message digest 2018

礼拝説教ダイジェスト:2018年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
本文をお読みになる場合は、要旨のタイトルの横にある木のボタンをクリックしてください。

教会の玄関に戻る 
礼拝堂の入口に戻る 
 

【メッセージの要旨】

「善人すぎず、悪人すぎず」   
聖書:マタイによる福音書5編45節後半(悪人にも善人にも
2018年2月4日(火)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人ににも雨を降らせる」というイエスの言葉は、真面目に法を守り、死後天国に行けるようにと日々努力の生活を送っている人が怒り出すような話です。
 善人であろうとし、正しいものであろうとする宗教者は特に頭にくることでしょう。事実、このような物言いを続けたおかげでイエスは自分の死を早めたのかもしれません。
 しかし、イエスの立ち位置は、「努力すればなんとかなる」「あいつは努力しなかったからダメになったんだ」と思える人の側ではなく、努力が報われなかった人、勝てなかった人、人生に破れてしまった人などの側です。
 実際、私たち人間は、みんな努力をしたからと言って、その努力が評価されるとは限りません。善人にも悪人にもなりきれず、正しい者にもなりきれない、そんな存在が大多数のはずです。そういう意味ではイエスは大変リアリストだったのかもしれません。
 イエスは人生のリアルな現実の、辛い側の人に寄り添ってくれるのです。


「My Eyes Were Fulfilled With Many Tears」   
聖書:詩編126編5-6節(涙と共に種まく人)
2018年1月23日(火)学校法人同志社創立者永眠記念祈祷会奨励
 新島襄の晩年の漢詩に、「庭上の一寒梅」というものがあり、その中に「笑うて風雪を侵して開く」という1節があります。実はその2年前に新島は「寒梅の詩」という詩を教え子に送っています。こちらには「敢えて風雪を侵して開く」という一言が収められています。
 この2年の間に、新島襄には何が起こったのでしょうか。思い通りにならない身体、すぐには効果をもたらさない募金運動など、彼は何度も涙したことでしょう。彼は「涙徳の人」と呼ばれるほど、よく泣く人であったからです。この「庭上の一寒梅」も、そのような涙の奥から笑っているような切なさを感じさせます。
 涙と言えば、新島がアメリカについたとき、ハーディ氏が自分のスポンサーとなってくれることを知った時も、新島は涙しました。そして彼は、不慣れな英語で懸命に「脱国の理由書」を書きあげ、ついに「神は私を見捨てないだろう」という信仰告白を表明するのでした。


「人間の創造と宗教の起源」   
聖書:創世記2章1-5節(天地の創造)
2018年1月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 宇宙の始まりは今から140億年ほど前、地球の始まりは今から47億年ほど前、ホモ・サピエンスの発生は20万年ほど前。細かい数字は異論はあれど、だいたい自然科学の研究成果を受け入れておきたいと思います。そして、宗教の起源も20万年ほど前、最初は埋葬儀礼から始まったようです。
同時にアニミズムも始まり、その時代が長かったのですが、おそらく地上で最初に唯一神教がイスラエル民族によって発明されました。しかし、その唯一神教は、非常に大きい罪意識とセットになって教義を発展させていったのです。
イエスはその罪と贖いの教義を打ち壊す形で、祭司階級によって支配されていたユダヤ教に反旗を翻しました。そのため、当時の宗教によって死に追いやられました。
しかし、私たちはそのイエスが私たちを罪意識の自己責任論から解放してくれたのであり、そして彼の解放のわざが今も続いていることを信じているのです。


「新しいことは始まっている」   
聖書:イザヤ書43章18-20節(荒れ野に水を)
2018年1月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 あけましておめでとうございます。
 イスラームに「ジハード」という言葉があり、散々に誤解されていますが、これは「神様のために努力・奮闘すること」という意味です。私たちの日常の人生において、神に愛されているから自ずと動かずにはおれないことを、一生懸命にすることです。
 この新しい1年の始まりにあたり、私はこれといって新しい目標を立てているわけではありませんが、これまでにも続けてきた努力をさらに続けて行くということを考えているのみです。
 今回お読みしているイザヤ書の箇所は、特にバビロン捕囚から解放されて、新しいユダヤ人国家を再建しようとしている預言者の希望の満ちた言葉を記録しています。
 しかし、預言者が置かれていたのは絶望としか言いえないような状況でした。絶望的状況であるにもかかわらず、預言者の目には神が行う奇跡が見えていたのです。
 私たちの置かれているこの日本社会も、全く希望が見えない状況であるかのように見えます。しかし、絶望的状況であるからこそ、神の奇跡が起こるというビジョンを抱いていたいのです。
 新しいことはもう始まっています。すでに芽は生えているのです。この神の計画に、私たちも参加して行きましょう。。


 




 

教会の玄関へ戻る
教会の案内図へ戻る
「キリスト教・下世話なQ&A」コーナを訪ねる

牧師にメールを送る