真ん中に立ちなさい

2010年2月28日(日)日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教

説教時間:約20分

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聖書:マルコによる福音書3章1〜6節(新共同訳・新約)

 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。
 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
 伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

1,注目されること

 誰かから注目されるということはわたしたちにとってうれしさとそして恥ずかしさをもたらすことであろうと思います。年中注目されている人なら違うのかもしれません。例えば、総理大臣をやっている人は自分が注目されるのは日々あたり前のことであって、うれしいとも恥ずかしいとも感じないのかもしれません。

 わたしは学校で生徒たちに接していて、なるべく目立たない子どもにも目を注ぐようにしたいと考えることがあります。どうしても良くも悪くも目立つ子どもだけに目を注ぎがちなのでしょう。教師同士の教員室の会話でも「今日のだれそれはどうだった」というのが特定の子どもだけになってしまいます。でも、それでは駄目なんだろうとも思っているのです。あまり注目されない子どもを見つめていることが大事なのだろうと思うのです。そして、その子たちが目を注がれたときのうれしさや恥ずかしさの混ざった表情をわたしは大事にしたいと考えているのです。が、実際には難しいことでもあります。

 今日読みました聖書には誰からも目をむけてもらえなかったであろう人が、あるいはいつも目をそむけられたであろう人が注目されたという記事が記してあります。これは福音書にありますイエスの行ったいやしの物語です。が、障がいを負った身体がいやされた。イエスはすごいお方だと読むのは違うような気がしています。というのは、わたしはこの物語の中にイエスのまなざしを感じ取るのです。イエスが何を見つめようとしていたのかが記されているように思うのです。

2,律法の規定により

 それをお話しする前にイエス当時の社会状況について少し触れたいと思います。イエス当時の社会において指導的な立場を担っていたのはファリサイ派や律法学者と呼ばれていた人たちです。福音書においてファリサイ派や律法学者とはイエスに敵対する悪人というイメージがありますが、そうではありません。彼らは善良で立派な人たちであると考えられ、人々から尊敬されていたのです。ファリサイ派や律法学者はユダヤ教の教えを忠実に守り、それを日常生活において実行し、信仰深く正しく生きていた人たちであったのです。

 しかし、ユダヤ教の教えとは、簡単に言えば、清いか汚れているかを明確に分けようとするものです。人が口にするものであっても、汚れていると決められたものは口にできません。旧約聖書のレビ記には細かく書いてありますが、例えば
「水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものは、海のものでも、川のものでもすべて食べてよい。しかし、ひれやうろこのないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるものでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。(11:9〜10)」とあります。わたしたちが普段食べている魚はひれやうろこのあるものばかりではないですよね。ないものも食べてますよね。ユダヤ教の規定では汚らわしいものになるので、食べてはいけないということになるわけです。これほど細かいのです。

 病気ということ、障がいがあるということも清くないことであると考えられたわけです。当時は医療技術が進んでいませんから、どうして病気になるかわからないところがあったのでしょう。悪霊に取り憑かれているのだと考えられました。あるいは、本人か先祖が罪を犯した結果となのだと考えられました。差別され、疎外され、病気であることの困難さと共にその存在自体を否定されるようなこともあったと想像されるのです。ファリサイ派や律法学者はそのような弱い立場の人々がいて困っていることはわかっていただろうと思います。しかし、積極的に助けたとか力になったということはなかったでしょう。何故なら、清くない存在に近づくことは自分たちをも汚すことにつながったからです。

 そのように考えてみると、今日の物語の中に登場します片手の不自由な人のおかれている状況が想像できるのではないでしょうか。おそらく、誰からも相手にはされない。注目されるどころか、視線を合わせてくれる人もない。見えないかのごとくに扱われて、小さくなって生きてこなければならない弱い立場の人であったと思われます。
 だいぶ昔のことですが、わたしの友人にホームレスの支援活動を行っていた人がいました。その友人が言っていた言葉を思い出します。「地下街にホームレスの人がいるということは通る人みんな目に映っているのだと思う。でも、まるで見えないかのごとく通り過ぎていく。視線に入っていても見えていないんだ」と。今日の物語の中の片手の不自由な人も人々にそう扱われていたのだろうと思います。

障がい者の自立支援なんていうこととは無縁な社会です。片手が不自由だということは、働くことができなかったということを意味します。多くの人々が労働者として雇われ、その日の賃金をもらっていたとすれば、そうやっては生活できなかったことを意味します。どうやって生きてきたのでしょう。家族がいれば何とか家族に養ってもらうのかもしれません。家族がいなければ、物乞いをして何とか生命をつなぐくらいしか生きる方法がなかったのかもしれません。「この手が動くなら」と何度も何度も考えたのかもしれません。

3,イエスのまなざし

 そんな一人の人が、安息日の会堂でイエスと出会うのです。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。(2節)」と書いてあります。これまで注目をされたことのない、虐げられたされた存在が、注目をあびたというのです。しかも、その注目はその人がどれだけ苦しい思いをしてきたのかを思いやる視線ではありません。憐れみや共感、配慮に満ちた注目ではないのです。うれしい注目ではないのです。恥ずかしいどころではない、その場にいたたまれないような思いをしなければならない注目なのです。イエスが片手の不自由な自分をいやすかどうか。まるで道具のように見られているという注目なのです。

 安息日とはユダヤ教の規定により働いてはならない日です。人の病気をいやすというのも働くことと見なされ、してはいけないとされたわけです。そのような安息日にイエスとその人は出会ったのです。そして、イエスは
「真ん中に立ちなさい」と呼びかけます。隅っこに追いやられていた人を真ん中に立たせるのです。人々に注目をされない人とは、人々から見えないかのごとく扱われる人です。すなわち、人々の真ん中に立つような存在ではないということです。イエスは、そのようにされてきた人をあえて人々の真ん中に立たせるのです。これまで誰も注目してこなかった。今注目しているのもただの興味本位。イエスはその人を真ん中に立たせ向きあうのです。そして、おそらくはしっかりと視線を合わせて見つめるのです。

 イエスのまなざしとはその人自身を見つめる視線です。自分の力を見せつけるための道具として見つめるのではない。その人の苦しみを思いやり、深く共感して見つめる視線なのだとわたしは思います。けれども、会堂にいたまわりの人々はイエスがその人をいやすかどうかだけに注目しています。いやせば安息日の規定に違反したことになります。そうなるかどうかだけ注目している。注目はしているけれど、イエスと片手の不自由な人のことをきちんと見ていることにはなっていない。おそらく片手の不自由な人の苦しみや悲しみには思いが至らない。想像したり思いやることができない。どれだけ苦労してきただろうとか、大変だろうとか思ってはいない。

4,沈黙のずるさ

 だから、イエスはあえて言ったのではないでしょうか。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と。それでも黙っている。誰もがはその答えを知ってはいるのに、それでも黙っていたのです。黙っているとは実はずるい方法です。聞かれたときには答える方がずっとずるくない、正直な方法だと思います。わたしの学校の子どもたちでも最近聞かれても黙っているずるいのが増えてきました。もし答えがわからないなら、「わかりません」と答えれば良い。そうしないのです。ただ黙っているのです。そして多くの場合は言うべき答えをわかっているのです。わたしの授業に慣れてきたのでしょう。1年生で、やっと黙ったままではなく何かを言わせることができるようになってきました。

 この物語では人々が黙っていることを「心のかたくなさ」と言っています。その「心のかたくなさ」にイエスは怒って人々を見回したと書いてあります。ここにもイエスのまなざしがあります。その視線とは、人々に怒りをむける視線です。イエスが律法に違反するかどうかだけに関心を持ち、片手の不自由な人が背負っている苦しみや悲しみには無関心でいようとする人々の「心のかたくなさ」にイエスは怒りの視線をむけるのです。しかし、もう一方で片手の不自由な人に憐れみと思いやりの視線をむけるのです。そして、その尊厳を回復させるようないやしを行ったのです。隠れたところで見えないように行うのではなく、見えるところ、すなわち真ん中においてです。その姿とはたとえ自分のおかれている立場が悪くなろうとも、自らの行うべきこと行えることをやろうとするイエスの姿勢の表れなのだと思います。  

5,見ることの意味

 わたしはこの物語からイエスのまなざしを感じ取りました。いやされた人にとって、おそらく、イエスに見つめられたことは一生忘れられない出来事になったことでしょう。注目されたことはうれしいことになったでしょう。加えて、これはイエスの視線の物語であるのと同時に、イエスにいやされた人とイエスを注目するまわりの人々の視線の物語でもあると思います。イエスは片手の不自由な人をどう見ていたのか。まわりの人は片手の不自由な人をどう見ていたのか。イエスはまわりの人をどう見たのか。まわりの人はイエスをどう見たのか。混乱しそうなくらいに視線が錯綜しています。少なくとも、イエスが片手の不自由な人を見ていた視線と、会堂にいたまわりの人々が片手の不自由な人を見ていた視線が違っていることはおわかりになると思います。そして、片手の不自由な人が見たイエスと、会堂にいたまわりの「心のかたくなな」人々が見たイエスの姿が違っていただろうことも想像できます。

 それは、わたしたちが見るということが視界に入ってくるのと同じではないことを思わせられます。何をどのように見るのか、見ようとするのかによって変わってくるものがあることを思わせられます。それを視点という言葉で言い表すことができるのかもしれません。何に注目しているのかと言ってもいいのかもしれません。しかし、今日わたしたちはイエスのまなざしを思いたいのです。注目はされない人、疎外され差別されていた人を人々の真ん中に立たせ、その手をいやしたイエスのことをおぼえたいと思います。そのイエスのまなざしは今日を生きるわたしたちにも注がれていることを信じるからです。

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