礼拝説教ダイジェスト:2021年

【ご利用になる方は……】

 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。
下記のリストにて、当教会に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。
本文をお読みになる場合は、要旨のタイトルの横にあるボタンをクリックしてください。

教会の玄関に戻る 
礼拝堂の入口に戻る 
 

【メッセージの要旨】

「女は教会で黙ってろ?」  
聖書:コリントの信徒への手紙(一)14章34−36節(婦人たちは教会では黙っていなさい)
2021年5月30日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 パウロの手紙にある「婦人たちは教会では黙っていなさい」という言葉は、パウロによる女性差別が如実に表れた言葉であるとして、以前から激しく糾弾されてきました。
 確かにパウロには、時代の限界だったのか、女性を蔑視する傾向は否定できません。しかし、当時の風潮でどんなものであったかを考えれば、むしろマシだったのかもしれません。
 それどころか、パウロの手紙の書かれた順番を調べてみると、最初は女性を軽んじていたパウロが、次第に女性の存在の大きさを認め、称賛してやまない人間へと成長していった様子がわかるのです。
 パウロとように成長する人間でありたいものです。ペ

「聖霊ってなんですか?」  
聖書:テサロニケの信徒への手紙(一)5章23−24節(霊と心と体)
2021年5月23日(日)日本キリスト教団徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし
 ペンテコステはイエス様亡き後、弟子たちのところに聖霊の火が降り、宣教を始めた日とされています。
けれども「聖霊」って何でしょうか? 三位一体と言われる神さまの中で、「神様」「イエス様」はなんとなくわかるような気はするけれども、「聖霊」についてはよくわからないという方が多いのではないかと思います。
 テサロニケの信徒への手紙(一)5章23節は、「霊と心と体」という言葉があり、古代人の人間のとらえ方がよく表れています。体(ソーマ)は肉体のことですね。心(プシュケー)は心で、これは自分で理解でき、ある程度自分でどうにかなる心の部分です。そして霊(プネウマ)は自分の力でどうこうできるものではないけれども、自分に大きな影響を与えてくる見えない力を指します。そして、その見えない力が私たちに新鮮な活き活きとした息吹となって満ちるとき、それを聖霊といいます。

今回はそんな聖霊についてお話してみました。

「愚か者のやぶれかぶれ」  
聖書:コリントの信徒への手紙(二)10章9−11節(会うと弱々しいパウロ)
2021年5月16日(日)日本キリスト教団枚方くずは教会&徳島北教会オンライン合同礼拝宣教/説き明かし
 コリントの信徒への手紙(二)の10章から13章は、「涙の手紙」と呼ばれることがあります。コリントの教会と微妙な関係にあったパウロは、コリントの信徒たちの間で、どんどん自分の評判や信頼が落ちてゆくのに対し、焦りと憤りを隠せません。
 「手紙は重々しく力強いが、会ってみると弱々しく話もつまらない」という言葉は、実際にパウロの耳に入ってきた彼への不評でしょう。この言いぐさがどんなに彼を傷つけ、苦しめたでしょうか。
 しかし、このやぶれかぶれの恨み節に始まった「涙の手紙」を書きすすめるうち、パウロは次第に自分の苦難の人生が、弱い人を見ると自分も弱くなり、躓く人を見ればかえって心が燃えるという自分の中の力の源に気づいてゆきます。そして「私は弱いときにこそ強いのだ」という告白にまで導かれてゆきます。
 弱い者、愚かな者、不器用で格好悪い生き方しかできない者。そういう人間をこそ、神は選んで用いようとします。それは楽な道ではありません。神さまさえそんな選びをするとは、愚かなのです。
 しかし、その愚かさの極致に究極の賢さがあり、その歩む先に救いがあるのです。

「神さまは水をやったり肥やしをやったり」  
聖書:ルカによる福音書13章6−9節(実のならないいちじくの木)
2021年5月2日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 この物語に出てくるいちじくの木は、なぜかぶどう園に植えられています。このことは、まるで場違いな場所に生きているような人間の姿を表しているような気がします。その場違いな場所で、花も実もつけることができずに悩ましい毎日を送っている人間です。
 ご主人さまはそんないちじくの木を「実をつけないから切り倒せ」と言います。しかし、園丁は「来年まで待ちましょう」とご主人を宥め、この木をかばいます。この園丁の姿に、私たちは神やイエスの愛を見ることができるのではないでしょうか。
 私たちも皆が花も実もある人生を送っているわけではありません。観葉植物のように派手さもなく、ただそこにいるだけという人もいるでしょう。強く、速く、多くを求める現代社会において、取り残されがちな人もいるでしょう。
 しかし、神の目から見れば、その弱く、時間のかかる、少ないもので生きる人も愛すべき1本のいちじくの木なのです。愛されている、守られているということを信じて生きたいものです。

「喜びにあふれた旅を始めよう」  
聖書:使徒言行録8章26−40節(フィリポとエチオピアの宦官)
2021年4月18日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 エチオピア人の宦官は、ユダヤ人から見れば「異邦人」であり「性的マイノリティ」であるという二重の差別をぶつけるべき存在です。
しかし、ステファノと同じ7人の福音宣教者の1人であるフィリポは、そのような人と人を分け隔てする壁を軽々と超えて、エチオピア人の宦官と一緒に聖書を読み、イエスの福音を説き明かしました。

 イエスの福音は、民族の壁、セクシュアリティの壁を越えて、すべての人が分け隔てなく神に愛されているということを証ししています。それをフィリポはこのエチオピア人の宦官に伝えました。宦官はありのままの自分がそのままで神に愛されていることを知りました。
 そしてこの宦官は「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。私たちも喜びにあふれた旅を続けたい。またこれからでも始めてゆきたいですね。

「どこにも神などいるものか」  
聖書:マルコによる福音書16章1−8節(空っぽの墓)
2021年4月4日(日)日本キリスト教団徳島北教会イースター礼拝説き明かし
 イースターおめでとうございます。
 しかし、聖書によれば、イエス様は十字架につけられたままの姿で起こされたのだと見る読み方もあります。もし、イエス様の復活がそのようなものであるとすれば、イースターとは単に「イエス様がよみがえられた、おめでとう!」と単純に喜んでいいものとは言えないものではないのでしょうか。イエス様が今も私たちと苦しみを共にしておられるということは、笑い事ではすまされないのではないでしょうか。
 実際、病気が治った、人生の難題が解決した、といったことを「救い」だと言う人もいるでしょう。それはそれで良いこと、ありがたいことなのです。しかし、イエス様が寄り添おうとされたのは、手を尽くしても助からない人、どうしようもない苦悩の状態に置かれた人なのです。
 そんな人と一緒に苦しみ、一緒に死ぬためにイエス様は十字架につけられ、そのままの状態で今も、「助からない人」と共に苦しみを共にしておられるのです。
 それがイースターの意味、救いのないところに救いがあるという逆説なのです。

「イエス様には失望いたしました」  
聖書:マルコによる福音書15章21−32節(キレネ人シモン)
2021年3月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会受難節礼拝説き明かし
 レントも大詰め、イースターまで2週間です。ここで、イエス様のご受難について深く思いをはせる時としたいと思います。
 ここでの登場人物はキレネ人シモンという人です。この人は、たまたまそこを通りかかったことをきっかけに、イエス様の十字架をイエス様と一緒に担ぐことになってしまいました。しかし、そのことが彼と彼の息子たちの人生を決定的に変えてしまいました。
 イエス様はなぜ十字架につけられることになったのでしょうか。なぜ人々はイエス様を殺さなければ気が済まないと思うことになったのでしょうか。
 それはイエス様にかけられた大きな期待と、イエス様がその期待を見事に裏切ってしまったことによるのです。
 イエス様のご受難の背景にある事情を読み解き、このイエス様の死があなたにとってどんな意味を持つのかに心を巡らせてみましょう。

「そんな人は知らない」  
聖書:マルコによる福音書14章66−72節(ペトロ、イエスを裏切る)
2021年3月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 皆さんは人を裏切ったことがありますか?
 ペトロはイエス様の一番弟子でしたが、イエスが「あなたたち全員私を見捨てて逃げるだろう」と言った瞬間に、「たとえ一緒に死なねばならなくなっても、あなたを見捨てません」と言いました。そんなことを言うので、かえってこの人の裏切りの罪は重いと言えるでしょう。
 福音書と使徒言行録を見る限り、ペトロが原始教会の指導者として率いてゆく前に、裏切りを懺悔したなどということは書かれていません。彼は、イエスの死後、口を拭ってイエスの弟子たちのところに戻ってきましたが、その前に強い強い懺悔があったのだ、というのは想像の産物でしょう。
 ヨハネの福音書は、このようなペトロに対して、やがて彼自身がイエスと同じ苦しみを味わうことになるであろうことを(事後から)予言してます。
 それはペトロにとっては厳しい結末ではあるでしょう。けれども、それは「私と一緒に苦しもう」というイエス様からの歩み寄りです。
 苦痛あるいは絶望においてこそ、イエス様の苦しみと自分の苦しみは重なり合うのだということを、聖書はペトロを通しておしれてくれるのです。

「信じてはいなかった。だが助けてはくれないか。」  
聖書:マルコによる福音書9章14−29節(霊に取りつかれた子を癒す)
2021年2月21日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 この物語はイエス様が亡くなってから40年近く後の、福音書記者マルコによるエルサレムの12弟子が創立した教会に対する批判であると読むのが良いでしょう。
この教会の人たちは、議論ばかりして、実際に病気や障害や問題行動などで苦しんでいる親子の手当てをするでもなく、何も力を発揮できないでいるではないか、という批判なのです。
イエス様は「(神さまを、イエス様を、そして人間同士が)信じる気持ちをしっかりと持てば、不可能なことはないのだ」とおっしゃっています。
この物語は私たちの教会が陥りがちな問題を鋭く突いていると言えるでしょう。「祈りによらなければ」とイエス様はおっしゃいます。けれども私たちは、苦しむ1人の人のために真摯に祈るということさえも怠っているのではないでしょうか。

「礼拝で政治の話はやめてください」  
聖書:マルコによる福音書15章1−15節(ピラトによるイエスへの尋問と死刑判決)
2021年2月7日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 「礼拝説教では政治の話はしないでください」という声はよく聞かれます。確かに牧師が説教の中で、特定の政党への支持を呼びかけたり、特定の政治思想を説いたりということはよくないと思います。
ただ、政治の色が一切ない聖書の話をしろと言われると、ちょっとそれは無理な注文ではないかなと思います。
なぜなら、イエス様は実に政治的な暴虐の中で殺されていった方だからです。イエス様の生涯と死について語るとき、当時の政治について話さないわけにはいきませんし、またそれは現在の私たちが生きている政治的状況と無関係に語っても意味がありません。
今日は、そのような意味で興味深いシーンを引用しながら、そのことを考えてみましょう。

「もともとあった分かち合い」  
聖書:使徒現行録17章1-9節(テサロニケでの騒動
2021年1月24日(日)日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし
 私たちの教会(徳島北教会)は、「おたくの礼拝はまるで礼拝というよりは聖書研究会ね」と揶揄されます。特に説き明かし(説教)の後、分かち合い(話し合い)があるために、聖書研究会のような意見交換があるので、「礼拝というより聖研だ」というのです。そして当然、聖研より礼拝の方が尊いと思っていますから、「まるで聖研」というのは、「あんなものは礼拝ではない」と軽蔑しているのです。
 確かに、「礼拝で言葉を発するのは牧師と司会者のみ。参加者は讃美歌以外は声を出してはいけない。話してもいけない。笑ってもいけない」と信じ込んでいる信徒は多いです。
 けれども、キリスト者と呼ばれ始めた頃の最初のキリスト者たちは、果たしてそんな礼拝しかあり得ないと思っていたでしょうか? また、私たちはプロテスタントですが、宗教改革者のマルティン・ルターが原点に帰ろうとした礼拝の形とは、単なる講演会のような礼拝でしょうか?
 そのあたりを、丁寧に使徒言行録を読むことで、思いを馳せてみたいと思います。

「のろさに付き合う神さま」  
聖書:詩編23編(主は私の羊飼い
2021年1月12日(日)日本キリスト教団徳島北教会新年礼拝説き明かし
 新年明けましておめでとうございます。
 昨年、2020年は皆さんにとってどんな1年でしたか? 何を言っても「コロナ」の話題が私たちの頭から離れることがなかったのではないでしょうか。
 このコロナのおかげで、私たちの教会の歩みも随分鈍くなったのではないかと思います。
 しかし、兎にも角にも私たちは、自分たちに可能な限りの方法を使って、礼拝を死守してきました。これからも私たちは、春夏秋冬絶えることなく、礼拝を行うでしょう。礼拝は教会の中心だからです。
 今日は、詩編23編の特に4節に注目してみたいと思います。ここには「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあります。杖は私たちが倒れそうになった時、支えてくれます。しかし、鞭は私たちが惰眠を貪りそうになる時に、「起きて、歩きなさい」と促してくれるのです。
 私たちの歩みは「牛歩」かもしれませんが、それでも「ゆっくりと、しっかりと」歩み続けることが大切です。神さまはこのゆっくりとした歩みに、鞭と杖を携えて付き添ってくださいます。それを信じて、この新しい年も進んでまいりたいと思います。の新しい1年もゆっくりと、しっかりと歩んでいきましょう。

 




 

教会の玄関へ戻る
教会の案内図へ戻る
「キリスト教・下世話なQ&A」コーナを訪ねる

牧師にメールを送る