礼拝説教ダイジェスト:2020年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「神は聞いている。神は見ている」  
聖書:創世記16章1-16節(ハガルとサライとアブラム
2020年7月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 ハガルとサライの対立は「女性同士の醜い争い」という風に受け止められがちですが、実際にはこの2人の女性はどちらも「女性は夫の嫡男を産む以外に存在価値はない」としてきた男性優位社会の被害者なのです。アブラムはまるで呆れているように振る舞っていますが、最大の加害者が自分であることには気づいていません。
 ハガルはアブラムの家族からの虐待の結果、逃げ出そうとしますが、主の天使に「戻りなさい」と告げられます。それは、それ以外に生きる場所がなく、独りで逃げることは死を意味するからです。
 主の天使は、ハガルがやがて産む子を「イシュマエル」と名付けなさいと告げます。それは「神は聞いている」「神は聞いてくださる」という意味です。これに対してハガルは「あなたこそ『エル・ロイ』です」と答えます。それは「神は見ている」「神は見ていてくださる」という意味です。
 異民族であり、奴隷であり、女性であるという三重の重荷を負ったこの人の苦悩に、神はしっかりと耳を傾け、眼差しを向けてくださるということなのです。
 この男女の格差の問題は、古代の昔話としては片付けられません。現代の世界でも格差はしっかりと存在し、男性はこの優位に鈍感なままあぐらをかいています。この不公平な状況も、神がしっかりと聞き、見ているのだということを認識しましょう。

「旅する礼拝」  
聖書:創世記12章1-9節(アブラムの召命
2020年6月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会家庭礼拝説き明かし
 アブラム(アブラハム)は、旅の中で礼拝する人でした。
 主の召命(呼び出して使命を与えること)を受けて、アブラムはそれなりに歳を重ねていたにもかかわらず、安定した生活基盤を捨てて、旅に出ました。
 後にアブラムの子孫であるイスラエル民族は王国を作り、神殿を建てて、そこで祭儀を行うようになるのですが、神殿を中心とした宗教になったことが、イスラエルの堕落の始まりだと指摘する人もいます。神殿に住み着く階級が暴利を貪ったり、自分たちで権力闘争を始めたりしたからです。
 しかし、アブラムの時代は旅行く先々で天幕(テント)を設営し、礼拝所を設けて礼拝するような移動式の礼拝が行われていました。行く先々でその都度礼拝をするのがイスラエルの原点だったのです。
 ここに私たちも学ぶところがあります。私たちの人生もさすらいの旅のようなものです。礼拝というものを固定化された習慣としたり、礼拝堂で行うものと思い込むことには、堕落や腐敗の温床となる危険性があります。
 私たちは、確かに礼拝堂を大いによりどころにはしていますが、それが教会や礼拝の本質ではないということを覚えておきたいと思います。大事なことは、さすらいの人生の旅路の中で、その都度、その都度、神を思い出し、神の導きを求め、神との約束を確認することです。その都度、その都度の礼拝を大切にしてゆきましょう。

「ローカルな発想で良い知らせを伝えよう」  
聖書:使徒言行録2章1-13節(ペンテコステの出来事
2020年5月31日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし
 ペンテコステの出来事で描かれているのは、とても面白い出来事です。その頃のローマ帝国で効率よく、多くの人に何かを伝えようとしたなら、ギリシア語で宣教した方が良いはずなのに、イエス派の指導者たちは様々な出身地の人々のそれぞれのローカル言語で宣教を始めたというのですね。
 これは、20年か30年後にパウロがギリシア語で手紙を書き、各地を旅して宣教し始めてから、おそらくは廃れていったやり方だと思いますが、最初のキリスト教(と呼ばれる以前の宣教)は、一人一人の出身地の言語、ということはすなわち文化を大切に、その人に合わせる形で行われていったと考えられるわけです。
 私たちは宣教する時、決して効率よく、できるだけ多くの人に伝わるようにする方法もあると思います。しかし、イエスの死後50日後という、ある意味生々しくイエスの面影を抱いていた人たちは、イエスのことを相手のローカル言語で伝えようと試みたのでした。
 それは、一つの言語でたくさんの民族や地域を統一支配するローマの帝国主義に対しての、ささやかではあるけれども抵抗だったのではないでしょうか。そして、すべての人々のローカルな言葉、文化、暮らしを大切にするイエスの思いの継承だったのではないでしょうか。
 そして私たちもそのデリケートな感性を大切に受け継ぎながら、大掛かりでも早急でも甚大でもない、一人一人を大切に尊重するような宣教をしてゆけたらと思うのです。

「大切なLifeを丁寧に生きよう」  
聖書:マルコによる福音書1章40-45節(既定の病の人を癒す
2020年5月17日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 徳島北教会の2020年度指針として「大切なLifeを丁寧に生きる」という言葉を提案させていただきました。
 Life(ライフ)というのは、生命・生物という意味があるだけでなく、生活や人生という意味でも使います。わたしやあなたの生命はもちろん、日々の生活も、そしてその生活の集成である生まれてから死ぬまでの人生、生涯も互いに大切にしてゆこうということです。
 またもうひとつ大切なことは、この世のことを大切にしようということです。宗教というものはともすれば死んだ後のことを問題にしがちですし、キリスト教の教会も「洗礼を受ければ天国に行けます」というような教え方をしているところはたくさんあります。
 しかし、洗礼を受ければ天国に行けるということを書いている聖書の箇所などありません。洗礼というのは死んだ後の天国への切符のことではなく、生きている間の人生の変革のことです。
 死んだ後のことは心配しないでください。みんな間違いなく神様のもとで安らかに憩うことができます。それを天国と言うのであれば、みんな天国に行けるのです。救いというのは、天国に行くことではなく、生きている間に「救われた」と感じることなのです。
 そして、今日読んだフィリピの信徒への手紙4章8-9節は、そのような人生をこの世で送るための、難しいけれども単純な、ひとつの明確な方向性を示すアドバイスなのです。

「感染症とイエス」  
聖書:マルコによる福音書1章40-45節(既定の病の人を癒す
2020年5月3日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 かつてイエスが人々に恐れられていた感染症に対して、どのように立ち向かったのかを聖書を通して学んでみましょう。
 当時、ヘブライ語で「ツァラアト」(けがれやまい)と呼ばれ、感染者がひどい差別と排除を受けていた病気がありました。その感染者がイエスのところに来て、「お望みでしたら、私を清くすることがおできになります」とひざまずきます。するとイエスは断腸の思いでこの感染者を見て、「私は望む、清くなれ」と言います。
 イエスが感染を恐れていたか、またこの感染者に触れることでこの人と同じように差別されることを恐れていたかはわかりませんが、そんな思いよりも、イエスは「断腸の思い」まさに文字通り、内臓がちぎれるような心の痛みを愛を覚えて、この感染者の体をつかみ、「私はあなたに治ってほしい」と言葉を発したのです。
 瞬時に病気を治す奇跡が事実であったかどうかはともかく、この感染者が癒されたことは間違いありません。このツァラアトという病は、肉体的な苦しみだけではなく、社会からも地域からも家族からも忌み嫌われ、共同生活から追い出される孤独の苦しみを味わされる病なのです。
 誰からも相手にされず、神にも呪われ、生きるにも死ぬにも何も希望のない、この病を得た人に、イエスはソーシャル・ディスタンシングも一気に乗り越えて、そのほとばしる愛をぶつけたのでした。
 私たちも今、病にまつわる差別と憎悪の真っ只中に生きています。こんな中で正直に言って、自分自身の中にフラストレーションや怒りが溜まってくることも否定できません。しかし、こういう時だからこそ、私たち自身もイエスによって激しく愛されているのだということを思い出して、自分も愛することのできる人間に変えていただきたいと願うのです。

「あの方が生きておられるから」  
聖書:ヨハネによる福音書21章1-14節(イエス7人の弟子に現れる
2020年4月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 イースターおめでとうございます。
 イースターはイエス・キリストの復活をお祝いする日ですが、イエスの復活とはどういうことを意味しているのでしょうか。
 よくイエスが肉体ごと蘇生したのだと言う人がいますが、聖書には肉体として蘇生したとは考えられないような状況でのイエスの出現が描かれています。
 イエスは壁を通り抜けて、いなかったはずの所に現れますし、イエスの顔を見ても、声を聞いても、弟子たちはそれがイエスだとは気づかない。その代わり、イエスと食事をした時に、イエスがそこに実はいたのだということが知られる、というような物語なのです。
 イエスの復活というのは、イエスの名のもとに、イエスの名によって食事をする、その食事こそが神の国の先取りなんだ、ここからイエスと一緒に私たちも世界を変えてゆくんだという意識を共有した時に、私たちの間にイエスが一緒にいてくれるという信仰のことなのです。

「イエスはあなたを独りにしない」  
聖書:詩編22編1-6節(裏切り者の予告
2020年4月5日(日)日本キリスト教団徳島北教会棕梠の主日礼拝説き明かし
 レントの最終週の日曜日は「棕梠の主日」(パーム・サンデー)と言い、イエスがエルサレムの街に入ったことを祈念します。これからの1週間は「受難集」(パッション・ウィーク)と言い、いよいよイエスが苦しみを受けることを追体験する週とされています。
 イエスは恥と孤独と苦痛の極みを経験しながら、人間として最低の人生の結末を迎えました。本当に救いようのないほどの最低の死に方です。
 しかし、イエスの死に様が酷ければ酷いほど、イエスの死は私たちにとって恵みの深いものになるのです。なぜなら、イエスは人間として味わいうる苦しみの最低限を味わって、この世の苦しむ人と共に寄り添おうとされたからです。
 「信じればハッピーになれますよ」という信仰は、本当に苦しんでいる人を救いません。信じても祈っても、楽にもならないのが人生の現実です。そのような苦悩する人を少しでも癒すのは、一緒に苦しんでくれる人の存在です。イエスは全くの孤独のうちに死ななければいけない人の気持ちを解ろうとして、自分自身も全くの孤独のうちに死んだのです。
 人間の苦しみにとことん付き合おうとされたイエスの愛に感謝したいと思います。

「生まれてこなければよかった」  
聖書:マルコによる福音書14章18-21節(裏切り者の予告
2020年3月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスの「最後の晩餐(または主の晩餐)」の場面において、イエスは自分を裏切る者の出現を予告します。それは、次のような強烈な衝撃を与える言葉を含んでいます。
 「生まれなかった方が、その者のためによかった」
 あの慈愛に満ちたイエスでも、自分を裏切る者のことは赦すことができなかったのでしょうか。「生まれなかった方がよかったのに」というのは、あまりにも人間に対して無慈悲な断罪ではないでしょうか。
 しかし、私たちはこの言葉に人間イエスの真実を見ます。人間イエスにとっては、自分の愛する弟子たちの中から自分を裏切る者が現れることは想定外だったのです。イエスは悲しくて苦しくて仕方がなかったのです。そして、自分が苦難を受けて死ぬことを予感して、恐ろしかったのです。
 私たち自身、予想もしなかった出来事に襲われて、誰にもわからない苦しみを一人で背負い込まなくてはいけなくなってしまう時があります。でも、その苦しみをわかってくれる人がいる。それがイエスです。
 イエスこそ、人間が味わい得る最大の苦しみを受けて、惨めに死んだ人間です。しかし、世の中には相変わらずそうやって死んでいる人がたくさんいます。どうやら神は、人間の苦しみを無くそうとしているのではなく、苦しみを共にすることによって愛し合い、そこから喜びや楽しみが湧いてくることを私たちに教えようとしているようなのです。


「神さまがしたことじゃない」  
聖書:イザヤ書53章1-5節(苦難の僕
2020年3月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レント(受難節)に入りました。イエス・キリストが苦しみを受けられたことを覚えて、自らの罪を悔い改めたり、弱点を克服するための努力をしたりといった季節としてキリスト教の暦では定められています。
 イエスは何のために苦しみ、なぜ殺されたのでしょうか。
 よく、「イエスは人間の罪に与えられるべき罰を、身代わりに受けてくださったのだ」ということを言うクリスチャンの方がいらっしゃいます。しかし、その考えは現代の神学からは疑問の声も上がっているということを申し上げておきたいと思います。
 そもそも私たちが信じる神様は、「お前たちの罪は赦せない。誰かいけにえを出せ」というようなことを人間に要求する神様でしょうか? そして、いけにえの代わりに我が子に罰を負わせようとするような虐待的な父なる神なのでしょうか?
 そうではありません。イエスを十字架にかけたことが私たちの罪なのです。けれども、イエスはその仕打ちから逃げることなく、自ら痛み苦しむことで、私たちの人生の苦難で強張ってしまった魂を溶かして、柔らかく癒してくれたのです。
 神が罰を必要としているという考え方が、私たちの社会からスケープ・ゴートを生み出す過ちを承認し、温存してしまうことにつながっています。スケープ・ゴートというのは、あってはならない、克服しなければならない風習なのです。
 私たちは、自ら痛み苦しむことによって私たちの苦痛を一緒に引き受け、癒してくださったイエスに感謝しつつ、しかしイエスをそのような目に合わせてしまったことを悔い改めつつ、このレントの時を私たちの世の中を変えるために、意味のあるものにしたいと思います。

「三位一体のシンプルマインド」  
聖書:コリントの信徒への手紙(二)13章13(パウロの祝祷
2020年2月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 三位一体論(三位一体説)というのは、難解なようですが、実はとてもシンプルなアイデアです。「3つで1つ」というとかえって分かりにくいのですが、実は3つあるのは「ペルソナ」と言って「お面」という意味です。神の正体はひとりですが、3種類のお面をかぶって人間の前に現れるという「仮説」であり「アイデア」です。
 1つ目のお面は「神」という超越的な側面を表しています。2つ目のお面は「イエス」を指します。神の思いが1人の人間の言葉や生き様に結実しているということを表しています。3つ目のお面は「聖霊」ですが、これは目に見えない命の力や、私たちの間に流れる心のダイナミズムを表しています。
 神がどのように個々人の人生に現れてくださるのかというのは、人の数だけあります。しかし、共通理解としてできるだけシンプルに3つにまとめたのが、「三位一体」という仮説なのです。

「キリスト教の『異端』について」  
聖書:使徒言行録5章33-42(ガマリエルの知恵
2020年1月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 キリスト教の「異端」について語る時、私たちが忘れてはならないことが3つあります。
 1つは、私たちクリスチャン自身が実は元々ユダヤ教の異端だったということです。クリスチャンはユダヤ教の異端でした。また、プロテスタントはカトリックにとって異端でした。
 2つ目は、キリスト教の歴史というのは、裏返せば「異端」を定義し、排撃することで「正統」を保とうとしてきたことの連続だったということです。これはキリスト教史のダークサイドです。
 そして3つ目は、本当に私たちが警戒すべきなのは、「異端」の問題ではなく「カルト」の問題だということです。私たちの国の中枢部はすでにカルトに首根っこを押さえられたような格好になっています。本当に気をつけなくてはならないのは、この国がどのような宗教・教育政策を今後繰り出してくるかなのです。

「一点の曇りも無い生き方に憧れて」  
聖書:ヨハネの手紙(一)1章5-10(神には光しかない
2020年1月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 徳島北教会の新年礼拝の説き明かしです。
 ヨハネの手紙の今回のテクストには、神には一切の闇は無く、光しか無いように記されています。この聖書の言葉に私は違和感を感じています(聖書の言葉に違和感を感じるのは悪いことではないのです。聖書は幾人もの著者がいて、様々な観点や主観から書かれているのですから、自分に納得のゆく聖句と、納得が行かない聖句があっても、当たり前のことなのです)。
 神は光も闇もお造りになりました。またイエスも、人間社会の闇に恐れず突っ込んでゆくような生涯を送りました。私たちの人生の闇のような部分も、神様の御手の中にあるのです。
 私たちは一点の曇りもない生き方に憧れます。しかし、既に私たちの多くは、人生を生きてくる中で、垢と泥にまみれています。でも、汚点だらけの人生であったとしても、神様は全てご存知で、全てを受け入れて、赦して見守ってくださっているのです。
 今までの人生の汚れなど、神様はお見通しなのですから、もう何も神様に隠そうともごまかそうとも思わなくていい、まっさらな気持ちでこれからの人生を生きてゆけばいいのです。

 




 

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