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 Q. キリスト教では、人は死んだらどうなるんですか?


 A. わかりません。でも、決して自分で確かめたりしないでくださいね。

■聖書における死と死後の世界

▼ヘブライ語聖書(旧約聖書)では……


(1)人は土の塵に返る(創世記:1)


  たとえば、聖書のいちばん最初にある天地創造の物語ですが、そこに
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)と書かれています。
物語上、この段階での人間は、まだ死を知らなかったということになっているのですが、しかし、人間が土の塵から作られたというその発想の原点には、おそらく  実際に人が死ねば、その遺体は放っておけば土の塵に帰る、という死生観が根底にあるのではないかと思われます。
  というのも、少し読み進んでゆくと、神に背いたアダムに、神は
「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に帰る」(創世記3章19節)と書かれてあるのを私たちは見つけるからです。
  こういうのを原因譚(げんいんたん)といいます。世の中どうしてそうなっているのか、というのを説明するためのお話です。神話によく見られます。
  そしてこれはかなり古い神話です。まだこの段階では、それ以上の死に関する考察はなされていません。人は死んだら土の塵に返る。それ以上でも以下でもないわけです。


(2)息は風であり、霊でもある(創世記:2)

  続いて、
創世記6章3節を見てみましょう。そこには、「主は言われた。『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』こうして、人の一生は百二十年となった」という言葉が書かれています。
  ここにはすでに「霊肉二元論」の発想が表れています。これは、先に創世記の2章で見たように、人間は「肉」と神に与えられた「息」によってできている、という考え方です。「息」というのは、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の原語であるヘブライ語では、「霊」とも「風」との訳せる言葉(ルーアッハ)です。ですから、人間は、塵から作られた肉体の中に、神によって吹き込まれた息によって生きているわけで、その息が引き取られたとき、人は死ぬのです。
  しかし、この段階では、まだ死んだあとの霊がどこに行き、何をするのか、についての考慮はされていません。
  それから、
「人の一生は百二十年となった」と書いてある、その次のエピソードであるノアの箱舟の物語では、「ノアは洪水の後、三百五十年生きた。ノアは九百五十歳になって、死んだ」(創世記9章28節)と書かれてあるのはなぜか、という問題にはここでは触れないことにします。


(3)死ねば先祖の列に加えられる(男性だけ)(創世記:3)

  次に、
創世記25章7−10節を見てみましょう。そこには、族長アブラハムの死が記録されています。人が死に、その遺体が埋葬されることを描いた最初の聖書の個所ではないかと思います。
  
「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた」。
  この
「息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」という言葉は、他の族長たちの死に際しても使われる言い回しで、たとえばアブラハムの次の族長であるイサクが死んだとき、聖書には「イサクの生涯は百八十年であった。イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った」(創世記35章28−29節)と書いてあります。
  イサクの次の族長ヤコブも、
「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」(創世記49章33節)。
  死後についてこの頃の古代人が考えていたのは、人は(男性は)死ぬと「先祖の列に加えられる」ということです。女性については特に言及されていません。しかし、先祖の列に加えるというのは、埋葬する側の(つまり遺族の)意識であって、死んだ本人が何かを体験したり、子孫を見守っているという考え方をしているわけではないようです。
  それから、亡くなった人は洞穴に埋葬されます。この時点では、まだ死後の世界という考えは書かれてはいませんが、地の中に埋葬するということから、後になって、死者の魂は地下の陰府(よみ)の世界に行くのだという死生観のもとになったようです。
  ヤコブと、最後の族長となったヨセフだけは、先祖の族長たちとは違った埋葬法で葬られています。ヤコブも(創世記50章2−3節)、ヨセフも(26節)も、エジプト風の死体の防腐処置を受けているのです。これは、ヤコブとヨセフがエジプトで死んだからなのですが、聖書はそこのところを忠実に記録しているわけです。おそらく、ヤコブもヨセフも、その遺体はエジプト流に、ミイラにされたのではないかと考えられます。


(4)死体に触れる者はケガレる(レビ記・民数記・申命記)

  そこからしばらくは、死者の死後の成り行きについては、聖書はほとんど何も語っていません。たくさんの人が死にますが、死んだ後のことは、まるで関心がないようです。
  ただ、
レビ記11章24−25節に、こんなことが書いてあります。「以下の場合にはあなたたちは汚(けが)れる。死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。また死骸を持ち運ぶ者もすべて夕方まで汚れる。衣服は水洗いせよ」。
  律法(ユダヤ教の掟)というものが整備されてくるようになると、「死体はケガレたものだ」という考えがユダヤ人の間に広まってくるのです。
  ケガレるということを説明するのは難しいのですが、「清いもの」と「ケガレたもの」を区別する価値観の体系です。ヘブライ語聖書に記されたユダヤ教的な「浄・不浄」の識別は、おそらく神のご意志にかなって完全なものであるか、それとも不完全なものであるか、という観点でなされている、という説もありますが、とにかく彼らは「浄」と「不浄」を識別するわけです。
  たとえば、同じレビ記の11章の前半を読むと、「ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするもの」は清いので食べてもいいが、そうでない動物はケガレているので食べてはならない、という律法があります。また、女性は男性よりもケガレている、とされます。特に生理期間中はその女性に触れるだけで、触れた人がケガレますし、その女性が使ったベッドやイスを触っただけでも夕方までケガレているのだそうです(レビ記15章19−24節)。
  神のご意志にかなって完全かどうかという観点から見れば、女性が毎月出血するのは、それは肉体が不完全なために漏れているものなのだ、という考え方でもされていたのでしょうか。
  また、あらゆる動物の死体がケガレているというのは、死んで命を失ったものは、神から遠く離れたものだという考え方なのでしょうか。不明な点は多いのですが、ケガレの律法を破ってケガレた者は、罪を犯した者となり、祭司(ユダヤ教の聖職者)に贖い(あがない)の儀式をやってもらわなければならなくなります。その祭司は、親族の遺体に触れてもケガレるとされています(レビ記21章1−4節)。

  さらに読み進みます。民数記ではモーセの兄アロンが死にますが、これはこれまでと同じく、
「アロンは先祖の列に加えられる」(民数記20章24節)という描写がなされています。
  また、申命記では、処刑された人の死体のことが書かれています。
「ある人が死刑にあたる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業(しぎょう)として与えられる土地を汚してはならない」(申命記21章22−23節)。ここでも、死体はケガレているものだという観念が見え隠れしますが、特に目新しい死生観が見られるわけではありません。
  ちなみに、この律法があるから、イエスは十字架で死んだ後、日没前に埋葬された、という話になっているのですが……。
  そして、モーセも死ぬときには、ネボ山というところで、「先祖の列」に加えられます。
「あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように」(申命記32章50節)。


(5)死後も霊魂は地下で生きている(サムエル記)

  そんな具合でヘブライ語聖書を読み進めていますと、突然、「おや?」と思うような記事が出てまいります。
  サムエル記上28章以降、サウル王が口寄せの女を訪れて、亡くなったサムエルの霊を呼び出してくれ、と頼む場面です。「口寄せ」とは、死後の霊魂を呼び寄せてくれる霊媒師のことです。日本では琉球のユタ、青森のイタコが有名ですね。
  サウルは迫り来るペリシテ人(この「ペリシテ人」という民族名が後々「パレスティナ」になる語源です)の軍団を見て、サウルは全イスラエルの軍隊を集めても、不安で仕方がなかったのです。預言者サムエルが生きている間は、サムエルを通して神のご意志をうかがうこともできたのですが、サムエル亡きあと、サウルが頼れる人は一人もいません。
  
「サウルはペリシテの陣営を見て恐れ、その心はひどくおののいた。サウルは主に託宣(たくせん)を求めたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。サウルは家臣に命令した。『口寄せのできる女を探してくれ。その女のところに行って尋ねよう。』
  〔中略〕
  女は尋ねた。『誰を呼び起こしましょうか。』『サムエルを呼び起こしてもらいたい』と彼は頼んだ。その女は、サムエルを見ると、大声で叫び、サウルに言った。『なぜわたしを欺(あざむ)いたのですか。あなたはサウルさまではありませんか。』」(サムエル記上28章5−12節)

  なぜここで口寄せの女があわてたのかというと、それはユダヤ教では霊媒師や魔術・呪術など、唯一の神ヤハウェの託宣以外の、あらゆる霊的な行いを一切禁じていたからで、サウル王も口寄せや魔術師などをどんどん国から追放していたからです(サムエル記上28章3節)。しかし、ここではサウル自身が口寄せの女をお忍びで頼っているわけです。
  
「王は言った。『恐れることはない。それより何を見たのだ。』女はサウルに言った。『神のような者が地から上って来るのが見えます。』サウルはその女に言った。『どんな姿だ。』女は言った。『老人が上って来ます。上着をまとっています。』サウルにはそれがサムエルだと分かったので、顔を地に伏せ、礼をした。サムエルはサウルに言った。『なぜわたしを呼び起こし、わたしを煩(わずら)わすのか。』サウルは言った。『困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神はわたしを離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべき事を教えていただくためです。』」(サムエル記上28章13−15節)
  これは大変おもしろい個所だと私は思います。本来、唯一の主なる神への信仰を推進するはずの聖書、つまり口寄せなどを否定し、排除するはずの聖書が、口寄せが実際に行われている場面を描くという矛盾が面白いと思うのですが、いかがでしょうか。
  さて、これは死んだはずのサムエルの霊が霊媒師に呼び出されて登場する、という場面です。しかもその霊は「地から上ってくる」と言われています。ということは、この段階、サウルやダビデといった王たちの時代にいたっては、死後も霊魂が生きたまま存在し、そのような霊は地の下に住んでいる、という考えがあったことになります。
  ここでサムエルは、
「明日、あなたとあなたの子らはわたしと共にいる」(サムエル記上28章19節)と、サウルの死を予言します。そしてその予言は的中します(31章1−13節)。やはり死んだ後、肉体を離れた霊魂は、意識や個性を保ったまま、「あの世」と言うべきか、とにかく死者の領域に入るようなのです。
  さらに、今回サムエル記で注目すべきなのは、たぶんここが聖書中初めてではないかと思うのですが(何度もしつこいようですが、すみません、もし違っていたらどなたか指摘してください)、「火葬」がなされているのです。
  
「戦士たちは皆立って、夜通し歩き、サウルとその息子たちの遺体をべト・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬に付し、彼らの骨を拾ってヤベシュのぎょりゅうの木の下に葬り、七日間、断食した」(サムエル記上31章12−13節)。
  サウルとその子らの遺体は火葬にし、お骨(こつ)を拾ってそれを埋葬したのです。ということは、肉体は霊魂の抜け殻であり、そこに霊魂が再び戻ってくるということは、この時代には考えられていなかったということになります。霊魂は地下に住み、口寄せの女を通じて呼び出されることもある、そんな存在だと考えられていたのでした。

  サムエル記下に進みますと、ダビデ王が、家臣であるウリヤの妻バト・シェバとの不倫関係から神の怒りを招き、その関係から生まれた最初の子を死なせるという場面があります(しかし、なんで子どもが死ぬんでしょうかね。子どもに罪はないでしょう。罪を犯した本人が罰せられるのならともかく……)。この場面の最後に、ダビデが子どもの命を悼む台詞が出てきます。
  
「だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない」(サムエル記下12章23節)
  ここでもダビデ王は、死者の世界があるという前提で言葉を発しています。


(6)空に上げられた人(列王記)

  列王記上では、
「アハブは先祖の共に眠りにつき、その息子アハズヤがアハブに代わって王となった」(列王記上22章40節)という記事がありますので、死は眠りであるという考えも見られますから、この時代にしても、確固とした統一された死生観があるわけではないのかも知れません。
  ちょっと変わった生涯の終え方をしているのが、預言者エリヤです。エリヤは自分の後継者である預言者エリシャと共にいるとき、
「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」(列王記下2章11節)と書かれています。
  この後、もうエリヤは登場してきませんが(というか、実は新約聖書の「イエスの変容」(マルコによる福音書9章2−13節)に突然登場するのですが……)、この天に上げられる場面の少し前に、エリヤが
「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが」(6節)と言っているので、ヨルダン地方にテレポートしたと考える事もできます。まぁ史実ではないと思いますが……。


(7)死は眠り(ヨブ記)

  有名なヨブの苦難の物語ですが、ここには2種類の死生観が表れています。
  ひとつは
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1章21節)。
  もうひとつは
「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝(ひざ)があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに」(ヨブ記3章11−12節)です。
  この2つの違いは、ヨブ記の2段構成(1〜2章・42章が外枠になって、3〜41章が囲まれている)に由来するのかもしれませんが、それぞれ着目している点が違うといえるでしょう。
  ひとつは「人間は裸で生まれたのだから、裸で死ぬのだ」ということです。もうひとつは「死は眠りである」ということです。この中で死後の状態のことを述べるのなら、後者の「死は眠り」という観念でしょう。やはり、「永眠」という考え方も根強いのですね。


(8)陰府の世界(詩編・箴言)

  ヘブライ語聖書の文学を読むと、「陰府(よみ)」という概念が表れてきます。死んだ人の魂の行くところ、つまり死の国が陰府です。
  
「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」(詩編6章6節)、と書かれてありますが、これは「陰府に入れば、誰も主なる神を賛美したり、感謝したりはしませんよ、という意味です。
  おそらく陰府というのは、地下にあると考えられていたのでしょうけれど、そこでは誰も神と関わりを持たないというわけです。起きているのか眠っているのかはわかりませんが、そこは神との関係が切り離された場所だということです。
  この陰府という言葉は、
箴言7章26−27節にも出てきます。「彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る」。下るんですね、やっぱり。


(9)生まれないほうが幸いだ(コヘレトの言葉)

  聖書の中の死生観を語る際に、忘れてはいけないのが「コヘレトの言葉」でしょう。
  
「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を持っているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
  すべては塵から成った。すべては塵に返る。
  人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。
  死後どうなるかを、誰が見せてくれよう」(コヘレトの言葉3章19−22節)

  これは、現代のキリスト教主流派の死生観とも、人間の霊は人間に輪廻するという考えとも違います。人間にも他の動物にも、宿っているのは同じ霊だ、というのは、ヒンドゥー教の輪廻思想に近いのではないでしょうか。
  また、この言葉が否定しているので、かえってそういう思想がこの文書が書かれた当時あったのだということがわかるのですが、この文書を書いた人びとが生きていた時代には、人間の霊は上に(天に)昇り、動物の霊は地下にゆく、と唱えていた人がいたんでしょう。これに対して、この文書の著者は否定してかかっているわけです。人間を含めたすべての霊は地下に下り、肉体は塵に返る、というわけです。

  コヘレトの言葉には、他にもこういう言い回しがあります。
  
「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(コヘレトの言葉4章2−3節)。
  人は死を経験できないという人がいます。それはそれで理にかなっています。脳が生きているから、この世の様々なことが経験できるのであって、死んでしまったら、一切の経験をしている主体である脳が死んでいるのだから、人間は死を経験する事ができない。つまり、人間(の意識)は生きることしかできない、という考え方です。このコヘレトの言葉は、そんな思考法と相通じるものがあるように感じます。
  ただ、コヘレトの言葉は、生きている人間の経験などろくなものではない。生まれなかったほうがよほどましだ、と言っており、非常に虚無的な人生観を示していて、「死の状態のほうが本来的で良いのだ」という価値観を持っているところが、現代のよくあるポジティヴな生命観とはちょっと違うところではないかと思います。
  また、コヘレトの言葉には、他の文学と共通する言葉遣いが登場します。たとえば、
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ」(コヘレトの言葉5章14節)ですが、これは先ほど紹介したヨブ記の1章21節と同じ事を言っています。
  他にも、コヘレトの言葉では死に関する言葉がたくさん登場します。それらを全部ここで紹介するわけにはいきませんが、死後の問題にしぼって引用しても……
  
「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」(コヘレトの言葉6章12節)。
  
「生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを。
  しかし、死者はもう何ひとつ知らない」(9章5節)

  
「未来のことはだれにもわからない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう」(10章14節)
  ……という具合です。


(10)死者の復活(イザヤ書)

  預言者の言葉のなかには、死者の復活を述べている部分もあります。
  たぶん、ヘブライ語聖書を前から読んでいって、最初に死者の復活を記しているのは、イザヤ書だと思います。
  イザヤ書では、いったん
「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません」(イザヤ書26章14節)と言いながら、神が殉教した人びとをよみがえらせるようにお願いをしているところがあります。
  
「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」(26章19節)。
  ここで初めて、敵対する他国との戦いの中で、主なる神の名のもとに戦い、犠牲者となった人びとを、神がよみがえらせてくださるだろう、という考えが現れるのです。
  その反面、イザヤ書では、死の世界には神の手も届かないという観念もあります。
  
「陰府があなたに感謝することはなく、死があなたを賛美することはないので、墓に下る者は、あなたのまことを期待することができない」(38章18節)
なかなかすっきりとした死生観に整理することは困難ですね。


(11)枯れた骨の復活(エゼキエル書)

  実際の人間の個々人の復活ではありませんが、神は死んだ者もよみがえらせる力を持っているのだ、と主張しているのは預言者エゼキエルです。エゼキエルは枯れた骨が生きた人間となってよみがえる場面を神に見せられ、「このようにイスラエル民族を復興させるよ」という預言を得ます。
  
「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉をつけ、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」(エゼキエル書37章5−6節)
  神は死者を復活させることができます。そして、たとえ骨の状態からでも、人間の肉体を再構成し、命の息を吹き込んで、生き返らせることができるのだ、という主張がここにはあります。
  ただ、ここではあくまで象徴として、枯れた骨の復活が述べられているに過ぎないのであって、エゼキエルが言おうとしているのは、個人の命の復活ではなくて、イスラエル民族の再興のことである、ということには注意しておかないといけません。


(12)全ての人が復活する(ダニエル書)

  ダニエル書になりますと、死者の復活に関する考えがさらに発展してきます。
  
「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」(ダニエル書12章1−3節)。
  ダニエルによれば、ユダヤ人に対する迫害と征服の連続の中で、ユダヤ人は苦しみを経験するのだけれど、「あの書」に名前が書かれている人は、地の塵の中から目覚めるといいます。ということは、彼にとっての死者は、地の塵として眠っている者ということになります。
  そして、苦しみの終わり、すなわちこの世の終りには、それまで死んでいたすべての人間が目を覚まし、永遠の生命と永遠の苦しみの2つに、行き先を決定されてしまいます。
  人は、「あの書」に自分の名前が書かれてあるのか知りようがないわけですが、できれば書き加えてあってほしいと願いつつ、ヤハウェ神の名のもとに殉教していったのでしょう。『シンドラーのリスト』という小説と映画がありますが、この中にも、オスカー・シンドラーが自分の工場に雇い入れて助けるユダヤ人のリストが、この「書」にたとえられている場面があったと思います(うろ覚えですが。すいません。黙示録に書かれている「命の書」のほうが当たっているかも知れません。でもあれはユダヤ人の話だから、やっぱりダニエル書かな?)。
  ダニエル書のような世の終わりと、死者の復活という考えが出てきたのは、ユダヤ人たちがあまりに神の名のもとにたくさんの命を失ったからだ、という説を聞いた事があります。「なぜこのような信仰の篤い人が死ななければならなかったのか」という矛盾に対する答として、「主はこの人をいつかよみがえらせてくださるだろう(そうでなければ、この人の死はあまりに不条理だ)」という死生観を持つようになったのだというわけです。
  こういう終末論が、いつか神はメシアを自分たちのもとに送ってくださる、という期待感と共にユダヤ人の間に広まっている。そういう状態の社会に、イエスは生まれたわけです。


▼へブライ語聖書の死生観に関する中間的まとめ

  ここで、一応、ヘブライ語聖書については見終わったということで、いったん中間的なまとめを行いましょう。
  最初は、人は土の塵に返る、というような素朴な死生観でしかなかったのが、やがて陰府(よみ)という死後の世界を想定するようになります。しかし、死後の魂が眠っているのか目覚めているのかははっきりしません。さらに時代がイスラエル民族にとって厳しいものになり、不条理な死がひんぱんに起こるようになると、復活論が起こってきます。これは、イエスのような特定の人の復活ではなく、信仰のゆえに死んだような「義人」たちが、世の終わりに復活するという考えです。
  こんな風に、死生観というのは、「これが聖書の死生観だ」というものが確定しているのではなく、だんだんと発展してきていることがわかります。しかも、発展のあとの最終的な結論だけが書かれているのではなくて、発展してきたプロセスがそのまま時代ごとの文書に記されている、といった具合なのです。

  さて、そろそろ話が長すぎて、もうすでに退屈になった方もおられるのではないでしょうか。ここまで読んでくださった方には、心から御礼申し上げます。
  ただ、私はどちらかというと新約聖書専攻なので、ヘブライ語聖書はこのへんで出て行こうとしていますが、もっと詳しく見ようとする方は、他にもいろいろ面白い記事を見つけておられるかも知れません。
  が、とにかく、ここからは新約聖書の世界に進みましょう。イエスもユダヤ教徒でしたし、ユダヤ教とキリスト教は、「はい、ここが境界線ですよ」とはっきりとは言えない点も多いのですが、とにかく話を続けてしまうことにします。

 (つづく)……新約聖書・共観福音書における死生観のページへ


         「キリスト教では、人は死んだらどうなるんですか?」メインページへ

〔最終更新日:2008年3月31日〕

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