Masako Chapel

実を結ぶ、絆を結ぶ

2006年10月29日(日)日本キリスト教団弘前南教会聖日礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書15章1−5節(新共同訳)

  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

1 絆は結ぶもの

  弘前へやって来て9年目を迎えております。過ぎてみれば、9年というのは早かったようにも思われます。しかし、その日その日学校で、あるいは個人的な事柄にしても色々な出来事があり、それらに追われるようにして生活してきたような気がします。誰一人知らないこの地に来て、学校で、そしてこのようにして教会でたくさんの人々との関わりやおつき合いができることを嬉しく思っております。
  わたしの愛読書の1冊に「星の王子さま」という本があります。サンテグジュペリという人が書いた有名な本ですので、皆さんご存じのことと思います。どういうわけか、昨年あたりから新しい翻訳の「星の王子さま」が発刊されるようになりました。作家の池澤夏樹が訳したり、河野万里子という人が訳したりしております。わたしも何せ愛読書ですので、買い求めて読み比べたりしているわけです。その中に
「なつかせたもの、絆を結んだものには永遠に責任を持つんだ。」(河野訳)という言葉があるのです。「星の王子さま」を読んだことのある方はおわかりのように、王子が地球にやって来て、キツネと出会い、関係を結んでいきます。けれども、時間は経ち二人は別れなければならない。とうとうお別れの場面というときにキツネは「ものごとはね、心で見なくてはよくは見えない」と王子に言うのです。
  わたしは絆という言葉にはっとさせられました。わたしが弘前に来て多くの方々と知り合い作ってきたものもまた、絆と呼べるものなのではないかと思ったのです。最初は知らない人だった。けれども、時と場所が与えられて出会う。そして、その関係が次第に深まっていく。そこに通い合うものを絆と呼ぶのではないかと思ったのです。親子の絆、夫婦の絆、職場の絆、恋人の絆、友人の絆など様々な絆があるのでしょう。そういう意味において言えば、教会という場所は信仰の絆の場所なのかもしれないと思います。
  そして、絆は結ぶものであるということにも考えさせられます。わたしは沖縄が大好きで年に何回かは行き、自分なりに学びを深めたり、趣味のスキューバダイビングを楽しんだりするわけです。沖縄の言葉に
「結い」というのがあります。ユイマールなどという言葉を耳にしたことがあるでしょうか。これは、田植えや刈り取りなどを助け合ってすることを意味します。みんなが同じ作業をする。そのためには、みんながばらばらであってはできない。きつい仕事であればあるほど、お互いに助け合い、励まし合って行わなけれればならない。そのことを「結い」と呼ぶわけです。これもまた、その字が物語るごとく絆が結ばれた人々の集まりのことなんだと考えさせられます。
  しかし、絆を結ぶということはそんなに簡単なことではないとも思います。わたしたちは一人一人違った個性を持っています。育った環境も違っていますし、性格や考え方、価値観も異なっています。ですから、当然そこにはぶつかり合いがあったり、言い争いがあったりもするのだろうと思います。にもかかわらず、お互いの違いがあったとしても絆は結べるのです。そして、そのような絆は永遠に続いていくものであると「星の王子さま」の中でキツネは語っているのです。更に、そこに通い合う気持ちは「心で見なければならない」ものなのだと、目には見えないのだと言っているのです。

2 ぶどうの意味

  さて、今日ご一緒に読んでいきたい聖書箇所は大変有名な箇所です。イエスが自分のことを「ぶどうの木」だと言っている部分です。この箇所は特に、わたしの勤めております学校の年度主題でもあります。今ちょうど実りの秋の季節を迎えていて、米やリンゴなどの収穫に農家の方々は大忙しな時期です。わたしはときどき用事があって五所川原まで行くことがあるのですが、鶴田あたりにさしかかると、ぶどうがなっているのが見えます。スチューベンという品種らしく、鶴田の名産なのだそうです。そろそろ収穫の時期を迎えたのでしょうか。丁寧に袋がけされたぶどうが実っているのを横目に見て車を走らせるわけです。リンゴと田圃が続く道の途中にぶどうが植えられてある。目的地までの単調な道に変化があるとでも言うのでしょうか。なごみます。
  このぶどうという果物は聖書の世界、イスラエルの人々にとって、とても身近なものであったようです。ただ食べるだけではなく、とりわけ、お酒・ワインとなって人々を楽しませたようです。わたし自身はワインは得意でなないし、あまり飲まないのですが(同じように日本酒も苦手です)、わたしが飲まなくても世の中にワイン好きの方はたくさんおられます。このワインなるぶどうから作られるお酒はもちろんイエスの時代以前からぶどうの採れる地方においては作られ続けてきたものです。人々の生活にとても密着したお酒だったということが言えると思います。当然聖書においても、幾度となく出てくるものです。今日の福音書、ヨハネ福音書で言えば、
カナの婚礼(ヨハネによる福音書2章1節以下)でイエスが水をワインに変えたという奇跡物語が載っております。また、最後の晩餐ではパンとワインが弟子たちとイエスの食事だったということになっております。
  イエスは、このように語っています。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(ヨハネによる福音書15章1節)。さらに、「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)。自分をぶどうの木にたとえ、その木につながっていなさいと呼びかけているのです。どうして、イエスは自分をぶどうの木にたとえたのでしょうか。あるいは、神とわたしたち人間がつながっていくことをぶどうの木のイメージに託したのでしょうか。
  実は、25日、26日とわたしの学校ではキリスト教教育週間という宗教行事を行いました。メインの講師に京都の同志社国際中学高校で教務教師をしている、わたしの大学の先輩でもある山本真司先生をお呼びしてお話を伺ったのです。先程言いましたが、この箇所は学校の年度主題の箇所です。山本先生はこう語っておりました。《聖書の舞台となっているパレスチナの地下水はそのまま飲むに適さない水だ。カルシウム塩やマグネシウム塩が多く含まれていて、そのまま飲むにはふさわしくなかった。そこで、飲みにくい水を一度植物に託して、ぶどうの果実という形を変えて水分を補給したのだ。「飲むことのできないものから飲むことのできるものへ」という変換は、死から生への再生を意味している。つまり、生きていることから離れている状態から生きる関係へとわたしたちを導くというメッセージが隠されているのだ。》と。

3 人は人の中で癒される

  《生きていることから離れている状態から、生きる関係へとわたしたちを導く》という言葉にわたしはそのとき、すごくはっとさせられたのです。わたしがこの教会に来るようになって9年経ち、ときどきはお休みしますけれど、ほぼ毎週お顔を合わせているわけですから、わたしの状態は皆さんにもだいたい想像がおつきだろうと思います。昨年末から体調を崩し、病気を患っております。わたしが患っております病気は「ウツ」と呼ばれるものです。多くはストレス状態におかれ続けることで脳の中のセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンというような生きるエネルギーを与える物質が不足してしまうのだそうです。ほぼ1年が経ようとしていますが、振り返ってみるとだいぶ辛い時期を過ごしました。現在は本当に嬉しいことにかなり回復しております。良くなったのを悪くしないように、無理をしないように気をつけながら、自分自身をコントロールしながら生活できております。
  一番ひどい状態のとき、わたしはまさに《生きていることから離れている状態》でした。食欲はなく、眠ることもままならず、何をすることもできないような状態でありました。この病気の特徴なのですが、生きるエネルギーがなくなるわけですから当然のこととして「死にたい」と考えるようになります。その頃の日記を読み返してみると、本当にひどいもんです。毎晩のように「死にたい。でも、とりあえず明日の朝まで頑張ろう」とかいう言葉を書き連ねていたようです。あるいは、先の予定を入れて、「何月何日にこれこれの予定が入っているから、そこまでは生きていよう」とかそういうことで、自分を何とか保たせておりました。しかし、今現在生きていて、100%ではないものの、色々なことができるようになってきています。どうして、自分が生きてこられたのだろう。どうして、自分は死ななかったんだろう。《生きていることから離れている状態》から、生きようとするところまで戻ってこれたのだろうと考えるとき、わたしはやはり絆ということの意味を思うのです。
  少なくとも、わたしはひとりぼっちではなかった。孤独ではなかった。わたしのことをそっと見守り続けてくれた同僚や生徒たち、友人たち、そして皆さん方がいたということが、わたしを支えてきたんだなあと振り返っているのです。「大丈夫?」と聞く聞き方はあまり良くない聞き方です。「大丈夫?」って尋ねられたら、「駄目だ」とは答えにくいですよね。そっとしておいてくれた人たちがいる。見守っていてくれた人たちがいる。心配してくれた人たちがいる。仕事でいうなら、色々なことができないでいるわたしを必要な分だけ助けてくれる人たちがいた。そういう人々に支えられたと思います。医者は言いました。「無理せず、なまけなさい」と。それができなかったから病気になったわけです。「自分は今病気なんだから、他の人に仕事を任せれば良いんだ」と思えたとき、わたしは自分が良くなっているという自覚をしました。わたしは、わたしのつながりの中で癒されていったのだということを思わせられています。そして、人は人のつながりの中で育まれ、癒され、学ばされ、支えられていくのではないかと考えるようになりました。
  あるいは、もしかすると人は人のつながりの中でしか癒されていかないのかもしれないとも考えています。傷つけたり、不快なことがあったりもする人づきあいです。でも、人はそれぞれすごい力を秘めていて、誰か他人を(少なくとも自分の親しい人を)励ましたり支えたりできるのだと思います。それが絆というものなのでしょう。「星の王子さま」のキツネが語るように「絆を結んだものには永遠に責任を持つんだ」ということが実感できたような気がしているのです。

4 つながっていなさい、切ってはいけない

  そして、神さまとのつながり、絆ということをも考えさせられています。「どうして」と問いかけざるを得ない状況にあったとしても、それでもなお神さまはわたしを見捨ててはいないのだと信じることができた。わたしたち人間は、わがままですから、良い状況にあるときは神さまが自分を守ってくれていると素直に受け入れることができます。けれども、自分の思いとは異なる状況、とりわけ悪い状態に追い込まれたとき、「神さまなんていない」とか「神さまは自分を見放したに違いない」とか、そんなことを考えてしまうのです。牧師であるはずのわたしにでも、これまで幾度となくそう考えました。が、そう考えてしまうということは、自分とつながっているはずのつながりを自分の側から断ち切ってしまうということなのです。たとえどんなに今悪い状態であったとしても、自分は自分なのだと受け入れていく。そして、その自分は神さまとつながっているのだと思えたなら、つながり続けていることができるはずなのです。断ち切ってしまわないでいられるのです。
  切れてしまったら、つながっていなければ、実を結ぶことはできません。イエスはわたしたちに呼びかけます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と。さらに、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)と。木から枝へ養分が流れ、そして豊かに実を結んでいく。考えると、不思議なことです。どうなっているのか目では見えません。研究者であれば、それがどういう仕組みで起こっているのか解明できているのでしょうけれど、わたしたちはそうなっていることは知っているけれど、目で確認してみることはできません。けれども、わたしたち人間と神との関係もそういうものなのだとイエスは語るわけです。
  そして、そこに通い合うものをわたしたちは「愛」という言葉で呼んでいるのかもしれません。教会においては、よく愛という言葉、とりわけ神の愛ということが語られます。人の愛よりもランクが高いような印象を受けてしまいがちです。でも、わたしは思うのです。わたしたち人間はお互いの絆、関わり合いの中でこそ神の愛を実感することができるのではないかということをです。愛とは考えるものではありません。観念的なものではないはずです。感じ取るもの、すなわち与えるものであり、受けるものであるはずです。目では確認できません。モノに代えることもできません。ましてや、お金で買い取るようなことは絶対にできません。人の絆を通して、わたしたちは神の愛を感じ取っていくのかもしれないと思います。少なくとも、わたしの場合はそうでした。
  この愛というものが、わたしたちと神さま、そしてわたしたち人間同士を結ぶ唯一の接着剤なのだとわたしは思います。結ぶのです。離してしまってはいけない。断ち切ってしまうのではない。つながっていくのです。イエスという木から、わたしたちに枝に送られてくる養分が愛である。その養分はわたしたちに豊かな実りを結ばせる。そして、わたしたち同士をも絆というつながりで結ばせる。今日の聖書箇所を通して、わたしはそのようなことを考えさせられ、思わされています。

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