石垣雅子牧師 礼拝説教ダイジェスト


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 ここは、メッセージの要旨を並べてある部屋です。下記のリストにて、"Masako Chapel"に収録してあるメッセージの要旨が紹介されています。

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【石垣雅子牧師のメッセージ・リスト】……要旨

 「たとえ歓迎されない存在であったとしても」
聖 書 詩編 21章2−8節(王は主に依り頼む)(新共同訳)
     マタイによる福音書 2章1−11節(占星術の学者たち)(新共同訳)
2011年12月25日(日) 日本キリスト教団新生釜石教会クリスマス礼拝説教

 ふつう赤ん坊が生まれる時というのは、喜ばしいものです。この子が生まれてほしくなかったなどということは許されません。
 しかし、イエスの誕生に際しては、ごくわずかな人々が喜び、王や民の多くは不安を抱いたと聖書に記されてあります。
 不安の中に生まれた赤ん坊が世の救いをもたらす。この聖書の言葉を支えに、私たちも「どうせやっても無駄だ」と思ったり、将来に不安を抱くことなく、勇気をもって歩んでゆきたいものです。
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 「真ん中に立ちなさい」
聖 書:マタイによる福音書 25章1−13節(「十人のおとめたち」のたとえ)(新共同訳)
2011年11月27日(日) 日本キリスト教団弘前南教会主日礼拝説教
 マリアは結婚前に妊娠するという、誰にも代わってもらえない重大な人生の問題に放り込まれました。
 わたしたちの人生も誰にも代わってもらえるわけではありません。
 十人のおとめのたとえ話において、五人のおとめは賢く、五人のおとめは愚かであった、と言われています。わたしは疑問に感じます。なぜ賢い五人は、愚かな五人に油を分けてやらなかったのだろうか。それが親切というもの、助け合いというものなのではないのか。
 しかし、イエスのたとえ話は、そうなってはいません。
油は分けてあげるわけにはいかないものなのです。しかし、わたしたち自身の各々の人生もそういうものではないでしょうか。
 このアドヴェントの時期、代わってもらえるわけではないわたしたち自身の人生を抱えて、心して、イエス・キリストの到来を待ちたいものです。。
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 「真ん中に立ちなさい」
聖 書:マルコによる福音書 3章1−6節(手の萎えた人を癒す)(新共同訳)
2010年2月28日(日) 日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教
 障がい者の私立支援などという言葉もなかった時代のことです。この物語に出てくる手の萎えた人を、癒そうとする者はいませんでした。そのような障がいは、天罰か呪いの結果であり、それに近づいただけでも汚れ(けがれ)が移ると思われていました。そのような人に対してイエスは「真ん中に立ちなさい」と言います。
 周囲の視線はいっせいに病人とイエスに向けられます。その視線は好奇の視線でしかありません。しかし、イエスはそうではありません。イエスはこの障がい者を優しく見つめています。そしてイエスは周囲の人に「安息日に許されているのは人を生かすことか、殺すことか」という痛烈な質問を周囲の人にあびせます。誰も答えません。卑怯な沈黙です。そのような群集にイエスは怒りの視線を投げかけます。このように、いくつもの視線が交錯します。
 私たちはこの物語から、「見る」ということの意味を思わされます。イエスの愛のまなざしは、今も私たちに向けられています。    (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「恐れず迎え入れなさい」
聖 書:マタイによる福音書 1章18−25節(イエス・キリストの誕生(ヨセフへのお告げ))(新共同訳)
2009年12月5日(土) 弘前学院校友会東京支部クリスマス礼拝説教
 現代の人びとは「不安」と「恐怖」に支配されていると、あるジャーナリストは指摘します。それはイエスが生まれた古代ローマ定刻に支配されたバレスティナも同様でした。
 また、自分の子ではない一人の赤ん坊の誕生を受け入れるヨセフの心も「不安」と「恐怖」に包まれていたことでしょう。
 「不安」と「恐怖」は人間の心を硬く閉ざし、喜びを感じなくさせてしまいます。だから彼はマリアから離れようとします。しかし、天使は彼に「恐れず迎え入れなさい」と告げます。恐れを超えたその先に、イエスの誕生と言う喜びがあります。
 私たちも恐れを乗り越えて、イエスの誕生をという喜びを受け入れましょう。それは私たちを愛する神が、私たちと共におられるというしるしなのです。
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 「未来にかける」
聖 書:ヨハネによる福音書 5章1−9節(ベトザタの池で病人をいやす)(新共同訳)
2009年5月21日(木) 弘前学院大学礼拝説教
 未来というものを、たとえ現実的な予想であろうと、描くことができるのは、とても恵まれたことなのかも知れません。世界には、このままこんなことを続けていたら、いつかそこで生きることさえもできなくなってしまうことがわかっていながらも、今を生き延び、今日の食事にありつくために、環境破壊を続けている人たちがいます。
 ベトザタの池でイエスが出会った病人も、未来が描けない人でした。未来を描こうにも、何も希望になることがなかったのです。そんな病人にイエスは「良くなりたいか」と尋ねます。私たちからすれば、よくなりたいのは当たり前じゃないかと思うかもしれません。しかし、この病人は「良くなりたいです」ではなく、「誰も私を池に運んでくれない」という、過去に対する恨み言でした。しかし、イエスは過去のことでなく、これから良くなって、自分の力で生きてゆくことになるけれど、それでもいいんだね? という未来への決意を尋ねたのです。
 このイエスの言葉は、今を生きる私たちにも向けられていると思います。わたしたちは、自分の未来を勇気を持って描いてゆくべきなのです。
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 「からし種一粒ほどの」
聖 書:ルカによる福音書 17章5−10節(からし種一粒ほどの信仰があれば)(新共同訳)
2009年3月8日(日) 日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教
 使徒たちがイエスに「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木でも抜け出して海に根を下ろすだろう」と言いました。これはどういう意味なのでしょうか。信仰があれば何でもできる、ということをイエスは言いたかったのでしょうか。しかし、桑の木にとっては大きな迷惑です。そういう自分ではない何者かの犠牲をはらって証明するのが、信仰深さというものなのでしょうか。それは断じて違います。イエスはおそらくここで、「あなたがたに信仰があれば、桑の木でも海に入るだろう」という言葉で、信仰深さというものに値打ちを置きたがる人たちに皮肉を語ったのではないでしょうか。
 わたしたちが追い求める「信仰深さ」とは、得てして身勝手で、自分を誇るために求める場合が多いものです。しかし私たちは、イエスが言うように、命じられたことを果たしたからといって感謝されるわけでもない僕のように、自分がなすべきことを一歩一歩進めてゆく以外の生き方はないのです。
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 「異なる言葉で語る」
聖 書:創世記 11章1−9節(バベルの塔)(新共同訳)
2008年10月19日(日) 日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教
 バベルという町に天まで届く塔を建てようとした人々がいました。建築作業というのは、命令する者とされる者に人間を分断します。そこで使われている言葉は、指示を出す側と指示に従う側に人間をわけ、支配するものになります。同じ言葉で通じているということは、一見良いことのように見えますが、実はそのことが人間を疎外している場合があるのです。
 反対に、言葉が通じないところでも一人で旅行して、何とかなったという人の話も私たちが聞くことがあります。言葉が通じていない。しかし、人間はきっと分かり合えるはずだという希望のもとに、けんめいにコミュニケーションをとることで、私たちがつながり合うことができます。
 神は、わたしたちに、「同じ」であることを望んでおられないのではないでしょうか。むしろ、互いに異なることを喜び合いつつ、理解しあおうとするプロセスのなかに喜びが宿っているのではないでしょうか。
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 「その時がいつなのか」
聖 書:マルコによる福音書 13章32−37節(目を覚ましていなさい)(新共同訳)
2008年2月24日(日) 日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教
  イエスは私たちに「目を覚ましていなさい」と教えておられます。
  私たちは、自分がいつまで生きられるのか、いつ自分の時が終わるのか、いつ自分の友人の命が終わるのかも、全く知るすべを持っていません。しかし、確実に終わりの時はくるのです。私たちはそのことを忘れて、つい眠くなり、眠ってしまうことが多々あります。
  いつも緊張感を持って生きているというのは、難しいことです。しかし、「目をさましていなさい」というイエスの言葉を胸に留めて、目を覚まし、備えのある人生を送って生きたいと思います。
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 「主の復活、ハレルヤ」
聖 書:ルカによる福音書 24章1−12節(復活する)(新共同訳)
2007年4月8日(日)日本キリスト教団藤崎教会復活日礼拝説教
  私たちにとってもっとも恐ろしいものは、やはり「死」でしょう。そして、その「死」を克服する「復活」という出来事は、とても現代の私たちに理解しがたいことのように思われます。
  イエスが逮捕されて、裁判を受け、十字架につけて殺されて、それで弟子たちは逃げてしまいました。ふつうの「死」ならばそれで終わりです。そして、それで終わりならば、キリスト教会は生まれなかったのです。しかし、現実にはそれで終わりではなかったのでした。現実に、弟子たちは再び結集し、キリスト教が立ち上がり、そして今わたしたちもこうしてイースターを祝う礼拝をしているのです。
  それでは、観念ではなく、現実にイエスと出会うというのは、どういうことなのでしょうか。私たちはその秘密を、日常の人との出会いの中に発見することができます。
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 「命を救う・命を失う」
聖 書:ルカによる福音書 9章21−27節(人びとはしるしを欲しがる)(新共同訳)
2007年3月11日(日)日本キリスト教団弘前南教会聖日礼拝説教
  イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とも言います。しかし、受難を目前にしたイエスの本当に言いたかったことは、自分の命を捨てて、自分といっしょに死んでくれということだったのでしょうか。私はそうではないと思います
  イエスは「たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」とも言います。
  ある数学の教師がこう言いました。「可能性が0%なのと1%なのでは全く違う。0と1の差は無限大なんですよ」と。
  私たちは、生きている限り、個人差はあれ、多少の差はあれ、可能性を持っています。たとえ1%であったとしても、それは0でないかぎり可能性であることにとどまり続けます。その可能性にかけて生きることが、イエスに従うことなのではないでしょうか。  (タイトルの左にある木のボタンを押すと、メッセージの本文が表示されます)
 「持っているものをあげる勇気」
聖 書:使徒言行録 3章1−10節(ペトロ、足の不自由な男をいやす)(新共同訳)
2006年7月6日(木)弘前学院大学礼拝説教
  今の日本では、集めること、たくさんのものを所有することがよいことであるかのように思う価値観が浸透しています。モノだけではなく、人も、友だちや恋人や、人のメールアドレスをたくさん集めて、そこにしがみついています。
  しかし、今日読んだ聖書の物語のなかには、自分の責任でもなく何も持てない人(歩く自由も、働く能力も)に、やはり金銀もない、あまり多くのものを持たない人であったペトロとヨハネが、自分の持てるだけのものを与えた、という姿が描かれています。
  私は現在うつ病を患っています。この病気はつらいですが、そのつらい中でも気づかされたことがあります。私は、自分の能力を過信し、自分を酷使して、働きづめに働いてきました。しかし、その働く能力を失うような病気を患ってみて、初めて自分が多くのプライドや自信を集める生き方にはまり込んでいたことに気づかされたのです。
  しかし、自信やプライドを失っても、まだ私には与えることのできる何かが残っていることに気づきました。こんな何も持っていないような私にでも与えることができるものはあるのです。
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 「結果よりも過程を」
聖 書:マルコによる福音書 8章11−13節(人びとはしるしを欲しがる)(新共同訳)
2007年1月21日(日)日本キリスト教団藤崎教会聖日礼拝説教
  わたしたちは人生において、いつでも「こんなはずじゃなかった」と言いたくなるような想定外のできごとにぶつかるリスクをかかえています。それは現代人だけではなく、聖書の時代の人びともそうだったのです。そんなとき人間は、「神さま、どうして私をこんな目に遭わせるのですか」、「どうか助けてください」、「あなたの力を示してください」と祈るのでしょう。そうやって人間は、神に「しるし」を求めるのです。しかし、「しるし」は現実的には与えられません。あるいはむしろ、苦難こそが神の「しるし」だというような信仰理解さえあります。しかしわたしたちは、苦難にあうとき、いつも「これは神が与えた試練なのだ」と考えなくてはいけないのでしょうか。
  イエスは、「しるしは与えられない」と言っています。悪を滅ぼし、苦しみを取り去るような「しるし」もない代わりに、人間をこらしめるような「しるし」もありません。人間は、自らが出くわした試練に対して、その意味を自分自身で見出して生きていかなくてはならないのです。
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 「実を結ぶ、絆を結ぶ」
聖 書:ヨハネによる福音書 15章1−5節(イエスはまことのぶどうの木)(新共同訳)
2006年10月29日(日)日本キリスト教団弘前南教会聖日礼拝説教
  ぶどうという果物は、聖書の世界、イスラエルの人びとにとっては、たいへん身近な植物であったようです。しかし、単に身近であるという以上に、飲用には適さないパレスティナ地方の地下水を、植物を一旦通してから、果物という形で飲用に転じる、という生活の知恵もそこには含まれています。すなわち、ブドウを通して飲めない水が飲める水に変わる。死から生への転換がぶどうの木のなかで起こっているというのです。
  そんなぶどうの木に、イエスは自分をたとえています。そして、イエスとわたしたち人間の絆を、ブドウの木とその枝にたとえています。わたしたちは、イエスから離れては生きることはできません。神との絆をなくしてしまっては生きることもなりません。
  イエスという木から送られてくる養分である愛をわたしたちは豊かにいただいて、生きる力を手に入れるのです。
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