恐れず迎え入れなさい

2008年12月5日(土)弘前学院校友会東京支部クリスマス礼拝説教

説教時間:約20分

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聖書:マタイによる福音書1章18~25節(新共同訳・旧約)

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。
 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

I あきらめと仕方なさ


 今年一年変革を求めて日本社会は動いたのかもしれません。しかし、現在のところ格段に良くなったという成果は現れてはいないようです。
 そして、わたしたち個人のことを考えてみても、心のどこかで不安や恐れをみんなが抱いているのではないかと考えることがあります。
 失業率の上昇にははどめがかからず、円高や株価の安値も伝えられている通りです。わたしが子どもの頃思い描いていた未来は、もっともっと暮らしやすい世の中でした。言い方を変えれば「バラ色の21世紀」が訪れるはずだと思っていました。でも、そうはなっていない現実があります。
 何が悪くてそうなっているのか、単純な理由ではないでしょう。が、大人も子どももどこか変化してきているような気がしています。
 わたしは、普段子どもたちに接していて、無気力な子どもたちが増えてきたと感じています。
 やるべきことをやろうとしない。例えば、いついつまでに宿題をしなければならないのに、提出期限を過ぎても出さない。教師から請求されても、言い訳をしてまだ出さない。やらないで逃れようとするのです。その中には勉強する習慣がない子どももいるようです。「めんどくさい」「だるい」「やりたくない」「何とかなる」。そういう言葉の中に深いあきらめや虚無があるような気がします。子どもたちにとって人生はこれからなのに、素晴らしい可能性を秘めているはずなのにと思うとすごくもったいないと思います。
 先日、何気なくテレビを見ておりました。マイケル・ムーアというアメリカ人のドキュメンタリーの映画監督のインタビュー番組だったのです。その中に「政治家やマスコミや恐怖や不安をあおることで人々をコントロールしやすくなる」という言葉があったのです。
 「なるほど」と思わされました。不安や恐れを何度となく伝えられることで、みんながどこかであきらめムードになってしまっているのかもしれないと思えたのです。大人は悪くならない程度にこのままの生活が何とか続いていけば良い。子どもたちはどうせ努力したって自分の能力はたかが知れている。そんなふうに考えるよう操作されて、みんなあきらめとか仕方なさに中に生きざるを得なくなっているのではないだろうかと思わせられました。

II 不安と恐れ 

 けれども、イエス・キリストが生まれた2000年前のユダヤというところもまた人々が不安や恐れを感じながら生きていたのではなかったかと想像するのです。
 と言いますのは、歴史的に見て「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と言われていた時代がイエス誕生の頃です。
 「パクス」というのはラテン語で平和のこと。英語のピースの語源になった言葉です。が、平和と言いながらも、その実は、身分制度の社会の中下の身分の者に過酷な労働を強いました。また武力によって周辺地域を征服し続け、領土の拡張をはかっていたのがローマ帝国です。イエスが生まれたパレスチナもまたローマによって支配され、人々は重税に苦しめられていたようです。
 ルカによる福音書のイエス誕生物語のはじまりには
《そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。(ルカ2:1−2)》とあります。
 住民登録とは税金を集めるために住んでいる人間の数を数えることです。ローマ帝国は支配している地域から厳しい税金の取り立てを行いました。そのため何度となく住民登録を行ったのです。
 みんなの暮らしやすい豊かな世界が展開されたのではなく、人々が税金の取り立てに苦しめられ、さらに身分の低い人たちは過酷な労働に苦しめられる現実の中にあったのだろうと想像できます。不安や恐れの中に生活していただろうと思われます。
 そういう時代のただ中に一つの出来事が起こります。その出来事とはイエスの誕生です。
 けれども、この出来事の中にも不安と恐れが秘められています。
 今日読んでいただきましたマタイによる福音書の物語はイエスの父であるヨセフという人に焦点をあてたものです。マリアという婚約者と間もなく結婚するというある日、まだ結婚前に、マリアの妊娠が発覚するのです。
 わたしは授業の中で男子生徒に聞きます。「結婚しようとしている相手がいて、あなたのじゃない人の子を妊娠しているって言われたらどうする?」と。たいてい彼らは言葉に詰まってしまいます。「そんなの嫌だ」とか「別れる」と答える場合が多いです。ヨセフだって同じだったでしょう。
《ひそかに縁を切ろうと決心した》とあります。この結婚はなかったことにしようとするのです。
 ヨセフの心の中には不安があったでしょうし、恐れがあったことでしょう。幸せな結婚をしようとしているのに、どうしてこんなことが起こったのだという怒りもあったことでしょう。が、彼はそれら全てを心の中にしまって、ただ
《ひそかに縁を切ろうと決心し》、マリアと結婚しないという選択肢を選ぼうとするのです。
 性道徳が厳しかった当時、結婚前の女性の妊娠は許されない状況にありました。マリアを訴えて表ざたにしたら、彼女は最悪石打ちの刑となって殺されてしまったかもしれないのです。

III 恐れを超える希望

 ところが、この物語は終わりません。ヨセフが眠っていると、その夢の中に天使が現れたというのです。《ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と天使は語ります。
 
「恐れず」というのです。不安の中にある。恐れを感じている。そんなヨセフに「恐れず」と天使は語るのです。
 わたしも含めて人間は不安や恐れを感じているときには、積極的に行動することができません。動けなくなるのです。硬直するとでも言うのでしょうか。そして、恐れているときには、幸せや喜びを感じなくなるのです。
 不安や恐怖とは、人間の中で自分を守るために一番敏感にしておかなければならない感覚です。この感覚がないと人間は自分の身に危険が及ぶのを察知し回避することができなくなります。でも、この感覚が働きすぎると、逆に何もしないとか何もできなくなるとがいうことが起こるのです。
 犯罪にまきこまれ、被害を受けた人に心ない人が言うことがあります。「どうして抵抗しなかったの?」と。人間の心理を全くわかっていない発言だと憤りを感じることすらあります。人間は本当に恐怖を感じたら、動けなくなるのです。何もできなくなるのです。
 ヨセフはとりあえずマリアを石打の刑にするのは嫌だった。だから表ざたにせず
《ひそかに縁を切ろうと決心した》わけです。自分の恐怖を取り除き、マリアから離れることで自分の生活を取り戻そうとしたわけです。
 それに対して、神は天使の言葉を通し
《恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と語るのです。恐れを超えなさい、動きなさいと語っているのです。恐れを超えたその先にイエスの誕生という喜びがあることを示そうとするのです。
 そしてさらに、この出来事は
「インマヌエル(神は我々と共におられる)」ということなのだと説明しているのです。
 さらに、ヨセフの不安のただ中に、ヨセフが恐れを感じるそのそばに、神は共にいるのだということを示しているのです。
 神はわたしたちにも同じことを語りかけているのではないでしょうか。クリスマスとは喜びの訪れです。希望の象徴です。一人のいたいけな赤ちゃんがこの世の救い主としてわたしたちに遣わされる。この世を愛の力によって変えようとする神の意志の表れだと思います。
 この世界はあきらめや虚無によって支配されるものではないのです。不安や恐怖が渦巻いて何をやっても無駄だという仕方なさの中にあるのでもないのです。
 確かに、わたしたちの中にはあきらめや虚無があります。不安や恐れがあります。それでもなお、わたしたちには希望が与えられるのです。
 イエス・キリストはこの世界に希望をもたらすために、一人の赤ちゃんとしてやって来たのです。
 クリスマスという出来事はわたしたちを信じ、わたしたちを愛する神が、これまでも今もこれからもわたしたちと共におられるという確かなしるしなのです

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