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 Q. 聖書によく「いけにえ」って出てきますけど、気味悪くないですか?
生徒 「センセー、なんか聖書に『いけにえ』ってよく出てくるけど、なんかキショイで。だいたい『いけにえ』言うたら、なんか動物殺して犠牲にすんねやろ? なんか血生臭いというか、ヤバいっていうか、そんな心の小さな神さま、いらんわ、あたし」
教師 「ほおほお、おまけに、最後にはイエス・キリストが『いけにえ』になって血をダラダラ流して殺された、いうのがキリスト教の教えやからなぁ」
生徒 「ゲー、まじキショイ、サイテー。キリスト教なんか、どこがええのん? 頭おかしいんちゃうか」
教師 「うーん、そうね。日本人には血生臭い。確かに……」

(2004年5月にいただいたメールより再構成したもの)

 A. 肉を食べてる人たちの発想ですもんねぇ。
聖書は肉食文化の文学だから仕方がないです。

  仕方がないと言えば仕方がないんですが、もともと動物のいけにえを献げる文化で始まった宗教だから、いけにえを献げる人たちにとっては、ちっとも残酷なことではないんですよね。日本人から見ると、気味悪い人が多いでしょうけど。
  神さまと人間がいろんな約束ごと(契約)をしながら、共に愛し合いながら、共に歩んでいきましょう、というのがそもそものキリスト教の発想じゃないですか。
  もともとその発想は、ユダヤ教で生まれたんですけど、ユダヤ教だとユダヤ人だけの宗教です。それをキリスト教は、民族を超えて誰でも頼れるような宗教にしていったわけですね。
  でも、もともと最初に神さまと人の関係というものに着目したユダヤ人の聖書(旧約聖書)を、キリスト教は受け継いでいます。
  で、そのユダヤ人の聖書(旧約)に、「いけにえ」「いけにえ」と頻繁に出てきます。キリスト教オリジナルの新約聖書にも、ユダヤ的傾向の強い人が書いた手紙の中には、やっぱり「いけにえ」「いけにえ」と出てきます。うへっ。
  なんでかというと、もともとユダヤ人の先祖というのは遊牧民、つまり羊飼いだったし、後の時代になっても、やはり羊の肉を食べたり、山羊の乳を飲んだり……、まぁつまり肉食文化なわけです。
  肉食文化の人たちの「肉」とか「血」に対する感覚(それから油とか、皮とかもね)というのは、やはりちょっとわれわれ日本人とは違うように感じますよ。
  生きている動物の喉をかき切り、頚動脈からビューッ、ビューッと飛び出る血を器で汲んだり、痙攣しているその動物の皮をキレイにはいで、中の各部分の肉や内臓、骨を無駄なく切り分けて、食用や薬用などさまざまな用途別に分類し、あとには地面に残った血液のシミ以外なにも残らない、という動物の利用のしかたを、日常的にしてきているわけですよね。肉が主食のひとつですから、食べるための日常風景です。
  それは、日本人がたとえば、田んぼの稲を刈って、脱穀して、わらを積み上げて、おコメが俵に入って……というのとはずいぶん違う風景だけど、それは日常食べておるものが違うので、文化の違いだから仕方がないよとしか言いようがないのだと思います。(この際、食われる側にとっては同じで、どっちも残酷だ、という話は置いておきましょう。ややこしくなりますから。でも、稲もかわいそうですよね。足を鎌でざっくり切り落とされ、首を脱穀機でハネられ、さらにハネられた首を精米機ですりつぶされるという、とてつもない残酷な……いや、やめておきましょう)。
  まぁ、とにかく、わかってもらえないかも知れないけど、たくさんの動物の流血も、生活スタイルによっては、やっている本人たちにとっては残酷でもないということです。
  遊牧民たちは、食べるために、羊や山羊を殺してきました。
  それは彼らにとって、とてもおいしいごちそうだったので、神さまもきっとこのごちそうがすきなはずだ、と考えていたのです(だから、旧約聖書・
創世記4章のカインとアベルのお話でも、アベルのささげたお肉のほうが、神さまはお気に入りだ、なんて物語をつくってしまうのですね)。
  そこで、自分たちがうまいうまいと食べるだけではなくて、神さまに感謝をささげたり、神さまが怒っておられるのではないかと感じたときには宥め(なだめ)の供え物をささげたりしてきたわけです。
  神さまのために山羊や羊の体を裂き、「どうか私たち人間が罰せられる身代わりにしてください」とお願いしたり、肉を焼いてささげて「どうぞこのいい香りをかいでください」と神さまをよろこばせようとしたり、ということをしてきたわけです。
  それは、自分たちが肉が好きだったから、自分たちのいちばんのお気に入りのご馳走で、神さまをもてなそうとした、というだけのことなのです。

肉でないとダメなのか。

 じゃあ、肉でないとダメなのかい、というと、そんなことはないのであって、ユダヤ人は肉が好きだから、神さまも自分らの好物で喜ばせようとしたけど、他の民族は他の民族なりに自分たちの好物で神さまを喜ばせればいいわけですよね。(だから、カインとアベルのお話で、農産物をささげたカインに、神さまは「おまえがいいと思ってるんならいいじゃないか」と言うわけでしょうかね)
 だから、日本の教会で行われる「収穫感謝礼拝」なんてのは、たいてい野菜がのってたりしますね。ニンジンとかカボチャとかジャガイモだとかキャベツだとかトマトだとかキュウリだとかナスだとか、色とりどりで楽しいですね。日本の教会の収穫感謝礼拝で、豚の首とか祭壇に乗ってたりとかした風景は見たことがありません。ぼくが見識が狭いだけかも知れませんが。(豚の首なら、たとえば中華街のお祭りなんかでは、よく見ますね。あれは収穫感謝ではないのか……。でも豚を多量に消費する文化だから、あれが自然なんでしょうね)
 そういうわけで、どんな宗教でも、そして、同じ目的の儀式であったとしても、やりかたはそれぞれの民族文化のライフスタイルによって左右されるということなのですね。
 遊牧民でない人たちは、別に血生臭い方法でささげものをしなくてもいいわけです。
 遊牧民でも農耕民でもない都会の給料労働者たちの献げ物は、たいていお金(献金)ですよね。

実は日本人だって残酷だ。

 でも、本当は日本人だって残酷なんですよねー。血生臭いことがない、というのは大間違いです。
 キリシタン弾圧とか、知ってますか? ひどいですよ。織田信長以来、明治初期まで、日本のクリスチャンは、捕まえられ、投獄され、拷問にかけられ、実に無残な殺され方をしてきました。火山の火口につるされたり、こめかみに穴をあけられて焼けた針を入れられたり、首に切り傷を作ってそこに竹ノコギリをあて、「キリシタンを棄てるか」と詰問して拒否するごとにノコギリを一回引くとか、他にもいろいろ……。もちろん審問官によっては温情派もいたわけですが、血みどろの弾圧が行われたところでは行われたわけです。よく、西欧のキリスト教の歴史は血塗られた植民地支配の歴史だ、などと言われるときがありますが、こと日本においては事情は全く逆で、キリシタン弾圧をやってる日本人のほうがよほど血生臭いことをやっているのです。
 他にも、朝鮮半島や中国大陸で、日本刀の試し切りをやってきたような連中が、戦後だんまりを決め込んで政治家になっていたり……。あの日本刀、というのも曲者です。美術品として飾っているところしか見ていないとそう感じないけど、要するに戦争において人を斬る兵器ですね。日本人というのは動物はあまり食ってこなかったから、伝統的に「動物は切らないで、人だけをもっぱら斬ってきた民族である」という定義も成り立つわけです。しかも、自分の腹まで切る。(それはそれで武士の間では正式な切腹な作法というものもあるのです。血生臭い(笑)のでここでは書きませんが、要するに肉食文化の人びとの動物の解体の作法が見事なように、武士の自分の命の処分の仕方もなかなか見事です)
 それから、もともと肉食民族ではないし、遊牧民でもなかったけれど、今では日本人もよく肉は食べるわけですよね。でも、肉をよく食べるということは、誰かが食べられる動物を殺して解体しなければならないわけで。で、日本人は全体としては動物の肉をさばく技術が国民全体の文化として根付いているわけではない。しかし、肉は食いたい。そこで明治以降、食肉文化が入ってきてからもっぱら動物の解体・精肉を請け負わされてきたのは、被差別部落ですよね。血生臭いことはやりたくない、やりたくない仕事は部落の人にやらせる、できてきた肉は細切れでミートパックにして、残酷じゃない体裁にして売って、買って、食べる。「血生臭い」と言って部落の人を差別しているにも関わらず、血生臭いことをしないと食べられないものを、おいしくいただいている。というわけで、肉食民族の血生臭さへの抵抗感を示す日本人を見ると、わたしなどは部落差別のことを思い出したりして、「あなたは、ベジタリアンですか」と皮肉を言いたくなることもあるのです。(もっとも最近は本当に肉食文化は日本に根付きましたから、精肉業界にもさまざまな資本が入っていて、いまは精肉業だから部落産業だということはありません。念のため)
 あるいは、「いけにえ」ということにしぼっても、たとえば、何度橋をかけても流されるから、「人柱(ひとばしら)」でも出そうとか、そういうことをやってきた村は昔からたくさんありました。川の神さまのお怒りがどうあってもおさまらない、それじゃあ仕方がない。人柱をだそう。村で選んだ人を生き埋めにして、その上に橋の基礎を工事したりするんですな。そしたら、水害がなくなった……という話がほんまかどうか、しかし、おかげで水害がなくなったということにしないと、タタリも怖いし……。そういうことを各地で日本もやってきたわけです。
 そして、昔からたとえば「桃太郎」などの昔話に、村の娘が鬼にいけにえにさらわれる、なんて話がたくさんありますが、やはり日本にも「いけにえ」という発想はあるわけです。

なぜ「いけにえ」が必要だと思われてきたのか。

 昔の人はなぜ「いけにえ」をささげたのかということなのですが、先にも書きましたように、神さまの怒りをなだめ、鎮める(しずめる)ためです。
 日本の風土になぞらえて言えば、たとえば、いつまでもやまない雨。そのために橋が流されてしまった、農作物も全滅だ……。これは天の神さまが怒っておられるに違いない。あるいは逆に、何日も何日も続く終わりのない日照り。農作物も全滅だ……。これは天の神さまが怒っておられるに違いない。人間はそういう考え方をしてきたのです。
 神さまが怒っておられる。どうすればその怒りをなだめることができるのか。人間にできることは、祈りをささげることと、供え物をささげることぐらいです。そして災いが過ぎ去るまで、供え物はどんどん高価なものになり、災害が過ぎ去ってくれなければ、最後は人の命をささげようというところまで行ってしまうのです。どこまで供え物をささげれば我々の願いは聞き届けられるのか、ということは、災いが過ぎ去ったとき初めて結果論としてわかるのです。
 その代わり、今年は例年になく豊年満作だ。米も野菜もみな大豊作だ、となったら、これは天の神さまがくださった恵みだ、感謝せよ、ということになります。その時にも、人は供え物をします。
 こういうことは日本人であろうが、ユダヤ人であろうが、どこの民族であろうが、同じことです。
 こういう「神さまのお怒り」という感覚を、「そんなの昔の人の発想だよ。バカバカしいね」なんて言えないですよね。どんなにお天気が変わるメカニズムが学的に解明されたとしても、「なんで今ここで雨が降るんだよ」というときに雨が降ったりするものだし、どんなに科学が発達しても、偶然というものは誰にも操作できないです。「明日は雷雨になるでしょう」と予報することができても、明日の雷雨を避けることは人間にはできない。なんで半年も前から計画していた二人っきりのゴルフ旅行がどしゃぶりの雨にたたられるんだよ、というときに、思わず人は「オレは神に呪われているに違いない」と思うものです。
 で、ユダヤ人というのは、特にそういう神の怒りというものに対して、「罪」とか「罰」ということに問題意識を持った人びとなわけです。
 これは日本人のように、狭い島国のなか、どこを歩いても同じような顔をして似たような言葉をしゃべっている状況を作り上げてしまった民族とは違うところですが、その気にさえなれば、広い広い大陸を旅することができるし、砂漠の向こうから、どんな言語をしゃべる、どんな肌の色の、なにを食べて、その食べ物をどうやって手に入れているかも、危険なのか安全なのかも予想もつかないような奴で出会う可能性があるのが日常、という世界で生きていた遊牧民であったユダヤ人は、「契約」というものの大事さを強調するようになっていくわけです。
 少なくとも契約書に記述した内容については守る、それを守るのが「罪」であり、守らなければ「罰」が与えられる、というのが契約です。これは、相手を理解しきることも信頼しきることもできるはずがない前提の上で、自分と相手の安全と利益を守るための最善の方法なのです。
 そしてユダヤ人たちは、またまたこの考え方を神さまと自分たち人間との関係に当てはめるのです。神さまと我々も約束事に基づいて共に歩めば、きっと平和と安定が得られるはずだ、と。
 ひっくりかえすと、何か人間の手の届かない災い(天変地異や敗戦。特に古代のユダヤ人は、およそ1000年間にも渡って、周囲の大きな国々に占領されたり、奴隷化されたりしてきたので、「なんで神さまはわたしたちをこんな目に合わせるのか」と、心底深く悩み続けたのです)が起こったとき、ユダヤ人たちは「自分たちが神との契約を破ったからではないか。契約違反という罪を犯したからではないか。だから神は我らに罰を要求しているのではないか」と考えたのです。その罪と罰は、自分たちの状況が悲惨であればあるほど、深く大きいものだと思われたわけです。
 そこから先は同じです。神さまの怒りをなだめるために供え物をするわけです。ただ、必要なのは「罰」ですから、備えられたものは、ただの供え物ではなく「保釈金」にあたるもの、つまり別の日本語に言い換えると、「贖い(あがない)」と呼ばれるものになるわけです。
 そして、ささげられる「贖い」は、お金ではなく、命ある動物ですから、この動物は本当は人間が受けなければいけない罰を代わりに受けてくれるのだ、という考えも生まれます。「あがないの小羊」イコール「身代わりの小羊」です。そして、何度も言うように、これは確かに血生臭いけれども、普段から肉をさばきなれている民族にとっては、日本人が感じるほどには残虐で気色悪いものではありません。
 もちろん、血を流し、命を奪うというのは、ただ事ではない行為です。しかし、それだけ人間の罪は深い、と考えた。だから我々の状況はこんなに悲惨なのだ、と。くらしがキツイほど、罪深さの意識は深くなるのです。

でも実はもう「いえにえ」はいらないのです。

 キリスト教の考え方というのは、この「罪」を埋め合わせる保釈金としての「贖い」を、小羊ではなく、人間であるイエスがやってしまったよ、ということなのですよね。
 どんな宗教も、儀式も、マンネリ化というものはあるもので、イエスの時代前後すでに、ユダヤのいけにえの儀式はすでにマンネリ化し、形式化していたのです。神殿の周りでは、「いけにえ」用の羊や山羊や鶏などが、巡礼旅行者用の売店で売りさばかれ、その利益を各売店から神殿がショバ代として巻き上げ、その動物を「いけにえ」としてささげたら、あなたの罪が赦されますよ、とホテルの結婚式よろしく流れ作業で儀式が行われ、「いけにえ」に使われた肉は、今度は神殿の裏から肉屋に卸されて食用として売られてゆく、そこでもう一回神殿は儲ける、という流通構造になってしまっていたわけです。そうやって、宗教団体や聖職者が儲けに走ってしまうと、聖職者は堕落し、儀式はマンネリ化して、生き生きとした力を失ってゆくのです。
 しかし、人びとの暮らしがキツイという現実は変わっていないわけで、だから、人びとは真剣に「罪」とか、神さまの救いということを考え、求めていたけれども、お金持ちになってしまった聖職者がいちばんやる気がなかったというのが当時の状況です。ちょっと冷めた見方をする人は、「あんなことやって人間の罪が赦されるわけがなかろう」と見抜いていたでしょうが、口に出すと怒られてしまう、捕まってしまう、という世の中でした。イエスなどは、そういうことを平気で口に出していたんでしょうね、逮捕されて当たり前です。
 とにかく、「あがないのいけにえとか言うてるけど、要するに神主がもうけとるだけヤンケ」というのは、ちょっと考えたらわかるわけです。本当に人間の罪深さというものを見つめようとしている人は、そんなマンネリ化した儲け主義のご利益宗教でなんとかなるようなもんじゃないとわかっているのです。じゃあ、なにが必要なのか……。誰か人間が罰を受けないといけない。それぐらいやってくれないとおさまらない。あんなマンネリ儀式をやっている神殿の祭司たちじゃダメだ、ということです。日本風に言うと、「人柱(ひとばしら)が要るぞ」、と。
 そして、イエスはその「人柱」になってくれたんだ、と考えるのがキリスト教なのですね。
 このあたりの発想は、
ヘブライ人への手紙10章11〜14節に書かれています。
 
「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」
 つまり、神殿でささげられるような動物の「いけにえ」なんか役に立ちませんよ。キリストが一つしかない自分の命を「いけにえ」にしてくれたんですよ、ということですね。
 「敵どもが御自分の足台となってしまうまで……」のあたりは意味不明に感じられるかもしれませんが、要するに人間を罪に誘う悪魔連中は、これで負けやねんぞ、ということです。
 続く
10章18節でも、こう書いてあります。
 
「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もう必要ではありません」
 そういうわけで、イエスがそういうことをしてくれたから、もう人間は「いけにえ」を献げる必要はなくなったよ、というところからキリスト教は始まっていますから、人間はもう神さまに「いけにえ」を献げる必要はない、というのがキリスト教の発想のはずなのです。
 キリスト教では「いけにえ」はいらないのです。神さまは、「『いけにえ』はもういらん」と言っているのです。

契約というものに対する責任感の問題。

 しかし、キリスト教は「罪」、そして、その「贖い(あがない:保釈)」としての「十字架」という「いけにえ」があったことを、何度も言います。それで、キリスト教は血生臭いと思われるのかもしれません。
 なぜ、何度もそういうことを言うのかというと、いくら「いけにえ」はいらんと言っても、「そしたら何をしてもええんやな」と考えてもらっては困るからです。
 「あがない」によって、「罰」は免除されたけれども、「罪」を犯す人間の本質は全然変わってないからです。
 「罰」がないから、もうええわ、ということでは、人間社会は大混乱です。だから、ちゃんと罪は罪だ、ということを人間にはわかってもらわないといかんのです。
 それで、いったい何が罪か、ということなのですが、だからそれがユダヤ・キリスト教の場合、「契約」、つまり神さまとの約束であったり、他の人間との約束であったり、ということなのです。
 約束を守れない人間は、危険なのです。何をするかわからないですから、そういう人とは関わりを絶たないと、関わった人間の身が危険ですし、社会全体にとっても迷惑です。だから、約束を守れない人間は、罰することによって本人を教育し、あるいは損害を賠償する責任を負わせないといけないのです。
 これは確かに「なんとなく信用できる感じがする」とか「たぶんいい人だと思う」などという感性で人と付き合うことのできる日本人の感覚とはかなり違うかもしれません。しかし、自分とはあまりにも異なるタイプの人と出会うことが日常である世界の人びとにとっては、これがふつうなのです。
 そしてこれは、たとえば、神さまに対する感覚のない状態での、悪い意味での「契約社会」というものとも違うのです。悪い意味での「契約社会」というのは、「契約に書いてないことはやりません」みたいなドライな態度で非常に人を傷つけます。わざと契約の内容を操作して、人に損をさせて自分の利益をあげたりすることもあります。そこには、他人に対する「愛」がないのです。
 しかし、イエスは「神を愛すること」と「人を愛すること」、この二つが、いちばん大事な神と人との契約条件だ、と言ったわけです。そうですね? こんな風に書いてあります。
 
「イエスはお答えになった。
 第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書12章29−31節)

 この「愛」を最低必要な条件とした上で、神との約束、人との約束を果たす生き方をしろ、というわけです。
 つまり、キリスト教が求めている生き方というのは、「愛」に基づいて、神と人に対する約束責任をしっかりと果たす生き方です。約束が果たせないことを野放しに放置したり、何をしても罰せられませんよ、という発想ではありません。
 そこにあるのは、「自分が他人と契約したこと、あるいは約束したことを果たせないのであれば、ペナルティを負うのが当たり前だ」という責任感なのです。
 そして、そういう発想が根底にあって、「
(人間どうしのことはともかく)神さまからペナルティを課せられることはないよ」、というのが、キリスト教の「赦し(ゆるし)」なのです。だから、神さまは心が大きいのです。

神の裁きも、ないのです。

 神さまからのペナルティというのはないんだよ、というのは、ありがたい考え方です。私たちは何かにつけ、悪いことが起こると、「これは何かの罰ではないのか」と悩んだり、「ほーらバチが当たった」と人を責めたりあざ笑ったりします。しかし、そういうことはないよ、とキリスト教は教えてくれます。天罰もない、呪いもない。人があなたを傷つけたとしても、あるいは偶然の災いがあなたを傷つけたとしても、神さまは決してあなたを罰する気持ちはない、神さまはあなたを愛している、とイエスは言いたかったのです。そして、それでも納得がいかない人たちに対して、「じゃあ、ぼくが代わりに罰を受けてあげるから、これで充分だろう」ということになったのが十字架の出来事なわけです。そんなことしなくたって、神さまはみんなを罰したりはしないのに、とイエスは心底では思っていたかもしれません。
 神の罰、というのは本当に恐ろしい考え方です。人からの罰は、懲役や損害賠償を果たせば、なんとかクリアになります。しかし、神さまから「おまえは罪人だ。だから罰する」というのは、もうこれは本当に救いがない。ひどい場合は人間として存在の否定にもつながります。命を与えたのが神さまなわけですから、天罰というのは最悪の場合、生まれたこと自体間違いだ、という宣告にまでなりかねないのです。人が人を告発する場合には、そこまで同じ人間のことを言う権利は人間にはありません。しかし神なら言えちゃいますから。
 あるいは「神の裁き」という考えが、人の命を奪う口実にもなりかねない。じっさい神の裁きを口実にした人殺しは、個人レベルでも集団レベルでも国家レベルでも起こっています。だから、
「神はぜったいに裁かないお方だ」と宣言することは、社会的にもとても大事なことなのです。どんな宗教的な口実で正当化する人たちがいようが、「神さまは人を殺さない。意図的な殺人があればそれは人間の責任だ」と宣言しておかなくてはならないのが、世界の現実というものではないでしょうか。

 というわけで、ずいぶん長い話になりました。また最後はカタイ話にもなりました。
 「神さまはいけにえが必要なくらい心が小さいんじゃないか」というご質問でしたが、キリスト教では、
人間は、相手が神さまにしろ、人さまにしろ、他者に対しては精一杯の愛情としっかりとした責任を持って関わるべきだし、無責任な行動に対してはペナルティが課せられるべきだと考えているのです。
 でも、神さまからの罰というのはないし、『いけにえ』も必要ありませんから、そういう意味では神さまは心が大きいと言えるのです。
 その代わり、人間は人間同士の責任をきちんと果たし合いなさいということではないでしょうか。
 そして、責任がとれないような約束はしないほうがいいし、信じないほうがいい、ということも言えるでしょうね。人さまに対しても、神さまに対しても。
 あるいは、もっともっとカンタンに要約して言うと、「神さまが心が狭いとか言う以前に、人間にそれぐらいの責任感が必要なんだよ」ということになるんじゃないでしょうか。
  
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〔最終更新日:2004年5月18日〕

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