message digest 2018

礼拝説教ダイジェスト:2018年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「祈りのプラクティス」   
聖書:マタイによる福音書6章5−8節(独りで祈りなさい
2018年7月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 私は信仰心も宗教も脳の働きの一つだと思っています。
 スポーツや言語の習得では特定の神経のニューロンが発達し、ニューロンの結びつきが強く、太くなることでその技能に習熟することがわかってきていますが、信仰においても同じことが当てはまるのではないかと思っているのです。
 残念ながら、脳科学から見た宗教の分野の研究は、あまり多くの人には注目されていないようです。ですから、より有効に信仰心を深め、幸福な宗教生活を送るプラクティスの方法というものは開発されていません。しかし、それもいつかは可能となるでしょう。
 現時点ではイエスの提案したプラクティスは非常に理にかなったものに思えます。
 彼は、誰からも見られない、誰にも知られない場所で、一人で神に祈りなさいと教えました。こうすればあなたは、本当の自分自身を神の前に開け放って神に語りかけることができます。あなたが祈っているということを誰にも知られないこと。それが大切なことなのです。

「正しい人になるか、善い人になるか」   
聖書:ルカによる福音書10章25−37節(善いサマリア人のたとえ
2018年7月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 有名な「善いサマリア人」のたとえ話の語られる場面です。
 律法の専門家はイエスに「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいのか?」と問います。イエスによって、その人はすでに正解を知っていることがわかります。それは模範回答です。
 イエスもイエスで、その模範解答を「やってみなさい」と言って追い詰めますが、ここにそもそもこの律法の専門家を真剣に相手をする人だと思っていないことが現れています。
 律法の専門家はそれに気づいて負けじとイエスにつめ寄るのですが、イエスはもうこの口論を続ける気は無く、たとえ話を語り始めます。
 そして、改めて正解を求めるのです。もう律法の専門家には応える術がありません。
 このやり方は、あまり感心しません。イエスといえども必ずしも誰に対しても愛情深く接したわけではないということがわかります。
 しかし、イエスはそういう人です。弱い人には優しいけれども、強い人には優しくはないのです。正しい人には冷たいけれども、正しさより愛を大切にする人には温かい。
 正しい人であるか、善い人であるか。もちろん私たちはどちらにも徹底することもできない人間ではありますが、宗教というものはとかく「正しさ」のために愛を切り捨てることもありうるのだということを胸に留めておきたいと思います。

「働かざる者、大いに食うべし」   
聖書:テサロニケの信徒への手紙(二)3章6−12節(自分で得たパンを食べるように
2018年6月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「働かざる者食うべからず」という言葉は、「誰のおかげでメシを食ってるんじゃ」という言葉と共に、子どもに対する虐待になります。それは物理的な暴力ではなく、精神的な暴力です。そんなことを言われると、子どもはその生きていること自体を否定され、生きていることに常に罪悪感を持ち始めます。そしてその虐待は、呪いのようにその人に乗り移り、さらにその子供にまで虐待が継承されがちなのです。
 しかし、この第2のテサロニケ書簡を書いた人は、いったいどこまで考えていたのでしょうか。失業者に対して、「おまえたちには食べる権利がないのだ」と言っているのでしょうか。
 そして、イエス自身がこのような場面に出くわしていたときには、同じように「働かざる者食わざるべし」などということを言ったでしょうか。
 聖書1冊のなかにも、さまざまな労働観、生活観なんどが混在しています。私たちはどれをもっとも参考にしなければならないのでしょうか。

「たくさんの人格、ひとつの身体」   
聖書:コリントの信徒への手紙(一)12章12−13節(ひとつの身体、ひとつの霊
2018年6月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 2018年5月に行われた、メーガン・マークルさんとハリー王子の結婚式をご覧になりましたか? アフリカ系アメリカ人の司教がイギリスの王室の結婚式礼拝で説教をした。その説教の内容が話題を呼んでいます。
 もちろん福音派からは非難轟々ですが、リベラルなキリスト教会の間では画期的な内容として、高評価をえました。雅歌を引用し、キング牧師をリスペクトしたその内容には、わたしも感銘を受けました。
 またほぼ同時期にチリでは、ローマ教皇が同性愛者の性的虐待被害者に、「(あなたが性的少数者であることは)問題ではない。神があなたをそのように作ったのだ。他の人々のいうことを気にしないように」と告げました。
 こうして、賛否両論を巻き起こしながらも、世界のキリスト教は動いています。日本のキリスト教はどうなっているのでしょうか?


「キリスト教のこれから」   
聖書:コリントの信徒への手紙(二)4章8−9節(苦難から希望へ
2018年5月27日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 今日はキリスト教がこれからどんな事態を迎えるのか、どう変わっていこうとしているのかを、私が知る限りで申し述べて見たいと思います。
 まず、もうキリスト教は教義や神学を信じ込み、それで人を義であるとか不義であるとか判断する時代は終わりました。そうではなく、純粋に命の存在を無条件に尊ぶというシンプルな宗教が求められるようになっています。
 次に、教会の地域性は崩壊します。その代わり、距離や時差を超えたネットワークによる新しい教会共同体が生まれるでしょう。またそのような共同体を作らざるをえないと思います。
 最後に、日本のキリスト教は必ず日本の政府の道徳教育政策と衝突し対立します。私たちは自分たちに降りかかる困難と戦わなければならないのですが、それは真綿で首を絞めるように、ゆっくりゆっくりと我々を追い詰めるため、今からよく学び常に対策を考えておかねば、対応は無理でしょう。
 こうして、私たちは新たな、しかしやんわりとした苦難の時代を迎えるのです。


「人生に練達し、魂を成熟させよう」   
聖書:ローマの信徒への手紙5章3−4節(苦難から希望へ
2018年5月20日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし
 「苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」という聖書の言葉は有名です。
 中でも「練達」という言葉は、様々な訳し方ができる言葉であり、「訓練されて『本物』になる」という含みがあります。
 これはおそらくパウロ自身が様々な苦難、批判、攻撃などを受けながら壮絶な人生を生き抜いてきた、その過去を振り返っての実感だったのではないでしょうか。
 私たちの人生も苦難だらけです。私は逃げることのできる苦難は逃げても良いと思いますし、病気や痛みには薬を使えばいいと思うのです。
 私たちはどうしても逃げることのできない苦難に遭遇することもあります。その時、私たちは正面突破するしかないかもしれません。その時、私たちは打ち叩かれて鍛え上げられ、本物になるチャンスを与えられているのかもしれません。
 この聖書の言葉によれば、本物になった人間こそが希望を生み出すとも読み取ることができます。苦しみを喜びに変え、練達によって希望を生み出す人生を歩みましょう。


「労働することと仕事すること」   
聖書:コリントの信徒への手紙(一)9章3-18節(使徒としての権利
2018年4月29日(日)日本キリスト教団徳島北教会労働聖日礼拝説き明かし
 本日の聖書の箇所は、パウロがコリントの教会の人たちに対して、自分の働きとその報酬のことについて熱く語っているところです。
 この箇所を読んでいると、一体パウロが報酬を欲しがっているのか、それとも報酬など要らないと言っているのか、わからなくなります。
 このような矛盾する自己をそのまま露呈した手紙を筆記させているがために、後々の教会が、牧師の謝儀について、喧々諤々の議論をすることになるはめに陥っているわけです。
 人の働きには、「労働(labor)」という側面と、「仕事(work)」という側面があります。一方はパウロ流にいえば「生活の資を得るため」の働き。もう一方は「せずにはおれない。それをしないことは不幸なのだ」というような働きのことです。パウロがこの辺りをもう少し自分で整理していたら、話はわかりやすくなっていたかもしれません。
 報酬を得ることも、生きがいを得ることも、働くことへのモチベーションの両輪であり、どちらもかけがえのないものです。両方が揃った人生がもっとも幸せな人生なのかもしれません。


「心は燃えているか?」   
聖書:ルカによる福音書24章28-25節(エマオ途上の弟子たち
2018年4月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会家庭礼拝説き明かし
 イエスの葬られた墓が空っぽだったことが発見されたその日、エマオに向かう道すがら、2人の弟子がイエスに出会う話は有名です。
 2人の弟子は、イエスが間近に一緒に歩きながら語りかけているのに、それがイエスだと気づかないのです。
 しかし、宿に着いて、食卓につき、パンを割いて分かち合った時に、それがイエスだとわかったといいます。不思議なエピソードです。
 けれども、この食事の場面が聖餐のことを象徴しているのは明らかです。
 聖餐のときに、そこにイエスがいるのがわかる。イエスの肉体はもうない、イエスの姿を肉眼で見ることはもうかなわない。しかし、イエスは聖餐のその場の中に今も生きているのだということを、この物語は伝えようとしているのです。


  
聖書:マルコによる福音書18章1-8節(空の墓
2018年4月1日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 イースターおめでとうございます。
 マルコによる福音書は、空の墓に驚いた女性たちの逃げ去る姿を描いているところで終わっています。蘇った肉体のイエスについては一言も語っていません。このことは、マルコが肉体の蘇生を支持していないこと、また、肉体の蘇生を理由にして信仰することを拒絶していることを示しています。
 では、イエスの復活の意義は何なのか。それは白い衣を着た若者の「イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれた。そこで会えるだろう」という言葉に集約されています。
 私たちは私たちそれぞれのガリラヤ、すなわち私たちそれぞれの「現場」において、イエスの後を追うことでイエスと出会えるのです。私たちがイエスの働きについて行こうとすることで、イエスに出会えるのです。


「イエスを孤独から救った人」   
聖書:ルカによる福音書23章39-43節(2人の受刑者とイエス
2018年3月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスが処せられた十字架刑というのは、古代ローマ帝国の処刑法の中でも最も残酷とされるものです。イエスは人間が味わいうる恥と苦痛の極限を味わいながら死んで行きました。
 しかし、イエスは完全な孤独の中で死んだのではありません。イエスがひとりぼっちで死のうとしていた時、彼の両側には2人の受刑者がいて、イエスに声をかけたのです。
 1人はイエスを罵りました。もう1人はイエスに私のことを忘れないでくれと言いました。死に際してさえも、イエスは一人ではありませんでした。
 特に「イエスよ、私を思い出してください」と言った受刑者は、そのことによって、「今日あなたは私と一緒に楽園にいるんだ」というイエスの言葉を引き出しました。
 苦しみの極限において、「今」が楽園なんだと言える逆転の境地にイエスは達していましたが、それはイエスと「共に」楽園にいたいと思う同じ苦しみを負う人がいたからです。この受刑者のおかげで、イエス自身も救われているのです。


「このような愛がある」   
聖書:マタイによる福音書5章45節後半(悪人にも善人にも)
2018年2月25日(日)日本キリスト教団周防教会主日礼拝説き明かし
 イエスは、悪人にも善人にも自然の恵みがあるように、神の恵みも悪人にも善人にも与えられるのだ、と言いました。これはよくよく考えてみると、「正直者は馬鹿を見る」と言ってもいいような考えです。なぜなら、世の中の多くの人は、悪人には罰を、そして善人にはそれなりに良い報いが与えられるべきだと思っているからです。罪深い人も善人も同じような報いを受けるなら、善人ぶって真面目に努力しているほうが馬鹿らしいではないか、というわけです。
 そのように、世の中の多くの人は、こういう因果応報論や自己責任論を正しいと思い込んで行動しているわけですが、イエスはそこにくさびを打ち込みます。彼は因果応報論に挑戦します。
 因果応報論は、原因と結果を逆転させることが往々にしてあります。つまり、「あの人があのようなひどい目にあっているのは、自業自得だ」というように、苦しい思いをしている人を裁くのです。しかし、イエスはそのような人を解放するために、罪も罰もない、誰にも恵みを与える自然のたとえを口にしたのでした。


「ここは生き方研究所」   
聖書:フィリピの信徒への手紙3章12-14節(賞を得るため走る
2018年2月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 私が生まれて初めて聖書という書物に出会ったのは、小学4年生の時、カルトと指定されているある教団の信徒のクラスメートを通じてのことでした。その時初めて、神の存在、信じることとその信仰に基づいた生活、そして祈ることを知りました。しかし、中学校になって離れ離れになり、またその教団がカルトであることを知って、そのクラスメートとは疎遠になりました。
 その後、教会という場所に出入りするようになったのは高校生になってからで、単に友達と日曜日の朝から遊びたかったから、その子の教会に行ったということがきっかけでした。そしてその教会で私は洗礼を受けることになりました。
 その教会の何が良かったのか。それは型にはまった生き方を押し付けず、自由に生き方を研究・探求させてくれる場所だったからだと思います。キリスト教の教え、聖書の言葉と取り組む中で、各自が自分らしい生き方を探ることができる。そういうことが許された場でした。
 そのような場所に恵まれたからこそ、私はこの「生き方研究所」とおそらく一生関わり続けることになるだろうと思い、洗礼を受けることにしたのです。


「善人すぎず、悪人すぎず」   
聖書:マタイによる福音書5編45節後半(悪人にも善人にも
2018年2月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人ににも雨を降らせる」というイエスの言葉は、真面目に法を守り、死後天国に行けるようにと日々努力の生活を送っている人が怒り出すような話です。
 善人であろうとし、正しいものであろうとする宗教者は特に頭にくることでしょう。事実、このような物言いを続けたおかげでイエスは自分の死を早めたのかもしれません。
 しかし、イエスの立ち位置は、「努力すればなんとかなる」「あいつは努力しなかったからダメになったんだ」と思える人の側ではなく、努力が報われなかった人、勝てなかった人、人生に破れてしまった人などの側です。
 実際、私たち人間は、みんな努力をしたからと言って、その努力が評価されるとは限りません。善人にも悪人にもなりきれず、正しい者にもなりきれない、そんな存在が大多数のはずです。そういう意味ではイエスは大変リアリストだったのかもしれません。
 イエスは人生のリアルな現実の、辛い側の人に寄り添ってくれるのです。


「My Eyes Were Fulfilled With Many Tears」   
聖書:詩編126編5-6節(涙と共に種まく人)
2018年1月23日(火)学校法人同志社創立者永眠記念祈祷会奨励
 新島襄の晩年の漢詩に、「庭上の一寒梅」というものがあり、その中に「笑うて風雪を侵して開く」という1節があります。実はその2年前に新島は「寒梅の詩」という詩を教え子に送っています。こちらには「敢えて風雪を侵して開く」という一言が収められています。
 この2年の間に、新島襄には何が起こったのでしょうか。思い通りにならない身体、すぐには効果をもたらさない募金運動など、彼は何度も涙したことでしょう。彼は「涙徳の人」と呼ばれるほど、よく泣く人であったからです。この「庭上の一寒梅」も、そのような涙の奥から笑っているような切なさを感じさせます。
 涙と言えば、新島がアメリカについたとき、ハーディ氏が自分のスポンサーとなってくれることを知った時も、新島は涙しました。そして彼は、不慣れな英語で懸命に「脱国の理由書」を書きあげ、ついに「神は私を見捨てないだろう」という信仰告白を表明するのでした。


「人間の創造と宗教の起源」   
聖書:創世記2章1-5節(天地の創造)
2018年1月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 宇宙の始まりは今から140億年ほど前、地球の始まりは今から47億年ほど前、ホモ・サピエンスの発生は20万年ほど前。細かい数字は異論はあれど、だいたい自然科学の研究成果を受け入れておきたいと思います。そして、宗教の起源も20万年ほど前、最初は埋葬儀礼から始まったようです。
同時にアニミズムも始まり、その時代が長かったのですが、おそらく地上で最初に唯一神教がイスラエル民族によって発明されました。しかし、その唯一神教は、非常に大きい罪意識とセットになって教義を発展させていったのです。
イエスはその罪と贖いの教義を打ち壊す形で、祭司階級によって支配されていたユダヤ教に反旗を翻しました。そのため、当時の宗教によって死に追いやられました。
しかし、私たちはそのイエスが私たちを罪意識の自己責任論から解放してくれたのであり、そして彼の解放のわざが今も続いていることを信じているのです。


「新しいことは始まっている」   
聖書:イザヤ書43章18-20節(荒れ野に水を)
2018年1月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 あけましておめでとうございます。
 イスラームに「ジハード」という言葉があり、散々に誤解されていますが、これは「神様のために努力・奮闘すること」という意味です。私たちの日常の人生において、神に愛されているから自ずと動かずにはおれないことを、一生懸命にすることです。
 この新しい1年の始まりにあたり、私はこれといって新しい目標を立てているわけではありませんが、これまでにも続けてきた努力をさらに続けて行くということを考えているのみです。
 今回お読みしているイザヤ書の箇所は、特にバビロン捕囚から解放されて、新しいユダヤ人国家を再建しようとしている預言者の希望の満ちた言葉を記録しています。
 しかし、預言者が置かれていたのは絶望としか言いえないような状況でした。絶望的状況であるにもかかわらず、預言者の目には神が行う奇跡が見えていたのです。
 私たちの置かれているこの日本社会も、全く希望が見えない状況であるかのように見えます。しかし、絶望的状況であるからこそ、神の奇跡が起こるというビジョンを抱いていたいのです。
 新しいことはもう始まっています。すでに芽は生えているのです。この神の計画に、私たちも参加して行きましょう。。


 




 

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