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 Q. キリスト教では避妊しちゃいけないんですよね?

 質問者 「牧師さんのなかには子だくさんの方が多いですね」
 30番地教会牧師 「え? そうでしょうか? そうとも限らないんじゃないでしょうか」
 質問者 「でも、あまり裕福そうではないわりには、お子さんが3人以上という方も多いですよね」
 30番地教会牧師 「一概には言えないと思いますけどねぇ……」
 質問者 「やはり、あれですか? 避妊をしてはいけない、というような戒律があるとか?」
 30番地教会牧師 「いやあ、そういうわけではないですよ」
 質問者 「え、ないんですか? そういう戒律」
 30番地教会牧師 「ない、というか。ああ、でもそういう風に考えている牧師もいるかも知れないな……(ごにょごにょ)」

(2002年のいつの日にか交わした会話より)

 A. したほうがいいですよ。そのかわり失敗したら責任をとってください。

1.聖書より


  聖書のなかで避妊について書いてある箇所については、「キリスト教ではオナニーをしちゃいけないんですよね?」の項目で、くわしく紹介してありますので、重複になりますが、こちらでも簡単に触れておきたいと思います。大幅に「オナニー」についての記事からの引用になりますが、どうかご容赦ください。

  そもそも「オナニー」という言葉のもとになった人物オナンが登場する物語は、旧約聖書の
創世記38章1−11節なのですが、ここはオナニーについての記事というよりは、それこそ「避妊」について書かれた物語なのです。ここに書かれているのは、膣外射精のケースです。

  そのころ、ユダは兄弟たちと別れて、アドラム人のヒラという人の近くに天幕を張った。ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて(みそめて)結婚し、彼女のところに入った。彼女は身ごもり男の子を産んだ。ユダはその子をエルと名付けた。彼女はまた身ごもり男の子を産み、その子をオナンと名付けた。彼女は更にまた男の子を産み、その子をシェラと名付けた。彼女がシェラを産んだとき、ユダはケジブにいた。
  ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダは
オナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」
  
オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。
  ユダは嫁のタマルに言った。
  「わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。」
  それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。


  ここに出てくるユダという人は、ヤコブの12人の息子の一人で、エジプトに奴隷として売られたが夢分析でエジプトの宰相にまで出世することになるヨセフ(創世記の後半4分の1の主人公)のお兄さんの一人です。
  この38章のエピソードを簡単にまとめると、ユダには、エル・オナン・シェラという3人の息子がいて、長男エルはタマルという嫁を迎えることになるのですが、間もなくエルは死ぬ。そこで次男のオナンが兄嫁と寝て子どもを作りなさいと言われる。それがいやでオナンは、兄嫁と性的関係を持つことは持つけれども、今風に言うと膣外射精、いわゆる「外出し」をくり返すわけです。それが主の意に反するということで、彼は殺されました。
  ちなみに、このエピソードの続き、38章の後半(12−30節)ですが、3人目の息子まで死んではかなわんと思った親父のユダは、三男のシェラとタマルを再婚させるのはやめて、「シェラが成人するまで実家に帰れ」と命じます。ところが、そのままタマルは放置されてしまう。つまりタマルは、姑(しゅうと)のユダに騙され、棄てられたわけです。そこでタマルは、娼婦を装ってユダに近づきます。ユダは誘惑にひっかかり、嫁とは知らずにタマルと寝てしまう。そして3ヵ月後、タマルは自分がしゅうとによって妊娠させられたことを公表し、見事にユダの面目をつぶし、復讐を果たします。ユダは「私が彼女を息子のシェラに与えなかったからだ」と認めます。タマルが産んだユダの子は、ペレツとゼラの双子であった……というお話です。

  ですから、
ここで問題になっているのは、膣外射精/外出し、つまり「避妊」です。マスターベーション/自慰ではありません。かりに女性の中で射精することこそが性交の「完了」と見なすのであれば、性交「中断」の一種ともいう言い方もできないことはないでしょう。


2.「子種」にこだわるセックス観とそれに対する反乱の物語

  なぜ膣外射精が主の意に反すると解されたのか。
  それは「子孫を残し、家系を存続させてゆく」ということが、何よりもまず性の目的であるという価値観が、この物語を語り継いだ人々の間に根付いているからです。
  長男が死んだら次男が嫁と再婚し、次男が死んだら三男が嫁と再婚する。そういう結婚の風習を
「レビラート婚」と言います。旧約聖書の時代ではそれが常識でしたし、新約聖書のイエスの時代でもそうでした。例えば、マルコによる福音書12章18−27節他でイエスは、七人の兄弟が長男から順番に死んで、結局七人全員の妻になってしまった女性のことで、難題をふっかけられていたりします。
  結婚とか性というものは、まず何よりも、子づくりのためである、というのがこの時代の考え方です。子孫を残すことが性の唯一にして全ての目的であり、個々人の感情とか、性による男女間のコミュニケーションとか、そういう考えは存在しない時代だったのです。

  オナンは、このレビラート婚に反抗しました。
  もちろん、彼は「オレ自身の子孫が欲しいんだ」というこだわりを持っていたからこそ、「兄嫁の子どもを作ってやる」ということに反抗したわけですから、そういう意味では「性=家系の存続」という発想から自由だったわけではありません。そこは彼も時代の子です。
  しかし、「兄貴の子孫でなく、親父の子孫というわけでもなく、オレの子孫がほしい」。だから
「その子孫が自分のものとならないのを知っていたので」(創世記38章9節)膣外射精したという彼は、家系のために、あるいは親父のために利用されるだけの顔のない種馬としてではなく、個人としての自我を主張したわけです。この彼の態度は、いまから2000年以上も前の、旧約聖書の著者たちの時代には受け入れ難かったかもしれないけれど、案外、現代の我々のなかには納得がゆく人もいらっしゃるかも知れません。

  とにかくオナンはレビラート婚による子作りに反抗し、膣外射精つまりもっとも原始的な避妊の方法をとったわけです。そしてその結果として神に殺された、というのが物語の筋書きです。避妊した人間が神の罰をうけるという、このような物語が書かれたのは、この物語が書かれた紀元前の時代においては、性とは次世代の民族を再生産するためのものであり、
子どもを作って子孫を繁栄させることが性における至上命令というか、最大の課題であったからです。


3.マスターベーションや避妊を禁ずる根拠になりうるか

  この創世記38章の物語を根拠に、マスターベーションは「主の意に反する」と教える牧師さんたちがいるそうです。
  この創世記38章の物語は、もともとマスターベーションを禁じた話ではなく、むしろ避妊をした人への罰の物語ということは最初に申し上げました。しかし、その牧師さんが
「性は子孫を作るためだけにある」と考えているなら、避妊は本来の目的とは違うということで、やはり罪だと言われてしまうかも知れません。
  しかし、その牧師さんの考え方は、完全に聖書に忠実かというと、そうではないのです。

  ユダは娼婦を買おうとして、結局息子の妻と肉体関係を持ってしまいましたが、それ自体は「主の意に反すること」として罰せられたりはしていません。でも、膣外射精したオナンは、「主の意に反すること」をしたので殺されたという筋書きになっています。
  ここでは、膣外で射精したらば主なる神の怒りに触れて殺されるけれど、たとえ婚外でも膣内で射精するのはかまわん、殺されない、とそういう価値観でこの物語は書かれている、という点に留意しておかなければなりません。
  この聖書の箇所に基づいてオナニーを「神の意志に背く」といって禁ずる牧師さんは、ひょっとしたら、避妊するのはいけないけれど、買春したり、息子の妻と寝たりするのは、別に構わないと思っているのでしょうか。あるいは避妊やマスターベーションよりは罪は軽いと思っているかも知れない(?)。
  それに、
「子どもを作る目的でする性行為以外は罪である」と考えるならば、ユダが神殿娼婦を買おうとしたのは、これは違法な性行為なわけで、オナンと同罪であるはずですが、その事について主が何も言わないのは矛盾ではないでしょうか。

  なぜ、膣外射精したオナンは罰せられて、娼婦と間違えて嫁と寝たユダは罰せられなかったのか。それは、本当はユダが関係したのは神殿娼婦ではなく本当は嫁のタマルで、しかもタマルのお腹の子はユダの子であったから。つまり、予定調和というか、結果オーライというか、やはりこの物語の著者たちにとっては、どのような経緯であれユダの子孫がユダ家の嫁から確実に残っていった、という結末を描くことが大事だったからなのでしょう。
  「ユダの子孫はこうしてペレツとゼラという子どもたちに引き継がれていった」という結末を迎えるために、ユダの家系の子種を地面に漏らしたオナンは罰せられ、ユダの家系の子種を身ごもったタマルは、たとえその妊娠が不法な関係によるものであったとしても黙認されるのです。
  このような物語を読むときには、「それが神のご意志だ」と鵜呑みにするのではなく、
「『それが神のご意志だ』と著者たちは信じていたらしい」という風に、ワンクッション置いて考えないといけません。著者がそういう思想の持ち主だったということなのです。
  こうして、
家系を絶やさぬためには、反抗者は罰し、不法な性関係でも容認する
、という価値観が創世記38章にこめられていることが明らかになるわけですが、これは現代において「性は子どもを作るためにあるのです」と説いている牧師さんたちの価値観と果たして一致しているでしょうか?
  いくら子どもを作ることが大事だとは言っても、そこまでは考えていないというのが実状ではないでしょうか。「子どもなんかいらない」と言って息子夫婦がなかなか孫を作ってくれないもので、つい息子のお連れ合いさんを勢い余って妊娠させてしまったお父さんがいたとして(ひどい仮定ですが)、「まぁ結果としてはお孫さんができたんですから、良しとしましょう」とまで言える牧師さんはまさかいないと思います。しかし、この創世記38章の物語の述べるところに忠実であろうとすれば、そうなってしまうのです。
  つまり、創世記38章に基づいて、子づくり以外の性行為を否定する人の多くは、実は創世記38章の趣旨に対して充分忠実とは言えないということです。
  ということは、
「聖書が禁じているから避妊やマスターベーションをするな」と言われても、とりあえず根拠不充分なので、真にうける必要はないでしょう、ということになるのです。


4.性の目的と避妊

  性行為とは、
「子どもを作るためだけにするもの」だ、という考えを持っているクリスチャンや牧師は少なくありません。しかし、その人たちが必ずしも聖書に忠実かというと、そうでもない、ということは既に述べました。旧約聖書の創世記38章に書いてあるのは「イスラエル民族の家系を絶やさぬためには不法な性行為でも神は黙認する。家系を絶やすような避妊は、神は罰する」ということであって、単純に「性行為は夫婦間の子作りに限られる」ということを言っているわけではないからです。したがって、「性行為は夫婦間のもの」という理由で避妊やマスターベーションを禁止しようとする牧師は、実は聖書を誤解している可能性があるということも述べました。

  しかし、ここで現代のある種のクリスチャンの思い込みである、
「性行為は夫婦間の子作りにのみ限られる」という考え方についても、少しだけ突っ込んで考えてみましょう。
  この考え方によれば、男女間のカップルの場合、結婚前の性交渉は禁止ですし、結婚後についても、夫婦の肉体的欲求や恋愛感情などにしたがってセックスをするのではなくて、相互に「子どもをつくろう」と合意したときのみセックスが可能なのであり、もし子どもが生まれて、もう子どもの数は自分たちの世帯には充分である、と考えたなら、それ以降は一切セックスはしなくていい、ということになります。そして、マスターベーションも禁止なので、子どもができてからはセックスへの欲求はたまるしかない。しかし、それをおさえつけるしかない、ということになります。あるいは、そうやってがまんしてがまんして、そして子どもをもう1人作ろうかと協議して……ということをやってる間に、「貧乏人に子だくさん」になってしまった、ということもあるでしょう。

  しかし、この考え方によれば、まず同性愛によるセックスはありえない、ということになります。しかし、世の中には同性どうしのカップルも現実的には想像以上に多いし、同性愛そのものがいけないことだ、という考え方についても異論がとなえられています(このQ&Aでは「キリスト教では同性愛はダメなんですよね?」で既に述べていますように、同性愛もまた神の御心のなかにある愛の形である、というスタンスをとっています)。
  また、この考え方によれば、性行為によって深まるカップルどうしの愛情や自己に対する尊厳といった部分は無視されます。じっさいにはセックスが相互の深い愛情や信頼に基づいて行われたならば、当人達の愛が深まるだけではなく、自分自身への誇りや自信も大きくなるものです。そういうセックスのプラス面を無視しています。
  さらには、この考え方は、高齢者のセックスについて無視しています。たとえ歳をとっても、性に対する欲求はなくなりません。もちろん、のべつまくなしに「ヤリたい」というような激しい要求は歳をとるにしたがって鎮まってゆき、もっと落ち着いた欲求に変わってゆきます。しかし、性的なものからのエネルギーで若返ったり、元気を取り戻したり、ということは、高齢者でもいくらでもあるのです。老人ホームでポルノ映画の上映会をやったら、入所者の多くが血色がよくなり、健康も増進したという報告があります。たとえ、子どもをつくることができなくなった年齢でも、性的なものは人間にとって大切なのです。
  そのことと関連するのですが、この考え方は、セックスとは男性器が女性器に挿入されて射精することに他ならないという考えに陥っている点で、現実的ではありません。たとえば男性の場合、歳をとったり、疲れていたり、ストレスがたまっていたりで、なかなか勃起したり射精したりできないような状況になる場合もあります。それでも、スキンシップとしてのセックスが当人の心の癒しや喜びにとって大切な場合があります。あるいは、スキンシップさえしなかったとしても、性的にある特定の相手に惹かれるその感情だけでも、人間にとっては生きている喜びに通じるものがあるのです。
  そんな風に、人間の性行動といっても、実に多様で複雑な奥行きをもっているのに、この「性行為は夫婦間の子作りにのみ限られる」という考え方はそこまで至っていません。そういう意味で、この考え方は人間の実状にマッチしていない、と思われます。人間の性は、他の動物とは大きく異なり、子孫繁栄以上の役割と意味を持っているものなのです。これは、私たち人間が、小脳でセックスしているのではなく、他の動物とは異なり、大きく発達した大脳皮質でセックスを経験しているのですから、当然のことなのです。

  そういうわけで、性というのは人間に限って言えば、愛情の確認、癒し、慰め、和解、孤独からの救い……などなどいろいろな意味の多様性を持っていますし、若い世代だけではなく、いくら歳をとっても性との関連が否定されることはない、という奥行きを持っています。
  つまり、私たち人間は、子どもを作る目的以外のセックスをするほうが、圧倒的に多いのです。私たち人間のセックスでは、子どもができないほうがありがたい場合はあるし、子どもができてしまってから生じる責任を負いきれない場合もあります。したがって、私たちは
「避妊する」ことが必要なのです。
  子どもができて困るようなセックスなどしてはならない、と言う人もいるでしょう。しかし、セックスというものの人間関係における広く大きな意味を考えると、避妊してでもセックスしたほうがよい場合もあります。もちろん、避妊をどうのこうの言う前に、セックスしないほうがよい関係というものもあるのです。セックスするほうがよい関係、しないほうがよい関係、してはならない関係、いろいろな人間関係があることを、自分でかしこく判断できるようになるのも、人生の修行のひとつではないでしょうか。


5.補足……避妊がよいことだと言っているわけではありません

  さて、避妊をすることには全く問題はない、と私が手放しで避妊した上でのセックスを賞賛しているのか、というと、そういうわけでもありません。
  まず、当たり前のことですが、完全な避妊法というものは存在しないので、セックスをする人は、避妊に失敗したときのリスクも引き受ける覚悟でセックスをするべきだということを考慮しておかないといけない、ということです。(この場合はEDや高齢のために、勃起しなくなった人のスキンシップとしてのセックスは、とても「安全」だ、と思います)。
  それから、「オナニーについて」でも書きましたが、精液の中のひとつひとつの精子の細胞の命のことを真剣に考え始めると、避妊やマスターベーションによってそれらの命を捨ててしまうことになることに、一抹の罪意識がないかといえば、そうでもありません。
  たった1ccの精液の中にも2000〜4000という精子が泳いでいます。個人差があったり、最近は精子が極端に減っている人も多くなってきているようですが。とにかく、精子は生きて動いていて、それらひとつひとつが新しい人間を生み出す可能性なわけです。私たち一人一人の人間も、みな最初は1個の精子が、1個の卵子と出会って結びついたことから、ここに存在しているわけです。
  例えば、ある日ある時、父親から発した何千という精子のうち、たまたまひょっとしたら隣の精子が先に卵子に到着していたら、今の自分はここに存在していないのかもしれない。ものすごい偶然の確率です。逆に考えると、今私がここに存在しているということは、他の何千何万という精子が、この世に生まれ出るチャンスを失ってしまっている、という事実の上に成り立っているということです。「私は生存競争に勝った」と胸をはれるようなものでもない。だって、あなたの、そしてわたしの父親は、他にも何度も、たとえば違う日に射精をして、たまたま母親も妊娠にいたらなかった、なんてこともある可能性はいくらでもあります。あくまで確率の問題です。
  仮にそういう感覚でものを見ると、たとえば、あなたが避妊したことによってムダにコンドームの中に放出された精子、あるいはティッシュか何かで拭いた精子を、ゴミ箱なりトイレなりに棄ててしまう。ということは、あなたは何千という新しい人生の可能性を、ザーッとトイレの水に流し去ってしまうという行為を意図的にしてしまった……ということにもなったりはしませんでしょうか。
  そういうものの見方もすると、避妊というのは、それ自体、数多くの精子たちの殺害、ホロコーストである、と考えられなくもない。もっとも、子どもを作るために行うセックスであったとしても、勝ち残るのは精子1つだけで、あとの何千という精子は犠牲となる、もともとそれが現実なのだから深く考えすぎなくても、とも思うのですが……。

〔最終更新日:2006年10月22日〕

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