礼拝説教ダイジェスト:2015年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
本文をお読みになる場合は、要旨のタイトルの横にある木のボタンをクリックしてください。

教会の玄関に戻る 
礼拝堂の入口に戻る 
 

【メッセージの要旨】

「賢者たちの喜び」   
聖書:マタイによる福音書2章1-13節(占星術の学者たち
2015年12月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会クリスマス礼拝説き明かし
 東方:おそらくペルシアからやってきた賢者たちは、じつは占星術の学者たちは、のちにイエスが行うようになるような、人々の相談にのったり、薬学などを活用して人びとを癒したりしていました。
 ユダヤ人の待ち望んでいたメシアは、武力でローマ帝国を撃退し、ユダヤの独立を果たそうとする人のことを指していました、しかし、賢者たちはユダヤ人ではありません。ユダヤ人が待ち望んでいたメシアは、ユダヤ人の知らないところに誕生を予告されたし、その救い主自身もユダヤ人たちが求めていたものではなかったのですね。
 賢者たちは、乳香と没薬を持ってきましたが、これはイエスの死を暗示しているとされています。これは生まれるときにすでに死すべき存在であるとされているという不吉な予感です。彼は羊飼いを守るために命を捨てるような羊飼いだったんですね。
 彼は強い救い主ではなく、弱さに立ち、弱さに寄り添い、弱い人間のために命を捨てる指導者なのですね。


「召使いになることで自由になる」   
聖書:ルカによる福音書1章26−38節(受胎告知
2015年12月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会アドヴェント第2主日礼拝説き明かし
 マリアは「お言葉通りこの身になりますように」ということばで天使から与えられた使命をそのままに引き受けました。神への従順というのは一見して自分の自由を奪われ、自分の人生を犠牲にするような印象を受けるかもしれません。しかし、私たちが自由という言葉で表現しているものは、自分の欲望や感情の奴隷になっている状態に他ならないのかもしれません。
 たとえば同志社の創立者である新島襄は「真理の囚人こそ真の自由人なり」という言葉を残しています。また、彼を文部省の官僚jに誘った役人からも「君は耶蘇の奴隷じゃ」と言われたほどです。「耶蘇の奴隷」、「神の奴隷」が本当の自由人であるというのは、カトリックや聖公会の聖職者の誓願にヒントを見ることができます。
 それは清貧・貞潔・従順です。清貧はお金からの自由、貞潔は他者
からの自由、そして従順は自分からの自由です。この自分からの自由というのが、マリアの従順を理解するキーワードのような気がします。

「突風のような人生だけど」   
聖書:マルコによる福音書4章35-41(種蒔きのたとえ
2015年11月22日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 嵐のガリラヤ湖を行く弟子たちの船が転覆しそうになって、それをイエスが助けるという話には、いくつかのバージョンがあります。
 いずれにせよ、これは初代教会で弟子たちが語った説教がもとになっているという説が有力です。舟は教会を象徴し、眠っていたイエスが起き上がるということは、イエスが教会の中に蘇るということを示しています。そして、復活のイエスが共にいなければ教会という舟は立ち行かなくなるという説教なのです。
 弟子たち、特にペトロのことを考えると、その人生はじつに嵐に巻き込まれた舟のように、激動の人生だったように思えます。また、一度イエスを裏切った人間が初代教会を何とか運営するのも本当に困難だったでしょう。それを考えると、この説教もじつにペトロの心境をよく表したお話だとは思えないでしょうか。

「生まれる場所を選べないけれど」   
聖書:マルコによる福音書4章1ー9節(種蒔きのたとえ
2015年11月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 種蒔きのたとえは、その数節あとにマルコによる解説が書いてあるので、どうしてもその解釈に引きずられてしまいます。まるで、蒔かれた種が神の言葉で、それを受け取った人間の側の受け取りかたによって裁かれているように思われてしまうのです。
 しかし、イエスはそういう本意でこのような話をしたのでしょうか。別の解釈もできます。これは神が種をまくことに人間があちこちに生まれることをたとえているのではないでしょうか。人は生まれう場所を選ぶことができません。何も芽が出ないまま短い一生を終えてしまう人もいるかもしれないし、早々と芽を出すけれども、実がならない人のことを言っているのかもしれないし、条件が良い場所に生まれた人は大きく実をならせることもできる。
 人の
生まれの条件はさまざまに異なるけれども、もとは同じ神のまいた種なんだから、互い同じ命なのさ、とイエスが言ったとは考えられないでしょうか。

「雑草のようにいまを生きる」   
聖書:マタイによる福音書6章25ー34節(野の草を見なさい
2015年11月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 祭司や律法学者たちは、「おまえは今までどんな罪を犯してきたのか」という過去に人を縛り付けようとします。これに対し、洗礼者ヨハネのような預言者たちは、「これから罪を犯した者は地獄に落ちるぞ」といったように未来への恐れで人を縛り付けようとします。
 しかし、イエスは過去にも未来にもとらわれず、現在を生きることを勧めました。野の花を見なさいという言葉がありますが、この野の花というのは要するに雑草のことです。明日は炉に入れられるというのは、刈られて捨てられる雑草のような存在ということです。この雑草のような人間でも、神はソロモンよりも装ってくださると言うのですね。
 そんな風に、私たちはそんなにゴージャスな花を咲かせるわけでもないかもしれないけれども、自分なりの花を咲かせていけばいいじゃないか、とイエスは楽天的に人たちに言ったのではないかと思うのですね。

「私たちはどこまでも赦されています」   
聖書:マタイによる福音書18章21ー35節(7の70倍赦しなさい
2015年10月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは無条件に人を赦すように、そして、それは私たちも無条件に神に赦されているのだからと説きます。
 しかし、それでは何をやってもよいのかという疑問がわいてきます。人を殺しても何をしても赦されるのでしょうか? 
 結論から言えば、それでも神はその人を赦しています。決してその人の存在を否定したりはしないのです。
 ただ、人間の世界ではそれでは済みません。ですから、法というものがあるのでしょう。法によって裁かれた人間は、その責任を果たすことで、やはり罪から解放されます。この意味では裁きは赦しのために必要なのです。解放されるために裁きがあると言ってもいいでしょう。
 そして、その人が生きるということについて、やはり神は絶対に否定しません。私たちは神によって無限に赦されているのです。

「人を愛するのが難しい病気」   
聖書:マタイによる福音書7章12節(人にしてもらいたいことをしなさい)
2015年10月14日(水)同志社大学京田辺校地水曜チャペル奨励
 自己愛性パーソナリティ障がいという病気を知っていますか? ナルシストの病気ではなく、自己を本当に愛することができないための苦しみを抱えている人が陥りがちの心の性質のことを言います。この病気の人は、他人から称賛されたときだけ自分が束の間の幸福感を味わうことしかできないので、本当の愛を知らず、したがって自分もほかの人をどのように愛したらいいのかわからないのです。
 このような人が求めているもの。それは自分では気づいていないけれど、称賛されるような何をも示すことができなくなっても、ありのままの自分を愛してもらうということです。それは、ありのままの自分を受け容れ、愛してくれるという体験を何度もしないとわかりません。しかし、それが一番大切なことであることは間違いありません。
 イエスはそれが一番人間にとって大切であることをわかっていて、それで、「ほかの人にもそのようにしておやりよ」と言っているのではないでしょうか。

「死者を悼むためのパン裂き」   
聖書:エレミヤ書16章5−7節(死者を悼む人を力づけるためのパン裂き)
2015年10月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会世界聖餐日礼拝説き明かし
 ユダヤの風習には、死者を悼む人を励ますためのパン裂きがある可能性がエレミヤ書には見られます。、聖餐の原点の一つに、この遺族を励ますためのパン裂きあるのではないかと考えられます。
 それは日本の法事のようなもので、死者を思い起こす食事です。最初の弟子たちはこのような食事を通して、イエスの想い出を語り、イエスが自分にとってどんな人なのかを語り、そこにイエスがよみがえったことの実感が生まれてゆきます。そして、そこに初めて出席した人は、その語りを通じてイエスの事を知ってゆくのです。
 すなわち、聖餐とはイエスの事を告げ知らせる場であったのであり、聖餐ことが伝道の場であって、決して信徒だけの閉じた食事の場であってはならないということが言えるのです。

「誰とメシを食ってはいけないか」   
聖書:箴言23章1-8節(支配者と共に食卓についてなら)
2015年9月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 普段私たちは聖餐も愛餐会もオープンで、誰でも迎え入れる形で行っています。しかし面白いことに、旧約聖書の箴言には「一緒に食事をしてはいけない人とは誰か」ということに言及しています。非常に強い警告の調子でそれを言っています。
 そのことがイエスの食事とどうつながってくるのでしょうか。箴言の中には支配者と一緒に食卓を共にすることに強く警告が発せられていますが、イエスはどのような人々をもっぱら招くべきだと言ったのかということと、一致する点が出てくるのです。
 そして、愛餐(アガペー)の席において、私たちの関係はどういうものであれば理想的なのかについて、お話ししたいと思います。

「聖餐もオープン、洗礼もオープン」   
聖書:使徒言行録8章26-40節(宦官とフィリポ)
2015年8月30日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 使徒言行録に収められている「フィリポと宦官」のエピソードは、洗礼が教会やエクレシアという場所と関係なく行われたこと、信仰告白が強要されなかったこと、当時正常な人間として見なされなかった人が快く受け入れられているということ、そして洗礼を受けたあともどの共同体に属することもなく旅の人生を送る人もいたということなど、大変面白い点がいくつも見られる証言です。
 このことによって、初代教会の洗礼が今の私たちが思っているよりも、はるかにオープンかつ自由であったということがわかります。
 本来イエスは洗礼を授けることはありませんでした。ですから洗礼を過剰にありがたがるのはイエスの心には反しています。ただ、洗礼はイエスの死後必要になったエクレシアの入会儀礼に過ぎません。しかし、その洗礼式を初代教会は神の霊が下ることを象徴する儀式としても有効に用いました。この意義を私たちは再度振り返りたいと思います。

「世の友われらを捨て去るときも」   
聖書:イザヤ書2章4節(剣を打ち直して鋤とする)
2015年8月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし
 現在、参議院委員会で安保法案と呼ばれているものが討議されています。非常に危なっかしい論議です。その具体的な内容を聞いていると、将来的にアメリカの戦争に動員され、個別的自衛権の範囲を超えたことを行おうとしているようにしか聞こえません。この現状をともかく詳細に把握したいと思います。
 旧約聖書のイザヤ書には、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と記されています。これは武器、兵器を食料を作る道具に変えるということです。平和というのは共に食べるということがおおもとにあるのだということです。
 そして「もはや戦うことを学ばない」とあります。これはとても大切なことです。というのは、この国はただ安保法案だけではなく、教育においても非常に強力に国家の騰勢を強めようとしているからです。教育における自由・平和の尊重はこのままではますます失われてゆくでしょう。
 私たちは戦わないことを学ばなくてはいけません。学ばなければ、戦うことによって国々の問題を解決するように安易に流れてしまうでしょう。あえて「戦わない」ことを「学ぶ」ということが必要なのでしょう。

「牧師だって日曜クリスチャンになることがあります」   
聖書:コリントの信徒への手紙(一)15章55−58節(死よ)
2015年7月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 パウロは「死よ」と挑戦的に呼びかけています。これは古代人パウロならでは感性で死を擬人化して何か生き物のような存在として挑戦しているのです。
 人間の中に「死」というものが入り込んで次第に心を殺し、魂を殺し、霊を殺して、そして最終的には肉体の死をももたらしてゆくわけです。そしてパウロに言わせれば、死が入り込むのは罪のせいであったし、現在は罪の根源は律法にあると言っているわけです。
 私自身も日曜日は霊に満たされて元気を取り戻しますが、月曜日からの暮らしでその聖霊を取りこぼしてしまって、死霊に取りつかれたようになって、生きているのに死んだようになってしまっていることが常々あります。
 このような生きた屍にならないように、心の中をいつも掃除して、整理整頓をして、「死」に入り込まれないように、神の霊をいつでもお迎えするようにしておきたいものです。

「宗教による差別、信仰における家族」   
聖書:テトスへの手紙1章12−16節(クレタ人は嘘つき)
2015年7月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは、自分が洗礼をうけたにも関わらず、人には一切洗礼を授けていません。なぜなのでしょうか。それはひょっとしたら、洗礼者ヨハネの教団のなかで、洗礼を受けているから救われている、洗礼を受けていないから救われないと言って高ぶる人たちが存在し、それを見ていて、洗礼がその人を高慢にする逆効果のような働きをしているのではないかと見抜いたのではないでしょうか。
 私たちは、イエスと違って洗礼を授けています。それは、周囲が神を知らない人たちに囲まれているからであって、もしそうでなければ洗礼など授ける必要がないのかもしれません。今私たちは、神を知らない世界の中で、少数者として自分たちが結ばれた家族の中に迎え入れることを象徴的に体感することが洗礼です。
 ですから、洗礼も聖餐も、私たちはすべての人に開かれた招きの恵みに他ならないということを、ここに確認したいと思います。

「この世はいったい誰のもの?」   
聖書:マタイによる福音書6章9−13節(主の祈り)
2015年6月21日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 一般的な主の祈りの最後には、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という言葉があります。しかし、主の祈りのもとになった聖書の言葉には、この1行がありません。そのために、聖書の言葉にこだわりのある人ほど、この最後の1行を無視する傾向が今までありました。確かにイエスはこの一言は言わなかったのでしょう。この一言の頌栄はイエス以後300年ほど先に、ヒエロニムスという人によって付け加えられたと言われています。
 しかし、案外この言葉が現代の世界においては見直される必要があるのかなと思わずにはおれません。要するに、支配と権力と栄光はどこまでも神さまのものであり、私たち人間のものではありません、という宣言です。
 私たちはこの地球の支配も権力も栄光も自分たちのものにしようとしてきた結果、どんでもない自分たちの危機を招いてしまっています。今こそ、この良き世界が神からのいただきもの、借り物であることを自覚するべきではないか。そうでないと、この世は生きやすい場所にならないのではないでしょうか。

「若者は幻を見、老人は夢を見る」   
聖書:使徒言行録2章14−21節(ペトロの説教)
2015年5月31日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし
 今日はペンテコステの「燃える舌」の出来事の後に行われたペトロの説教の冒頭の部分を取り上げてみました。
 ペトロはここでヨエル書を引用しています。これは初代教会の人々が自分たちのペンテコステ体験を表現するのに、ヨエル書の預言が成就したと礼拝の中で何度も引用していたことに基づいているということを知らせてくれます。
 このヨエル書の中では、「すべての肉に、神の霊が注ぎ込まれる」という言葉が記されています。老若男女、身分の高い人も低い人も、富んだ人も貧しい人も、何の区別も差別もなく、神の霊が注がれ、神の預言を語り始めるということが書かれています。ペンテコステというのはそういう出来事だったということです。
 また、具体的に彼ら彼女らが何を語り始めたのかというと、それはイエスの力強い言葉と行いの想い出であったのだろうと思われます。一度はショックに陥った弟子たちも、やがて、イエスの想い出を話しているうちに、元気が湧き上がってくる、そんな体験をしたのでしょう。それは、イエスの復活体験と同じような霊的体験だったのだろうと思われます。

「オリーブのような人になりませんか?」   
聖書:ヨエル書2章19節(穀物とぶどうとオリーブ)
2015年5月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 古代のユダヤ人にとって、穀物とぶどうとオリーブというのは生活必需品の最たるものでした。殊にオリーブは、油としても食品としても貴重なものでしたし、その油は薬効もあり、美容液でもあり、整髪料でもあり、塗り薬でもあり、ということで、万能の効果を示しました。また更に、宗教的な意味もこめて、儀式に用いられることもありました。
 かの国では、パンや野菜は塩とオリーブオイルのみで食べていたようですから、イエスがパンを食べる時も、パンを葡萄酒に浸すだけでなく、オリーブオイルにもつけて食べることも多かったでしょう。大食漢だったということですから、イエスもまたオリーブオイルが大好きだったのではないかと思います。
 私はオリーブを料理に使ったり、そのまま食べたりするのが好きですが、オリーブの実と言うのは、非常に個性の強い味をしているにも関わらず、ほかの料理に入れると、見事にほとんどの料理と調和します。和食でも中華でも日本食でも何でもです。
 それぞれの個性の味わいはそのままに、しかし、ちゃんと人と一緒調和して一緒にことをなすこともできる。そんなバランスの取れた人間に、私たちもなりたいものです。

「神は父でなくてはいけないか」   
聖書:マルコによる福音書10章29−30節(父は捨てても戻ってこない)
2015年5月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 母の日礼拝のつもりが、ほとんど「父なる神」という考え方への批判の話になってしまった礼拝です。
 「父なる神」「天の父よ」という呼び名をなぜイエスが使ったのでしょうか。私たちはなぜ「主の祈り」において、「天の父よ」という呼びかけを使い続けているのでしょうか。イエスは実はこの「お父ちゃん」という言葉を、父権制に対する嫌悪と反抗から出た気持ちとして使っていたのですね。
 それと同時に、説き明かしの後半では、聖書に描かれた母なる神についても言及しました。
 聖書が文書としてまとめられる前、読み書きのできない庶民の間では、「母なる神」のイメージも「父なる神」と共に口頭で伝承されていた可能性が高いのです。
 「父なる神」でもある「母なる神」でもあり、「すべての命の親である神」としての神を再認識してみましょう。

「イエスと共に今を生きよう」   
聖書:マタイによる福音書5章13−16節(地の塩・世の光)
2015年4月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「地の塩」に関するイエスの言葉は一見「地の塩のような人間になりなさい」、「この世で立派な証を立てなさい」と言っているように勘違いしがちです。たぶんそれは、この言葉に続く「世の光である。それを輝かしなさい」という言葉とのつながりから誘導されてしまうのでしょう。
 しかし、この「地の塩」の言葉は、「塩味を失ったら人に捨てられてしまうだけだよ」というイエスの皮肉です。「塩味を持とう」と努力するけれども、やっぱり何のとりえもないと思われて、人から見向きもされない人はいる。イエスはそういう人にじっと眼差しを向けておられたということです。
 私たちは塩味のない取り柄のない人間であっても、イエスはそんな人をこそ見つめているというメッセージです。
 だから、イエスと共に生きるということは、この世で捨てられてしまうような、評価されないような人と共に生きる、そのような人に居場所を提供する。食事に招くということです。それが私たちが教会に「なる」というこなのです。

「今ここで息を吹き返そう」   
聖書:マルコによる福音書16章1−8節(空っぽの墓)
2015年4月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 イースターおめでとうございます。イースターは実はクリスマスよりも大切なお祝いとされています。クリスマスはキリスト教の歴史の途中からできてきたものですが、復活がなければキリスト教が生まれることはなかったというのは本当のことですから。
 しかし、イエスの死んだ肉体が再び蘇生したから、イエスは神の子だった、だから素晴らしいというのがイースターかといえば、そういうことではないのです。
 少なくとも最初の福音書であるマルコによる福音書の最後の記事を見る限り、イエスの肉体の蘇りなんて、何の意味もない、関心もないということがわかります。
 マルコ福音書で大切なことは、イエスがもはや墓の中にはいないということを発見したのは女性たちだけであり、男性の弟子たちは何も知らされていないんだということが書かれているということです。
 また同時に、ここに出てくる「若者」は「ここにはイエスはいない(エルサレムなどにはいない)、ガリラヤに行けばイエスに会える」と言います。ガリラヤとはイエスが人びとを「よみがえらせた」場所です。復活したのは、イエスに救われた人びとなのです。
 イエスは死んだことで自由に、私たちの間に存在してくれる方になりました。そのことを説き明かしたいと思います。


「弱さに留まる勇気」   
聖書:マルコによる福音書15章6−15節(ピラトの死刑判決)
2015年3月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ピラトがイエスを十字架刑に定めたときの場面は、歴史的に事実であったかということはかなり疑われております。しかし、この物語がなぜ生まれたのかということを分析すると、イエスを失った弟子たちがいかにイエスの死にショックを受けたか、またどのようにイエスの死を解釈したかという思いが伝わってきます。
 このピラトの裁きの物語の背景には、イエスの弟子たちが、イエスを過越しの羊であると解釈したこと、また贖罪日(ヨム・キップル)の雄山羊であると解釈したことがあります。そのことによって、イエスは自分たち人間の罪をあがなってくださったのだと信じようとしたのです。
 しかし、その背景には、イエスがあんなにあっけなく殺されるなんて信じられないというショックがあったのでしょう。彼らはイエスの死に納得がいかなかったのです。それだけイエスが深く弟子たちを、また人びとを愛したかということが感じられます。人びとはイエスの命を神が守らないなんてことは考えられなかったのです。
 イエスがなぜそれほどに弟子たちや人びとに信じられたのか。イエスの何が人びとの心に沁みとおったのかを探ってみたいと思います。


「イエスならどう戦うか」   
聖書:マルコによる福音書12章13−17節(皇帝への税金)
2015年3月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスのやっていたことは、現在の私たちから見れば、とても優しい平和に満ちた活動をしていたように感じるかもしれません。しかし、彼がやっていたことは、明らかにユダヤの上流階級、そしてローマ帝国に対する戦いだったのです。
 癒しという戦い、共食という戦い。それは、ユダヤ人社会やローマ帝国が作り上げたカースト制や宗教に対する反抗的行為だったのです。
 しかし、その行為によって、「自分は人間なんだ」と目覚めた人々がどんなにたくさんいたでしょうか。その人々によって「ユダヤ人の王」となるように促されたイエスを権力者が危険視したのは当然です。
 イエスは自分がいつかは殺されることを知りながらも、なおこの「平和という戦い」をやめなかったのです。私たちはこの戦いを引き継いでゆけるでしょうか?


「イエスはパンを口に押し込む」   
聖書:ヨハネによる福音書13章21−26節(裏切り者を言い当てる)
2015年2月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 徳島では公開されていたかったようですが、『サン・オブ・ゴッド』という映画が今年の1月からいくつかの映画館で公開されていました。
 
Facebookなどで見る限りは、多くのクリスチャンの観客は、違和感を感じるおおむね好意をもって鑑賞したようでした。しかし、私はこの映画もなかなか独特なイエス解釈があると思いました。どのような映画でも文学作品でも同じですが、ある原作(この場合は聖書ですが)を別の媒体に作品として仕上げようとすると、必ず作者の解釈が入ります。そういう意味では「忠実な」映画化ということはありえないのです。
 ですから、私はこの映画にも映画作家の聖書の解釈が入り込んでいることを発見し、大いに楽しみました。
 殊にこの映画の「聖餐」の解釈にも、一般のクリスチャンはあまり気にしなかったのでしょうが、非常に面白い解釈がまぎれこんでいます。そして、それは私たちの聖餐理解にも重要なヒントを与えてくれるものです。それを今回、吟味しましょう


「イエスをキリストにした女」   
聖書:マルコによる福音書14章3−9節(油を注がれる)
2015年1月25日(日)日本キリスト教団室町教会主日礼拝メッセージ
 イエスと共に行動した弟子たちの中には、たくさんの女性もいました。マグダラのマリアの名前はよく知られていますが、ほかにもたくさんいました。ここで登場するベタニアのシモンの家での女性も、ここでは名前は紹介されていませんが、やはりイエスの弟子であったと考えられます。
 イエスの食卓はすべての人に開かれていましたから、当然その食事は男女ともに与るものだったでしょう。その場で彼女は盛り上がる食事の席上で、思わず香油をイエスの頭上から注ぐという行動に出たのでしょう。
 油を注ぐというのは、ご存じの方も多いでしょうが、「王として任命する」という意味を持ちます。当時の一般大衆が待望していたメシアではなく、「私のメシア」として彼女は自分を救ってくれたイエスを王としてあがめたいという意思表示をしたのです
。そして、イエスは「この人がしてくれたことを、どこでも語り伝えてくれ」とみんなに願いました。彼女の得た救いを私たちもイエスから得たいものです。

「恐怖の独裁者の知らぬところで」   
聖書:マタイによる福音書2章1−12節(占星術の博士たち)
2015年1月11日(日)日本キリスト教団徳島北教会公現日記念・新年礼拝説き明かし
 クリスマスは西方教会では1月6日まで続きます。そして、1月6日は「公現日」と言われています。これは東方からやってきた博士たちが初めて赤ん坊の救い主に対面したことを記念する日です。
 「ユダヤの王」(メシア)の誕生を知らされたのは、実はユダヤの人々ではなく、また支配者でもなく、よそ者であったというのは、意味深いことであろうと思います。
 
このヘロデ大王という男について少し詳しく解説させていただきます。こんなに非道で残虐な支配者も珍しいほどで、非常に民衆に恐れられていました。そして、ユダヤ人の古来の信仰や伝統をめちゃくちゃに叩き壊して、自分の権力を誇示しようとしました。
 私は、このマタイ福音書の著者が、ヘロデのようなユダヤを破壊する人間に対して何らかの抵抗心を持っていたのではないかと思います。
 権力による方々な破壊と、それに抵抗する思いは、現代でも変わらず対決しているものではないでしょうか。私には、今、辺野古で行われている、横暴な権力と平和を願い自然の美しさを守ろうと戦っている人びとの姿が重なって見えます。


 




 

教会の玄関へ戻る
教会の案内図へ戻る
「キリスト教・下世話なQ&A」コーナを訪ねる

牧師にメールを送る