message digest 2016

礼拝説教ダイジェスト:2016年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「彼らを愛した無名の人たち」   
聖書:ルカによる福音書2章8-14節(羊飼いたちと天使)
2016年12月25日(日)日本キリスト教団徳島北教会クリスマス主日礼拝説き明かし
 臨月のマリアとヨセフを迎え入れたのは、宿屋を商売としている家ではありませんし、彼らが夜を過ごして出産をしたのも、馬小屋や洞窟ではありませんでした。
実は「宿屋」と従来訳されてきた言葉は「客間」のことであり、一般の貧しい家屋の小さな客間のことだったという説があります。そして貧しい人たちは、馬屋と隣り合った居間で、家畜の臭いと共に日々を過ごしているのでした。
 もしそうであるならば、客間には先客がいたけれども、もし居間でよかったら……とマリアとヨセフは家の中に迎え入れられたことになり、居間と馬屋の境目に置いてある飼い葉桶に、普通の一般庶民がするように、生まれた赤ん坊を置いたということなのではないでしょうか。
 つまり、イエスは殊更に虐待的な扱いを受けたわけではないけれども、貧しい庶民の暮らしの中に生まれた。そのことによって、神は貧しい庶民の暮らしの中に現れたということを証ししようとしているのではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。

「マリアの苦労に報いるために」   
聖書:ルカによる福音書2章1-7節(イエスの誕生)
2016年12月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会アドヴェント第2主日礼拝説き明かし
 クリスマスの物語は教会や学校のページェントなどで描かれる美しいものという印象が圧倒的に強いと思います。
 しかし、読み方を変えれば、これは非常に残酷な物語、特にイエスの母マリアにとっては、とても酷なことを要求している物語と言えます。見方によってはマリアは神の子を生むための道具として利用されただけの被害者と言えるのです。
 今回は、ジェンダーセクシュアリティ的批評という方法を用いて、マリアの被害者性をあたらめて見直し、このマリアの苦労に報いるためには私たちはどんなクリスマスを迎えたら良いのかを考えてみましょう。

「祈ることしかできませんと言うけれど」   
聖書:マルコによる福音書9章29節(祈りによらねば)
2016年11月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「祈ることしかできませんが」と申し訳なさそうに言う人がおられます。他にいろいろなことができればいいのだけれど、私には能力がないからとか、体力がないからとか、距離が離れているからということで、何もできないという遠慮からそのような言葉が出てくるのでしょうか。
 挨拶がわりの「祈っていますよ」という言葉は、軽々しく感じて不快なものですが、心からの「祈っていますよ」は、おのずとその誠実さが伝わり、人を深いところから支えるものです。
 私たちは能力主義や成果主義の世の中に生きていますから、ついそのような価値観を心のうちに取り込んでしまって、「何かができなければ神様のお役に立っていないのだ」と思いがちです。
 しかし、イエスはそうでなく、「まずは祈りが必要なのだ」と言っているように思えます。イエスは、「できる」「できない」「できれば」という論理を超えて、祈りから何事も始まるということを弟子たちや人々に教えたのではないでしょうか。

「誰もが人にしてほしいこと」   
聖書:マタイによる福音書7章12節(黄金律)
2016年10月16日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 聖書には「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という黄金律の言葉が収められています。
 しかし、自分が人にしてもらいたいと思うことでも、人がしてもらいたいと思うかどうかは正直なところわかりません。
 昔から、「自分がされて嫌なことは、人にするな」という格言は、あらゆる宗教にありますが、イエスはそれらに比べて、妙に積極的で、リスキーなことを私たちに要求しているように思えます。
 果たして、イエスの本意はどこにあるのでしょうか。また、イエス自身が他の人に「してもらいたい」と思うことはなんだったのでしょうか。

「探しているのはこの俺だろう」   
聖書:ヨハネによる福音書4章1−26節(サマリアの女性とイエス)
2016年10月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 よく知られた「サマリア人の女性」とイエスと物語ですが、読み方によっては、イエスと女性とのラブストーリーのような色合いを帯びてきます。
 事実、旧約聖書では、井戸のほとりというのは、重要な愛の始まりの舞台として何度も描かれてきました。
 福音書記者ヨハネは、イエスが「私がキリストだ」とこのサマリアの女性に言ったように書いていますが、この言葉は「エゴ・エイミ」というギリシア語であり、実はヨハネは何度もこの言葉を福音書の中で用いています。
 この言葉の読みようによっては、「私がキリストだ」というよりも、単純に「俺だよ、俺」と言っているように見えます。それこそラブストーリーですね。。

「そんな難しいことができるか!」   
聖書:マタイによる福音書5章43−48節(敵を愛しなさい)
2016年9月11日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 9月11日(日)です。9.11といえば、15年前のあの同時多発テロと呼ばれる事件を思わずにはおれません。そこで、「敵を愛しない」という聖書の言葉に向き合ってみることにしました。
 この言葉を中高生たちに紹介すると、「そんな難しいことができるはずがない!」と口をそろえて言います。しかし、本当にこのことはそんなに難しいのでしょうか。
私たちは敵味方になる前に、敵味方に「されてしまう」のだということを注意しておいたほうが良いのではないでしょうか。
 テロとは恐怖という意味であり、テロリズムとは恐怖によって支配しようとすることですが、その意味でなら私たちは自国の政府によってさえも恐怖によって支配される可能性があります。
 恐怖に駆られてしまったら私たちは人を殺すし、味方をも裏切るでしょう。しかし、恐怖に心を乗っ取られる前に、「自分は恐怖によって支配されようとしているのではないか」と気づくことが大切ではないでしょうか。
 恐怖に心を支配されないように、私たちはいつも目を覚ましていないといけないのかもしれません。

「主人公は誰?」   
聖書:マルコによる福音書2章23−28節(安息日の主)
2016年9月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通り、弟子たちが麦を摘み始めたところ、ファリサイ派の人々が「安息日にしてはならないことをしている」と非難したというお話です。
 安息日というのは、ユダヤの律法の中でも特に厳しく守られた戒律ですが、イエスはこれが「人間のために定められたのであって、人間が安息日のためにあるのではない」と喝破します。
 事実、元来旧約聖書に記されている安息日の規定は、休むことによって疲れを回復するために定められた、人間に優しい戒律なのです。しかし、規則を守ること自体が神に救われる条件のように扱われるようになって、本末転倒が起こります。
 一体、戒律や規則というものの主人公は誰なのでしょうか?

「いつでも若い教会」(「新しいものは膨らんだり、縮んだり」を改題)   
聖書:マルコによる福音書2章21−22節(布切れとぶどう酒のたとえ)
2016年8月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 織りたての布と新しいぶどう酒の2つのたとえ話がワンセットになった聖書の箇所です。
 織りたての布とは、直訳すると「まだ晒していない布」となります。まだ晒していない新しい布は縮むので、古い服の破れに継ぎを当てても、古い服を引き裂いてしまうとイエスは言います。
 また、新しいぶどう酒はまだこれから発酵してゆくので、古い革袋を破裂させてしまうとイエスは言います。
 これに対して、マルコやルカはなんとかこのイエスの過激で不吉な予言にオブラートをかけて、穏便に古いものと新しいものの共存を目指します。
 私たちは、イエスか、後々の福音書記者か、どちらのスタンスで生きてゆくのでしょうか。また新しいものに向かって心を開いたキリスト教会とはどのようなものなのでしょうか。

「もはや戦うことを学びたくはない」   
聖書:イザヤ書2章1−5節(もはや戦うことを学ばない)
2016年8月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし
 平和聖日です。しかし、私たちの国にはもう既に戦争の足音が間近に迫っているように感じます。
 今日の聖書の箇所(イザヤ書2章1−5節)は、平和について語った有名な箇所ですが、実はここを含む1章から5章までは、平和を破壊し、腐敗を重ねた政権への痛烈な批判が続いています。特に2章の後半にある「財宝と偶像」に惑わされた国家の批判は、そのまま現在の日本に当てはまるようです。
 偶像崇拝が私たちを戦争に陥れる……皆さんは今この国の政権が既にあるカルト的な宗教によって牛耳られていることをご存知でしょうか。この宗教の信者は「戦争は霊魂浄化の最高の儀式」と言い切る人間を防衛大臣の座に据えることに成功しました。
 これから私たちは苦しい時代を迎えることになるでしょう。しかし、「もはや戦うことを学ばない」と涙を流しながら人々が告白するまで、忍耐して生き残ろうではありませんか。

「パンなしではなく、パンだけでもなく」   
聖書:マタイによる福音書4章1−4節(パンの誘惑)
2016年7月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスはバプテスマのヨハネのもとで断食の修行を行い、40日40夜断食したのちに悪魔の誘惑を受けたとされています。
 この時、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と述べていますが、これはどういう意味なのでしょうか。
1つはこの物語が、イエスはモーセの再来であるというマタイ福音書のテーマを再度繰り返しているということです。モーセは十戒を受ける前に40日40夜断食をしました。今イエスは新しい神の言葉を受けようとしているのだという主張です。
 もう1つは、マタイはここで、キリスト者たちの食事を象徴しようとしているのではないかということです。キリスト者の食事はただパンを食べれば終わりというわけではなく、互いに神の言葉、すなわち聖書の言葉を味わいながら共に食べるものだからです。
 さらに、この物語は「神の子」という言葉をめぐって、ローマ帝国に対する抵抗の意志も内部に秘められた物語でもあるのです。

「『タラントがたらん!』と言う人たち」   
聖書:マタイによる福音書25章14−30節(タラントンのたとえ)
2016年7月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 よく知られている「タラントンのたとえ話」ですが、おそらくほとんどの人が、金持ちの主人が神さまで、タラントンを預けられたしもべたちが人間、そしてタラントンとは個々人に与えられた才能なのだ、と解釈しています。そう解釈されるようにマタイは編集していますし、またこの解釈に基づいて「才能」という意味で「タレント」という言葉が出来上がってしまっているので、そのように思うのは自然なことです。
しかし、それでもこの物語には腑に落ちない点がいくつかあります。なぜ神は「才能」を人間に不公平に与えたのでしょうか? もっとも不公平というのは人間の悲しい現実ではありますが。
また、「才能」を活かしてさらに儲けを作ったしもべたちは評価されますが、タラントンを地に埋めていたしもべは追い出され、泣きわめくことになると言われていますが、神はそのように才能を活かしきれなかった人間を罰するのでしょうか? それがイエスの説く神なのでしょうか?
実はこの物語は、この世の資産家たちがいかに貧しい者を搾取するのか、裕福な者はもっと裕福になり、貧困者はもっと貧困になってゆくという事実を、イエスが庶民の側に立って怒りを代弁したたとえ話であると解釈できるのです。

「喜んでパンを食べ、気持ちよく酒を飲め」   
聖書:コヘレトの言葉9章7節〜10節(人生と労苦の報い)
2016年6月26日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 皆さんは、「人生は空しいなあ。生きていて何の意味があるんだろうか」と感じたことはありませんか? もし感じないのならそれは結構なことです。しかし、人生が空しいと思ってしまう時に、どんな聖書の言葉を広げたら、心の慰めになってくれるのでしょうか。そのような時のために、この分厚い聖書の真ん中のあたりに、『コヘレトの言葉』という書物が収められているのかもしれません。
 「すべては空しい」とコヘレトは言います。しかし、そのような空しい人生のなかでも唯一彼が喜びをもって称えているのは、飲み食いに関することです。「喜んで自分のパンを食べ、気持ち良く自分の酒を飲め」とコヘレトは言います。
 空しいからこんな人生を投げ捨ててしまおうというのではなく、空しいなら空しい人生を楽しんでしまおうではないかという楽観的なところがあります。これはイエスにも一脈通じるところがあるかもしれません。
 私たちは、この空しい人生を抱えて、空しさを楽しんでしまうような生き方はできないものでしょうか。そのヒントをコヘレトの言葉が与えてくれそうな気がします。

「勝手にしやがれ」   
聖書:ヨハネによる福音書7章53節〜8章11節(姦通の現場で捕らえられた女性)
2016年6月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 姦通の現場で捕らえられた女性を「石打の刑にしろ!」という男たちを前に、イエスは地面にかがんで何かを書いていたと言います。何を考え、何のためにそうしていたのでしょうか?
 私は、イエスが「もう勝手にしろ」と呆れ果てて、あほらしくなってしらけきっていたのではないかと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか?
 そもそも、姦通がいいことだとイエスが思っていたはずはないでしょう。潔癖なイエスのことですから。しかし、彼らが主張している律法の裁きは、本来人間が幸福に暮らすためのルールであって、人を断罪し死に追いやるために利用するものではありません。人を断罪するのが律法の目的ではなく、「あなたはそんなことはしないだろう。しなければ幸福に暮らせる」という、人間に期待をこめた戒めだったのです。
 最後にイエスは「私もあなたを罪に定めない。これからは罪を犯さないように」というのは、日本語では混乱する場所です。ここを正確に訳してみると、イエスの優しさがにじみ出てきます。

「生ける屍からよみがえった人」   
聖書:使徒言行録9章1-9節(聖霊が降る
2016年5月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ主日礼拝説教
 後にパウロと呼ばれるようになったサウロの回心をめぐってのお話です。
 彼の回心について使徒言行録に書かれていることは、そのまま事実であるとは捉えることは難しく、かなりルカの脚色が入っています。じっさいパウロ自身は自分の手紙の中では、そのような劇的な体験のことは語っていません。しかし、そうではあっても、この使徒言行録の記事には象徴的に大切なことが書き込まれています。
 彼の人生を全く変えてしまうような変化がどうやって起こったのか、心理学的な視点も踏まえながら考えてみましょう。

「人生いろいろで一緒に生きてゆく」   
聖書:使徒言行録2章1-13節(聖霊が降る
2016年5月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ主日礼拝説教
 ペンテコステとは聖霊降臨日とも呼ばれますが、今回はあえて、聖霊の降臨が云々といったお話ではなく、この出来事が結果的に多くの言語で福音を話すことになったという現象として描かれている点に注目してみました。
 これはのちのキリスト教がギリシア語やラテン語によって言語を統一して自らの支配力を強めていったのと、全く逆の現象が描かれています。にもかかわらず、この物語を使徒言行録に収めたルカは、この宣教活動の始まりとも言える段階で、「ひとつになる」という言葉をいくつも埋め込んでいます。
 「ひとつになる」、しかし言葉はバラバラに散開してゆく……。
 一体ルカにとって「ひとつになる」とはどういうことだったのでしょうか。そして、今­たちの教会が「ひとつになる」とはどういう生き方を指すのでしょうか。

「トマスにはトマスの言い分がある」   
聖書:ヨハネによる福音書20章24-29節(イエスとトマス
2016年5月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 いわゆる「疑い惑うトマス」としてよく知られている聖書の箇所ですが、本当にトマスだ­けが疑う人間として悪者扱いされたままでいいのかという問いを投げかけます。
 「見たから信じたのか」とトマスは言われますが、実は他の弟子たちもトマスがいない時に、イエスの傷跡を見せてもらって信じているのですね。ですから、トマスも他の弟子たちも、実はさほど違いはないわけです。
 この物語は、おそらくイエスの生身の姿を見ることができないゆえに、イエスの復活を疑い始めた人々に対する教えとしてヨハネが挿入したものでしょう。
しかし、「見ないで信じるものは幸いである」という言葉は、トマスをたしなめる言葉のように解釈することもできますが、逆に、「お前の気持ちはわかるよ。そんなもんだ」とイエスが優しく諭しているようにも解釈できます。
 私たちは、イエスの生身の姿を見ないことに、それほど悩まなくても良いのではないでしょうか。

「ここにはいない人のために良き知らせを」   
聖書:マタイによる福音書28章16−20節(大宣教命令
2016年4月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 マタイによる福音書の終盤にある、いわゆる「大宣教命令」について、率直な話、違和感を感じることがないかというお話をしました。
 マタイは、世界には(特に一神教の世界では)キリスト教以外に正しい宗教はないと思っていたでしょうが、現在はキリスト教と他の宗教が共存し合いながら平和を作り出す時代です。
 逆に、この「大宣教命令」がこれまでの歴史で、いかに多くの宗教戦争の原因になってきたかを、キリスト教会は反省すべきでしょう。
 今私たちに必要な「宣教」とは一体なんでしょうか。「福音」を宣べ伝えるとはどういうことなのでしょうか。
 それをともに考えてみたいと思います。

「死者と再会した女性」   
聖書:ヨハネによる福音書20章11−18節(マグダラのマリア、復活のイエスと出会う
2016年4月10日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説教
 イエスの復活を発見したのは、どの福音書においても女性たちであったと描かれており、中でもマグダラのマリアは常に筆頭に挙げられています。また、マグダラのマリアはイエスに最も近く、イエスの最大の理解者であったという説も近年では見られるようになりました。
 今回のヨハネの物語では、マリアが2度も「振り向いた」と書かれています。だぜ2度も書かれているかはともかくとして、ここでは「振り向く」ということが大変重要な単語として使われています。
 「振り向く」とは「改宗する」とも訳せる単語ですが、マグダラのマリアは何を変化させることで、遺体のイエスから今も生きているイエスに目を転じることができたのでしょうか。そして、イエスが復活することと、私たち自身が復活するということは、どのような関係があるのでしょうか。

「イエスよ、私を思い出してください」   
聖書:ルカによる福音書23章39−43節(イエス、十字架にかけられる
2016年3月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説教
 イエスと共に十字架につけられた犯罪人たちは、イエスを罵ったり、それをたしなめたり­します。しかし、二人とも同じように、この世において完全に孤独なままに死んでいこう­とする寂しい存在でした。
一人の犯罪人は「イエスよ、御国においでになるときには、私を思い出してください」と­言います。「御国に入れてください」とはとても言えない。しかし、ただ思い出してくれ­るだけでいいから、というこの言葉が彼の深い孤独を示しています。
 これに対してイエスは「今日私と一緒に『楽園』にいるだろう」と答えます。「御国」と­いう願いに対して「楽園」と答えるのです。「楽園」とは人間本来の神と結びついたあり­方のことを指します。たとえ苦しみにあっても、共にイエスはどこまでも人間と結びつい­ていてくれる。そのことを「楽園」という言葉で表現したのではないでしょうか。

「人は人らしく生きてください」   
聖書:使徒言行録8章26−38節(フィリポの伝道
2016年2月28日(日)日本キリスト教団鴨東教会主日礼拝説教
 福音伝道者フィリポとエチオピアの宦官との出会いと、聖書の説き明かし、そして洗礼を­通じて、「人間ではない」とされた人間を「人間にする」という業こそが福音であり、宣­教であるというお話をさせていただきました。
 フィリポの時代、宦官はユダヤ人にとっては「追放されるべき存在」でした。それにもましてエチオピア人の宦官ですから、ユダヤ人にとっては人間以下の存在なのです。しかしこの宦官は懸命にイエスのことを預言しているとされたイザヤ書53章を学ぼうとしていました。
 フィリポにとっては、イエスを受け容れ信じるのならば、宦官であることも異邦人であることも、まったく問題になりませんでした。そして即座に洗礼を授けました。
 これはいわば、「人間でない」とされていた人に対して、「あなたも(神に愛された)人間である」という宣言です。そして宦官は「喜びにあふれて」その人生の歩みを続けてゆきました。
 昔も今も、非人間化する勢力はいつも世の中に力をふるっています。しかし、私たちは人間でない扱いを受けた人をもう一度人間化する。これが「福音」であり、「宣教」なのではないでしょうか。

「私の中のペトロ」   
聖書:マルコによる福音書14章66−72節(ペトロ、3度イエスを知らないと言う
2016年3月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスを3度裏切ったと言われるペトロですが、「裏切り」という行為は彼やユダだけに見られることではありません。
 私たちの中で、人を裏切らずに生きてきたこと人間がいるでしょうか。人間というのは、個人差はあれ、さほど強い者ではなく、また移ろいやすい者で、しかも結局は自分が可愛い者なのではないでしょうか。
 ペトロにとってイエスがあらかじめ彼の裏切りを知っていたということは実は大きな慰めであったかもしれません。イエスは彼の裏切りを知っていても、彼を咎めたり叱ったり呪ったりは一切しませんでした。
 このことでペトロも、そしてこの福音書を最初に読んだ読者の信徒たちも、イエスへの信仰が試された時に、どんなにか慰めを見出したのではないでしょうか。

「取り越し苦労はやめよう」   
聖書:マルコによる福音書13章3−13節(終末の徴
2016年2月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 福音書記者マルコは、世に戦争のうわさや騒ぎが起き、父が息子を死に追いやり、息子が­父に反抗して殺す世界がやってくると予言しています。そしてキリスト者が人々に憎まれ­、引き渡され、連れて行かれる時が来るとも言っています。
 これはまるで私たちがこの日本において対峙しようとしている状況を予期しているような­言葉です。私たちは今、このままでは戦時体制のような状況に持ってゆかれようとしてい­るのですが、この体制の中でキリスト者として証を立てるためには、主の平和を唱えなく­てはなりません。しかし、平和を唱えること自体が体制批判となり、反抗者として罰せら­れる時代がすぐそこまで来ようとしているのではないでしょうか。
 私たちは聖霊に全てを任せて、教えられた通りに話し、取り越し苦労などしなくてもこの­状況を乗り越えることができるのでしょうか。

「空き家に悪霊が入り込む」   
聖書:マタイによる福音書12章43−45節(汚れた霊が住み着く
2016年2月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 『悪の力』という本によれば、行き過ぎた資本主義のために人間の空虚な心に悪を養う温床ができるのだということでした。
資本主義を根本的に批判するかどうかはここでは置くとして、行き過ぎた拝金主義が空虚な心の中に、悪の芽を植え付けてゆくということは言えるのではないでしょうか。
 何のために、何をして生きるのか。自分が生きることの意味は何か。そのような事柄に対する問題意識や、生きる喜びを見失っている状態の人間に救うのはエゴイズムであり、エゴイズムを具体的な形にするのがお金への欲望です。
 個人的に悪人とは言えないような人が、お金のために全く無自覚に悪に手を染めてゆくのです。
 そのことをイエスは気づいていて、心が空っぽのやつはろくなことを考えないよ、ということを伝えようとしたのではないでしょうか。

「愛する前に愛されていた」   
聖書:ルカによる福音書7章44-50節(イエスの足をぬぐった女
2016年1月24日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ファリサイ派の人と一緒に食事をしていたイエスのもとに香油を持った女性が近づき、涙で足を拭い、香油をイエスの両足にかけました。
 イエスは彼女の罪がすでに赦されていると宣言します。しかし彼女はそれを最初から分かっていたでしょうか? 彼女はどういう思いでこの周囲の男性たちのやりとりを聞いていたのでしょうか?
 この女性の境遇については詳しいことはわかりません。しかし、彼女が「自分は汚れている」という意識を持っていたことは確かなように思われます。それをイエスなら理解してくれる、受け入れてくれると思ったのではないか。しかし、イエスは「この女の人はすでに赦されているんだ」と宣言します。彼女が赦しを求める前に、もうすでに赦されていると言ったのでした。

 そのような事の背景
に思いを巡らせながら、罪と赦し、救いについて考えてみました。

「人間になる。教会になる。」   
聖書:ヨハネによる福音書5章1-5節(わたしはぶどうの
2016年1月10日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 生物学的に人間であることと、本当に人間として生きること、また人間として扱われることは違います。本当に人間になるということが、救われるということなんですね。
 そして、そのような人間を人間にする業を広げて行くのが、教会です。教会は教会という建物に行くことではありません。教会には「行く」ことが大事ではなく、私たち自身が常に教会で「ある」こと。教会で「あろうとし続けること」が大切であり、それはたとえ教­会の街道を離れていたとしても、それぞれの持ち場で行えることです。
 教会に来ることより、教会から送り出されて、教会から出てゆき、誰かを人間として大切に扱う、大切に接する。人間とされていなかった人を、人間にする。それが大切なことなんですね。

 それが、私たちがそれぞれの生きている場で、教会の枝であろうとすること。教会で「あろうとすること」なのです。

 




 

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