礼拝説教ダイジェスト:2020年

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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
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【メッセージの要旨】

「イエスはあなたを独りにしない」  
聖書:詩編22編1-6節(裏切り者の予告
2020年4月15日(日)日本キリスト教団徳島北教会棕梠の主日礼拝説き明かし
 レントの最終週の日曜日は「棕梠の主日」(パーム・サンデー)と言い、イエスがエルサレムの街に入ったことを祈念します。これからの1週間は「受難集」(パッション・ウィーク)と言い、いよいよイエスが苦しみを受けることを追体験する週とされています。
 イエスは恥と孤独と苦痛の極みを経験しながら、人間として最低の人生の結末を迎えました。本当に救いようのないほどの最低の死に方です。
 しかし、イエスの死に様が酷ければ酷いほど、イエスの死は私たちにとって恵みの深いものになるのです。なぜなら、イエスは人間として味わいうる苦しみの最低限を味わって、この世の苦しむ人と共に寄り添おうとされたからです。
 「信じればハッピーになれますよ」という信仰は、本当に苦しんでいる人を救いません。信じても祈っても、楽にもならないのが人生の現実です。そのような苦悩する人を少しでも癒すのは、一緒に苦しんでくれる人の存在です。イエスは全くの孤独のうちに死ななければいけない人の気持ちを解ろうとして、自分自身も全くの孤独のうちに死んだのです。
 人間の苦しみにとことん付き合おうとされたイエスの愛に感謝したいと思います。

「生まれてこなければよかった」  
聖書:マルコによる福音書14章18-21節(裏切り者の予告
2020年3月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 イエスの「最後の晩餐(または主の晩餐)」の場面において、イエスは自分を裏切る者の出現を予告します。それは、次のような強烈な衝撃を与える言葉を含んでいます。
 「生まれなかった方が、その者のためによかった」
 あの慈愛に満ちたイエスでも、自分を裏切る者のことは赦すことができなかったのでしょうか。「生まれなかった方がよかったのに」というのは、あまりにも人間に対して無慈悲な断罪ではないでしょうか。
 しかし、私たちはこの言葉に人間イエスの真実を見ます。人間イエスにとっては、自分の愛する弟子たちの中から自分を裏切る者が現れることは想定外だったのです。イエスは悲しくて苦しくて仕方がなかったのです。そして、自分が苦難を受けて死ぬことを予感して、恐ろしかったのです。
 私たち自身、予想もしなかった出来事に襲われて、誰にもわからない苦しみを一人で背負い込まなくてはいけなくなってしまう時があります。でも、その苦しみをわかってくれる人がいる。それがイエスです。
 イエスこそ、人間が味わい得る最大の苦しみを受けて、惨めに死んだ人間です。しかし、世の中には相変わらずそうやって死んでいる人がたくさんいます。どうやら神は、人間の苦しみを無くそうとしているのではなく、苦しみを共にすることによって愛し合い、そこから喜びや楽しみが湧いてくることを私たちに教えようとしているようなのです。


「神さまがしたことじゃない」  
聖書:イザヤ書53章1-5節(苦難の僕
2020年3月8日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 レント(受難節)に入りました。イエス・キリストが苦しみを受けられたことを覚えて、自らの罪を悔い改めたり、弱点を克服するための努力をしたりといった季節としてキリスト教の暦では定められています。
 イエスは何のために苦しみ、なぜ殺されたのでしょうか。
 よく、「イエスは人間の罪に与えられるべき罰を、身代わりに受けてくださったのだ」ということを言うクリスチャンの方がいらっしゃいます。しかし、その考えは現代の神学からは疑問の声も上がっているということを申し上げておきたいと思います。
 そもそも私たちが信じる神様は、「お前たちの罪は赦せない。誰かいけにえを出せ」というようなことを人間に要求する神様でしょうか? そして、いけにえの代わりに我が子に罰を負わせようとするような虐待的な父なる神なのでしょうか?
 そうではありません。イエスを十字架にかけたことが私たちの罪なのです。けれども、イエスはその仕打ちから逃げることなく、自ら痛み苦しむことで、私たちの人生の苦難で強張ってしまった魂を溶かして、柔らかく癒してくれたのです。
 神が罰を必要としているという考え方が、私たちの社会からスケープ・ゴートを生み出す過ちを承認し、温存してしまうことにつながっています。スケープ・ゴートというのは、あってはならない、克服しなければならない風習なのです。
 私たちは、自ら痛み苦しむことによって私たちの苦痛を一緒に引き受け、癒してくださったイエスに感謝しつつ、しかしイエスをそのような目に合わせてしまったことを悔い改めつつ、このレントの時を私たちの世の中を変えるために、意味のあるものにしたいと思います。

「三位一体のシンプルマインド」  
聖書:コリントの信徒への手紙(二)13章13(パウロの祝祷
2020年2月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 三位一体論(三位一体説)というのは、難解なようですが、実はとてもシンプルなアイデアです。「3つで1つ」というとかえって分かりにくいのですが、実は3つあるのは「ペルソナ」と言って「お面」という意味です。神の正体はひとりですが、3種類のお面をかぶって人間の前に現れるという「仮説」であり「アイデア」です。
 1つ目のお面は「神」という超越的な側面を表しています。2つ目のお面は「イエス」を指します。神の思いが1人の人間の言葉や生き様に結実しているということを表しています。3つ目のお面は「聖霊」ですが、これは目に見えない命の力や、私たちの間に流れる心のダイナミズムを表しています。
 神がどのように個々人の人生に現れてくださるのかというのは、人の数だけあります。しかし、共通理解としてできるだけシンプルに3つにまとめたのが、「三位一体」という仮説なのです。

「キリスト教の『異端』について」  
聖書:使徒言行録5章33-42(ガマリエルの知恵
2020年1月26日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 キリスト教の「異端」について語る時、私たちが忘れてはならないことが3つあります。
 1つは、私たちクリスチャン自身が実は元々ユダヤ教の異端だったということです。クリスチャンはユダヤ教の異端でした。また、プロテスタントはカトリックにとって異端でした。
 2つ目は、キリスト教の歴史というのは、裏返せば「異端」を定義し、排撃することで「正統」を保とうとしてきたことの連続だったということです。これはキリスト教史のダークサイドです。
 そして3つ目は、本当に私たちが警戒すべきなのは、「異端」の問題ではなく「カルト」の問題だということです。私たちの国の中枢部はすでにカルトに首根っこを押さえられたような格好になっています。本当に気をつけなくてはならないのは、この国がどのような宗教・教育政策を今後繰り出してくるかなのです。

「一点の曇りも無い生き方に憧れて」  
聖書:ヨハネの手紙(一)1章5-10(神には光しかない
2020年1月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 徳島北教会の新年礼拝の説き明かしです。
 ヨハネの手紙の今回のテクストには、神には一切の闇は無く、光しか無いように記されています。この聖書の言葉に私は違和感を感じています(聖書の言葉に違和感を感じるのは悪いことではないのです。聖書は幾人もの著者がいて、様々な観点や主観から書かれているのですから、自分に納得のゆく聖句と、納得が行かない聖句があっても、当たり前のことなのです)。
 神は光も闇もお造りになりました。またイエスも、人間社会の闇に恐れず突っ込んでゆくような生涯を送りました。私たちの人生の闇のような部分も、神様の御手の中にあるのです。
 私たちは一点の曇りもない生き方に憧れます。しかし、既に私たちの多くは、人生を生きてくる中で、垢と泥にまみれています。でも、汚点だらけの人生であったとしても、神様は全てご存知で、全てを受け入れて、赦して見守ってくださっているのです。
 今までの人生の汚れなど、神様はお見通しなのですから、もう何も神様に隠そうともごまかそうとも思わなくていい、まっさらな気持ちでこれからの人生を生きてゆけばいいのです。

 




 

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