目を覚ましていなさい

2011年11月27日(日)日本キリスト教団弘前南教会主日礼拝説教

説教時間:約20分

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聖書:マタイによる福音書25章1~13節(新共同訳・新約)

 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火を持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
 

人生にハプニング発生

 わたしたちの人生とは、ある程度予測された日常が繰り返されるものです。けれども、その日常の中に何らかのハプニングが起こることも珍しくないのです。「どうしてこんなことが起こるの」とか「こんなはずじゃないのに」とかいうようなことが起きてしまうのです。こうなるはずだということがそうはならなかった。思い描いていた道をはずれてしまった。家族や親しい人がとんでもないことにまきこまれてしまった。そのような出来事に出会うとき、わたしたちはうろたえます。戸惑います。怒ったり、誰かにあたり散らしたりすることもあるのかもしれません。日々の細々としたハプニング、そして人生に何度か訪れる大きなハプニングと何とかおつき合いしながら生きているのがわたしたちなのかもしれません。それが日常なのでしょう。
 聖書の中でも同じだと思います。聖書にはハプニングに出会い、それを解決していった人々、そして解決できずに涙を流した人がたくさん登場しています。その中でもわたしが一番印象に残り、また考えさせられるのはイエスの母マリアのことです。マリアはヨセフという男性と間もなく結婚するということになっていました。しかし、結婚を前にしたマリアが突然妊娠してしまうのです。
 ルカによる福音書にある『受胎告知』と呼ばれている場面では、天使ガブリエルがある日マリアのところにやって来て、
《「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」》と告げられています。マリアはこの知らせに戸惑います。そんなそんなはずはないと答えるのです。《「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」》(ルカ1:31−34)
 当時結婚前の妊娠はゆるされませんでした。性的な道徳が特に女性にとって大変厳しかった時代であり社会です。いいなずけのヨセフはどう思うだろうか、二人の結婚は解消だろうか、とマリアは考えたはずです。さらに、自分が妊娠していることがまわりにわかってしまったら、もしかすると姦通罪という罪に問われ、最悪の場合は石打の刑になるかもしれないと考えたはずです。
 マリアの葛藤や戸惑いを聖書はあまり詳しくは描いてはいません。ただ、マリアは天使ガブリエルからの「受胎告知」を受け入れ、イエスの母となる決心をしたこと、一方のヨセフは迷ったであろうけれども自分の子どもではない子を妊娠しているマリアを受け入れ結婚することに決めたことを記しています。
 この出来事はおそらくマリアという一人の女性の人生設計にはなかった出来事だと思います。まさにハプニングです。ヨセフにとっても自分のパートナーとなる女性の身の上にこんなことが起こるなどとは想像だにしていなかったに違いありません。
 何故マリアだったのか。その答えは聖書にはありません。マリアが従順だったとか、信仰深かったとか、そのようなことを語る人々もいます。でも、わたしはそのようなとらえ方には到底納得できません。マリアはどんなことが起こっても大丈夫なスーパーウーマンではなかったと思います。彼女はわたしたちと同じ一人の人間であったと思います。葛藤や戸惑いを抱えながらもイエスの母となる決心をした一人の女性だったのだと思います。
 ヨセフも同じです。自分のパートナーとなる女性が大変なことに巻きこまれ、それでも別れずに結婚することにした一人の男性だったのだと思います。

代わってはもらえない人生

 2000年前ユダヤというところで起こった不思議な出来事はマリアという一人の女性の身の上に起こりました。彼女でなければならない積極的な理由が神の側にあったのかどうかは確かめる術がありません。しかし、この出来事はおそらく誰かが代わってあげることのできないことだったのだろうと思います。マリアでなければならなかったし、神はマリアを選んだ。そしてマリアもそれを受け入れた。そこには神の意志が働いているのだろうと思われます。
 金曜日のことでした。その日は、この近くの多くの国立大学、公立大学で推薦入試の合格発表があったのです。生徒たちの中には、とても嬉しい発表となった者もありました。でも、出願した生徒が全員合格するということはありませんでした。悔しい思いをした生徒もおりました。辛いだろうなあと思いました。
 加えて、今年は本当に就職が厳しい状況です。何度も何度もチャレンジするのだけれど不採用の結果ばかりが届く生徒もおります。廊下や階段やですれ違うとき、「○○、どうだった?」と尋ねます。「駄目だった」と小さな声での短い報告を聞くのです。もちろんこれかでの本人の努力や頑張りが足らない部分もあると思います。でも、辛いだろうなあと思うのです。
 東日本大震災が起こったのも、この国が不況なのも生徒たちのせいではありません。もう少し何とかならないものかと思うのです。「どうして」と神に問いかけたくなることもあるのです。けれども、わたしは彼女たち/彼らの代わりはできません。彼女たち/彼らが自分たちの力で自分たちの進路を見出し決めていくことを応援するしかできないのです。
 わたしたちの人生とは代わってもらいたいと思っても誰にも代わってはもらえないものなのでしょう。そして、代わってやりたいと思っても代わってはやれないものなのでしょう。何とか助けたいと願ったとしても手を出すわけにはいかないことがしばしばあるのだと思います。助けて欲しいと願っても、自分自身の力で乗り越えていくしかないことも多いのだと思います。教師の仕事とはそのような力をつけさせることであり、乗り越えるのを応援することなのかもしれないと日々思わせられます。"

油は分けてあげられない

 さて、今日考えてみたい聖書は「十人のおとめ」というイエスが語ったたとえ話です。10人のおとめがいて婚礼を目前にしていた。花婿が間もなくやって来るはずという状態です。イエスの時代、真夜中に客が到着することは決して珍しいことではなかったそうです。マナー違反ではなかったということになります。
 ところが花婿が来るのが遅れてみんな眠りこんでしまった。真夜中になってやっと花婿が到着したけれど、ともしびを灯す油を準備していなかった5人が油を買いに行っているうちに婚礼がはじまってしまいます。油を買いに行っていたおとめたちは婚礼に遅れて家に入れてもらえなくなってしまうわけです。
 来るはずなのに来ない。悪いのは遅れてやって来た花婿のような気もします。が、花婿が責められてはいません。そして、おとめたちも10人が10人とも眠ってしまったわけですから、寝てしまったことが悪かったわけでもありません。
 この話において、イエスは、おとめたちのうち5人は愚かで、5人は賢かったと言っています。一体どこが賢かったのか。賢いおとめたちはともしびを灯す油を準備していたけれど、愚かなおとめたちは準備していなかった。準備していたか、準備していなかったか。ここが賢いか賢くないかの分かれ目です。話のポイントでしょう。
 しかし、わたしはこの話を読むとき、どうして賢いおとめたちは愚かなおとめたちに油を分けてあげなかったのだろうと考えてしまいます。どうして「分けてあげるほどはありません。店に行って買って来なさい」とつれなくするのだろうと疑問に感じていたのです。
 もし、わたしがその場にいたなら、と考えます。たとえ自分の持っている油が少なくなったとしても分けてあげたのではないかと思うのです。そして、イエスの目指す方向性とは自分の持っているものがたとえわずかであったとしても分け合う、助け合いの道ではなかったのかと考えるのです。
 今そこに困っている人がいる。今そこに途方に暮れている人がいる。そうであれば、その人に対して自分ができることは何かと考え、できることをしようとする。手をさしのべてやりたい。ほってはおけない。少なくてもわたしはそうでありたいと考えるのです。そして、イエスという人もそういう人であったはずです。わたしがイエスを信じるのも彼のそのような姿に憧れるからです。
 それなのに、イエスはこの話において、自分の持っているものを分け与えようとする姿勢をはっきりと拒絶します。それぞれが自分自身で油を準備しなければならないのだ、油を用意して花婿を待っていなければならないのだと教えるのです。これは、言い換えれば、誰かが安易に代わってやれないことなのです。そんなに簡単に誰かが手を出して助けてはやれないということなのです。
 花婿が来るはずなのになかなか来ない。自分が期待していたようにならなかったと言うことです。おとめたちの人生にハプニングが起こったということでしょう。それを何とか解決し乗り越えていくのは自分自身であり、誰かの助けを求めたり誰かに頼ったりするのは駄目なのだということです。

油とは何か

 そうなってくると、ここで言われている「ともしびを灯すための油」とは何を意味しているのだろうという疑問がうかんできます。それは極めて大事なものでしょう。大事だからこそ他ならぬその人自身が準備しておかなければならないということだと考えます。誰かが代わってやることのできないものだと言いたいのでしょう。一体それは何なのでしょうか。イエスはわたしたちにそれを自分自身で準備することを教えているのです。
 それはもしかすると、わたしたちがイエスを信じて待つ姿勢のことなのかもしれません。わたしたちはそれぞれが自分自身で準備してイエスを待たなければならないのではないでしょうか。
 毎年この時期になるとアドベントを迎えます。毎年毎年のことなので、ただなーんとなくクリスマスが今年もやって来るのだと考えてしまいがちです。教会でも今年もロウソクに1本火が灯ったなあと考えます。巷でもクリスマスソングが流れはじめます。クリスマスの雰囲気も次第に高まってきます。
 でも、アドベントとはクリスマスの雰囲気を高めたり味わったりするものではないのです。わたしたちの救い主であるイエスが人間の赤ちゃんとしてこの世界に生まれてくる、その出来事を心して待つ時期なのだと思うのです。
 今年のこの国の状況を考えるとき、クリスマスなんて気分には全くなれないだろう人々がたくさんいることを思わせられます。今なおガレキの山の前に立ち尽くしておられるだろう方々、愛する者の死を嘆き悲しんでおられる方々、故郷を離れたくないのに離れて生活せざるを得ない方々、放射能汚染の中で恐怖と闘いながら作業している方々、そのような方々にとって一体やがて来るクリスマスとはどんな意味を持つのでしょうか。
 それらの方々もまた、誰かに代わってはもらえないそれぞれの人生をその場所で送っておられる。「神さま、何故」と問いかけたくなるような日々を過ごしながらも、必死に生きておられる。そのような人々がいるこの国にも、この世界に生きる全ての人々にも、そしてわたしたちにも、今年もクリスマスを迎える準備をするアドベントがやって来たのです。

イエスは世界の希望である。

 クリスマスのそのとき、イエスはこの世界に希望として生まれてきた。そのことをわたしたちは信じて、アドベントのこの時期を過ごさなければならない。そして、準備して待たなければならない。今年、わたしは特にそのように思わせられています。
 2000年前がどのように暗い世界であったとしても、いたいけな赤ちゃんとしてイエスは生まれてきました。マリアという母から生まれてきました。マリアもまた代わってはもらえない自分自身の人生を生き、自らの胎内からイエスを産み落としました。ヨセフもまた、自分の子どもではない子イエスの父親として生きる覚悟を決めました。みんな代わってはもらえないそれぞれの人生を懸命に生きました。ハプニングに出会ったとしても、逃げないで踏みとどまり、誰かに頼るばかりではなく自分で人生を切り拓いていきました。自分で花婿を迎える油を準備したのです。
 備えて待つ。準備する。目を覚ましている。どれもなかなかできない難しいことだろうと思います。備えて準備していてもハプニングは起こります。あり得ないと思うようなことが起こります。解決しなければならないことは山積みです。目を覚ましているときに起きるのは辛いニュースばかりだったりもします。それでも、わたしたちは自分自身の人生を生き、日々を過ごさなければなりません。誰かに代わってはもらえないのです。
 アドベントを迎えたこのとき、わたしたちは今一度それぞれの歩みを振り返り、ともしびに灯す油の準備をしなければなりません。イエスはわたしたちの希望です。そして、この世界の希望です。イエスはわたしたちだけではなく、この世界にいる全ての人々の希望としてやって来たのです。彼は信じる者にのみ救いをもたらすために生まれて来たのではなく、信じる者も信じない者もいるこの世界に遣わされたのです。たとえ暗い世界であったとしても、その暗い世界を灯すともしびとして遣わされたのです。神の意志がそうだったからです。ともしびを灯す油だけは、わたしたちそれぞれが準備しなければならないと。



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