礼拝説教ダイジェスト:2020年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「マルタもマリアも」  
聖書:ルカによる福音書10章38-42節(マルタとマリア
2020年9月13日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 有名なマルタとマリアの姉妹とイエスとのやりとりです。
 ここで伝統的な解釈では、様々な奉仕や雑用よりも、まずはイエスの御言葉を聞くことが最も尊いことであるということになっています。
 しかし、この聖書の箇所は、福音書記者ルカによる「祈りと御言葉の奉仕の方が、食卓の奉仕よりも格が上なのである」というバイアスがかかっていると見て、批判的に読んでも良さそうなところでもあります。
 そもそも生前のイエスの共同体においては、共同体の食事を用意することこそがイエスの弟子たちの役割であるとされていた様子が、五千人に食事を与える物語から読み取れます。しかし、イエス亡き後は、「祈りと御言葉の奉仕」と「食卓の奉仕」に職制が分離し始めていることも使徒言行録から読み取れます。
 元来のイエスの共同体では、マルタもマリアも同等の奉仕者であったことを心に留めて、教会の奉仕について考えたいものです。

「神なしでは救われないか」  
聖書:マタイによる福音書4章1-4節(人はパンだけで生きるのではない
2020年9月6日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 今日の日本は、まさに「神なき民」「神なき国」の末期的様相を呈していると言っても良いのではないかと感じています。
 日本に住む人が皆キリスト教を信じてくれたらいいのだとは言いませんが、それにしても、この国の倫理・道徳の凋落ぶりは、詰まるところ「神の愛」によって私たちが造られ、生かされているという概念が無いことと無関係ではありえないのではないかと思わされます。
 イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と言いました。つまり人間は、ただ餌のようにものを食べているだけでは人間らしい生涯を送ることはできません。これは神を知らない人でも容易に理解できるでしょう。
 しかし、加えて「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉は、一般的な日本人はどう理解するでしょうか。
 特定の宗教に依らずとも、「自分の理解している神」という形で自分を超越した方を意識する方法を使っているグループに、アルコホーリック・アノニマス(AA:アルコール依存者の自助グループ)があります。12のステップに従って、自分の破綻した人生を見つめ直し、新しい人生を立て直してゆく上で、「自分の理解している神」に自分を委ね、祈りつつ歩みを進めてゆきます。この方法は、薬物依存者、精神疾患の自助グループにも応用されています。
 私は教会であっても、この「自分の理解している神」で良いと思います。誰も神を自分の目で見た者はいないのです。誰も神を把握しきる人はいません。本当はみんな「自分の理解している限りの神」しか知らないのですから、そのことに自信を持って良いのです。
 AAなどで神という概念や祈りといった方法が取られていることは、人生を破綻から救ってくれるのはそういう方法しかありえないのだということを示していると思います。「自分なりに理解のできる神」に頼りながら、個人、そして社会の救いを求めてゆきましょう。

「いつかはあなたもわかるだろう」  
聖書:ヨハネによる福音書13章1-11節(イエス、弟子たちの足を洗う
2020年8月30日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスは逮捕され、十字架にかけられる直前に、食事の時、弟子たちの足を洗いました。
 当時の人たちは外出する時はサンダルか裸足で、帰ってくると足を洗うわけですが、奴隷を雇うことのできる世帯の場合、それは奴隷の仕事でした。
 その奴隷のやることをイエスが突然始めたので、弟子たちは驚きました。特にシモン・ペトロは「あなたが私の足を洗うのですか」、「私の足など洗わないでください」と言いますが、イエスは「私のしていることは、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになる」と言い、また「もし私があなたを洗わなければ、私とあなたは何の関わりもないことになる」とも言います。
 イエスがまず奴隷のように私たちに仕えてくださったこと、そして、私たちも互いに仕え合うことを勧められていますが、それに加えて、もっと色々な意味を読み取ることができるので、ここでは「今は分からなくても、後で分かるようになる」という風に、開かれた問いかけになっています。
 あなたにとって、このイエスの「洗足」の行いはどのような意味を持ちうると思いますか?

「流れた血が土の中から叫んでいる」  
聖書:創世記4章1-12節(カインとアベル
2020年8月16日(日)日本キリスト教団徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし
 人類の紛争・戦争は、似た者同士で争って発生することが多いと聞くことがあります。日本人の中で近年、中国や韓国に対してのヘイトクライムが多発していますが、一種の近親憎悪のような、似ているから攻撃したくて仕方がなくなってしまうのではないかという気がしています。
 人類最初の殺人事件として記されているカインとアベルの物語も、兄弟殺し、つまり近親憎悪の話です。同じ母から生まれ育ち、同じように自分の仕事から出た実りを主に捧げ、顧みてほしいと願うのですが、主がたまたまその時アベルの献げ物を顧みたことから、カインはアベルと主に怒りを燃やしてしまうのです。
 日本人が同じアジアの国々の中で、自分たちが頂点に立っていたい、他の国よりも優れた地位を占めたいと固執するのは、遠くにいる者よりも近くにいる者と比較して優位に立った方が、自分の優位を確認したいからでしょう。そんな幼稚な心理から、私たちは多くのアジアの隣人・兄弟姉妹たちに、地獄にも勝る苦しみと屈辱を与えてしまいました。
 8月の日本敗戦の日は、ともすれば被害者としての日本にばかり目を向けがちですが、私たちは加害者としての自国の罪をしっかりと見つめ直す時にしたいと思います。自分たちが流した人々の血が、主に向かって叫んでいるという感性を常に持っていたいと思うのです。

「神に逆らってでもあなたを癒したい」  
聖書:マルコによる福音書2章1-12節(中風の人を癒す
2020年8月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 寝たきりの病人に対して、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいでしょうか? 
 2000年前の当時ですと、「あなたの罪は赦される」と言うことは、神が与えた罰を勝手に免除することですから、これは神に対する冒瀆であり、その人が神に罰される可能性があります。ですから、恐ろしいことです。
 しかし、「起きて、床を担いで歩け」と言っても、何も起こらなければ、言った本人が恥をかくだけです。もう二度とイエスを相手にする人はいないでしょう。
結局、この「中風の人を癒す」物語では、イエスは両方のことを言ってしまっています。しかも加えて、「人の子(人間)には罪を赦す権威がある」と宣言までしています。彼は結果的に神への冒瀆だということになってしまっても、それでも人の罪を赦し、また「病は神の罰である」という迷信から人間を解放したかったのです。
 イエスは当時の人々から見れば「宗教を破壊する者」「無神論者」のような存在に見えたかもしれません。しかし、そうなってしまうことを恐れるより、彼の人間への愛は大きかったのでした。

「山の上で弟子たちが聞いたこと」  
聖書:マタイによる福音書5章1-12節(幸い
2020年7月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスの「山上の説教」と呼ばれているマタイ福音書のなかにある「幸い」についての一連の語りは、ルカ福音書にも収められています。ルカの方が実際のイエスの言葉に近かったのではないかと言われています。
 ルカ版では「貧しい者は幸いだ」と言っていますが、マタイ版では「心の貧しい者は幸いだ」と言っています。当初、本当の貧困者と共に生きて「貧しい者、幸いなり」と叫んだイエスの言葉に対して、40年以上後のマタイは、既にある程度経済力のある者もメンバーに加わったキリスト教会の中で、少々トゲのあるイエスの言葉を和らげる意図で、「心の」という言葉を付け加えたのかもしれません。
 たとえそうであったとしても、マタイ版のこの徳目表のような「幸い」は、確かに真っ当な内容ではありますが、行うのは難しいことです。このような価値観を実現するために生きようとすれば、必ず私たちは世の中から嘲笑され、罵られ、悪口を浴びせられるでしょう。この世は欲望を満たすことの方が人間の本質なのだという前提が浸透してしまっているからです。
 このような世の中で、私たちの挫折は既に予想され、イエスも知っていてこのようなことをいっていたのかもしれません。しかし、私たちはこのイエスのような価値観を少しでも実現に近いものにしてゆきたいと思っているのです。

「ここは安心できますか?」  
聖書:ローマの信徒への手紙9章25-26節(愛されなかった者を愛された者と呼ぶ
2020年7月19日(日)日本キリスト教団徳島北教会部落解放祈りの日礼拝説き明かし
 1週間遅れの「日本基督教団 部落解放祈りの日礼拝」です。
 日本基督教団では、差別の問題に関わると、「教会は社会運動に関わるべきでない」、「教会には他にやるべきことがある」と難癖をつけてくクリスチャンが必ず現れます。
 しかし、「教会は社会運動をするべきではない」という言葉は、1960年代〜1970年代以降のいわゆる「教団紛争」において、保守派の牧師たちが「社会派」というラベリングを用いながらネガティブ・キャンペーンを展開したときの合言葉なのです。要するに、「社会運動などをやっているから教団の信徒の数が減ったのだ」というわけです。
 しかし、差別を無くすために力を尽くすというのは、実はキリスト教会にとっては根幹に関わる課題です。その理由は単純で、イエス自身がいわば被差別部落の出身であり、同じよう差別されたり、いじめられたり、嘲られたりして泣かされた人びとに、「今泣いている者は幸いなり!」と解放の福音を宣べ伝えたのが、イエスの活動の根幹にあるからです。
 もし、神・イエス・キリスト教に関心を持ち、教会を訪ねてきた人が、自分の真実をカミングアウトして、それでもまるっきり安心できるという環境でなかったら、その教会はイエスの遺志を受け継ぐ者としては相応しくありません。
 私たちの教会は、すべての人が真実の自分を安心して肯定されるような場所でしょうか。そのような場所、人の集いでありたいものです。

「神は聞いている。神は見ている」  
聖書:創世記16章1-16節(ハガルとサライとアブラム
2020年7月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ハガルとサライの対立は「女性同士の醜い争い」という風に受け止められがちですが、実際にはこの2人の女性はどちらも「女性は夫の嫡男を産む以外に存在価値はない」としてきた男性優位社会の被害者なのです。アブラムはまるで呆れているように振る舞っていますが、最大の加害者が自分であることには気づいていません。
 ハガルはアブラムの家族からの虐待の結果、逃げ出そうとしますが、主の天使に「戻りなさい」と告げられます。それは、それ以外に生きる場所がなく、独りで逃げることは死を意味するからです。
 主の天使は、ハガルがやがて産む子を「イシュマエル」と名付けなさいと告げます。それは「神は聞いている」「神は聞いてくださる」という意味です。これに対してハガルは「あなたこそ『エル・ロイ』です」と答えます。それは「神は見ている」「神は見ていてくださる」という意味です。
 異民族であり、奴隷であり、女性であるという三重の重荷を負ったこの人の苦悩に、神はしっかりと耳を傾け、眼差しを向けてくださるということなのです。
 この男女の格差の問題は、古代の昔話としては片付けられません。現代の世界でも格差はしっかりと存在し、男性はこの優位に鈍感なままあぐらをかいています。この不公平な状況も、神がしっかりと聞き、見ているのだということを認識しましょう。

「旅する礼拝」  
聖書:創世記12章1-9節(アブラムの召命
2020年6月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会家庭礼拝説き明かし
 アブラム(アブラハム)は、旅の中で礼拝する人でした。
 主の召命(呼び出して使命を与えること)を受けて、アブラムはそれなりに歳を重ねていたにもかかわらず、安定した生活基盤を捨てて、旅に出ました。
 後にアブラムの子孫であるイスラエル民族は王国を作り、神殿を建てて、そこで祭儀を行うようになるのですが、神殿を中心とした宗教になったことが、イスラエルの堕落の始まりだと指摘する人もいます。神殿に住み着く階級が暴利を貪ったり、自分たちで権力闘争を始めたりしたからです。
 しかし、アブラムの時代は旅行く先々で天幕(テント)を設営し、礼拝所を設けて礼拝するような移動式の礼拝が行われていました。行く先々でその都度礼拝をするのがイスラエルの原点だったのです。
 ここに私たちも学ぶところがあります。私たちの人生もさすらいの旅のようなものです。礼拝というものを固定化された習慣としたり、礼拝堂で行うものと思い込むことには、堕落や腐敗の温床となる危険性があります。
 私たちは、確かに礼拝堂を大いによりどころにはしていますが、それが教会や礼拝の本質ではないということを覚えておきたいと思います。大事なことは、さすらいの人生の旅路の中で、その都度、その都度、神を思い出し、神の導きを求め、神との約束を確認することです。その都度、その都度の礼拝を大切にしてゆきましょう。

「ローカルな発想で良い知らせを伝えよう」  
聖書:使徒言行録2章1-13節(ペンテコステの出来事
2020年5月31日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし
 ペンテコステの出来事で描かれているのは、とても面白い出来事です。その頃のローマ帝国で効率よく、多くの人に何かを伝えようとしたなら、ギリシア語で宣教した方が良いはずなのに、イエス派の指導者たちは様々な出身地の人々のそれぞれのローカル言語で宣教を始めたというのですね。
 これは、20年か30年後にパウロがギリシア語で手紙を書き、各地を旅して宣教し始めてから、おそらくは廃れていったやり方だと思いますが、最初のキリスト教(と呼ばれる以前の宣教)は、一人一人の出身地の言語、ということはすなわち文化を大切に、その人に合わせる形で行われていったと考えられるわけです。
 私たちは宣教する時、決して効率よく、できるだけ多くの人に伝わるようにする方法もあると思います。しかし、イエスの死後50日後という、ある意味生々しくイエスの面影を抱いていた人たちは、イエスのことを相手のローカル言語で伝えようと試みたのでした。
 それは、一つの言語でたくさんの民族や地域を統一支配するローマの帝国主義に対しての、ささやかではあるけれども抵抗だったのではないでしょうか。そして、すべての人々のローカルな言葉、文化、暮らしを大切にするイエスの思いの継承だったのではないでしょうか。
 そして私たちもそのデリケートな感性を大切に受け継ぎながら、大掛かりでも早急でも甚大でもない、一人一人を大切に尊重するような宣教をしてゆけたらと思うのです。

「大切なLifeを丁寧に生きよう」  
聖書:マルコによる福音書1章40-45節(既定の病の人を癒す
2020年5月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 徳島北教会の2020年度指針として「大切なLifeを丁寧に生きる」という言葉を提案させていただきました。
 Life(ライフ)というのは、生命・生物という意味があるだけでなく、生活や人生という意味でも使います。わたしやあなたの生命はもちろん、日々の生活も、そしてその生活の集成である生まれてから死ぬまでの人生、生涯も互いに大切にしてゆこうということです。
 またもうひとつ大切なことは、この世のことを大切にしようということです。宗教というものはともすれば死んだ後のことを問題にしがちですし、キリスト教の教会も「洗礼を受ければ天国に行けます」というような教え方をしているところはたくさんあります。
 しかし、洗礼を受ければ天国に行けるということを書いている聖書の箇所などありません。洗礼というのは死んだ後の天国への切符のことではなく、生きている間の人生の変革のことです。
 死んだ後のことは心配しないでください。みんな間違いなく神様のもとで安らかに憩うことができます。それを天国と言うのであれば、みんな天国に行けるのです。救いというのは、天国に行くことではなく、生きている間に「救われた」と感じることなのです。
 そして、今日読んだフィリピの信徒への手紙4章8-9節は、そのような人生をこの世で送るための、難しいけれども単純な、ひとつの明確な方向性を示すアドバイスなのです。

「感染症とイエス」  
聖書:マルコによる福音書1章40-45節(既定の病の人を癒す
2020年5月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 かつてイエスが人々に恐れられていた感染症に対して、どのように立ち向かったのかを聖書を通して学んでみましょう。
 当時、ヘブライ語で「ツァラアト」(けがれやまい)と呼ばれ、感染者がひどい差別と排除を受けていた病気がありました。その感染者がイエスのところに来て、「お望みでしたら、私を清くすることがおできになります」とひざまずきます。するとイエスは断腸の思いでこの感染者を見て、「私は望む、清くなれ」と言います。
 イエスが感染を恐れていたか、またこの感染者に触れることでこの人と同じように差別されることを恐れていたかはわかりませんが、そんな思いよりも、イエスは「断腸の思い」まさに文字通り、内臓がちぎれるような心の痛みを愛を覚えて、この感染者の体をつかみ、「私はあなたに治ってほしい」と言葉を発したのです。
 瞬時に病気を治す奇跡が事実であったかどうかはともかく、この感染者が癒されたことは間違いありません。このツァラアトという病は、肉体的な苦しみだけではなく、社会からも地域からも家族からも忌み嫌われ、共同生活から追い出される孤独の苦しみを味わされる病なのです。
 誰からも相手にされず、神にも呪われ、生きるにも死ぬにも何も希望のない、この病を得た人に、イエスはソーシャル・ディスタンシングも一気に乗り越えて、そのほとばしる愛をぶつけたのでした。
 私たちも今、病にまつわる差別と憎悪の真っ只中に生きています。こんな中で正直に言って、自分自身の中にフラストレーションや怒りが溜まってくることも否定できません。しかし、こういう時だからこそ、私たち自身もイエスによって激しく愛されているのだということを思い出して、自分も愛することのできる人間に変えていただきたいと願うのです。

「あの方が生きておられるから」  
聖書:ヨハネによる福音書21章1-14節(イエス7人の弟子に現れる
2020年4月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 イースターおめでとうございます。
 イースターはイエス・キリストの復活をお祝いする日ですが、イエスの復活とはどういうことを意味しているのでしょうか。
 よくイエスが肉体ごと蘇生したのだと言う人がいますが、聖書には肉体として蘇生したとは考えられないような状況でのイエスの出現が描かれています。
 イエスは壁を通り抜けて、いなかったはずの所に現れますし、イエスの顔を見ても、声を聞いても、弟子たちはそれがイエスだとは気づかない。その代わり、イエスと食事をした時に、イエスがそこに実はいたのだということが知られる、というような物語なのです。
 イエスの復活というのは、イエスの名のもとに、イエスの名によって食事をする、その食事こそが神の国の先取りなんだ、ここからイエスと一緒に私たちも世界を変えてゆくんだという意識を共有した時に、私たちの間にイエスが一緒にいてくれるという信仰のことなのです。

「イエスはあなたを独りにしない」  
聖書:詩編22編1-6節(裏切り者の予告
2020年4月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会棕梠の主日礼拝説き明かし
 レントの最終週の日曜日は「棕梠の主日」(パーム・サンデー)と言い、イエスがエルサレムの街に入ったことを祈念します。これからの1週間は「受難集」(パッション・ウィーク)と言い、いよいよイエスが苦しみを受けることを追体験する週とされています。
 イエスは恥と孤独と苦痛の極みを経験しながら、人間として最低の人生の結末を迎えました。本当に救いようのないほどの最低の死に方です。
 しかし、イエスの死に様が酷ければ酷いほど、イエスの死は私たちにとって恵みの深いものになるのです。なぜなら、イエスは人間として味わいうる苦しみの最低限を味わって、この世の苦しむ人と共に寄り添おうとされたからです。
 「信じればハッピーになれますよ」という信仰は、本当に苦しんでいる人を救いません。信じても祈っても、楽にもならないのが人生の現実です。そのような苦悩する人を少しでも癒すのは、一緒に苦しんでくれる人の存在です。イエスは全くの孤独のうちに死ななければいけない人の気持ちを解ろうとして、自分自身も全くの孤独のうちに死んだのです。
 人間の苦しみにとことん付き合おうとされたイエスの愛に感謝したいと思います。

「生まれてこなければよかった」  
聖書:マルコによる福音書14章18-21節(裏切り者の予告
2020年3月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスの「最後の晩餐(または主の晩餐)」の場面において、イエスは自分を裏切る者の出現を予告します。それは、次のような強烈な衝撃を与える言葉を含んでいます。
 「生まれなかった方が、その者のためによかった」
 あの慈愛に満ちたイエスでも、自分を裏切る者のことは赦すことができなかったのでしょうか。「生まれなかった方がよかったのに」というのは、あまりにも人間に対して無慈悲な断罪ではないでしょうか。
 しかし、私たちはこの言葉に人間イエスの真実を見ます。人間イエスにとっては、自分の愛する弟子たちの中から自分を裏切る者が現れることは想定外だったのです。イエスは悲しくて苦しくて仕方がなかったのです。そして、自分が苦難を受けて死ぬことを予感して、恐ろしかったのです。
 私たち自身、予想もしなかった出来事に襲われて、誰にもわからない苦しみを一人で背負い込まなくてはいけなくなってしまう時があります。でも、その苦しみをわかってくれる人がいる。それがイエスです。
 イエスこそ、人間が味わい得る最大の苦しみを受けて、惨めに死んだ人間です。しかし、世の中には相変わらずそうやって死んでいる人がたくさんいます。どうやら神は、人間の苦しみを無くそうとしているのではなく、苦しみを共にすることによって愛し合い、そこから喜びや楽しみが湧いてくることを私たちに教えようとしているようなのです。


「神さまがしたことじゃない」  
聖書:イザヤ書53章1-5節(苦難の僕
2020年3月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レント(受難節)に入りました。イエス・キリストが苦しみを受けられたことを覚えて、自らの罪を悔い改めたり、弱点を克服するための努力をしたりといった季節としてキリスト教の暦では定められています。
 イエスは何のために苦しみ、なぜ殺されたのでしょうか。
 よく、「イエスは人間の罪に与えられるべき罰を、身代わりに受けてくださったのだ」ということを言うクリスチャンの方がいらっしゃいます。しかし、その考えは現代の神学からは疑問の声も上がっているということを申し上げておきたいと思います。
 そもそも私たちが信じる神様は、「お前たちの罪は赦せない。誰かいけにえを出せ」というようなことを人間に要求する神様でしょうか? そして、いけにえの代わりに我が子に罰を負わせようとするような虐待的な父なる神なのでしょうか?
 そうではありません。イエスを十字架にかけたことが私たちの罪なのです。けれども、イエスはその仕打ちから逃げることなく、自ら痛み苦しむことで、私たちの人生の苦難で強張ってしまった魂を溶かして、柔らかく癒してくれたのです。
 神が罰を必要としているという考え方が、私たちの社会からスケープ・ゴートを生み出す過ちを承認し、温存してしまうことにつながっています。スケープ・ゴートというのは、あってはならない、克服しなければならない風習なのです。
 私たちは、自ら痛み苦しむことによって私たちの苦痛を一緒に引き受け、癒してくださったイエスに感謝しつつ、しかしイエスをそのような目に合わせてしまったことを悔い改めつつ、このレントの時を私たちの世の中を変えるために、意味のあるものにしたいと思います。

「三位一体のシンプルマインド」  
聖書:コリントの信徒への手紙(二)13章13(パウロの祝祷
2020年2月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 三位一体論(三位一体説)というのは、難解なようですが、実はとてもシンプルなアイデアです。「3つで1つ」というとかえって分かりにくいのですが、実は3つあるのは「ペルソナ」と言って「お面」という意味です。神の正体はひとりですが、3種類のお面をかぶって人間の前に現れるという「仮説」であり「アイデア」です。
 1つ目のお面は「神」という超越的な側面を表しています。2つ目のお面は「イエス」を指します。神の思いが1人の人間の言葉や生き様に結実しているということを表しています。3つ目のお面は「聖霊」ですが、これは目に見えない命の力や、私たちの間に流れる心のダイナミズムを表しています。
 神がどのように個々人の人生に現れてくださるのかというのは、人の数だけあります。しかし、共通理解としてできるだけシンプルに3つにまとめたのが、「三位一体」という仮説なのです。

「キリスト教の『異端』について」  
聖書:使徒言行録5章33-42(ガマリエルの知恵
2020年1月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 キリスト教の「異端」について語る時、私たちが忘れてはならないことが3つあります。
 1つは、私たちクリスチャン自身が実は元々ユダヤ教の異端だったということです。クリスチャンはユダヤ教の異端でした。また、プロテスタントはカトリックにとって異端でした。
 2つ目は、キリスト教の歴史というのは、裏返せば「異端」を定義し、排撃することで「正統」を保とうとしてきたことの連続だったということです。これはキリスト教史のダークサイドです。
 そして3つ目は、本当に私たちが警戒すべきなのは、「異端」の問題ではなく「カルト」の問題だということです。私たちの国の中枢部はすでにカルトに首根っこを押さえられたような格好になっています。本当に気をつけなくてはならないのは、この国がどのような宗教・教育政策を今後繰り出してくるかなのです。

「一点の曇りも無い生き方に憧れて」  
聖書:ヨハネの手紙(一)1章5-10(神には光しかない
2020年1月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 徳島北教会の新年礼拝の説き明かしです。
 ヨハネの手紙の今回のテクストには、神には一切の闇は無く、光しか無いように記されています。この聖書の言葉に私は違和感を感じています(聖書の言葉に違和感を感じるのは悪いことではないのです。聖書は幾人もの著者がいて、様々な観点や主観から書かれているのですから、自分に納得のゆく聖句と、納得が行かない聖句があっても、当たり前のことなのです)。
 神は光も闇もお造りになりました。またイエスも、人間社会の闇に恐れず突っ込んでゆくような生涯を送りました。私たちの人生の闇のような部分も、神様の御手の中にあるのです。
 私たちは一点の曇りもない生き方に憧れます。しかし、既に私たちの多くは、人生を生きてくる中で、垢と泥にまみれています。でも、汚点だらけの人生であったとしても、神様は全てご存知で、全てを受け入れて、赦して見守ってくださっているのです。
 今までの人生の汚れなど、神様はお見通しなのですから、もう何も神様に隠そうともごまかそうとも思わなくていい、まっさらな気持ちでこれからの人生を生きてゆけばいいのです。

 




 

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