持っているものをあげる勇気

2006年7月6日(木)弘前学院大学礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:使徒言行録3章1−10節(新共同訳)

  ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながらに足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
  彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。
  ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。
  すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
  民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

1 マザーテレサと彼女の出会った母親

  わたしたちが生きている日本の国は豊かな国だと言われています。食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、着たい服を着ることができます。スーパーに行けば有り余る程の食料品が並び、デパートに行けばありとあらゆる服やアクセサリーが並んでいます。教育を受ける機会も保障されていますから、ほとんどの人が読み書きができます。わたしたちはそのことを当然のことと思って生活しているのではないでしょうか。

  皆さんはマザー・テレサという人を知っていますか。1997年に亡くなるまで、主にインドのスラムで働いていた一人の修道女です。彼女の生き方は多くの人々に感動を与えました。ノーベル平和賞も受賞しました。2003年にオリビア・ハッセーが彼女の役を演じた映画も上映されました。多分レンタルビデオ屋にもおいてあるのではないかと思います。一体何故、彼女は多くの人々に感動を与えたのでしょうか。何故、多くの人々に影響を与えたのでしょうか。何故、亡くなって10年近く経つのに多くの人々が彼女のことをおぼえているのでしょうか。自分にはとうていできないことを彼女がやっていたからなのでしょうか。

  わたしは、テレサ自身他者を(特に弱い立場におかれている人々、あるいは虐げられていた人々)具体的な愛をもって支えた姿に感動するのかもしれないと考えることがあります。そんな彼女が生きていたときの話です。インドのカルカッタという町のスラムに住む、たくさんの子どもを育てている母親にあるとき彼女が食べ物を持っていったのだそうです。そしたら、その母親はその食べ物を半分に分けて隣の家へ持って行った。彼女は「どうしてそうしたの」と尋ねたら、「自分のところも貧しいけれど、隣は自分のとこよりももっと貧しくてもっと困っているから」と答えたというのです。テレサはこの母親の行為に強い衝撃を受けたとのことです。

  わたしはマザー・テレサをすごい人だと思います。でも、同時にこのスラムに住んでいるおそらく状況の良くない母親もすごいと思うのです。この話を折にふれて思い出す度ごとに、わたしはわたし自身が問われているような気持ちになります。「お前はどうなんだ」と。皆さんはどうでしょうか。もし自分自身がとてもお腹がすいているときに自分自身が持っている食べ物を半分にして誰かに分けてあげられるでしょうか。あるいは道に迷って困っているとき、残された食糧が自分の持つパン1個しかないとしたならまわりの人にそのパンを分けることができるでしょうか。おそらくわたしも含めて多くの人は「わからない」とか「できないと思う」と答えてしまうのではないでしょうか。今のわたしたちにとってとても難しいことだということはおわかりになると思います。

2 豊かさって何

  わたしたちの生きているこの国では自分のために何かを集めることが良いこととされています。お金をたくさん稼ぐ。これはお金を自分に集めるということですよね。あるいは、洋服やバックやアクセサリーや何かをたくさん買う。これも売っているものを自分に集めるということですよね。そのように、ものをたくさん持っている人がもてはやされます。自分の所有物が多い程良いという考え方になっているわけです。セレブとか呼ばれている人は自分の所有物が多く、しかも高価なものをたくさん持っている人々なのだろうと思います。将来「玉の輿」に乗りたいとわたしの学校の生徒でも言う子どもはいます。お金持ちと結婚したいのだ、と。ここにいる大学生の皆さんでも、やがてはお金持ちになりたい、セレブと呼ばれたいと考えている人もいるかもしれません。

  このことは何もわたしたちの持ち物だけのことではないのかもしれません。携帯電話に何人の番号やアドレスが登録してあるか。それが多いとか少ないとかを気にする人たちがいます。ケータイに登録した人はとりえあず自分の友人になるわけです。「メル友」ですね。あるいは、自分に恋愛対象があるとしても、それがお互いの本当の思いで恋愛しているのかどうか。「彼氏」とか「彼女」とか呼ぶ存在がいるかどうかのことです。たとえ、相手とうまく関係を築けていなくても、とりえあずそういう存在がいることが自分に安心感を与える。優越感にひたれる。逆に、いないと劣等感を持たざるを得ない。本当にその相手を愛しているのかをあまり問うことなしに「いる」のか「いないのか」だけを気にしている若い人々がいることを思います。

  今年、わたしは養護教諭ではないのだけれど、保健室に机をおいています。ここ3ヶ月、つながりをうまくつくれない人々、つながっていたことが切れた人々の対応を何度かしてきました。わたしたちはひとりでいることが怖いのです。これは高校生だけに限ったことではありません。皆さんでも、わたしでも同じです。ひとりだと生きていけない。つながりが必要です。でも、そのつながり方に疑問を持ってしまうことがあります。「たくさんあること=良い。少ししかない=悪い=本人に問題あり」というような論理に支配されているように感じるからです。誰もがたくさん持つことを求めて生きているようです。持っていないと不安になってしまうのです。

3 持っていない人々

  さて、今日わたしたちが提示されている聖書の物語は、あまりたくさんは持っていない人たちの物語だと思います。イエスの死後、イエスの弟子たちがどのように活動していったのかを記したのが使徒言行録です。イエスの弟子たちのことを使徒と呼ぶわけです。その使徒たちの活動がはじめられて間もなくの物語です。

  ペトロとヨハネという二人の使徒たちが、祈りの時間に神殿に行った。そしたら、そこに生まれながらに足の不自由な男が運ばれてきました。この男は毎日神殿の境内に入る人々に施しを求めながら生きておりました。この男は何かを持っているのでしょうか。それとも持っていないのでしょうか。おわかりになりますよね。彼は、健康を持っていません。足が不自由ですから、歩くということができない状態です。歩く自由も持っていません。「運ばれてきた」とわざわざ書いてあります。誰かの手を借りないと生きられない状態です。加えて、仕事をすることもできません。毎日施しを求めて生きざるを得ない状態です。わたしたちの価値観から見れば、まさに生活するために必要な最低限のものすら持っていないという状態だったのではないかと思います。

  社会福祉や看護を学んでおられる方もおられるでしょうから、イエスの時代の病気の人や障がいを持った人々の状況に簡単に触れます。一言で言えば、差別と偏見の目にさらされました。一例を挙げれば、重い皮膚病にかかった人は、もし町の中を歩くとしたなら「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と叫びながら歩かなければならないと定められていました。わたしは病気で汚れているから側に寄らないようにしてくれということを自分で言いながら歩けということです。他人に感染させるのを防ぐためであったのでしょう。でも、ひどい話です。病気や障がいを持つということは「本人かその先祖が悪いことをした報いなのだ」と考えられていたのです。現代わたしたちの中にも差別や偏見はありますが、イエス当時は今よりもはるかにひどい状態であった。差別や偏見が律法という決まり事によって正当化されていたのです。

  ですから、この足の不自由な男もおそらくは差別と偏見の目にさらされつつ、毎日「美しい門」のところに誰かの手によって運ばれてきて、一日中誰かからの施しを待ち続ける日々を送っていたのでしょう。それしか、彼には生きる術がなかったのでしょう。今日わたしがこだわっている「持っている・持っていない」論理で言えば、持っていて当然のものすら持っていない状態に、本人の責任がないにもかかわらずおかれていただろうと推測します。

  そんな彼の前に、ペトロとヨハネがたまたま通りかかった。足の不自由な男は当然のこととして、彼の日常業務として施しをこうたわけです。わたしたちの目は、多分2種類の見方ができます。一つは「眺める」であり、一つは「見る」です。「眺める」とは自分の視界に入っているだけの状態ですね。この物語では、ペトロとヨハネの二人は足の不自由な男をじっと見たと書いています。じっと見る。視界に入っているだけではなくて視点を合わせるということです。そして、今度は逆に「わたしたちを見なさい」と語りかけます。ここに関係ができます。行きずりではない。「美しい門」のところにいつもいる足の不自由な男を通りすがりとして眺めるのではない。「見た」のです。「眺めた」ではないのです。今までは通る人に眺められるだけだった足の不自由な男が、ペトロとヨハネに見られた。そして自分も視線を合わせた。そのとき、奇跡が起こります。「金や銀はない。でも、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言われ、右手をとって立ち上がらせたというのです。

  わたしはペトロとヨハネもあまり持っていない人だったと思います。彼らにはお金はなかった。だから、男に施そうと思ってもあげられないのです。与えたいと思っても、持っていないものを与えることはできません。でも、持っているもののうち、もしかしたら一番大切にしたものを与えたのではなかったかと考えるのです。そのことは勇気のいることです。与えるということは、自分が持っているものを失うということだからです。人は誰でも失うことは怖いのです。愛する人に捨てられたらどうしようという思いを感じたことのある人はいるでしょう。失恋のピンチです。これは相当の恐怖ですよね。経験者はおわかりですね。自分の財布の中身が半分なくなる。これも相当ヤバイですよね。失うということは人間が感じる恐怖の中でも相当なものです。

4 たとえ失ったとしても

  でも、一方で失ってもなくならない。失っても与えられるというものもあるのだと思います。失うということはチャンスでもあるのだと思うのです。実は今、わたしは病気をしています。ここに集まっている卒業生の皆さんの中には「石垣、やせたなあ」と思ってわたしを見ておられる方もあるでしょう。昨年の10月からで16キロ体重が落ちました。わたしの患っている病気は「ウツ」というものです。よく誤解されるのですが、心が弱いからなるのでもなく、単なる体の病気です。疲れやストレスが原因で、ある種の脳内物質が不足すると発症するとされています。薬がなしでは出勤できない。仕事に行っても以前のようにしゃきしゃきと進まない。他人の言葉が自分に突き刺さってくる。どんどん体がやせていく。もう駄目だと思うことは何度もありました。今では最悪の状態から回復期と呼ばれるところまで進んではいます。病気であるということは辛いことです。いつになったら抜けるのだろうという不安は今でもあります。

  でも、健康を失ってみて、色々なことがわかるようになりました。今まで自分がいかに自分自身を酷使していたか、自分を本当の意味で大事にしていなかったかがわかりました。今まで自分がいかに傲慢であったかを知りました。「自分じゃなきゃ駄目なんだ」「この仕事は自分がやるんだ」と、自分に色々なものを集めていたかを知りました。弱い立場にある人に対しての配慮や優しさが足らなかったことにも気づかされています。そして、自分をさえ信じられなくなるときに唯一神さまだけは自分のことを信じてくれているのだということをも思わせられました。

  さらに、今までわたしが自分のものとして集めてきたプライドや自信や何かをどんどん失っていくとしても、たとえその中にあったとしても、生徒とかかわり、生徒を助け励ますことはできることに気づきました。自分にできることはある。自分には与えられるものがあるのだと、わたしは今神さまに教えられているのだと考えています。あれが欲しい、これが欲しいと集めてきたものをどんどん失っていったとしても、神さまはわたしに必要な分だけ必要なものを与えてくれているんだなぁと思わせられているのです。そして、わたしは今辛いとしても、豊かに恵まれているんだなぁと思わせられてもいるのです。

  わたしはマザー・テレサにはなれなせん。そして、テレサの出会ったスラムの貧しい母親にもなれないでしょう。しかし、わたしはわたしとして、たとえどんな状況におかれていたとしても、今自分の持っている何かを与えることはできるのだと信じています。皆さんも同じです。皆さんは皆さん以外の誰にもなれません。でも、皆さんでしか与えられないものがあるはずなのです。自分の周りの人々や、あるいは遠い見知らぬ国にいる名前も知らない誰が対して、皆さんが与えられるものは必ずあるのです。本当の豊かさとはたとえささやかなものでも自分の持つ何かを与えようとする人々がいるときに生まれるのではないでしょうか。そして、そのような人々がたくさん集まるときに神に祝福された豊かさとなるのではないでしょうか。お互いにお互いの与えられるものを分かち合い与え合いたいと思います。それが神に望まれる生き方だと思います。わたしは今日そう信じて、わたしの思いを皆さんに渡します。

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