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 Q. キリスト教では同性愛はいけないんですよね?

【パート1】にもどる

 A. ぜんぜんオッケーです。

【パート2】

2−2.創世記19章(「ソドミー」という言葉の由来)

  
さて、旧約聖書で同性愛を悪く書いている箇所で、他にちょっと変化球ですが、ソドムという町のお話があります。
  この物語から「ソドミー」という男性同性愛を揶揄する差別用語が生まれました。
  この物語も、「パート1」で、さんざん口をすっぱくして強調した、ユダヤ人の民族意識に基づく、多民族への敵意を利用した、禁止命令の一種です。ソドムという街があって、「あのソドムのようになってはいけないよ」という論理なわけですね。
  こんな話です。
  
創世記18章20節で主なる神はアブラハムにこう言います。
  
「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
  そこでアブラハムは、ソドムのために執り成そうと神をなだめます。
「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人のために、町をお赦しにならないのですか」(24節)
  そうやってアブラハムは、とうとう10人正しい者がいれば、
「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(32節)という確約をとりつけるまで神と交渉します。
  ところが、続く
19章では、やっぱり滅亡させられるわけで、ソドムの町には十人も正しい者はいなかったということになるわけですが……二人の御使いが夕方ソドムに着き、アブラハムの親戚ロトの家の客となります。ところがここに、「ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。『今夜、お前のところに来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。』」(4−5節)……ということになってしまう。
  「二人の御使い」というのが男性であるらしい。そして、この男性二人を「なぶりものにしてやる」と言ってソドムの男たちが押しかけてきている、というわけで、ソドムの町の男たちは同性愛者であるという風に読まれてきました。そしてその町が、アブラハムの交渉にも関わらず、滅亡させられるわけで、故に「神は同性愛者を罰せられる」という解釈が出てくるわけです。また、そこから男性同性愛のことを「ソドミー」と呼ぶ悪習が生まれてきました。

  しかし、もっと最後のほうまで読むと、この物語はとんでもないハナシであることがわかります。
  ロトは自分の家の戸口に押しかけてきたソドムの男たちに、こう言います。
 
 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから」(7−8節)
  これはひどいですね。本当にひどい。客人を守るために、自分の娘を強姦してくれてもかまいませんよ、と言っています。こうなると「乱暴なことはしないでください」という言葉が笑わせますね。ロトさん、あなたにとって「乱暴なこと」とは一体どういうことなのかね? と聞きたくなります。
  たとえ、「神の御使いである客人たちを守るためだ」と言ってもフォローになりません。それなら娘を犠牲にする前に、自分が犠牲になるべきです。あるいは「ソドムの男たちは男性が欲しかったのであって、ロトは彼らが女性になど関心がないことを知っていて、娘を差し出したのだ」という解釈も意味がありません。性暴力というものを否定する視点がロトにはないからです。
  これは、とりもなおさず、この物語を作った人々が、女性に対する性暴力を容認する感覚の持ち主だったということを指します。そして、このような物語に何の違和感もなく読み流すことができているとすれば、それは、読む人自身にも性暴力を容認する素質があるということです。そのことの問題性に気付かずに読みとばしてしまえるわけですから。
  
  さらに、ロトと娘たちは、ソドムの滅亡からツォアルという小さな町にいったん避難した後、山の中に住みつきます。そして、この2人の姉妹は子孫を絶やさないために、父親のロトと肉体関係を持ちます。
 
 「さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう」(32節)
  これはどうでしょうか? これは近親相姦です。これは罪でしょうか?
  しかしこの物語では、ソドムの男性同性愛者たちは町ごと滅ぼされていますが、ロトは滅ぼされていません。ということは、神は同性愛は許さないが、近親相姦は許す、ということになるのでしょうか?
  いやいや、そんな風に聖書を一言一句間違いのないマニュアルのように読むこと自体がおかしいのです。

  この創世記19章を、同性愛者のタブーを定めていると読もうとするには無理があります。
  なぜなら、そのように性のタブーについて厳格な規定を主張しそうな人が、いわゆる「性的倒錯」と呼ぶものに類するとおっしゃいそうなものが、この物語には同性愛以外にもふくまれているからです。それを整理すると……
  (1)男性どうしの同性愛、しかも強姦したいという発言
  (2)女性(それも実の娘)を強姦するのはよいという発言
  (3)父子相姦とそれによる妊娠・出産という行為の実践

 ……となります。
  神は、
(1)ゆえにソドムを滅ぼされた、だから、同性愛は罪だ、というのであれば、(2)(3)は、それゆえにロトを滅ぼされることはしなかったので、許されているということになるのでしょうか? 
  ということは、同性愛を非難するクリスチャンたちは、女性の強姦と父子相姦は、神によって許されている、と考えているのでしょうか? そうではないというのなら、そのクリスチャンたちは聖書に忠実ではないということになります。つまり、聖書、聖書と言いながらも、結局は自分の主観にしたがってものを言っているだけだということになります。
  逆に聖書に「忠実」に、「同性愛はだめだが、強姦と近親相姦はいい」などと言ったら、そんな宗教は、性暴力の被害者の傷をえぐり、辛子を塗りこむ極悪宗教だという評価をいただくだけでしょう。
  そういうわけで、このようなデリケートな問題を「聖書に書いてあるから」という理由で、自分の頭と心で深く考える事もなく、判断しようとすると、必ず矛盾が出てくるのです。
  聖書を使って、「神は同性愛を裁かれる」と言う人は、聖書の読み方自体に問題があると言わざるをえないでしょう。(2003年1月12日記)


2−3.申命記22章5節「女は男の着物を身に着けてはならない」

  
さらに話が広がりますが、トランス・ヴェスタイト(異性装者)への差別も旧約聖書には見られます。
  ただ、「異性装者」という言葉も本来あいまいですが……。異性装者がイコール同性愛者ではありません。もっぱら異性が着る服装および化粧など、外見上のことをひっくるめて「異性装」と言っているわけですが、趣味や遊びでそういうことをするのが好きなのか、それとも「自分は本来、男ではない」「本来自分は女ではない」という風に、自分のアイデンティティのあらわれとして、自分にふさわしい外見であろうとしているのか、あるいは、そのどちらというわけでもなく、どちらでもあるような感覚なのか、それは人によってそれぞれだと思います。
  (ここでは、日常生活で異性のものとされている外見を装うことについて考えています。非日常の場面、宴会芸の見せ物のようなノリで異性装(多くの場合、男性が女装する)をやったりすることには、もちろん異性装を笑いものにする差別の要素が含まれています)

  該当の聖書個所は以下のとおりです。

  
申命記22章5節「女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる」
  まず、男の服装と女の服装というものは、その国や民族の文化や時代の風潮によって変化するものです。
  聖書の言葉は時代・社会を超えて妥当だと言う人は、したがって、たとえば「クリスチャンの女性はパンツスーツを着てはならない」という論議に大まじめに参加してくれるでしょうか? あるいは、最近は特に性別を指定しないユニセックスの洋服もたくさんありますが、そういう服を生産すること自体罪なのでしょうか?
  あるいは、スカートをはいている男性に「それは罪だ」と言うのでしょうか? その男性から「これはスコットランドの民族衣装だ」という答が返ってきたらどうしましょう。「おまえはスコットランド人じゃないだろう」とでも言いましょうか。するとこの男は「じゃあ、あなたはスコットランド人が和服を着ても、それを咎めるのか?」と言い返してきたらどうしましょう。さらにこの男が「だいいち和服だって、呉服と言うではないか。もともと呉(中国)の服なのに、何で日本人が着るのだ」と突っ込んできたら、何と答えましょうか。
  こういうのを水掛け論というのですが、要するに、旧約聖書に書いてあることを、普遍的にどこでも通用するような掟として読もうとすると、結局水掛け論に終わらざるをえないのです。
  聖書の言葉は、特定の民族における特定の時代・社会の状況を前提とした、そしてそのような社会的状況の限界の中で有効な言葉であるという現実を認めないといけません。

  この申命記22章が書かれた時代のユダヤ人社会では、男とはこうあるべき、女とはこうあるべきという基準が、その社会なりにはっきりしていたのです。ただし、その男女のあるべき姿の基準が、基本的にどういう発想の上になりたっていたのか、はパート1をお読みいただければおわかりのように、到底現在の私たちとは相容れない性質のものです。
  しかし、その頃とは違って、いまは、人間の生き方、あり方というのは、女らしさ・男らしさという単純な図式では割り切れないということがわかってきています。また、肉体的な性と、自分のアイデンティティというか自覚している性が一致しないという人がいるという現実も、これまでは無視されてきましたが、いまでは広く認められるようになってきました。
  そうやって人間について色々なことがわかってきた以上、わからなかった時代の掟を、そのまま現在の、しかも民族も文化も違うところで、そのまま当てはめようとすることは愚かなことです。

  それでは、このような、服装についての聖書の記事をどう読めばいいのでしょうか?
  「これは古代ユダヤ社会の服装マナーについての記事だ」と、すんなり読み流せばよいのです。(2003年1月29日記)


2−4.補足:レズビアンは同性愛者差別以前に女性として差別されている。
  
  それから、パート1で問題にした同性愛の禁止命令ですが、これは男の同性愛のことしか対象にしていないので、レズビアンのことなど頭にない律法です。
  ややブラックな言い方をすれば、「女と寝るように男と寝るな」と言われたら、レズビアンにとっては望むところです。しかし、事態はもっと深刻です。
  ここでは「性行為の主体」は男なのであって、女性が主体的に性を営むということは想定もされていないわけです。つまり、
レズビアンが同性愛者差別の対象になる以前に、女性差別が横たわっているというわけです。
  そもそも律法というものは、ユダヤ人の「男性」が守るべきものとされています。最初の律法である
「十戒」(出エジプト記20章3−17節)がイスラエルの民に下されるに際して、モーセは「山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、『三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない』と言った」(主エジプト記19章14-15節)と記されています。
  つまり、モーセが神から受けとった律法というのは、イスラエルの男たちに下されたのであり、その律法を受け取るために男たちは、「女に近づいて汚れないように」しなければならなかったのです。ということは、女性は当時、律法を受けとるべき人間「以下」の存在とされていたということです。
  そういうわけで、旧約聖書の同性愛禁止の律法は、男性しか対象にしていないという「抜け」がありますが、それは、女性が人間以下に見られていたからなのです。
  まぁ、でも、見方によれば、女性同性愛については別段禁止規定はない、どうぞご自由にという読み方もできるとも言えるわけですが……。(2003年1月29日記)

【パート3】につづく

〔最終更新日:2002年12月8日〕

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