宗教裁判展示室

2007年6月19日(月) 日本キリスト教団大阪教区 第52教区総会期 第2回常置委員会議事録

〔解説〕
 ・これは、4月16日に行った、富田正樹を大阪教区総会開会礼拝の説教者から引きずりおろす決議をしたことについての謝罪文の内容について審議した記録です。
 ・説教奉仕者から説教する権利を奪うという人権侵害について、けんめいに訴えてくださる方がおられたり、弁護士から見ればじゅうぶん名誉毀損の要件を備えている、と警告してくださる方がおられる反面、「弁護士にもいろいろいる」と開き直る発言がなされたりしました。会議に出席していた人びとから聞くかぎりでは、「訴えたいのなら訴えてみろ」という態度の牧師もいたといいます。「この世の法」で裁かれることなど、「天国系」のクリスチャンには屁とも思えないのでしょう。
 ・前回まで強硬に富田正樹を引きずりおろそうとしていたO委員が、「訴えられるとすれば自分だが、自分は学びつつある」などと、不器用に言い逃れを図ろうとしているところが、見苦しい点ですが、こういう薄汚い根性の牧師もいるのだという実例として、私たちはよく認識しておかなくてはならないでしょう。

〔最終更新日:2007年8月24日〕

大阪教区 第52総会期
第2回大阪教区常置委員会議事録


日時;2007年6月19日(火)午後5時30分〜8時30分
場所:大阪クリスチャンセンター
出席者:21名
欠席:1名
職務陪席:12名
要求陪席:4名

〔中略〕

部落解放委員会より常置委員会に対して、第52回大阪教区定期総会における開会礼拝説教者について当該教師を排斥したことについての抗議文が提出された。


〔中略〕


議案
d)常置委員会は、前期常置委員会が教区総会開会礼拝説教者に関して議論し、採決に至った会議の在り方を反省すると共に、否決された当該教師に謝罪し、その責任と痛みを担い続ける件
議長より、三役が準備した文書「常置委員会の在り方に対する謝罪と、大阪教区第52総会期常置委員会としての所信」についての説明がなされた。

質疑


・教団三役が教団出版局に対して出した抗議文書について報告していただきたい。(T委員)

・教団議長印を押した文書だと聞いているので公開して欲しいとの要望を出しているが、今のところまだそれを入手出来ていない。(I副議長)

・なぜ入手出来ないのか。九州教区の教区総会でもその文書に対する質疑があったと聞いている。(T委員)

・十分な交渉がまだ出来ていないということである。(M議長)

T委員より提出された修正案について、説明がなされた。

質疑


・解放委員会の委員として差別のことが頭にある。今回の事柄は宗教者が大変陥りやすい、自分の信仰に基づいて人を疎外するというケースである。常置委員会は開会礼拝説教者の選任を含めて総会準備委員会に依頼した。そして準備委員会は当該教師を選任したが、しかし常置委員会は、当該教師は開会礼拝の説教者にふさわしくないという決議をした。そしてこのことは多くの人たちに伝わる事柄である。当該教師は説教者にふさわしくない人というレッテルを張られた。このことは明らかに人権侵害である。従って、謝罪をするのであるならば、常置委員会は当該教師に対して人権侵害を行なったということを明記するべきである。そしてこのことを簡単に決議して欲しくない。ここにいる皆が人権侵害をしたということをはっきりと理解するまで、協議をし、学習会を開いて、皆が本当に理解した段階で謝罪文を出して欲しい。(HG委員)

・T委員の修正案とHG委員の意見についてだが、まずT委員の文章では「事前に打診して了解を取っていた」が削除されているが、これは大事な点である。これは三役が当該教師に了解を取っていたことである。第4回の総会準備委員会において、議長から開会礼拝の説教者について、当該教師に依頼したという報告があったことが記録に載っている。しかし、それを承認したとは書いていない。事前に議長が当該教師に打診をし、了解を取っていた、そしてそのことを総会準備委員会に報告した。それが事実である。(K委員)

・ことがここにまで至って問題の核心がどこにあるのかが明らかになっているにも関わらず、その事柄に目を向けないで過程の事柄に目を向けることは核心をそらすことである。これは教師としての表現の自由の問題であり、講壇に立つ者に対して、それを恐怖でおびやかすような議決をわたしたちはしてしまったということである。そこから目をそらしてはいけない。なぜ採決を回避出来なかったのか。その点に立つ以外にない。(T委員)

・過程のことだけ言っていると言われるが、これが大事なことである。事前に了解を取ったのは議長の責任である。すべてのことは議長の責任である。これが一番の核心である。(K委員)

・この原案を見て、三つの事柄について真剣に話し合わないといけないと考えた。まず謝罪の内容について、これまでの経過を踏まえて謝罪の内容を考えなければいけないということ。そして、責任が一体どこにあるのかということを厳格に考えなければならないということ。そして、三号議案とは一体どういうことなのか、ということである。謝罪の内容については、「事前に打診して了解をとっていた」というところがポイントであると考える。謝罪の内容としては、一旦決めて準備を始めていたのに、それを断った、その点が申し訳ないということであり、なぜそうなったかというと、それは常置委員会の最終承認を受けない間に、当該教師に依頼してしまったということである。しかしこれは、三役の責任というだけではなくて、総会準備委員会の段階で議論せず、結果として教区を混乱させてしまったことについては、準備委員会にも責任がある。だから私は準備委員として責任を取って辞任したいと申し出た。謝罪の内容とどこに責任があるのかということをまず明らかにしないといけない。この本文を採決することには慎重であって欲しい。もう一つ、三号議案とは何かということについては、三号議案には信仰告白と教憲教規という大きな枠があるのではないかと考えている。過去のことを振り返ると、本当に三号議案の精神があるのかと思えるほどの厳しく辛い攻撃を受け、一方的に非難されるということも経験した。今は本当に正常な議論が出来ており、それはM議長のこの数年間の働きによるものだと感謝しているが、昔はそうではなかった。そういう意味では、三号議案をどう生かすかは、その信仰告白と教憲教規という大きな枠とそれを取り上げる中でのお互いの信頼をもとにした対話ではないかと思っている。(I委員)

・K委員の発言についてだが、最終的な責任は議長にあることは自覚しているが、しかし、説教者の選定については例年通りの方法で行われたものであり、議長が独断で行なったものではない。総会準備委員会において、説教者については三役に一任するということで、三役で協議し、当該教師を選び、依頼をし、それを総会準備委員会に報告し、そのことが総会準備委員会でも承認されたからこそ、説教者を含んだ総会準備の報告が常置委員会でなされたということである。前回の議事録のMR委員の発言「わたしたちが一番問題として感じなければならないのは、礼拝の説教者としてふさわしいかふさわしくないかという議論をした上で、総会準備委員会の提案を受け入れなかったために、一人の人間を傷つける判断を会議体としての常置委員会がしたということである。そういう判断をしたことに対してわたしたちが、どういう責任を感じて、どういうことを次にするのかということを議論するべきである」、この点だと考える。総体に対する責任は確かに議長にある。しかし、K委員の発言のニュアンスを聞くと、議長が独断で行なったためにこの問題が引き起こされたというように聞こえるが、そうではない。(M議長)

・今の議長の発言にもあったように、常置委員会は開会礼拝の説教者にふさわしくないとして採決をし、当該教師を排除したということであり、これは明らかに人権侵害である。このことをよく理解していない方がいるので、ぜひ学習会を開いてよく理解して欲しい。(HG委員)

・わたしは議長が独断で行なったとは言っていない。通常のやり方でやったのだろうけれども、今回はこんな問題になってしまったということで、われわれは反省をしないといけない。今後は早い目に総会準備委員会ではなくて、常置委員会で候補を考えるということをすればスムーズに行くのではないか。(K委員)

・今議論しているのは、今後のことではなくて、常置委員会が起こしてしまったことについて、どうその責任を取るのかということである。親しい弁護士に相談したが、明らかに名誉毀損は成立し得るとのことである。これは人権問題になると私は聞いた。すでにそのことが議された時の常置委員会議事録は確定しているので、名誉毀損の明らかな証拠が確定している。この常置委員会が告訴されることは現実に起こり得る。HG委員が、皆が理解するまで決議を待ったほうが良いと言われる意見は分かるが、悪いことをしたと思ったら、一刻も早くあやまるべきではないだろうか。(I副議長)

・手続きが間違っていたからだという言い方はひとすぎる。解放委員会の抗議文で、「説教職としての当該教師の人格を否定した」と書いた。常置委員会は説教職から説教を取り上げた。わたしの行う説教や聖書研究が否定されたとしても、わたしは否定されたと思われないが、しかし、説教してはならないと言われれば、それは職務を全部取られ、否定されたと思う。常置委員会は手続きを誤ったのではなくて、一人の人間が一生をかけてやろうとしている仕事、説教を剥奪した。常置委員会が絶対してはならない決議を常置委員会はしてしまったということである。(H委員)

・この文書の宛先について提案したい。宛先が「諸教会・伝道所」となっているが、これならば教務教師に文書が届かないのではないか。この謝罪と所信を伝えるべき相手は誰なのかということである。このまま出してしまうなら、教務教師の務めを軽んじることになるのではないか。「諸教会・伝道所」に加えるべき相手は存在しているのではないか。(S委員)

・これは議事録を配布するにあたっての文書である。当該教師本人、及び抗議を出している同志社関係の中学高等学校については、この文書を持って三役が直接あって謝罪するつもりである。(M議長)

・宛先は良いのだが、これは公けに謝罪する必要があるので、教団新報にも人権侵害をしたことを公表すべき事柄であると考えている。(HG委員)

・副議長は問題をそらさないでいただきたいと言われたが、あえて苦言を呈した。また、弁護士に相談したと言われたが、弁護士にもいろんな弁護士がいるということはご了解いただきたい。(K委員)

・HG委員の意見は取り扱いについての意見だが、第一回の常置委員会の議事録が配布されていない、しかし一方では教区総会でこのことについての意見が多少出されているという事態を踏まえて、常置委員会の責任で確定した議事録を公にすることがまず必要である。しかしただ議事録を配布するのではなくて、わたしたちがその議論をどう理解し、捉えるのかという説明をしたうえで配布しようということで、この文書を作成するということが前回の常置委員会で動議として出されて承認された。従って、まずそこに議論を絞っていただきたい。(議長)

・HG委員の言った「宗教者の陥りがちな人権侵害」に再び陥らないように発言したい。議事録が配布され、そこでした発言が名誉毀損にあたる大きな人権侵害にあたるという指摘がなされて、その指摘を重く受け止めながら、しかし、わたしのよって立つところを正直に申し上げたい。常置委員会の議事録を配布するときにこの謝罪文を出すことは当然のことであると思うし、書かれていることが大きく事実から逸脱しているとも思わないが、後半部分については幾つか意見がある。議事録を読んだ人はすぐに分かるように、この人権侵害事件と言われたなら、そのことの一番の口火を切り、大きな責任を負うべきなのはわたしである。そのことに関して、これが宗教者の過ちとしての人権侵害の再生産にならないようにと考えている。当該教師は学校における自分の、日本基督教団の教師としての存在をかけてあの本を書かれたと思う。出版の本質は本人の手を離れたところで、それが理解され、評価されるということなので、あの時点でわたしがあの本を読んでこう感じるということを言った。その時にわたしが一番考えたことは、教区総会に限らずキリストの名のもとに開かれる礼拝において、どういう説教が語られ、信仰が語られるべきかを考えて、そしてあの日の発言をした。そのことが結果として、一人の教師から説教する権利を奪い取り、人権を著しく侵害したのだということを今日言われて、改めてその重さをわたし自身は受け止めている。しかし、主イエス・キリストが神の子かどうかとか、処女マリアから生まれたかどうかということは、わたしは個人的にはいろんな教派の人たちや海外の信仰者と一致をしている点であり、そのことはキリスト教の核心であると考えている。特に主イエス・キリストの復活は幻などではなくて、一緒に弟子たちと魚を食べるような仕方で復活されたと信じて、礼拝で御言葉を語り、復活の希望を抱いて教会に信徒が集っている。そこに立って、わたしの意見を申し上げた。この謝罪文と議事録が審議をされて各教会に配布されたときに、わたしと同じように考える人が、これを機会に、そこでどういう仕方で、どういうふうに説教者の問題を共に語り合い、議論でき、説教者を立てて教会形成に取り組めるかということを先ほどから考えている。HG委員への問いかけでもあるが、説教者とは何か、礼拝とは何かということは、やはり教会の会議の中でしか議論が出来ないことである。わたしはそのことを議論しないで、4月の常置委員会を過ごすことは出来なかった。そのことに対しては、今もわたしの中の大きな確信は変わっていない。わたし自身の課題は、当該教師が傷ついてことについて、どういうふうにそれをわたしが受け止めていくことができるかということである。しかし、教区総会の開会礼拝の説教者としてどういう人を立てるかということについての責任は、常置委員会がきっちりと負わなければいけないと考えている。(O委員)

・わたしが先月から一貫して言っていることは、ある本の内容について個人がそれをどう捉えるかは自由である。しかし、これが公けの会議の席で、全く何も確定しない、オフィシャルになっていないそういう中で、全くの推測の中で、将来このままいけば教会はどうなるだろうか、という類推にまでいってしまう会議体、しかも議長がそれを再三再四「そういう方法はだめだ」とその責任をかけて止めているにも関わらず、決議に至ってしまった。そのために、これからの常置委員会はそうであってはならないし、人間に対する捉え方について、発言は本当に気をつけなければならない、ということである。常置委員会の議事録を見たら、ここまで断定して言ってよいのかということが一杯出てきている。そういう会議体の責任を取らなければならないと言っている。そういう意味では、自分の信仰にとってはこう思うと言われることは認めるが、しかし、そこから一個の人間に関わることを決議したということについての謝罪は、早くしないといけない。そして、HG委員が言われたように、責任と痛みを担い続けるということをずっと思って、学習会をしていかなければならない。(S委員)

・S委員の意見に賛成である。何よりもO委員が、自分が口火を切ったということで、その責任を受け止めていることは大切なことだと思っているが、問題は反対した委員が悪いということではない。この本が良いか悪いかということはそれぞれの勝手である。しかし問題は、当該教師がここでふさわしいかふさわしくないかということをここで議論したことにある。だからT委員は「わたしたちは」と書いている。その点をきっちりと受け止めるべきである。それと、ふさわしいかふさわしくないかということを言った相手は、同じ仲間の教師であり、そのことをそもそもやること自体が間違っていたのではないか。痛みを担い続けて学び続けていくことには賛成であるが、当該教師が今現実に苦しんでいることを思えば、何よりもまず謝罪をするべきである。(OS委員)

・この世の法として人権侵害や名誉毀損として問題にされることが含まれているのだろうなということは、今指摘を受けてその問題を改めて強く受け止めてはいる。しかし、それと同時に、当該教師は本の中で多くのことを言い切っている。(T委員)

・先ほどから意見が出されているように、本の内容をそれぞれがどう読むのかは自由であるが、それを会議体で発言し、それを何らかの記録に残したり、決議していくことが問題だと言っている。(M議長)

・ただこのことで、教団の教師であっても、「わたしは復活を信じていない」と公言している人がいたとして、そういう人をわたしたちが説教者として立てるのか。(T委員)
・それは先月も議論したことだが、それは推測である。本の受け止め方は人それぞれ違う。それを議論し始めれば、それは一人ひとりの意見があるだろう。しかし、そのことでその教師が説教者としてふさわしいかふさわしくないかということを議決したことが会議体として問題だと問われている。当該教師がこの常置委員会の場で、自分は復活を否定したと言ったのならば、わたしたちはまだ直接その言葉を聞いているのだから判断は許されるかもしれない。しかし、あのときの常置委員会は、誰も本人の意見を聞いておらず、本を読んだ印象だけで判断してしまった、そのことが誤りであると言っている。(M議長)

・様々な立場な人がいる中で、説教者を立てることがどれだけ困難かということを今回感じた。そういう意味で謝罪はちゃんとすべきだと思うが、この後、どういう説教者を立てることができるかが今後の議論として重要になってくる。(A委員)

・今回は、本の内容や説教者をどう立てるかということではなくて、会議体として決議してしまったことが一人の教団教師を傷つけてしまった、そのことについて謝罪するという一点である。(M議長)

・謝罪しようとは考えているが、謝罪の内容の問題だと思っている。公式に自分の信仰を述べた訳ではないけれども、その本を読んで疑問を感じた人がおり、その人が当該教師を説教者として立てることに疑義があると言ったことも問題なのか。(I委員)

・究極的にはそのような点にいくだろうと思っていた。わたし自身も1960年代に、考え方が違うから、説教内容が問題だからと、説教壇から引きずり降ろしたほうである。わたしはそのような歩みを振り返りながら実に反省している。説教者に立てられた人のメッセージはどなたであっても聞かなければならない。考え方が同じでアーメンといえる人でないといけない、と言う人がいるが、そうだろうか。日本基督教団は合同教会であるということにおいて、信仰理解や様々な違いがあったとしても、説教者として立てた人のメッセージは聞かなくてはならない。信仰理解や自分たちなりの本の読み方をするのは良いが、相手が信仰者であることも認めていただきたい。そういうところに立とうということではないのか。(T委員)

・謝罪をしなければならないことはわたしも理解しているが、しかし、常置委員会でいろいろなことを議論し、決定していくことは大事なことである。信仰の真理契機については、信仰の良心をもって語ることは常置委員会でなすべきことである。それを悪いことのように言うことはおかしい。だから何でも良いということではないのであって、日本基督教団信仰告白の枠内での議論である。(E委員)

・当該教師は日本基督教団の教師である。当該教師は教団の信仰告白を否定しているわけでも、復活を否定しているわけでもない。(M議長)

・当該教師に対してこの常置委員会がしてしまったのは、そういうことではなかった。推測に基づいて拒否してしまった、そのことを常置委員会が今謝罪すべきだと言っている。常置委員会がそのようなことを議論するなとは言っていない。(I副議長)

議長はここで議事を10分間延長した。

・自分の信仰や大事なものを守るために、差別をしてもよいということは決してない。そのことははっきりと認識していただきたい。(HG委員)

・わたしたちにはいろいろな考えがあってよいし、教師とは何かとか信仰とは何かということを議論することは必要である。しかし、今回は本人の話を直接聞きもせず、書かれた本によって当該教師を説教者としてふさわしくないと議決してしまい、依頼していた当該教師を断らなければならなくなった。説教者として立てられ、礼拝説教を依頼するということについて、わたしたちは聖霊の働きを信じている。わたしたちの思いを超えて聖霊が働いていると信じるから、われわれは礼拝に出席するし、説教を聞くのである。それを否定するなら、われわれは自分自身の首を絞めることになる。(M議長)

・会議体として議決のあり方に逸脱があったことについては、わたしも今日学んだ。そのことに当該教師に謝罪し、議事録が配布されることには賛成である。しかし、わたしの中で、この謝罪文の中にどうしても心から納得出来ないことがあるので、この後、採決になった時に手をあげることに困難を感じている。謝罪をすることに反対すると思われるのは心外である。自分の中ですっきりといかないところについては、これからのわたしの課題であろうと思うし、この常置委員会や教区で、いろいろな形で学んでいきたい。(O委員)

以上の質疑の後、副議長より、T委員から出された修正案をベースにしながら、これに修正を加えた文書について採決をとってはどうかとの提案がなされて、これを承認した。その後、議長は、まずT委員がK委員から反対意見として出された「事前に打診して了解を取っていた」の箇所について、これを復元してよいと受け入れたことを確認した後、修正案の「失礼な振る舞いに至っ」という文言を「教師としての表現の自由を脅かし」という文言に修正する案について採決を取り、20名中9名の少数否決となった。続いて、T委員の修正案原案についてはかり、20名中11名の賛成でこれを承認した。議長より、三役としてこの文書を持って当該教師と会い、教区としての謝罪の意を表すことが告げられた。

〔謝罪と所信の文面については別途紹介〕


質疑


・前回も採決となったが、数の論理だけで常置委員会の議論が進められないよう工夫をお願いしたい。(H委員)

・この件についてはこれで終わりなのか。これを出すということは良いのだが、人権侵害をしたことがこれで終わるのか。(HG委員)

・これは常置委員会議事録を出すに当たっての議決なので、先ほどから言われている事柄に関しては、議案という形で出していただきたい。(M議長)

・これは常置委員会の議決なので賛成されたことには従う。唯一つ、議長に問いたいが、議長としての責任はどう取るのか。4月の常置委員会でどうあろうとも議長であった方が、このことについて今日謝罪することが可決されたことについて、議長としての責任をどうとるのか、次回までに答えていただきたい。(K委員)

・I委員が重要なことを言われたが、大阪教区が三号議案を大切にしながら歩んでいる中でM議長がいてこのような話し合いが続けられている。そういう中で、K委員が議長の責任を問われたが、I委員のような大局的な視点をもって、大きな流れの中にある議事運営の空気を読み取って生かしていただきたい。(KB委員)


g)同志社中学校、同志社高等学校、同志社女子中学高等学校、同志社香里中学高等学校、同志社国際中学高等学校の教務教師から提出された抗議文に関する件

議長から、この件に関しては、議事録と謝罪文をもって関係者に謝罪しにいくことが告げられた。

〔後略〕


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