宗教裁判展示室

2007年4月16日(月) 日本キリスト教団大阪教区 第51教区総会期 第10回常置委員会議事録

〔解説〕
 ・これは、富田正樹を大阪教区総会開会礼拝の説教者から外した会議の議事録です。ただし、富田と関係のない部分は削除しています。しかし、それでも実際にこの問題のみに費やした時間はおよそ1時間半だったそうで、かなり長文です。
 ・日本キリスト教団では牧師のことを「教師」と呼びます。本文中で「富田教師」と呼ばれているのは「富田牧師」というのと同じ意味です。「教務教師」というのは、キリスト教学校の教員、その他の教会以外の現場で働く牧師ということです。
 ・本文中「3号議案」という言葉が登場します。これは1980年の大阪教区臨時総会で決議された、「異なる意見にも耳を傾け、対話を深めていく」ことを内容とするものです。
 ・本文中で、富田を引きずりおろしたい派で「全国のいろんな教会から抗議文が出され……」と発言している人がいますが、これはデマです。この人自身が自分で「不買運動をしている」と表明しますが、じっさいに教団出版局に寄せられたのは関西地区の3教会だけです。
 ・本文中で、富田が「あれ」呼ばわりされたり、「学校の教師の苦労話ならいつでも聞ける」などと教務教師の職業を愚弄する発言が出たり、自分たちが2000年間正統と異端を判別してきたかのような発言や、天国の鍵を自分たちが持っているなどという発言も見られ、なかなか聞き捨てならない興味深い内容です。

〔最終更新日:2009年8月15日〕

第51大阪教区総会期
第10回大阪教区常置委員会議事録


日時;2007年4月16日(月)午後5時30分〜8時30分
場所:大阪クリスチャンセンター
出席委員……向井希夫(議長)、村山盛芳(副議長)、佐藤成美(書記)、石黒悦雄、市川忠彦、上地武、岡村恒、小林よう子、舘山英夫、田邊由紀夫、似田兼司、池田和弘、糸本資、江本義一、鎌田英子、楠原道温、丸山健樹(以上20名)
職務陪席:14名……井上恵子、岩高澄、浦上結慈、大野忠彦、小笠原純、軽込昇、小林喬、小林望、田中清嗣、西川武、東谷誠、樋口洋一、山崎喜美子、鈴木祈(教区主事)(以上14名)
F委員、M委員は他教区に転任となったために2名の欠員となったが、今期最後の一回なので欠員の補充せずに常置委員会を開催することを承認した。


〔中略〕


3)第52回大阪教区総会準備に関する件(小林長)
4月9日に開催された委員会の報告に基づき報告がなされた。
・議案確定、議事日程、議員確定、選挙方法の件等を協議した。

質疑

・開会礼拝、昇天者記念礼拝、閉会礼拝の説教者の名前が報告されていないので、どなたか教えていただきたい。(岡村)

・開会礼拝の説教者は教務教師の富田正樹教師、聖餐式の司式は議長、昇天者記念礼拝の説教者は軽込昇教師、閉会祈祷会の司式者は選挙で選ばれた副議長である。(向井議長)

・それを聞いて質問なのだが、開会礼拝の説教者の富田正樹教師が総会準備委員会で選ばれた経過とその理由を明らかにしていただきたい。なぜこれを問うのかの理由は明らかで富田教師の書いた本がわたしの目から見て、またわたしの知っている多くの人たちから見て、問題を感じている。教団の信仰告白や使徒信条を否定するようなことを公の文章に書いている。復活とか、聖書正典問題とか、処女降誕とか、復活にいたっては「弟子たちが復活する人間のイエスを見てしまったんだからしょうがない」という、そういうニュアンスで書いてある。復活なんかは科学的にはありえないと書く。それから聖書の正典に関しても、全知全能の神に関しても、使徒信条に書かれたものはキリスト教じゃないとはっきり言うような方である。この方が学校でどう教え、主張されているかはわたしのあずかり知るところではないが、教区総会の開会礼拝は非常に重要である。その総会が何を中心にして、どういう会を開くかを明らかに明示するような礼拝説教者に、教団信仰告白はおろか、使徒信条を否定するような人をあえて選ぶということは重大なミスだと思う。富田教師が、多くの教職や信徒が心からアーメンと言える説教をされるとは、わたしにはとても思えない。なぜこの方を選び、そういうことを知った上でこの方を説教者にしたのかを教えていただきたい。(岡村)

・まず、富田教師の本の件についてだが、前回の総会準備委員会で報告したときにも、I委員からも同じような意見が出て、わたしもそういう話があるのだと驚いた。実は、富田教師に三役が説教を依頼した時点では、まだその本は発行されていなかったので、その本とは関係なく、三役としては、今の教会の中で若い人たちに届く言葉を教会としてどう語ってゆくのかを考えた。次の世代に福音を伝えてゆくという責任がわたしたちにはあることを考えるときに、日常的に若い世代と接している同じ大阪教区に属する教師の一人である富田教師に、彼が立っている現場で感じている若い人たちの今の現実、そしてそこで彼がどう聖書を読み、福音を伝えているのかを聞くことによって、一緒に考えることは意味があると考えた。大阪教区を考えるときに、教会、伝道所だけではなくて学校や関連する施設すべてが大阪教区であると考えている。その中で、わたしたちは学校の現場がどういうところをまかされているのかということを知って、共に祈り、御言葉に聴くことには深い意味があると三役で考えて、富田教師を選び、依頼した。(向井議長)

・今のお話を聞いて、礼拝ってなんのためにするのかということをもう少し聞きたい。学校の現場における富田教師の苦労話や工夫を聞くということはいつでも出来るし、学習会でキリスト教の教育の現場に立っている方のいろいろな考え方を聞くことはやぶさかではない。これは礼拝である。富田教師は主イエス・キリストの復活が事実だとは思えないようなことを平気で書いて、それを今回の本に限らず、前から教科書やいろんな箇所で書いてこられた方である。先週わたしたちはイースターを祝ったばかりである。主の日ごとに集まって礼拝するのは主が復活なさったからである。そういう礼拝をしている人たちが教会を形成し、教区を形成して、一緒に歩もうとしているところで、聖書を神の言葉と信じて、神の約束を聞こうと思って集まる礼拝で、復活を否定し、わたしから見れば、聖書は神の言葉であると全然信じていないようなことを平気で書いているような人に来てもらって、説教者として説教の何を聴くのか、それが礼拝になるのか。わたしは、それは礼拝にならないと思う。だからいろんな話を聞くなら別の機会があるから、富田教師のそういう話を教区の中で聞きたいと思うなら、別の機会をもうけてお話をきいたらいかがか。ぜひ出かけて行っていろいろ聞きたいことがある。しかし、礼拝といっても年に一回の教区総会の礼拝で、教団信仰告白はおろか、使徒信条を告白出来ない方の説教を聞けるのか。わたしたちはそこに集まった信徒の人たちになんと答えるのか。この本を読んだ信徒、これはわたしの近くだけではなくて、全国である。他の教団の人たちがこれを読んで、教団の信仰ってこんなもんですか、これキリスト教ですか、と問われて、答えようがない。それくらいのことを確信的に語っている方である。それをご存じない方もいると思うので話しておく。(岡村)

・議長は総会準備委員会において、岡村委員の言ったようなことはすでに聞いたと言ったが、先ほどの答えでは、その本が出る前に依頼したという説明だったが、準備会の時には本の話は出て、それは教団信仰告白以上に、使徒信条を否定するような内容を含むものだということを指摘されているのに、どうしてそれを議長は通したのか、或いは、準備委員会はどうしてそれを知っていながら承認し、提案したのか。議長の推薦の仕方にも問題はあるし、準備委員会でそういう提案を通したことも、わたしは責任が問われると思う。知らなかったですまないことである。ということは、議長が、そういう信仰とは思えないようなことを語るような人でもいいと、それを知った上でここに来て、推薦しこうやって理由を述べているということは、復活を信じていないというような人でも教区総会の開会礼拝をすべき人だと考えているとしか思えない。これは議長の教憲教規、それから勿論信仰告白を前提にしているものである。それを遵守するという言葉とは相反する判断だと思う。(田邊)

・富田教師の本を読んだが、大変感銘を受けた。確かに富田教師は、翻訳しないと誤解を与えるような表現を入れる方だと思う。しかし、彼は、自分にとって一番分かりやすい表現で自分の信仰を書く、ということははっきり書いてある。そういう書き方が違うというか、言い方が合わないというか、その点でかちんと来る方もいるだろうけれども、わたしは教会の教師として立てられている自覚を持って働いている方である。教区総会で説教をするという場合には、そこでふさわしい言葉で説教してくださると思う。彼の学校での働きというのは、大阪教区の各教会に彼の学校から生徒さんが来ている訳だから、その生徒の姿勢などを通して彼の働きを感じるし、そこのところから話をすすめようという議論をした。(小林よ


・本のことについては言えないが、今の時代の中でイエスは主であるということを語ろうとする試みをわたしたちが聞くということには意味があると考える。(舘山委員)

・富田教師の名前が出てきて耳を疑った。あの本を教団出版局が出したということが問題になっている。教師職というのは教憲教規を守り、信仰告白に立つという誓約をする。教団の教師がどうしてあんな本を書くのかと思っている。どうしても富田教師が説教をするというのなら、わたしは礼拝に出ない。そして議長に不信任を提出する。それほど重大なことである。教区総会である。その問題を皆で検討するというのなら話は別であるけれども、議長は先ほどちゃんと福音を伝えると言った。あれはちゃんと福音を伝えるのか。冗談ではない。絶対反対である。(石黒)

・富田教師と共に礼拝を守り、彼の書いた脚本で解放劇を演じた。彼の宣教の方法は確かにオーソドックスではないけれども、彼は彼のやり方できちっと福音を伝えてくれている。彼のした礼拝説教を未だにはっきりと覚えている。決して彼は異端者ではない。こんな奴の話を聞けるのか、礼拝をこいつはどう考えているのかと言われると、ちょっとかちんとくる。彼はイエス・キリストの僕であるとわたしは考える。(樋口)

・今話題になっているのは『信じる気持ち』というこの本であるが、教団出版局から入門書としてキリスト教の初めて触れる人に読んで欲しいというテーマで出された。キリスト教書店の全国のブックフェアのチラシに載って宣伝をされて、全国のキリスト教書店に平積みにされて売り出された。それから2ヶ月くらいたつが、その結果、全国のいろんな教会から抗議文が教団出版局に出され、教会の役員会がいくつもこの本の出版停止、回収を求めて、抗議の声をあげている。教団出版局はいろんなことを書いて、それに対する答えを送っているけれども、非常にずさんな無責任な答弁しか出てこなくて、教団の中でも大きな問題になっている。わたしやいろんな教師方が困っているのは、他の教派の教師が、うちの教会の求道者がこれを読んで非常につまづいている人がいると言われている。わたしが一番オーソドックスなほうかもしれないが、教会学校の教師何人かと一緒に読んだ。そしてこの本の何が問題かを一緒に勉強した。そしてこれはキリスト教ではないのではないか、という共通認識に達した。例えば聖書のことに関して、いろんな復活や神の言葉だといっている人がいるけれども、最近の聖書学の研究に触れていない、聖書をちゃんと読んでいない人がそんなことを言っているのだ、そういう書き方をしている。わたしから見ればこれは到底キリスト教ではない。教団の教師がこんな本を出しているけれども、教団はここまでいったのかと、他の教団の人からも問いかけられている。ある意味で、わたしなど不買運動をしている。なぜかというとこういう本は買って、売れる。そして再販される。わたしは、それは非常に大きな問題であると思う。自分のお金で本を出すのなら良い。学校で教えるのも学校が認めているならとめようがない。しかし、教団出版局が入門書としてこれを出したということの責任は非常に重大である。これは今度の教区総会で教団出版局の方にもう一度きっちりと尋ねるつもりである。そういうことで、全国で話題になっている。その中で大阪教区があえて富田教師を開会礼拝の説教者に立てるというのは、全国、あるいは教団外のそういう教師に対する一つの態度表明になる。従って、富田教師を開会礼拝の説教者に立てることには反対である。この方の話やどういう信仰を持っているのかについては、ぜひ機会があれば話をしたいと思うが、この本は役員会や教師会でその前から少し話題になっていた。非常に行過ぎている、或いは、逸脱していると言わざるを得ない。これを読んだ信徒が、これは本当にキリスト教なのか、教団の教師なのか、と問うてくる。(岡村)

・議長に先ほど問うたことについて答えてほしい。基本信条に反するようなことを言っていることを知ったうえで、なぜ推薦しているのか。(田邊)

・時間の経過としては、本は後から出ている。わたしもその本は読んだ。しかし、富田教師は、直接使徒信条を否定するようなことは言っていない。内容がそうだというのは、一つの読み方としてはあるとは思うが。わたしは富田教師に学校現場の報告をしてほしいと依頼した訳ではない。開会礼拝の説教者として依頼した。富田教師を個人的に知っているが、彼の福音理解やキリスト者としての生き方に対して、尊敬しているし、困難な今の学校現場で様々な苦労をし、聖書を伝えるために努力をしておられる方である。そのことを教会の現場にいる者が謙虚に聞くということは、わたしは意味があると思う。今の教会で、どれだけの教会において教会学校が無くなったり、青年会が成立しなかったりという大きな悩みをもっている教会が現実的にある。一方で、キリスト教主義学校がわたしたちの教区内にもあり、そこにたくさんの学生が集っている。その中でわたしたちが本当に同じ福音を信じ、同じ聖書を読む者として、そこをどうつないでゆくのかということは、これから大阪教区が歩むうえでとても大切なことである。その意味で、富田教師は開会礼拝の説教者としてふさわしいと三役で考えて依頼をしたということである。(向井議長)

・岡村は全国でこうなっていると言われるが、それは、わたしは全然知らない。特に全国で問題にするようなことだとは全然思わなかった。全国でこうなっている、大変なことになっている、というような言い方で、大変なことになっているように言うというのは、わたしは違うと思う。それがどこから、幾つくらい出ているのかとか。もう少し落ち着いて議論をしたほうがいいと思う。実際にどうなっているのかも分からないのに、こうなっている、ああなっているということで議論をするのはフェアではない。(小笠原)

・そうである。フェアではない。今日も報告書に名前が出ていない形で、準備委員会で議長から名前が出されて報告されましたということで、わたしが聞かなければ誰も名前を言わない。わたしたちが非常に関心を持っている人の名前なのに、議長も準備委員会も名前を報告しなかった。フェアではない。このまま教区総会にいったら、富田教師がいきなり説教者として出てくる。こんなことはない。常置委員会の責任は果たせない。ここで名前が出た以上、わたしはそれには反対である、と言っている。大変なことになっているというのはわたしの印象である。数が幾らあるのか調べなければいけないし、出版局にどれだけ抗議が来ているか、出版局は表明しないし、抗議が来ているということも公に言わない。教区総会で教団出版局のOJ教師に質問すれば、何人分の署名が来ており、いくつの教会の役員会から来ていると答えてもらえると思う。わたしの印象は、多くの教会の牧師や役員会が非常に大きな問題と感じているということである。従って、この方は大阪教区総会の開会礼拝の説教者としてはふさわしくないと考えている、という意見を述べた。きわめて冷静な議論をしていると思っている。常置委員会として開会礼拝の説教者をどうするかを、準備委員会の他の報告とは分けて単独で採決していただきたい。(岡村)

・開会礼拝だけではなくて、教区総会における礼拝説教者を含めて、奉仕者の選任に関しては、教区総会準備委員会に一任している。今まで説教者のことで議論したことは、わたしが常置委員会に出ている範囲では一度もない。勿論、信仰理解とか、聖書に対する姿勢には様々な立場がある。そのことを今ここでどちらの立場が正しいかということを判断することが教区総会の準備にとって必要なことなのかどうか。わたしたちの大阪教区では今、聖餐に関する議論を進めている。それと同じように、様々な信仰理解、教会理解、聖書理解について違う立場があることは了承しているが、その中で、それはそれとして議論するべきである。わたしたちはやはり、この人の説教は聞きたくないとか、この人だったら良いというようなことを言うのは、わたしたちの傲慢である。備えられた礼拝において、本当にそこで語られる御言葉を聴くというところからわたしたちは教区総会を始めるべきだし、大阪教区はそのようにして来ている。それを、この人は説教者としてふさわしくないとか、ふさわしいというのはどこで判断するのか。その基準はわたしにはよく理解出来ない。(向井議長)

・わたしは最初から信仰告白、特に使徒信条、そして教憲教規という基準をあげて言っている。従って、日本基督教団の教師が信仰告白を告白し、教憲教規に従って歩むのは当然のことで、それを逸脱したら教団の教師ではない。それが当たり前である。わたしたちの個人的な意見のないところで、きちっとした判断の基準が与えられているのが教団の信仰告白である。わたしの一人ではなくて、わたしの印象では、これをいろいろと問題にして共有している多くの教職や信徒の方が、この人は本当に日本基督教団の教師としてふさわしいのかということを今問題に感じている。そういうことを聞いている中で、今日富田教師の名前が開会礼拝の説教者に挙がってきたので、わざわざこの方を説教者に立てるということは、よっぽど確信的に大きな意思表示になるということを言っている。総会準備委員会に一任したが、出てきた提案については諮ることになっている。一任したから全部承認されたというなら、常置委員会の決議にならない。好き嫌いで、その人の判断をわたしがして、嫌いだからやめろと言っているのではない。(岡村)

・考え方は分かるが、教区総会の礼拝に関しては、総会準備委員会で準備を進めてゆくということが大阪教区のやり方であった。説教者のメッセージに関して疑義があるから、それだけを取りやめて採決ということになると、教区総会の礼拝の準備ということについての前例になってしまい悪いことだと思う。この件に関しては、準備委員会に一任すべきではないか。(田邊)

・本の内容に関して、使徒信条を否定しているように読めるということであって、使徒信条を直接否定する文章が載っている訳ではない。それはそこに一つの判断が入っている訳で、一方で、その本を読んだ人の中から、それはあまり問題だとは感じなかったという意見も出ている。それをこの常置委員会で採決して決めることは、常置委員会の会議にふさわしくない採決である。もし富田教師がどこかで具体的に、自分は使徒信条を否定する、教憲教規を否定するということがあるのであれば、三役で選考するときに考える。しかし、わたしの知る範囲ではそういう事実はない。たまたま三役が依頼した後に、その本が出版されて、その内容についてさまざまなことを感じる人がいたということは理解する。しかし、そのことによって説教者としてふさわしくないというのは、あまりにも飛躍しすぎではないかと思う。(向井議長)

・準備委員会では、すでに交渉されているということで仕方ないということになった。(市川)

・わたしは本は読んでいないが、今意見は二分されている。この状態で富田教師を呼ぶことは、大阪教区をまっぷたつに分けることになる。今回は富田教師ではなくて、常置委員で別な方を選任するべきではないか。そして、この問題については勉強をして、こういう考え方はふさわしいのかどうかを今後の課題としてゆけばよいのではないか。(江本)

・富田教師を説教者に立てることに賛成である。富田教師は教団正教師であり、教務教師である。どこの教区でもそうだろうが、教務教師の位置づけは難しい。わたし自身、主事であるが、教務教師としてこの場にいるが、教区を二分すると言われたが、働いている者をつなぐということもある。教務教師を教師としてみてもらえない場面が数多くある。今回、富田教師を開会礼拝にという時にも、学校という教会ではない現場で働いている方という視点があったと思う。わたしはぜひお話を聞きたいと思う。(鈴木主事)

・反対する方々の意見を聞いていると、わたしたちの教区がクリスチャンでない人を招いて説教させようとしているようなニュアンスに聞こえる。この本も教団出版局がなぜ出したのかというと、キリスト教を信じないようにするためではなくて、キリスト教を伝えるために出している本である。わたしはそのようにしっかり読めたし、そのように受け取った人もたくさんいるということをわたしは知っている。確かにくせのある表現もあるので、曲げて読もうと思えば、いくらでも曲げて読めるが、どんな書物だってある一つの方向に曲げて読もうと思ったら曲げて読める。そういう悲しい曲げ方をしないで、やはりこの方は教団の教師として働いている方だと大事にしなければならない。教団の教師を招いて開会礼拝をお願いしているのに、この教師はよくてこの教師はだめというようなことを言うならば、わたしたちの教区はだめになってしまう。(小林よ)

・富田教師とは親しくしているし、説教も聴いたことがあるが、本については知らないので、どこまで語ることが出来るかわからないが、わたしの知る限りでは、情熱を持って信仰生活を送って、若い方に伝道しようと一生懸命されている方である。そのことはお付き合いの中で十分感じられる。従って、富田教師がふさわしくないと今ここで語られ、それが決議されることは本当に残念なことである。わたしの知る限り、若い人に伝道して、神様のことを伝えようという視点を持っている方であるということを、本を通してではなくて、出会って、話を聞いて知っている。(東谷)

・本はいろいろな読み方があると言うが、これを実際に読んだらどう読んでもこれは問題だと思われると思う。教務教師が説教をしてはいけない、と言っているのではない。教会会議なので教会を担任している教師が説教するのが良いと思うが、教務教師がだめだと言っているのではない。しかし、よりにもよってどうしてこの人を、とわたしは思う。教区総会の開会礼拝は、皆が一致してアーメンと言える説教を語ってもらわなければならない。立場が違うというようなことではないはずである。どうしてこの人に固執するのか。皆がよく考えて、ふさわしくないのなら、やめるべきである。一致してやらなければならない。(石黒)

・ふさわしくないと言っている方は、ほとんど富田教師の説教を聞いたことのない方であろう。ある一面だけを見て礼拝説教者にふさわしくないということは、あまりにも傲慢である。ふさわしいかふさわしくないかは神様が決めることであって、わたしも毎主日説教者として立たされているが、自分の生き方がふさわしいかどうかが問われる。それは神から問われることであって、われわれが本の一部をとらえてふさわしくないなどと言うことは傲慢である。わたしは富田教師に学校の現場の報告をしてくれとも頼んでいないし、今の教区、教団、今のキリスト教の現実を考えたときに、若い世代に福音をどう伝えてゆくのかということが本当に大きな問題である。教区総会議員の平均年齢は何歳か。20年後に教区総会が開けるかどうかという話である。わたし自身もたまたま機会が与えられて、あるキリスト教系の大学で聖書の授業を持っているが、130人の受講者の中で教会に行っているのは一桁である。そういう現実の中で教務教師が闘いながらやっていることを、教会の現場も理解し、一緒に歩んでゆくということは、教区にとって大事なことだと思う。教区というのは、教会会議というのは、いわゆる「〜教会」という教会会議ではなくて、もっと広い意味での主によって立てられている教会会議である。一つの教会としての働き、聖書と向き合い、若い人たちと向き合って日常の中で闘っている同労者の御言葉の説き明かしを聞くということについて、ふさわしくないなどということは思いもよらない。そういう意見を聞いてわたしは驚いている。(向井議長)

・神様が裁くのは勿論その通りだが、キリスト教主義学校の場合には生徒がどういう反応をするかということが大きなことである。わたしの関わっている高校生が富田先生の授業を受けてどう言ったかというと、「復活ってないんだって」と言った。わたしはその高校生を訂正するのにかなり努力した。わたしは本がどうこうではなくて、わたしは富田教師が開会礼拝で説教したら、恐らく穏やかには聞けないだろう。高校生の言葉とオーバーラップさせてその説教を伺うしかない。どんな説教であろうとも用いてくださるのは神様だが、それに対してはアーメンと言うべきだろうけれども、しかし、やはりこのことはふさわしくない。もしこれを押し通すなら、総会準備委員会全員の罷免を求めたい。(軽込)

・同志社香里の学生が二ヶ月ほど続けて来てくれている。大阪市内で同志社の生徒が教会に来ることは少ないが、準備委員会で富田教師の話を聞いたときに、この方が教会に行くように勧めたのだと思った。その本のことは知らないが、そうやって生徒が教会に来ているということは、この教師がそのような指導をしているということだろう。議長が言われたように、20年後に教区総会が開けるだろうかということは皆心配している。そういう中で、そういう若い方々に福音を伝えるという問題に学校現場で関わっている教師の説教を聞くことに賛成したい。(鎌田)

・わたしの教会にも同志社香里の学生が一杯来る。ただ幾つかわたしが聞いた話の中に、同志社香里の学生を今一生懸命教会に送り出している事情の一つに、同志社香里中にクリスチャンの教師が少なくて、学校の中でキリスト教教育をする限界を感じて、そのことを教会でカバーして欲しいという思いが教務教師の先生の中にあるらしいということである。それは他のキリスト教学校にも起こっていることである。しかし、わたしが問題にしているのは、富田教師個人の信仰のありようがふさわしくないとか、学校でどういう仕事をしているのかということではなくて、礼拝を実験の場に、或いは、別の目的に使うことはふさわしくないと言っている。こういう立場で働いている人の話を聞きましょうというのは、新しい知識を身につけたい講演会なら良いだろう。ただ礼拝の目的は一つである。皆心を合わせてアーメンと言い、主の御名を賛美する、神の言葉を神の言葉として聴くために礼拝する。そこで一致してアーメンと言わないと、教会会議や教区総会が本当の意味で教会の会議にならないとわたしは思う。皆がアーメンと言えないと説教者としてふさわしくないし、こういう方の説教を聞いてみようという実験にするのは、礼拝を礼拝でなくならせる。今回、教区総会の開会礼拝の説教者としてはふさわしくないと言っている。そうでない礼拝として守れる説教者を立てるべきである。(岡村)

・自分に言い聞かせながら意見を聞いていた。議長が言ったように、果たして自分が礼拝に語るにふさわしい者かどうかを、いつも自分に問いながら礼拝を守っている。謙虚に神の御前にありたいという姿勢で、謙虚に神の言葉に聞き従いたいと思っている。そんな中で、ふさわしくないという話があったが、わたしたちはそういう時、きれいな言葉で議論している。しかし、最終的には富田教師を裁いていることになる。こういう場で聖書の言葉を引用するのは、我田引水でいやな思いもするのだが、わたしはいつも毒麦のたとえを自分の中に言い聞かせている。毒麦が成長したときにわたしたちは引き抜こうとするけれども、最後に見てくださるのは神様です。だからもしその礼拝がふさわしくない場になるのならば、わたしたち自身、そして、富田教師自身が神様の前に裁かれることになるだろうけれども、わたしたち自身が今ここで彼を説教者としてふさわしくないとすることは良くないと思う。もっともっと自分自身に謙虚に、彼が何を語るかを謙虚に聞きたい。アーメンと言えなければ、アーメンと言わなくても良い。(上地)

・礼拝でアーメンと言えるのは、説教を聞いたうえでアーメンと言えるかどうかであって、聞く前にアーメンと言えないというのは理解出来ない。(向井議長)

・富田教師の人格や実存とか、どんな人かどうかということを議論しているのではない。そこで説教者としてふさわしいとかふさわしくないという判断をしているのではなくて、書かれたものに明らかにわれわれが大事にしている信仰に抵触するような箇所がある。KK教師の意見は、やはりそうなのかと思って聞いた。決定的ではないか。人が良いとか悪いということではなくて、わたしたちは正しい信仰、正しい信仰という言葉に過剰反応する人たちがいるがガラテヤ書を読んでみてほしい。ガラテヤ書を読めば、なんであなたがたは違った福音に陥ってしまった、違った福音というなら、もうそれは福音と呼べないではないかとパウロがあれだけ怒っている。聖書に裁きの言葉がないかというと、われわれ聖書の言葉に裁かれる、不信仰は裁かれている。だから不信仰であるということが、書かれたものによって、語られた言葉によって出てきてしまっているから、説教を聞く前にそのことを判断しようとしている。神様が裁いてくださる、けれども神様は聖霊によって教会というものをお造りくださった。そしてこの聖霊の宮によって、教会が正しい福音に立つために教会には鍵の権能を与えている。それは裁きの権威を、キリストが聖霊によって教会に与えている。教会の制度を無視するような発言はおかしいと思う。イエスがペトロに天国の鍵を授けた。ペトロの信仰によって立てられた教会に鍵の権能を与えている。マタイ16章である。従って、裁くのは神様であるという議論では、この話は解決しないということである。(田邊)

・鍵の権能を自分たちが持っているというのは傲慢ではないかとわたしは問うている。つまり、富田教師の説教を聞いてアーメンと言えない内容であったというのならば、議長としての責任を感じるが、彼のある一面である本、しかもある読み方によってこれは問題だ、ということで、説教者としてふさわしくないという議論は乱暴ではないかと思う。(向井議長)

・ここで両方のいろいろな議論が出ているので、これだとどういう結論を出しても今回の教区総会の大きな中心課題になる。大阪教区の中に、信仰理解、聖書理解、説教理解、礼拝理解に関して大きな隔たりがあるということが今一時間議論した中ではっきりし、その中でどのように教区総会を開いて結論してゆくか問われるので、わたしたちはまず常置委員としてその責任を果たすべきである。教会の礼拝の説教者は役員会が決めてお願いをしている。それは役員会が推薦する教師について大きな責任を負ってしていることである。教区総会においても同じである。常置委員会で総会準備委員会に準備をお願いをしたが、最終的に常置委員会がどういう教区総会を開くか、どういう開会礼拝を開くか、どういう聖餐式を守るか、そういうことに責任を負っている。わたしたちはその責任を果たさなければならない。そして教区総会に臨んで、ここで為した議論と決断の責任をそこでとって、いろんな質問、議論に答えてゆくことを託されている。延々と議論をしても決着は付かない。従って、もし準備委員会の報告を全部まとめて採決するならここでしていただきたい。しかし、場合によってそれが否決されれば、準備委員会の準備が全部否決されてしまうので、わたしは開会礼拝の説教者については別にして採決を取るように提案している。この議論が終わったら、誰がどういう聖餐式をするのかを質問したいが、それは次の課題としておいている。もしこの説教者が否決されれば、わたしは議長が説教をすれば良いと考えている。正しい福音を明瞭に語って、皆がアーメンという礼拝をして教区総会を開くということについて、最初の推薦の責任もあるので議長にきちっとしていただいて、全員でアーメンと言って教区総会を始めることが出来る。採決の動議を出す。(岡村)

・総会準備委員会の報告に関して今議論をしているが、今一つの採決の方法についての動議が出されている。これに関してどう扱うか。(向井議長)

・委員会の提案について一部のことを修正するということをすると、今後の総会準備委員会に対して支障が出てくるのではないか。(鎌田)

・それは今後の準備の仕方で、説教者に関して常置委員会に挙げてもらい、常置委員会がそれを認めればよい。準備委員会に今までは一任してきて、それが承認されてきたけれども、今回はこれだけ議論した。これを課題にして教区総会の準備の前に、説教者に関して今言った責任を果たせば良いと思う。(岡村)

・岡村委員の提案のように総会の説教者を選ぶことが大切であるというのならば、来年以降については説教者について、その方がどういう説教をしているのか、どういう信仰に立っているのか、そういう一つひとつを常置委員会で確認してそのうえで承認するということをするつもりなのか。今までそういうことをやったことは一度もないが、これからは毎年そういう確認を全て行ってゆくということなのか。(佐藤書記)

・ それが実現可能だとは思わない。そこまでお互いの説教を聞きあう機会は教区の中ではないし、限られた範囲でしか触れ合うことは出来ないから。(岡村)

・それが出来ないならば、このような提案をするのはおかしい。この方ならだめだという判断をするのはおかしい。(佐藤書記)

・この採決については出され提案をどうするかということを採決すれば良いのであって、今後どうするかということはこの採決の中に含まれているとは思えない。今問われているのは分離採決である。(軽込)

・勿論そのことは分かっているが、それだけ重要な採決になるということを言いたかっただけである。それだけの決断をここでこの常置委員会がするのかということを問いたかった。(佐藤書記)

・今問題になっているのは明らかに文書でそういうことが出ているということに対して、見過ごしには出来ないということで、これを扱っている。そういうことは通常は出来ない。だから開会礼拝でびっくりするようなことも起こる訳だが、分かってしまっている以上、そのことを問題にせざるを得なかったという特殊事情であることを踏まえていただきたい。(田邊)

・先ほどから言っているように、明らかに文章で出ているというのは、読む側の一つの解釈である。直接明らかに、わたしは使徒信条を否定します、という文章が載っているのであれば、その意見はある意味では分かる。しかし、そう読めるということであって、そのことを常置委員会で採決して、そう読めるからふさわしくないという判断を常置委員会でしてよいのか。たとえば教団出版局から出ている本で、これは教憲教規に反していると読める、ふさわしくない、という判断を常置委員会でいちいちやるのか。ここでこの採決をするのは、大阪教区として良いことだと議長として思わない。つまり、宗教裁判のような話になってしまっているということである。それをこの常置委員会で、どちらが正しいかということを議決するということが今後の教区形成にとって本当に良いことなのかどうか。わたしたち三役は本当に教区が一致してゆくために様々な努力をしてきた。説教者を選ぶときも、たとえば今度の講演会の講師を選ぶときも、皆がある程度一致できる講師を選ぶために努力し、探し、依頼し、やって来ている。それを少し信頼していただきたい。三役が今までやって来たことは、採決してどっちが正しいかということをして、どっちかがどっちかを裁くなどという教区形成ではないはずである。常置委員会もそうである。もしそこまで不安であるならば、議長の責任として、今言われたような質問について富田教師に確認をする。もしそれで富田教師が使徒信条を信じているというならば、そのことを認めて、説教を聞いてみるべきである。(向井議長)

・議長は以前に開会礼拝の説教をした。その説教についても、それは説教なので御言葉として聞いたけれども、しかしあのときは、あなたは自分で説教しようと思ってしたのだろうが、総会の開会礼拝で議長が説教するということは、総会に対する責任者として当然な人選だと思った。内容はともかくとして。従って、なぜ今回はそうしないで、わたしたちが根拠を挙げて困ると言っているのに、皆が一致できるような説教者を選ぼうとしないのか。(石黒)

・一致をめざすという気持ちは分かるが、準備委員会提案のままで行けば礼拝が分裂する。(田邊)

・富田教師は信仰を持って、神様の召命を受けて今の仕事をしていると、お付き合いのある中で理解している。その方をここでふさわしいか、ふさわしくないかでその個人の人についてここで採決するということが本当に良いことなのか。神様から召命を受けたことをここで決議するということが本当に良いことなのか。わたしはしてはならないことだと思っている。本のことが出ているが、わたしは本を読んでいないので何も言えないが、小林委員の意見を聞くと、読み方によって違うということがあるならば、わたしは自分が付き合っている中で、信仰を持ってそのことをなされているということを大切に思う。ここで採決がなされることは、一人の人の人格を皆で否定することになる。(東谷)

・採決には反対である。どちらになっても3号議案が破綻することになってしまう。従ってわたしは、そういう痛みも含めて、議長が説教をすべきではないかと思う。それしか方法はないのではないか。(田中)

・議長から、復活はないということと、使徒信条を否定しているかどうか、その二点を富田教師に直接確かめてもらい、この常置委員会の雰囲気も伝えてもらって、富田先生にもそのようなことがないような説教をしていただいてはどうか、という提案をしたい。(西川)

・わたしも、ふさわしくないと言っている方々の意見も、読みようによってはそう読めるということもあるだろうから、今の提案にあったように富田教師にそのことを確認することと、今の議場の雰囲気を伝えたうえで、開会礼拝の説教を依頼するということを常置委員会で認めて欲しい。総会準備委員会が準備してきたことを認めて欲しい。この決議をしてしまうと、様々な教区の集会において開会礼拝を持つ場合に、その説教者が開会礼拝にふさわしいのかどうかという議論になってしまう。先ほどから言っているように、明らかにその文言があるのならばある程度の議論の余地はあるが、そう読めるという範囲のことで採決をしてしまうのは、教区にとって不幸である。議論は議論として、復活をどう表現するのかとか、ということはいろいろ議論したら良いと思うし、そのことによってわたしたちの教会が豊かな内容を持ち得ると信じているので、それは意味のあることだと思うが、そう読めるという意見で説教者がふさわしいか、ふさわしくないかをこの常置委員会が採決してしまうということは、一信仰者として問題である。だから、そこは理解していただいて、ぜひ総会準備委員会の準備した案を承認していただきたい。(向井議長)

・今回、読み方云々と言われるが、大事なことである。わたしは主イエスの復活を証言することに命をかけて講壇に立っている。その本はそこに触れてしまう。わたし個人ではなくて、いろんな現場で働いている、教務教師を含む同労の牧師たちがこの本に触れて怒り、途方にくれるような驚きを覚えながら対応している。わたし自身これを読んでみて大きな怒りを覚えている。わたしは毎週命をかけて礼拝に毎週立たせていただいている。この方を大阪教区総会の開会礼拝の説教者として立てるのはふさわしくない。この教師の信仰を否定しようというのではない。大阪教区の開会礼拝の説教者に関して議論が出て以上、3号議案の精神を大事にするなら、この方を開会礼拝の説教者に認めるというのは逆である。これだけ議論をしたのだから、わたしの提案について採決していただきたい。また、開会礼拝の説教については、議長がするべきである。(岡村)

・議長が説教をするということは、富田教師の説教を否定したのと同じことになる。それを否定しないために、議長はこの提案を承認してほしいと言っている。(鎌田)

・Nさんの提案の富田教師自身と会って確認と、常置委員会の議論の内容を伝えるということについては、議長の責任として行う。これだけ議論になっている訳だから、何も無かったかのように富田教師のこのまま説教していただくということは出来ない。それを踏まえた上で、準備委員会の提案を承認していただきたい。(向井議長)

・復活がなければ信仰が成りたたないが、どう信じているかはかなり幅のあることである。(田中)

・その幅について、ここからここまでは許せて、ここからここは許せないというのはかなり難しい判断で、それは会議で採決することではない。たとえば富田教師が明らかに復活を信じていないというのであれば別だが、入門書の表現の方法として書いたことに対して、ここがはみ出ているからそれはふさわしくないということは、教会会議として判断すべきことではない。特に教団には幅があるわけだから、それを狭めていって多数決という形でなんらかの基準を作ろうとするのは少し乱暴な方法である。復活についてどう理解するのかということについては、よく話し合って、お互いの意見を聞いて、理解してゆくことが必要であって、採決に持ち込むことではない。(向井議長)

・教会会議はそれを判断するところである。2000年の教会の歴史は、キリスト教の信仰とは何かということをずっと判断してきたものである。教会会議はそのためにある。予算の協議をすることも、いろんな協議をすることも大事だろう。しかし、本当に大事なことはわたしたちの教会の信仰はどこか、何がわたしたちの信仰の核心かということを、教会会議で、聖書の試問によってするところではないのか。もしこの教区総会が諸教会の会議として部分的に教会会議の責任を果たすのであれば、3号議案を大阪教区は持っているけれども、やはりそこで結局は信仰告白理解を付き合わせることをする。今回その一番大事なところが出ているのに、それをしないでおこうというのは責任放棄である。(岡村)

・しかし、ここに本人がまずいない。本を読んだ限りで今議論してしまっている。それは不幸なことである。(向井議長)

・だけれども、あの本には、自分の信じる信仰はこれが絶対正義だというのではなくて、自分の信じる気持ちを書いているのだと前書きに書いてあって、富田教師の考えているキリスト教の信仰を若い人たちに分かりやすく書こうとして書いている。それをわたし個人ではなくて、いろんな人が見て、読み方云々よりも、これはわたしたちが信じて命をかけている福音とはだいぶ違うと印象を持っているのを聞いている。今度ここで議長が富田教師に、使徒信条を信じますかと聞き、信じますと言って説教するとして、それがこの本に書いてあることとどう結びつくのか。わたしたちは実存をかけて、命がけで毎週礼拝で説教している。自分はふさわしくないけれども神に召されたと言って説教している。この本にはわかりやすいようにこう書いたが、実はこう信じているので教区総会ではこう説教すると言われても、逆にわたしははっきりしないような気がする。そんなことを突きつけて、そういう議論をするつもりは本当はなくて、議論が出てきたから開会礼拝の説教は違う人がいいと言っている。きちっとした判断をする常置委員会を開いているのだから、それをちゃんと諮っていただきたい。(岡村)

・信徒として交換講壇を経験しているが、来る牧師がどんな牧師かということは役員会で論議もしない。それは教区内で信頼して来ていただく。いろんな書物も書いておられるかもしれないけれども、招いた牧師がどう語るかという訓練を信徒は受けている。信徒は見抜く力を訓練されている。K人事部委員長の言われた、学生が復活なかったと言ったということについて、K人事部委員長は、それは違うよという機会を神様から与えられたということである。従って、危険、危険とばかり言うよりは、間違っていれば間違っているなりに、教会できっちりと牧師が訂正すればそんなに危険なことではない。逆にここで採決して、牧師の説教の内容を予測してしゃべるのをやめてもらおうというのでは、交換講壇は成り立たない。そういうことを含めて、教区は幅を広く持ちながら、自分の教会でどうするのかという信念を持って取り組んでくださるなら、少なくとも信徒は動揺しない。かえって教職が動揺しているだけである。そのことが非常に心配である。危険だ、危険だ、ということだったら、あらゆる事柄について、教職はどこかで判をもらってやっておられるのか、口先だけでふさわしくないと言いながら、内々は確信を持って自分こそ正しいと言える根拠があるのか。これはこの場で判断するべきことではなくて、富田教師の説教を聞いて次のステップを踏んでも、大阪教区は動揺するような教区ではないと思う。3号議案の内容を踏まえて、受け止めていただければありがたい。今回については、準備委員会の提案を尊重するということでまとめていただきたい。採決をとるということが本当に出来るのかと疑問を抱いている。(小林喬)

・なぜ採決がふさわしくないかというと、その一つには本のことが大きな理由になっているということがある。今から採決しようとする常置委員の皆さんが本をちゃんと読んで、そのうえでこれは開会礼拝の説教者としてふさわしくないというのであれば、わたしは良いとは思わないが、採決をするという可能性もある。しかし、読んでいない方がいる中で、読んだ人の一部の意見によって、読んでない者が採決するというのは、大阪教区の常置委員会の採決としてはふさわしいものとは思えない。ぜひ準備委員会の報告を承認していただいて、そのうえで、本当に開会礼拝の説教がふさわしくないというのであれば、そこで議長の責任を問うていただけば良い。そういう扱いでよいか。(向井議長)

・わたしは先ほど議長が説教すればよいと言ったが、今回は教区総会だということとわきまえてもらい、それだけの重い提案を受けたことを重々了解していただいて、分裂をもたらすということにならないようにということで、富田教師に説教してもらえばよい。(田中)

・このままやると最初にI委員が言ったようなことが起こる。礼拝が分裂を生むということを回避するには採決はせずに、議長がその和解のために開会礼拝をすれば良い。ここまで議論になっていることを議長がそのまま突っ走るということはどういうことになるのか。本当はやっぱり議長がこの教区総会をどう立てて行くのかという責任をもってやるのが本来ふさわしい。(田邊)

・大阪教区は、ほとんど議長は開会礼拝の説教はしていない。わたしは一度説教したが、わたしなりの教区理解や教会理解はその説教の中で述べさせていただいた。開会礼拝というのは、いろんな立場の人たちが集って教区が作られているのだということを皆が実感して始めるという大切なときだと思う。礼拝は、それで分裂を招いたり、どちらかがどちらかを裁くような場所ではない。主イエスが教師を立てて、それぞれ違った場所に遣わされ、それこそ富田教師も命をかけてやっている。そこで聖書と向き合い紡ぎだされてくる御言葉を聞くということは、わたしたちにとって大切なことだと思う。それがふさわしくないと言い切って、それを採決してしまったら、本当に残念なことだと思う。(向井議長)


ここで議長は議事を10分間延長した。


・この富田教師が教区総会の説教をするのは適当でないと言っている。これだけではない。わたしの教会の信徒が言っていることだが、教区総会の聖餐式の司式をする教師は求道者に配餐をするような人ではないのでしょうね、と聞かれている。それは教規違反ですから。信徒が心配するのはあたりまえである。(石黒)

・小林さんが言ったように、もっと信徒を信頼して欲しい。信徒を信頼して、そこで示された御言葉をどう聞くかということは、礼拝そのものの場所で判断されるべきであって、ここで採決するべきことではない。(向井議長)

・わたしの教会では、わたしが来る前だが富田教師に伝道集会の説教をお願いした。そしてわたしが説教したときに、富田教師が礼拝に来て、一緒に礼拝を守った。そのときに、教会員は皆彼のことを覚えていた。一人も富田先生の説教はだめだったとは言わない。確かに彼の話を聞くとつまずきを覚えるところもあるが、しかし逆に、はっきりと復活があると信じて、そこに命をかけられるという教師にわたしはつまずきを覚える。(樋口)

・常置委員会でその教師の説教がどうであるかとか、福音理解がどうであるかということをいちいち、今回富田教師に関しては、本人もいないところで議論し、それが常置委員会として、教会会議としてふさわしいのかとわたしは先ほどから問うている。本人には弁明の機会さえ与えられていない。その本が彼の全てではない。本をどう読むかというところですでにレッテルを貼っている。そのことを、本を読んでいない人が大多数の常置委員会で採決することは教会会議としてはふさわしくないということを先ほどから訴えている。その判断をせずに、主が立てた教団の教師である富田教師の説教を皆で聞こうということを先ほどから訴えている。ぜひそれを理解していただきたい。それを言い出すと、彼は教団の正教師であるが、そのことの資格はどうかということまでここで議論するのか。そんなことは出来ない。(向井議長)

・もしそんなことが明らかになったら教師としての資質を問う。(田邊)

・常置委員会では問えない。(向井議長)

・問うときには、常置委員会で問うのではなくて、問われる。本を読んでいない人は大半だが、本を読んだ者たちが、これはあぶないと判断した。両方対立して分裂している。分裂したことをそのままにして突っ走っていいのかと言っている。このことについては、ふさわしいか、ふさわしくないのか保留せざるを得ない。だから対立しているままでやらずに、議長がその任を引き受けたらいいということである。開会礼拝にふさわしいかどうかを言っているのであって、人格がふさわしいかとか、生き方がどうかということを言っているのではない。(田邊)

・先ほども言ったが、議長が開会礼拝の説教をするということは、否定されたのと同じことである。(鎌田委員)

・今言ったように保留にするということである。わたしはふさわしくないと判断している。しかし、それを判断出来ない多くの常置委員のことを考えれば、それは保留になった、判断しなかったということになる。つまり、鵜呑みには出来ないけれども、一方の意見を確信を持って手を上げることも出来ないという状況だから、その判断をここでやめて第三の道を考えようということを提案する。(田邊)

・富田教師を断るということは非常に失礼な話になる訳か。議長としては頼んでしまっている、だから困ったということなのか。今は保留にする訳である。判断が出来ない。これは宿題である。従って、教区内で復活とは何かということを勉強してゆくということである。富田教師が良いとか悪いとか、常置委員会として判断しない。断ることは心苦しいことだから、そこは富田先生に失礼にならないように、教区として道を残して、何かの集会で講演をしていただくことにして、議長が説教すればよい。(江本)

・この中で富田教師の説教を聞いたことのある人はいるのか。常置委員の中で誰もいない。誰も説教を聞いていないところで、一部の人が本を読んで、本だからいろんな感じ方があって良いのだが、それで会議としてふさわしくない、今回は遠慮してもらうということを、富田教師に失礼かどうかということではなくて、わたしたちとしてそれはどうなのか、と議長として思う。保留にして議長に一任していただいて良いか。(向井議長)

・一任というよりも、議長が開会礼拝をということを言っている。(田邊)

・これが最後の常置委員会である。保留にしてもそれを常置委員会として再考する機会はない。(鎌田)

・先ほどから言っているように、富田教師の開会礼拝の説教を聞いて、様々な意見を持たれて、そこで批判があれば、議長としての責任は引き受ける。しかし、ここで判断するということが本当に主の体なる教会としてふさわしいことなのか。2000年かけてという話が出ていたが、その2000年の歴史の中ではキリスト教はさまざまな判断をして、人を傷つけてきた歴史もある。そういうことを考えると、本人に確認したわけでもない。本をその人が読んで、それにも様々な意見がある。やはりわたしたちは一人の教師の御言葉の取次ぎを謙虚に聞くというキリスト者としての基本的な姿勢を開会礼拝で持つことはおかしいことではないし、基本的なことだと思う。富田教師と会って伝えることは議長の責任として行う。(向井議長)

・常置委員としては礼拝に参加しないことで態度表明をして欲しくない。(田中)

・皆さんの気持ちはよく理解したうえで、富田教師とは話をする。そのことも含めて、準備委員会の報告を一括して報告していただきたい。(向井議長)

・採決をしないで議長に一任ということなら漠然としているので、その次のステップを明確にしてほしい。議長に任せるとしたら、この議論を議長が話し、復活や使徒信条に関して富田教師と確認をして、富田教師がそれでも引き受けたら、そのまま説教するということで、そんな教区なら説教したくないというなら議長が説教するのか。そういうことを含めて、ここでは採決をしないで議長に一任してほしいと言われたのか。(岡村)

・その通りである。(向井議長)

・議長が富田教師と会ってそのことを確認するということだが、それならばこれだけ強く言っているわたしたちも同席させて欲しい。ちゃんとそのことをわたしたちも確認したい。失礼だと思うが、対立している内容から言って、わたしたちもこの目と耳で確認したい。そのことが今問題になっているのだから。(田邊)

・そういうことを同じ教団の教師に対して行ってゆくということは悲しいことである。同じ主に立てられ、様々な現場で苦闘しながらがんばっている教師に対して、そういうことをすることには賛成出来ない。勿論、ここでの議論は議長として伝える。それで認めていただきたい。(向井議長)

・本来は今の議論は準備委員会でもっと議論を尽くすべきだったのに、わたしの持っている意見を飲み込んだために常置委員会が長引いて皆の心を痛めてしまい申し訳なかった。(市川)

・まだ終わっていない。(岡村)

・認めてくださいと言って、反対意見が出なかったのだからそれで承認ということだろう。(向井議長)

・採決しないということの承認を求めないといけない。(田邊)

・いろんなことを富田教師に伝えるのではなくて、今回はとにかく議長がすべきだという強い意見が出たということで富田教師に引いていただくということは出来ないか。(市川)

・大阪教区の常置委員会の雰囲気を伝えることは議長としてする。そのうえで、開会礼拝の説教を富田教師にお願いしたいと思っている。そのことを議長に一任していただくことを承認していただきたい。(向井議長)


以上の議論の後、議長は、富田教師に話しをすることを踏まえて議長に一任するという案を議場に諮り、19名中賛成9名、反対10名で少数否決された。


・こういう形で議長が開会礼拝の説教を引き受けることは出来ない。富田教師に失礼だという問題ではなくて、教師に説教を依頼するということの意味を思う。(向井議長)

・I委員が冷静に、冷静にとおっしゃったが、準備委員が提案してきた内容について、その準備委員が賛成しなかったということは議会的にどうなのか。(小林喬)

・それは教団総会で確認されている。大阪教区提案の教団総会議案に大阪教区選出の議員が反対したことは今までにいっぱいある。準備委員でもあり常置委員でもある場合、準備委員会のときの判断と、この常置委員会の議論を聞いて意見を変えるということは十分ある。今否決をされて止まっているので提案をすると、それは違うとおっしゃるかもしれないけれども、この説教者がふさわしいかどうかということの採決ではなくて、これだけの議論があって議長の提案が承認されなかったので、次の案として、ここでふさわしい云々の議論をしないで向井議長が説教するということを提案する。(岡村)

・先ほどの議長の提案は、大阪教区の3号議案の精神を表していたことを評価したい。しかし、それを支持しえなかった常置委員会は悲しむべき姿である。総会の開会礼拝の説教者に関しては議長が説教するというオプションはない。むしろ三役と総会準備委員会に委任するべきである。(田邊)


以上の質疑の後、礼拝の内容については、三役と総会準備委員会とに一任することを承認した。


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