的にマルコ福音書とパウロの手紙を読むことで、イエスの「開かれた食卓」が忠実に受け継がれようとしていた様子を読み取ることができます。


「人はいつ教会の門をくぐるのだろう?」   
聖書:詩編139編23−24節(神よ、私を知ってください
2014年9月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 昨今の教会では、「若い人が教会に来ない。教会に若い人を来てもらうのはどうしたらよいのだろう?」という声が聞かれます。しかし、近年の子どもたちや若者は、「自分の生まれてきた命の尊厳や、生きてゆく目的や意味、そして死んでゆく意味などを、意識して言葉化するというチャンスをほとんど奪われてしまっています。言葉にならない不安や渇望があるのでしょうが、それとまっすぐに立ち向かう力も育てられていません。ですから、気晴らししかできなくなってしまっています。
 そのような子どもや若者たちが、やがて大人になり、ある程度歳を重ねたときに、気晴らしの面白みに飽きたとき、ふと自分の人生を振り返って、いったい自分の人生は何だったのだろう? と我に返った時が、その時なのかもしれません。つまり、かつては思春期の人が一様に抱いていた問題意識を、現代は、人によっていつの年齢の時に抱くかはわからなくなっている、という状況なのではないのでしょうか。
 私たちは、何歳代の人を招くためにどうすればいいのか、ではなく、その人の年齢にかかわらず、問いを持つときが与えられた人を温かく受け入れる用意ができていればよいのではないでしょうか。


「平和のためにベストを尽くせ」   
聖書:ローマの信徒への手紙12章18−21節(全ての人と平和に
2014年9月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい」という御言葉があります。しかし、これの英語訳のなかで「できれば」ではなく、「Do your best」と訳しているものがありました。
 日本では次第に「できれば」という風に消極的に日本語訳が変化しているのに対して、英語訳は、「自分に可能なことは何でも」、そして「ベストを尽くせ」とい風に推移しており、これは多民族社会のアメリカの社会状況を反映してのことかもしれません。異質なものが隣り合って生活しなくてはいけない状況では、平和に共存するために「ベストを尽くす」必要があるであろうからです。
 人間は私生活での知り合いではない人に対する態度を、国同士、民族同士の関係に投影しがちです。世界を平和をするためには、自分の私生活を平和なものにするかということがとても大事になってくるのではないでしょうか。異質な人と日常生活でも受け容れあうことができない人が、どうして世界を平和にすることができますでしょうか?


「レクリエーションしていただこう」   
聖書:マタイによる福音書11章28−30節(休ませてあげよう
2014年8月31日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 人生というのはしんどいものですから、誰でも休みたいと思っていることでしょう。ということは、イエスは人間にまず必要なのは休息だ、ということをよくご存じだったのでしょうね。
 ユダヤ人の一日は日没から始まるということはみなさんご存じではないかと思います。古代の夜は今と違って暗かったですから、日が暮れたら人間は活動をやめざるを得ないんですね。そこで一日は終わり。そこから一日が始まる。夜は神の時間です。昼の間、疲れ、痛み、すり減ったこの世の生命すべてを、再び創造の最初の状態に修復するというのが、夜なのですね。その夜の時間が前半で、そうやって神に再び整えてもらった世界で、後半人間が活躍できる、という感覚なのですね。
 この創造の本来の状態に修復するのが、レクリエーション(再創造)です。体の修復、心の修復だけではなく、私たちは霊の修復もしていただきたい。そのために教会に礼拝しに集うわけです。


「せめて戦わないことを学ぼう」   
聖書:イザヤ書2章1−5節(ヤコブの家の平和
2014年8月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし
 イザヤ書2章の「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」という言葉はたいへん美しい言葉です。しかし、これは「ヤコブの家」つまりイスラエル内部のことに限られる話なのだという解釈に立つと、逆にユダヤ人以外の民族に対しては平和的に対応しなくてもよいということになります。
 現在、イスラエルがガザ地区への激しい攻撃をしていることは周知のことと思います。子どもを含む多くの一般人が1000人以上も殺されています。しかし、これは対岸の火事ではなく、私たちの日本も、武器輸出という面でこの殺戮に加担してしまっています。
 もちろん、日本が徴兵制に向かい、非常に好戦的な道を突き進んでいることも周知の事実です。
 この現実の中で、私たちが何をできるのでしょうか?


「姿、働きは異なれど、我らは一つの体」   
聖書:コリントの信徒への手紙(一)12章12−26節(部分は多くても一つの体
2014年7月27日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会主日礼拝説教
 パウロの生きていたのは、イエスが亡くなってからまだわずか20-30年しか経っていない頃ですが、もうすでにユダヤ人とギリシア人のクリスチャン同士の間で深刻な対立がありました。それは、ユダヤの律法を守るか、守らないかということです。これを守るかどうかで、キリスト教会のメンバーであるかどうかが争われていました。今で言えば、「洗礼を受けないとクリスチャンじゃない」、「いやクリスチャンになるのに洗礼は必要ない」と主張するくらいの根本的な対立であったと言えます。
 そのような状況で、パウロは、「異なる者どうしが共に生きるのでなくては、一つのキリストの体ではありえないのだ」と必死に訴えています。
 しかも、「神は、体の中でも見劣りのする部分を、かえって引き立てるのだ」とも言っています。教会の中で見劣りのする部分とは誰のことでしょうか。それはひょっとしたら、奴隷階級の信徒のことかもしれません。仕事が忙しく、教会に集まることのできない人びとは、聖餐にあずかることができず、空腹のままで帰らないといけませんでした。しかし、そういう人々こそ手厚く、丁重に扱わなくては、本当の聖餐ではない、とパウロは言うのです。
 教会はキリストの体であるということを、もう一度深く考えてみましょう。


「ぼくらはみんなで生きている」   
聖書:創世記1章24−31節(創造の第6の日)、創世記6章5-8節(洪水)
2014年7月20日(日)日本キリスト教団西大和北教会創立記念・家族の日合同礼拝説教
 『ノア 約束の舟』という映画を観ましたか? あれはたいていのクリスチャンの方が面白くないと言います。しかし、あれは大切なメッセージを抱えた映画です。それは「人間が地上で最高の動物だという考えを捨てて、創造者に作られた神の作品である命を、もっと大切に、もっとすべての命で一緒に生きようよ」、という呼びかけがなされていると思うのです。
 いま、人間は、ほかの生物の命を虐待し、人間同士でも悲惨な殺し合いをしています。人間がこの世で最高の動物なんて思い込みは確かに間違っているのかもしれません。人間中心主義は間違っていたのではないでしょうか。
 命が大切というのは、ひとりひとりの命が大事というよりは、この世のすべての命が大切で、ほかの命を生かすために自分の命を捧げることが大事だという意味ではないでしょうか。神さまの作品である命はひとりのものではありません。自らの命よりも他者の命を生かすことで、自分の生涯を捧げたいものです。

「人間解放宣言」   
聖書:コリントの信徒への手紙(一)1章26−31節(誇る者は主を誇れ
2014年7月13日(日)日本キリスト教団徳島北教会部落解放祈りの日礼拝説き明かし
 多くの学校や団体の努力にかかわらず、差別は無くなっていません。それどころか、インターネットの世界を温床に、いっそう拡大している感があります。その様相を見ていると、もう差別をなくすことはできないのではないだろうかと暗澹たる思いにかられます。
 しかし、差別発言、ヘイトスピーチを繰り返す人が、自分が攻撃している人を直接知っているということはまず考えられませんし、むしろそういう人自身の内面の問題が表面化しているだけではないかとも思われるわけです。そういう意味では、本当に解放されなくてはいけないのは、差別者自身なのかもしれません。
 ここで、根強い差別を跳ね返すために、ただ耐えるのではなく、ポジティブな行動でもって権利と尊厳を獲得して行こうという運動を紹介したいと思います。それはLGBTのプライド・パレードです。そこで使われているレインボー・フラッグを持ってきました。これは多様性の象徴です。
 神が作った多様な人間は、すべてそのままで神の作品として尊いのだということを、私たちは確認したいと思います。

「正統派なんかいなくてもいい」   
聖書:マルコによる福音書9章38−41節(逆らわない者は味方
2014年7月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは正統派か異端かという区別には全く関心を払わず、そんなことは全く大切なことではなかったということが明らかになっている聖書の箇所です
 とは言っても、これはマルコが同時代の12使徒の教会に対する批判の意味を込めて書いた箇所でしょう。12使徒教会があまりに、自分たちがイエスの直弟子であるということを振りかざし、ほかの教会に対して、「それは間違っている」だとか「我々に従わない者は活動をやめさせなくてはならない」と傲慢なことを言っているのに対し、「イエスはそんなことはまったく気にしていない。大切なことは、直弟子であるどうかには関係なく、イエスの名によって、癒しを行い、渇いている人に一杯の水を飲ませることだ」と主張したのです。
 このことは、いま私たちの教団で、また教区で、分区で起こっていることと大いに関連があります。まさにここに記されていることはがいま起こっているのです。
 私たちは、本当に大切なことが何なのか、何がイエスの望みなのかを、この聖書の箇所から読み取らなくてはなりません。


「ありのままの」   
聖書:ローマの信徒への手紙10章5−13節(万人の救い
2014年6月22日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 「ありのままの」といえば、大ヒットした映画『アナと雪の女王』ですが、この映画は、一種の「ひきこもり」について描いた映画ではないかという解釈があります。
 これは自分のあるがままの姿を完全に否定され、社会的に適応する練習をするチャンスを与えられないまま育った子どもが主人公です。そして、親が死んだとき、いきなり社会に出て不適応を起こし、再び、今度は自分の意志で引きこもってしまうのです。
 近頃の日本は変わった人、面白い人の存在を一掃するかのように、堅苦しい社会になってしまいました。少しでも規格に合わないもの、格好の悪いもの、勤勉ではない者、のんびりしている者、スピードののろい者、クセの強い者を認めようとしない社会になっています。
 子どもたちも、大人もそうですが、必ず一定数は個性の強い人はいます。それがなかなか認められない。時と場合によっては罵倒されたり、侮辱されたりする。そんな世の中で、外に出てゆきたいと思うはずがありません。
 このことはクリスチャンも同じで、「自分も他人もありのままで神さまに愛されている」と信じていない人が、人のことを裁きます。どんなに偉い聖職者でも長老でも、「神さまに認められるには基準がある」、「それは御心に適っていない」、「その人は説教者にふさわしくない」などと言い出したら、もうその人は信じてはいないのです。信仰がないのです。
 人はありのままでよい。これでいいのだ。そのことを私たちクリスチャンは率先して確信し、この世に述べ伝えてゆきたいものです。


「スピリットを受け容れ、大いに話そう」   
聖書:使徒言行2章1−15節(聖霊が降る
2014年6月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし
 ペンテコステは弟子たちが天下のあらゆる地方の言葉を話し始め、神の偉大な業を語ったという物語にちなんで、教会の誕生を祝う時です。
 各地の地場の言葉を話したということは、一種のローカライゼーションです。大本のイエスがアラム語を話、アラム語で教え、癒したとしても、それを世界各地の言葉に翻訳してもいいんだという考え方です。翻訳すると、必ず意味のズレが生じます。ということは、もともとの内容が翻訳によって多少変わってしまったとしても、それぞれの地方や民族の文化を壊さないようにして浸透してゆくということが認められていると考えていいのではないかと思います。
 弟子たちが霊に満たされ、霊に促されて話したとありますが、言葉もまた息に乗って発せられるものである以上、言葉も霊の働きの一種と考えられた可能性は高いです。たとえ、この世で悪意や憎悪を与えられ、吸い込んだとしても、吐く息は善意と愛に満ちたものでありたいと思います。
 神からの善い
スピリットに満たされて、この世に対して、大いに語りかけてゆきたいものです。

「世の中が悪ければ病人が増える」   
聖書:マルコによる福音書1章29−39節(シモンのしゅうとめを癒す)
2014年5月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは4人の漁師を弟子にしたあと、シモンのしゅうとめの熱を癒しました。またカファルナウムの町にいた多くの人たちの悪霊を追い出した、と聖書に記されています。
 他にも福音書にはイエスが悪霊を追い払った話がたくさんありますが、いったいなぜこんなにイエスの生きていた当時、ユダヤ地方ではこのような悪霊にとりつかれた人たちが多かったのでしょうか?
 古代人たちは、何か原因のわからない慢性的な体調不良は、たいてい悪霊や汚れた霊がとりついたせいだと考えていました。なぜこんなに体調不良が古代のユダヤに多かったのか。それは、ユダヤの置かれていた社会的、政治的な状況にひとつの原因があるのではないかと考えられます。
 当時のユダヤが置かれていた、社会的、政治的な重荷と、それによって生じた人々のストレスの重さ、そしてイエスの癒しの込められた彼の闘いの意志について、考えをめぐらせてみたいと思います。


「疑うのは信じたいから」   
聖書:ヨハネによる福音書20章24−29節(イエスとトマス)
2014年5月11日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 今日は、いわゆる「疑い深いトマス」と呼ばれているディディモのトマスを取り上げて、この人物を掘り下げてみましょう。
 彼は本当に不信仰な疑い深い人間だったのでしょうか? 周囲の弟子たちがみんな「私たちは主を見た」と言っている中で、自分だけがイエスと再会していないという状況では、非常に強い疎外感を感じてもおかしくなかったのではないでしょうか。そして、彼が極端な言葉づかいで、「主を見たのなら証拠を見せろ!」と言ったとしても、仕方がなかったのではないでしょうか。
 そして、この物語で、イエスはトマスに対して不信仰だと叱りつけているわけではないんですよね。そうではなく、証拠が欲しいと言ったトマスに、まずは証拠を見せてあげているのです。これはとても優しい思いやりではないでしょうか。
 そのようなイエスの優しさを示したあとで、しかしヨハネは、実際に肉体のイエスを見ることができない読者に対して、「見ないで信じる人は幸いですよ」と言っているのですよね。
 では、私たちの見ることのできる復活のイエスの証拠とは何でしょうか?


「イエス様は子どもたちのために憤っておられる」   
聖書:マルコによる福音書10章13−16節(子どもを祝福する)
2014年5月5日(月)日本キリスト教団大阪教区第59回定期総会説教
 私たちのこの日本は、子どもを食らって大人の利権や栄光を求めようとする社会です。子どもたちは国民の未来です。その未来を虐待し、命を差し出させ、、使い捨てにしようとする計画が着々と進められています。憲法改定や道徳教育の強制によって、子どもたちのマインドコントロールが始まっています。
 イエスは子どもたちを後回しに、大人の都合を優先しようとする弟子たちに対して、激しく憤り、叱りつけました。「子どもたちを受け容れよ!」と、そして「子どもたちを受け入れるように、神の国を受け容れよ」と言いました。
 つまり、子どもは神の国のように尊いものだということです。子どもをありのままに受け入れない者は、神の国を受け容れることもありません。
 子どもたちを受け容れ、神の国を受け容れましょう。


「罪は取り返せない。でも人生はやり直せる   
聖書:ヨハネによる福音書21章1−14節(イエスとペトロ)
2014年4月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 イエスの死後、弟子たちはガリラヤに戻りました。そして、自分たちの生活の場で宣教を試みる中で、イエスと再会したというのが、今回の物語の背景事情です。
 ペトロはイエスに三度「わたしを愛しているか?」と問われます。そして、ペトロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。この問答には原語のギリシア語を読んでみないと、そのペトロの葛藤は見えてきません。
 この問答には、ペトロの取り返しのつかない罪の悲しみと、イエスの優しさ、赦しがにじみ出ています。そして、ここから私たちは、どんなに私たちが重い罪を犯していたとしても、そして、その罪が取り返しのつかないものであっても、なお「もう一度生きてみなさい」と呼びかけてくださる神の希望を見出すことができるのです。


「罪深き者の嘆きは誰が受け止めるのか   
聖書:マルコによる福音書14章66-72節(ペトロ、イエスは知らないと言う)
2014年4月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 受難物語の中でも、このペトロの否認の物語は、かなり事実に基づいた部分であると考えられています。それは、ペトロがイエスを「知らない」と供述したということは、キリスト教会にとって決定的に不都合な情報だからです。しかし、すでに多くの人が知っていた事実であっただけに、否定し去ることができなかったのでしょう。イエスの逮捕直後、ペトロがイエスを知らないと答えたのは事実だったのです。
 一度は愛すると約束した、あるいは一度はこの人と共に死んでもよいと誓った人を裏切るというのは、どういう気持ちでしょうか。
 取り返しのつかない罪を犯してしまった人間の嘆きは誰が受け止めてくれるのでしょうか。罪を犯した者が赦しを求めるのは虫の良いことなのでしょうか。罪人は再度やり直すことができないのでしょうか。


「イエスの気合い   
聖書:マルコによる福音書1章21-28節(汚れた霊にとりつかれた男をいやす)
2014年3月23日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは最初の活動を、ガリラヤ湖の湖畔の漁業の町のカファルナウムから始めました。そこにはペトロの家族も近くに住んでいたようです。そして、安息日にはシナゴーグで礼拝するという習慣も欠かしていませんでした。シナゴーグでイエスが教えたとき、その堂々たる自信にあふれたのびのびと語る様子に、おそらく嫉妬にかられたそのシナゴーグの古参のラビか誰かがイエスに難癖をつけたのでしょう。その腐りきった精神のあり方を「汚れた霊」という言葉で表したのだと思われます。
 古代人は病気や体調不良などをすべて悪霊のとりついたせいだと解釈しました。したがって、古代人が悪霊のとりついたせいだと解釈した精神状態が現代人のわれわれにとってどのような病状であり、あるいはどのような精神状態のことであったかを正確に知ることは不可能です。
 とにかくはっきりしていることは、この汚れた霊にとりつかれた男の、その汚れた霊を黙らせるほどの気合いにイエスが満ち満ちていたことです。これはイエスの気合いに満ちた力強い活動の始まりの物語です。


「一緒に行こうよ   
聖書:マルコによる福音書1章16-20節(四人の漁師を弟子にする)
2014年3月9日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスはヨハネ教団の解体後、独自の活動を始めるにあたって、弟子を集めました。そして、最初の弟子として、シモン(ペトロ)とアンデレの兄弟、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネに「ついて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と呼びかけました。おそらくイエスの弟子集団の中でも男性の弟子の主だったメンバーはこの4人だったと思われます。
 イエスの宣教の仕方や弟子の集め方は、このように、自分から出かけて行ってひとりひとりに声をかけるという方法です。「私の所に来なさい」というのではなく、また「行って来い」というのでもなく、「私と一緒に行こう」という呼びかけです。
 イエスは「一緒に行こうよ」と呼びかけ、自ら動き回る人だった。そのことを覚えておくのは、私たちが宣教したり、仲間を作ったりするうえで、非常に示唆に富むものではないかと思うのですが、いかがでしょうか?


「イエスの罪   
聖書:マルコによる福音書1章1−15節(イエスの洗礼)
2014年2月23日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの登場とイエスの洗礼の場面から始まります。イエスが洗礼者ヨハネの弟子になったことは明らかです。ヨハネは罪の悔い改めの洗礼を授けていました。ということは、イエスも何らかの罪の悔い改めを志してヨハネのもとに来たことになるわけです。では、イエスが抱いていた罪意識とは何だったのでしょうか?
 結果的に、イエスは洗礼者ヨハネとは全く逆の方針の活動に向かってゆくわけですが、その要因のひとつに、ヨハネのあっけない死があったと思われます。ヨハネの死はイエスをはじめとするヨハネの弟子たちに大きな失望を与えました。おそらく、イエスがその公生涯の間、誰にも洗礼を授けなかったのは、イエスがヨハネの洗礼には何の意味もなかったと失望したのでしょう。イエスにとっては洗礼などもはや無意味となったのです。
 このようなイエスの姿に、イエスについていきたいと願う私たちはどのように応答すればよいのでしょうか?


「紙は愛なり   
聖書:ガラテヤの信徒への手紙6章11節(紙は愛なり)
2014年2月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 記録や資料を保存するということは、とても大切なことです。その時、当事者にとって都合の良い事実、都合の悪い事実も、すべてを記録し保存することには意義があります。都合の悪い事実の記録も、理解の関係な後代の歴史家は客観的に評価してくれるでしょう。あるいは、後代の歴史家が正当に評価してくれるであろうことを期待するからこそ、今この時も恥ずべきこと、卑怯なことはしないでおこうとすることもできるのではないでしょうか。
 私がこのように資料や記録の保存にこだわるのは、やはり聖書に関心があり、聖書の言葉によって生きようとするからです。特にパウロは、文書を残すということによって、自身の神学を後世に残すことに成功した人です。彼は彼と同時代のキリスト教の中で、決して主流であったと言い切れるわけではありません。彼以外にも多種多様な使徒が活躍していたと言われています。しかし彼は、おそらく説教が下手であったことから文書伝道に力を入れざるをえなかったのでしょうが、それが結果的には彼の思想を後世に残すために有力な戦略となったわけです。


「置かれた場所で咲けたらいいね   
聖書:ルカによる福音書13章6−9節(実のならないいちじくのたとえ話)
2014年1月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 このたとえ話は不思議です。だいいち、なぜブドウ園にいちじくが植えられたのでしょうか。場違いではないでしょうか。場違いなところで、花も実もならないと言われてもつらい、という体験は、人間にも往々にしてあることです。そんないちじくのような人間に「置かれた場所で咲きなさい」と言うのは、実は酷なことではないでしょうか。そして、このブドウ園の主人は、「実がならないのなら切り倒してしまえ」と言います。
 しかし、このブドウ園の園丁さんは、「待ってください」と言います。「来年まで待ってください。来年になって実がなっていなかったら、切り倒してください」と言って、このいちじくの木を庇います。このような愛もあるのだよ、とルカは言っているようです。ルカの真意は何なのでしょうか?


「愛される喜びを伝えたい   
聖書:イザヤ書43章4-5節(わたしはあなたを愛している)
2014年1月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 昨年の漢字は「輪」であったことは皆さまご存じです。しかし、私は「和」のほうがよかったなと個人的には思いました。というのも、「和」というのは平和に通じるからですね。平和ほど現在求められているものはないように思うからです。
 聖書で平和と言えば、ルカ福音書の「天には栄光、地に平和」ですね。この聖句の後半は「地には平和、御心に適う人にあれ」ですが、直訳すると「(神の)喜びの人にあれ」となります。つまり、人間とはすべからく神の喜びの存在だということです。
 徳島北教会の合言葉である「愛される喜びを伝えたい」というのは、この「人間は神の喜びの存在なんですよ」、「あなたの存在を神さまは喜んでいますよ」、「わたしも喜んでいますよ」ということを人に伝えることなんだと思うのです。


 




 

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