Message Digest 2019

礼拝説教ダイジェスト:2019年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「十字架につけられたままのイエス」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)詩編126編5-6節(涙と共に種を蒔く人)
2019年4月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 パウロは自らの手紙の中で、何度も「十字架につけられたイエス」と書いていますが、これは正確には「十字架につけられたままなるイエス」という意味なのです。
 つまりパウロが見た、あるいは彼の頭の中のイメージとしての復活のキリストというのは、十字架につけられたままのイエス・キリストの姿だったのです。
 私たちは復活したイエスというと、肉体的に蘇生したイエスのことを思い浮かべます。しかし、パウロはそんなことを言っているのではなく、十字架につけられて今も苦しみ続けているイエスを見たのです。
 また、日本語で私たちが読んでいる「復活した」という言葉は、実は「再び(神に)起こされた」というのが正確な訳です。彼は「復活した」というよりは「(神に)再起させられた」のです。
 そして、今も十字架につけられたまま、彼のような弱く小さな存在を殺し続けている私たちの罪を問い、また同じように苦しむ人を慰め続けているのです。
 そしてそんなイエスの十字架の問いに応答して、また慰めを与えられて、私たちもまたイエスと共に「再起」するのです。それが私たちのイースターなのです。
 (今回のメッセージは特に青野太潮先生の説に感化されたものです)

「喜びの種を気長に蒔こう」  
聖書:詩編126編5-6節(涙と共に種を蒔く人)
2019年4月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 詩編126編の5−6節は、日々の平凡な苦労の繰り返しの中で、疲れと悩みの中にある人に、その苦労は必ずや報われるのだ、という希望を訴えかけてくれているように読めます。
 私たちは「愛される喜びを伝えたい」という言葉を教会のミッションとしていますが、神から愛されているということを実際に伝えるのは人の愛です。私たち人間は欠けた器かも知れませんが、それでも神の愛を伝える器になりうるのです。
 愛というものは、私たちが先天的に与えられている神様からの贈り物です。愛は人が学習によって学ぶよりも先に、生まれながらに持っている喜ばしい性質です。それは人から出たものではなく神から与えられているものです。
 私たちはこの神に由来する愛を、少しずつでいいから、そして言葉によっても、行動によっても、祈りによってでもいいから、地道に習慣のように続けることが大切です。
 そして、そのゆっくりとした少しずつの習慣が、いつか芽を出すことを夢見て歩みたいと思います。

「何ゆえの十字架か?」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)15章3-5節(私たちの罪のため)
2019年3月31日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝宣教
 「イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかられた」という言葉は決まり文句のように私たちの間に浸透しています。
 そして、この「罪のために」というのは、人間の罪を贖うためにイエスが身代わりとなって罰を受けた」という意味で捉えている人がほとんどでしょう。
 しかし、私はこの「罪のために」というのは、「私たちの罪の結果、イエスを殺してしまった」、「イエスを殺してしまったのは私たちの罪のせいだ」という風にしか受け取れないのです。
 イエスが「人間の身代わりとなって罰を受けよう。そして3日目に死人のうちより蘇ろう」と理解して十字架にかけられたのなら、その罰は「やらせ」のようなものですし、蘇る事を知った上で死ぬというのは本当の死ではないのです。
 イエスは自分が死なねばならないと思ってはいなかった。しかし、心底絶望のゆえに「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか」と絶叫して死ぬしかなかった。それは本物の死です。
 イエスは地上の人間の中でももっとも過酷で無残な苦しみを受けて、死んだ人です。しかしそれゆえに、私たちは「イエスなら私たちの苦しみをわかっていてくれるはずだ」と信じることができるのであります。

「個人の罪と民の罪」  
聖書:ホセア書4章1-3節(神の民への告発)
2019年3月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レントはイエス・キリストの受難を改めて思い起こし、自らの罪を悔い改めたり、自分に何らかの課題を課して、克己する機会としたり、様々な過ごし方を世界の人々はしています。
 聖書の中には、個人の罪の告発と赦し・救いが記されている場合もありますが、それ以上に民全体の罪と赦し、そして救いが描かれているところがたくさんあります。
 現代のクリスチャンはともすれば個人の罪に注目しがちな傾向がありますが、実は民全体の罪、人類の罪というものがあるのではないでしょうか。
 特に、神様が作った生命(それは自然であったり、人間であったり様々な形態を取っていますが)を踏みにじり、虐待し、奪う罪は、今こそ私たちが悔いて、改めなくてはならないのではないでしょうか。
 それは「連帯責任」というようなものではありません。そうではなく、一人一人が自分自身の問題として取り組み、悔いて、改めなくてはならないものなのです。

「耐えられない試練からは逃げよう」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)10章13節(耐えられない試練)
2019年3月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 近頃、あるスポーツ選手が「神様は耐えられない試練は与えない」という言葉を発して話題になりました。これは最初は聖書から引用された言葉ですが、やがてアスリートたちの間で広まっていった言葉ではないかと推測しています。そのために元来の聖書の言葉からは異なった意味で用いられるようになりました。
 私たちの人生には苦しみや困難が襲って来ることがあります。そして私たちは「神様、なぜ私がこんな目に遭わなくてはならないのですか」と嘆くのです。生きていること自体が罰ではないかと思われるほどの苦しみに襲われたとき、そして誰の言葉も慰めにはならないとき、何が私たちの救いになるのでしょうか。

「酸いも甘いも嚙み分けて」  
聖書:コロサイの信徒への手紙3章16−17節(キリストの言葉)
2019年2月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 コロサイの信徒への手紙3章は大変美しい言葉で人の生き方の理想を描いている記事です。聖書の言葉を「絵に描いた餅。しかし、それはなかなか美味しそうな餅じゃないか」と喩えた聖書学者がいますが、なるほどそうかもしれません。絵に描いた餅でもなければ、美味い餅というものがあるのだということもわからないし、理想がなければ目指すべき星もありません。コロサイ3章はそんな、いつかはたどり着きたいと目標に掲げるべき「絵に描いた餅」なのですね。
 そしてこの「絵に描いた餅」は、歳をとればとるほど旨みが増すものではないかと思います。若い人の集まる教会にはそれなりの役割があります。しかし、中高年が集まる教会にも、人生の酸いも甘いも辛いも苦いも噛み分けた人間こそがわかる世界、その知恵があり、それを互いに分かち合うことができるので、味わうことのできる餅があるのです。
 年寄りにしかわからない人生の餅の旨みを共に味わいたいと思います。

「教会にいてくれないと困る人」  
聖書:マタイによる福音書18章19-20節(2人または3人でも)
2019年2月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 教会にいてくれないと困る人とは、どんな人でしょうか?
 本当はそんな人はいないはずなんですが、イエスのことやキリスト教を確信的に否定する人は、別に来なくていいです。また教会に集まる人を傷つけたり攻撃する人はお断りです。
 イエスは「2人いて心を1つにして祈れば叶う。2、3人私の何よって集まれば、私もその中にいる」と語っています。つまりイエスの名によって集う人が2人いれば、そこに教会ができる条件は整うのです。
 教会にいてくれなくては困る人、それはイエスの名によって集い、イエスの名によって祈る交わりに参加する、たった2人以上の人です。そこにイエスが存在するのです。

「ほんとうのお父さんを見つける」  
聖書:ルカによる福音書2章41-52節(神殿の少年イエス)
2019年1月13日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 一般にはイエスが神のことを「アッバ(お父さん)」と呼んだのは彼が神の子だからだと理由づけられています。しかし、イエスを1人の人間として見た場合、本当は彼が神を「お父さん」と呼ばずにはおれなかった理由なり事情があったのではないかと考えられます。
 福音書のイエスと親たちの物語を分析的に読むと、実はイエスの父母はイエスに対して理解を示していたわけではなく、むしろイエスを問題児として手を焼いていた様子が浮かび上がってきます。特に母親についてはイエスに対する無理解とイエスとの不仲が顕著に現れています。
 父親については圧倒的に情報が足りません。おそらくイエスは自分の実の父親を知らないのでしょう。そして弟たちの父親である男に虐待を受けていた可能性があり、それゆえに神だけを自分の本当の父親にしようと決心したのではないでしょうか。
 イエスの教えの中には、父権主義や家父長制を厳しく批判し嫌悪するメッセージが多く含まれます。そのことと彼が神を「父さん」と呼ぶこととは表裏一体です。イエスの真のメッセージを受け取ることなしに安易に「天の父よ」と呼ぶことは、実はイエスの本意ではない可能性があるのです。

「まるっきり信頼してしまっている」  
聖書:ローマの信徒への手紙3章21−26節(イエスの信による義)
2019年1月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年主日礼拝説き明かし
 普段私たちが「信仰」と訳している新約聖書のギリシア語は「ピスティス」です。「ピスティス」とは「相手に対する全面的信頼」という意味です。それは神やイエスが相手とは限りません。人間同士の関係でも「ピスティス」というのはあるのです。
 ローマの信徒への手紙3章21節以降は「(人間の)信仰によって神に義(無罪)とされる」と書いてあるように読む人が多いでしょう。しかし言葉の上からも文脈上からも、人間の側の「信仰」が条件になっていると読むのは間違いなのです。そうではなく、「無償で(タダで)」「イエス・キリストの信実(ピスティス)によって」人は神に義とされたと読むのが正しいのです。
 人間は神やイエスを信じるか信じないかとは関係なしに、イエスの人間への信頼、神への信頼によって仲介され、神によって信頼に足る者と扱われるのです。
 教会の根底に存在するのは、この信頼(ピスティス)です。イエスの信頼が神と人間の信頼をとりもち、人間もこの神とイエスの信頼を人間同士でも保とうとする、そこに教会があるのです。
 この新しい1年も、ピスティスを違いに保ちつつ、良い教会生活を送ってまいりましょう。

 




 

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