message digest 2017

礼拝説教ダイジェスト:2017年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
本文をお読みになる場合は、要旨のタイトルの横にある木のボタンをクリックしてください。

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【メッセージの要旨】

「怒りのやり場に困るとき」   
聖書:詩編40章15-16節(わたしの敵が破滅しますように
2017年10月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝宣教
 詩編という文書には、怒りの言葉が数多く散りばめられています。イスラエルの敵に対して、「滅ぼしてください」と神に願う文言が多すぎるほど多いのです。ですから、交読詩編で読む箇所を選ぶのが大変です。
この「滅ぼしてください」はイエスの「敵を愛しなさい」とは真逆のメッセージのように思われます。しかし、この詩編を私たちキリスト教会は長く歌ってきました。ということは、キリスト教の礼拝は怒りを否定しないということになります。
そもそもこの詩編がユダヤ教の時代から歌われ継いできたのは、自分たちでこの怒りを果たすことができなかったからではないでしょうか。怒りや悲しみ、恨みを神に委託せざるをえない弱者の嘆き節だったのではないでしょうか。
私たちは怒りの感情まで否定してしまえとは言われていないのかもしれません。怒りつつ、しかし愛するということができるのではないでしょうか。

「マグダラのマリアの伝説」   
聖書:マルコによる福音書16章9−11節(結び 1
2017年10月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝宣教
 マグダラのマリアは、実は近年では、イエスの第一の使徒だったのではないかと注目されている女性です。
 今回はテクストとしてマルコによる福音書の16章9節以降を取り上げましたが、ここは本来のマルコ福音書ではなく、後から継ぎ足された部分であるとされています。しかし、マグダラのマリアが「イエスに7つの悪霊を追い出したいただいた」と記しているのは、実はここだけです。
 この「7つの悪霊を追い出していただいた」という伝承は、ひょっとしたら、マグダラのマリアのことをよく知っている女性の教会の人々かもしれません。この教会の人々が、マグダラのマリアとイエスの親しさを記憶していたのではないのでしょうか。
 マグダラのマリアに注目することは、初期のキリスト教会で女性の地位がどのようなものであったのかということ、また現在の私たちの教会のあり方についても、示唆を与えるものであると思います。

「地層に埋もれたままではなく」   
聖書:ヨハネによる福音書20章24−29節(イエスとトマス
2017年9月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝宣教
 私はイエスのファンです。イスラエルに旅行し、エルサレムを訪問した時、発掘されたイエス時代の道路を目の当たりにして、思わず生身のイエスに近づいた気がして感動しました。
 しかし、筋金入りのイエス・ファンは、ただイエスの面影を追いかけるだけではまだ十分とは言えません。真のイエス・ファンは、彼の遺体や遺物、遺跡を「見なくても信じる者」となり、今、イエスと共に生きようとする者です。
 イエスの生きようとした人生、イエスが伝えようとした思い、それと共に生きることが、今の私たちの人生の意味をも深めてくれるのです。

「朝に夕に神の呼びかけを思い起こそう」   
聖書:申命記6章4−15節(シェマー・イスラエル
2017年9月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝宣教
 イスラエルのユダヤ人の家の玄関には「メズザ」という小さな細長い箱が取り付けてあります。ホテルの客室についている場合もあります。この中に入っているのは、申命記6章4節以降の言葉、「聞けイスラエルよ」(シェマー・イスラエル)という言葉です。
 イスラエル人は朝に夕に、玄関をくぐるたび、この「シェマー」の箱を目にし、自分たちが「シェマー(聞け)」と呼びかけられていることを思い出すことができます。
 この「シェマー」の祈りの文面には、イスラエルが決してエルサレムの都を自分たちだけの力で建設したのではない、神の介添えがなければ絶対に成り立たなかったのだということ。またイスラエルの原点はエジプトから解放にあったのだということを訴えかけています。
 ここに表れているのは、イスラエルが強烈な自主、自立、自由を求める民族であるということではないかと思います。そして、その根底にあるのは、朝に夕に思い起こすことのできる神の存在への意識です。
 唯一の神が唯一の存在である自分を守ってくれている、という強烈な感覚を、同じ神を信じているはずの私たちも持つことができるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

「2つの祈り~シャロームの完成に向かって~」   
聖書:コヘレトの言葉3章1−8節(すべてに時がある
2017年8月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会平和聖日礼拝宣教
 2つの詩を紹介します。
 1つは海上自衛隊の歌姫と呼ばれている方の「祈り」という歌です。もう1つは「自衛官の祈り」という詩です。どちらにも「祈り」という言葉が使われています。
 前者は主に災害救助に当たっての自衛官の祈り、また後者は安全保障に当たっての自衛官の祈りと解釈できるかもしれません。しかし後者の方が、より具体的に究極的な平和への願いが明確化されているように感じます。
 コヘレトの言葉の、よく知られた「すべてのことに時がある」という詩も、最終的には究極の平和「シャローム」が志されているという点が特質であろうと思われます。
 シャロームというヘブライ語は完全という意味も持ちます。神の創造の業の完成はシャロームなのです。このシャロームの実現を待ち望み、その創造の業に参加してゆくことを私たちは志したいものです。

「イエスにとっての『父』」   
聖書:ヨハネによる福音書5章19-23節(父と子の権威
2017年7月16日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝宣教
 ヨハネによる福音書における、父(神)が子(イエス)に全権を委任していることを子が宣言している場面ですが、私はここがどうも上から目線のイエスの描き方のようで、好きではありません。
 しかし、ヨハネがそのようにイエスを捉えていたということであって、実際のイエスが「父」のことをどう考えていたのかというのは別の話です。
イエスは父なる神を「アッバ」と呼びました。これ「パパ」くらいの意味の親しげな呼び方です。このように神を呼んだので彼は権威主義者たちから恨まれたわけですが、一体なぜ彼は神を「アッバ」と呼んだのでしょうか。
 いろいろな可能性がありますが、彼は実の父を知らなかったのではないかと思われます。しかしその反面、彼は父に愛された経験があるとしか思えない人格の形跡をも残しています。
 イエスの父とは一体誰だったのでしょうか。

「神のお気に入りの作品」   
聖書:創世記1章31節(神はすべてを良しとした
2017年7月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝宣教
 創世記1章の天地創造物語は、祭司資料と呼ばれる資料から編集されたもので、書かれたのは紀元前6世紀のバビロン捕囚の時期であったと推定されています。
バビロニアに敗戦し、強制連行され、自分たちの宗教も文化も言語も存続の危機にさらされたユダヤ人たちは、それを守るために「聖書」という書物を編纂し始めました。そして、聖書は「動く神殿」と呼ばれ、どこにでも持ち運びできる民族のアイデンティティとなったのです。
この祭司資料の天地創造物語は、混沌から秩序を生み出す神の創造の業、また出来上がった作品を神が「良し」とされたという記述がその特質となっています。そこには、国土も聖地も破壊され、混沌の中をさまようような自民族のあり方に対して、神が与えた秩序を取り戻そうとするかのような思いが刻まれているとする学者もいます。
「良い」というヘブライ語は「美しい」という意味も含んでいると言います。神が造った作品は本来的、本質的に美しいものなのです。そして神はその作品を見て、惚れ惚れとしているのです。
私たちは自分たちが「良いもの」であり「美しいもの」であることを思い出しても良いのではないでしょうか。私たちは神の美しい子どもなのです。それを信じようではありませんか。

「あなたらしく信じる権利」   
聖書:使徒言行録2章1-4節(聖霊が降る
2017年6月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝宣教
 ペンテコステに実際に起こったことは一体何だったのでしょうか。
 おそらくこれは十二人の使徒たちだけではなく、その他の大勢の人による草の根の聖霊刷新運動だったのでしょう。
 女性のリーダーたちを含む「皆」と呼ばれる人たちの間で、イエスの生と死を受けとめ直し、「一同」で熱心に祈っていた。その中で聖霊体験が広まっていったのでしょう。
 その聖霊体験がやがて大きな運動となり、無視できないほど大きくなって公的に初代教会の中で認められたのが、五旬祭の頃であったということなのでしょう。
 各国の言葉で話し出したとありますが、私たちは言葉が同じであるとたくさんの誤解や対立を生みますが、言葉が異なっていると、一生懸命に相手のことを知り、言わんとすることを理解しようとするのではないでしょうか。
 自分なりの信仰を、自分の言葉で言い表す。聖霊に満たされてそれを行う。そのことが大事にされている聖書の箇所なのです。

「祈らずにおれないことを祈ろう」   
聖書:ルカによる福音書11章1-4節(主の祈り
2017年5月28日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 今日は主の祈りのルカ版のテクストを題材にしてみました。こちらの方がマタイ版よりも簡潔で荒削りです。
 これはイエスがでしたちに教えたもっとも簡潔な祈りと言われますが、要するに神様に関すること2項目と、人間の願いが3項目です。
 中でも人間自身に関する願いの筆頭は食事に関することです。
 そして、罪を赦してくださいということと、誘惑に合わせないでくださいということ。いずれも日々の平安な暮らしを守ってくださいという願いに通じています。
 この祈り以上のことは特段必要とされていませんし、「長々と祈るな」というイエスの言葉も残されていますから、命は長くなくてもいいんですが、それでもどうしても長くなってしまう時というのはあります。
 それは自分や自分にとって大切な人が災害に遭ったり、病気や大怪我を受けたり、その他様々な危機にさらされた時です。その時は、祈りの言葉がたくさん出てくるのではないでしょうか。
 そして、もし浮かばなかったとしても、その場合は基本に戻れば良いのです。「御名があがめられますように、御国が来ますように……」から始めれば良いのです。

「DVの神を打ち破ったイエス」   
聖書:創世記8章20-22(神は二度としない
2017年5月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ノアの箱舟物語の終盤、ノアが神をなだめた時、主(ヤハウェ)が「人間が心に思うことは幼い頃から悪いのだ。もう大地を呪うことは二度とすまい」と言ったことにどうしても納得ができません。「人間は幼い時から悪い」、そのことを後から言うのは許せない。ならばなぜ暴力を振るう前にそれを考えなかったのでしょうか。
 ヤハウェは確かに全地の人間を滅ぼすことはもうしませんが、旧約聖書の中では相変わらず、気にくわない人間をどんどん殺してゆきます。
 このようなヤハウェ像には、昔から父権主義的だった古代のユダヤ人のDV夫的な男性像が投影されているように私には感じます。そして、伝統的な祭司たちは皆このような父なる神像を忠実に守り、「やハウェに逆らえば、殺される。殺されないためには献げ物をせよ」と教えてきたのでした。
 しかし、イエスはこのような暴力的な神のイメージを刷新しました。そして、「献げ物よりも大切なことがある」「私が求めるのは生贄ではなく憐れみである」と主張しました。
 これは当時の祭司たちが主催する神殿の聖なる儀式を真っ向から否定するものでしたから、イエスが殺されたのも不思議はありません。しかし、イエスは命をかけて、DVの父親のような神像から人々を解放しようとしたのです。

「母なる神の創造のわざ」   
聖書:詩編139章13-18節(母の胎内での創造
2017年5月14日(日)日本キリスト教団徳島北教会母の日礼拝説き明かし
 神を把握するために人間は昔からいろいろなイメージを創造し、神に投影してきました。例えば、「父なる神」、「主なる神」などです。しかし、それらは皆、権威的で暴力的な男性のイメージばかりです。イメージというのは単なる方便にすぎないものなのですが、いつの間にか人間は、それが神の真実の姿だと思ったように勘違いしがちです。
 私の好きな神のイメージには「友なる神」、「友なるイエス」というものがあります。また、今日の聖書の箇所には、母性や出産を通じて神の人間創造のわざを証しようとする糸が感じられます。
 天地創造の人間づくりとは違って、ここで人間を生み出そうとする神のわざは大変女性的です。ここで描かれているのは「母なる神」と言っても良いでしょう。
 私たちは、「父なる神」というイメージから解放され、「父でもあり、母でもあり、友でもあり、その他すべてのものになりうる神」を信じたいと思うのです。

「イエスの息吹を呼吸しよう」   
聖書:マルコによる福音書18章1−8節(空っぽの墓
2017年4月16日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
   イースター、おめでとうございます。
 古代の人たちは、人間が死んだら地中に埋められて、そのまま地中深く降って行き、地の底の陰府の世界に行って、眠りにつくと考えていました。
 しかし、現代の私たちは、そのようなことが 起こっているわけではないということを知っています。また一度死んだ個体が蘇生して、自力で墓から出てくるといことがないのも知っています。そして、この科学的法則は、現代も古代も変わっているわけではないと知っています。
 ということは、現代の私たちも、古代の最初のクリスチャンたちも、別に肉体のまま蘇ったイエスを見て、「イエスは復活した!」と告白したわけではないのです。この点では、実は私たちも古代の人たちも同じ地点に立っているのです。
 では、なぜ最初のクリスチャンたちは、イエスの肉体の蘇生を見たわけでもないのに、「イエスは復活した(イエスは起こされた)」と言ったのでしょうか。

「聖書を読む喜び」   
聖書:ヨハネによる福音書5章39−40節(聖書を研究する者
2017年4月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
  聖書を読む喜び、というタイトルをつけましたが、実は聖書を読む喜びというのは、一人一人異なります。ただ私は、自分がどのように聖書を読むことに喜びを感じているのかをお話しすることができるだけです。
 聖書はその著者が自分の社会的背景、立場、思想、読み手と想定した読者への意識など、様々な要因で書かれた文書の寄せ集めであるため、文書と文書が互いに矛盾をはらんでいたり、論争をしていたりするものがほとんどです。
 しかし、その違いを見据えて、実に様々な意見が聖書の中に存在するその多様性を認めて、私は喜びを感じるのです。
 なぜかというと、それが人間の現実というものであり、まだ聖書が多様である以上私たちも自由であることが許されているということだからです。私たちは特定の聖書の言葉に縛られる必要はないのです。
 聖書を座右の銘とし、支えの石としつつも、私たちは聖書に縛られることなく、自分の道を行けば良いのです。

「信仰こそ旅路を導く杖」   
聖書:ルカによる福音書4章1−13節(荒れ野での誘惑
2017年3月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レントの季節はただ飲食を制限するのが目的なのではなく、華美な行事をやめ、目標を定めて修練し、勉強の励むというのが本来の過ごし方です。修練や勉学に集中するために、余分なことを断捨離してゆく時期と見ることもできます。
 そもそも、レントを40日間(四旬節)としたのは、イエスが宣教活動に出る間、砂漠で40日の試練にあったということにちなんでいます。イエスはこの40日間の試練で何を得たのでしょうか。
 1つには、自分の力を過信しないということです。もう1つは、財産や権力の力を過信しないということです。そして最後は、神の力を過信しないということです。つまり、人間が依存しがちな3つの要素を過信せず、むしろそこから自由になるということです。イエスがまずそのような真の自由人になろうとしたのでした。
 信のあるべき姿とは、しっかりと自分で歩もうとする人の支えとしての第3の足です。杖がなくても元気な人は歩いて行けますが、杖があることで弱った時、支えが欲しい時には頼りにすることができます。またそれは自分が野垂れ死にしてしまった時には、1本の墓になります。つまり常に死を意識しながら、神と共に生きるということが信仰という杖なのです。
 人は杖だけで歩くものではありません。しかし、自分の足だけで歩くものでもありません。信仰は旅路を導く杖です。

「苦しみの意味」   
聖書:ローマの信徒への手紙5章3−4節(苦難は忍耐を、忍耐は練達に、練達は希望に
2017年3月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 最近、自分の約10年間の苦しみを清算するように吐き出して文章化するという機会に恵まれました。そのことによって私は、自分の苦しみや悩み、そして病が、自分だけのせいではないことに気づき、自分を傷つけた人々や出来事について客観的に見直すことができました。
 それだけでもかなり癒されたのですが、まだ残っていた課題がありました。それはなぜ自分がそのような苦しみを受けなくてはいけなかったのかということです。
 苦しみを受ける理由は様々にあります。その理由を明らかにすることも大事ですが、ではなぜ私がその苦しみを受けなくてはいけないのかという意味を知ることもとても大切です。
 フランクルという人は、人間の生きるには3つの意味があると唱えました。その3つをご紹介いたします。それによって、私たちがどのように自分の苦しみを受け止め、生きてゆくのかを一緒に考えましょう。

「良心が全身に充満した人間」   
聖書:エフェソの信徒への手紙3章14-19節(愛にしっかりと立つ
2017年2月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 同志社の創立者新島襄は、その死の床において、教え子に聖書を朗読することを求めました。それが本日の聖書の箇所であるエフェソの信徒への手紙4章でした。
 この聖書の箇所は、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さといった三次元的な表現で、いかにそれが大きなものであるかを美しく物語っています。
 またここで注目すべきは「深さ」です。神は通常高いところにおられるようにイメージされますが、実は深みをも携えた方です。
 パウル・ティリッヒという神学者は「存在の根底」という言葉を使いましたが、実は神をイメージしようとする時、上ではなく、下を向くことの可能性を彼は示しました。
 私たちは、この大きな深みを持つ神の愛に包まれて生きていくのであります。

「裏切り・沈黙・赦し」   
聖書:マルコによる福音書14章66−72節(ペトロ、イエスを知らないと言う
2017年2月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 みなさんは、遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙〜サイレンス〜』をもうご覧になりましたか? 17世紀の日本・長崎を舞台にした、キリシタン弾圧をめぐるカクレキリシタンたちと宣教師たちのドラマです。
 この物語に登場するキチジローという人物は、自分の命惜しさに家族も仲間も裏切り、踏み絵を踏んで十字架に唾を吐きかけます。しかし、何度もそうやって裏切っては、しばらくすると舞い戻ってきて、ロドリゴという宣教師に何度も赦しの秘蹟を乞い願うのです。
 ここに、イエスの名を何度も知らないというペトロの姿が二重写しにされていると言えます。情けなく、自分の身ばかりが可愛くて、平気で人を裏切り、神を裏切り、そして、泣いて赦してくれと戻ってくる。この薄汚い人物はペトロなのです。
 しかし、沈黙の神はそのようなペトロを用いて、イエスの残した弟子達の面倒を見るようにと託しました。ペトロがどんなに薄汚い人間であっても、それを無限に赦す神の愛があるからこそ、彼は何度も立ち上がり、自分に託された使命を果たすことができるのです。

「愛されなかった人が愛される」   
聖書:使徒言行録8章26-40節(宦官とフィリポ
2017年1月22日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 テクストは「フィリポと宦官」のエピソードです。
 このエピソードは、聖書の時代におけるセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)に対して、初代の教会の宣教者たちがどのように応じたかを物語るものであり、聖書の中では珍しくセクシュアル・マイノリティに好意的な記事です。聖書のなかには、セクシュアル・マイノリティに関する攻撃的な記事が多く、そのために聖書を読むのは嫌だという人もいます。しかし、このフィリポと宦官の記事は私たちに希望を与えてくれるものではないかと思われます。

 また、今回の説き明かしでは、フィリポだけではなく、イエスがセクシュアル・マイノリティに対してどのような態度をとって、どのような発言をしていたのかをも検証してみたいと思います。

「信じるものがあるために苦しむ」   
聖書:ルカによる福音書2章22-35節(神殿に捧げられる
2017年1月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年主日礼拝説き明かし
 1月6日はエピファニー(公現日)、この日はその直後の日曜日ですので、公現のあとイエスとその家族に何が起こったかを語る聖書の箇所をテクストに選んでみました。
 イエスを神殿に捧げ、感謝の犠牲を捧げようとエルサレムにやってくると、シメオンという老人が寄ってきて、イエスは自分が待ち望んでいたメシアだと告げます。
しかし、そのメシアは、人々の賞賛されるのではなく、人々を倒したり、立ち上がらせたり、また反対されるために定められているというのです。また母マリアも「剣で心を刺し貫かれる」と予言されてしまいました。
 ここには当時一般の人々が考えていたメシア像と全く違うメシア像が語られていると考えられるでしょう。そして、それはイエスのその後の生涯を要約して説明するものでもあったのです。

 




 

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