未来にかける

2009年5月21日(日)弘前学院大学礼拝説教

説教時間:約20分……ナローバンドの方は、パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書5章1〜9節(新共同訳・新約)

 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「べトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。

1,未来を夢見る条件

 「将来何になりたいですか」とか「どんな人になりたいですか」という質問は学校という場所において何度となく繰り返されるものだと思います。皆さんも小さな子どもの頃は、お医者さんだのプロスポーツの選手だの、お花屋さんだの看護師だのと答えていたのかもしれません。でも、やがてみんながプロスポーツの選手にはなれないことに気づいていきます。お花屋さんよりも自分にむいているだろう仕事があることを知っていきます。もっと現実的な見方でもって自分の将来を思い描くようになっていくわけです。

 今の時代は就職がなかなかない厳しい時代だと言われていますので、できることなら安定した仕事につきたいとみんなが考えているようです。資格職で就職が必ずできるようなことを学ぶ大学に進学したいと考える高校生が多いのもそのせいだろうと思います。将来役に立つことをできるだけ多く身につけようとしているのでしょう。自分の将来をより良いものにするように頑張らないといけないとみんなわかっているのだろうと思います。

 しかし、このように将来を設計できるということはある意味恵まれているのだろうとも思うのです。その日その日を何とか生き抜こうと必死になっている人には将来とか未来のことを考える余裕はないのかもしれません。
 今年ゴールデンウィークにたまたま自宅でテレビを見ておりました。アジアの何カ国かの高校生がフィリピンの島々を訪問して色々な環境問題を学ぶというような番組だったのです。ある島では美しい海にダイナマイトを投げ込んで魚を捕る漁が行われていました。サンゴは破壊されるし、ダイナマイトによって怪我をしたり亡くなったりする人もいる。でも、魚を捕らないと生きていけないわけです。また、ある島では観光客がたくさん来るのでそのために出る汚水やゴミが砂浜や海水を汚していく。訪れる人が少なかった時代はそんなに問題にはならなかったことがたくさんの人が来るようになって環境汚染を引き起こしてしまっている。でも、観光に依存して生きている人々は観光客にどんどん来て欲しいわけです。

 この番組の中に出ていた島々で、このままダイナマイト漁を続けていけば、あるいは汚水やゴミを出し続けていけばどうなるのでしょうか。少し考えれば誰でもわかるはずなのです。やがて魚は住めない海が広がり魚が捕れなくなり、観光客が訪れる白い砂浜や海は汚れていき誰も来なくなる。が、今日を生きることに必死にならざるを得ない人々は今日の食べ物を、観光客が落とすお金を手に入れるためにそれを続けてしまうわけです。自分たちの未来のことまで考える余裕がないのです。わたしはこの番組を見ながら、これは相当切ないなあ、やるせないなあと思っておりました。

 あるいは、わたしたちの生きるこの国でも将来や未来を描くことができない人々はたくさんいるのかもしれません。無責任なことは言えないのですが、「誰でも良かった」と無差別な殺人事件を起こしてしまった人は、おそらく自分の未来を夢見ることができなくなっていたのでしょう。未来なんてどうでも良いと、自分の未来を描くことができなくなった人が、たくさんの未来ある人々のそれぞれの未来を強引に力ずくで暴力的に奪い去った。そのようにも考えることができるのではないでしょうか。

 しかし、将来や未来とは誰か他人やあるいは社会やこの国が皆さんやわたしに与えてくれるものではないことはおわかりの通りです。やはり自分自身で努力をし、自分を磨き、少しずつ手に入れていくしかないものだと思います。まわりのせいにするのは簡単です。この不況が悪いとか、社会が悪いとか、誰も自分をわかってくれないとかそういうふうに言うことはできます。わたし自身もそう言ってしまうことはあります。今この国や世界を覆っている不況が悪いとも思います。そんな中でこれから就職活動をなさる大学生の皆さんは本当に大変だろうとも思います。が、あきらめずに頑張って欲しいと思います。あきらめたその瞬間から未来の可能性が狭められると思うからです。

2,「良くなりたいか」の意味

 今日読みました聖書には、深いあきらめの中にいたであろう人が登場しています。ベトサダという池の側に横たわっていた一人の病人です。ベトサダという池の側には病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていたと書いてあります。というのは、ときどき池の水が動くことがあり、そのとき一番最初に池の中に入ると病気が治ると言われていたからです。現代のように医療技術も進んでいませんでしたし、障がい者に対しての福祉が保障されていたわけでもありません。病気になるということは本人か先祖が罪を犯した結果なのだと考えられていた時代のことです。悪霊が取り憑いたから病気になるのだと考えられていた時代のことです。病気になるということは未来が絶たれることを意味していました。家族からも捨てられ、道端で物乞いをしたり、病気の人同士が集まってひっそりと暮らしたり、あるいはこの聖書箇所の病人たちのようにどこかに放置されたりして何とか生きていくしかなかったようです。

 イエスが出会った病人は38年も病気で苦しんでいたと書いてあります。38年という時間を想像できますでしょうか。わたしは今年41歳を迎えます。わたしで言うと、3歳のときから病気だったということです。生まれたときからとすれば、大学生の皆さんは20歳前後の方が多いでしょうが、その倍ぐらいの年齢だということです。この病人が何歳くらいであったのかは書いてありませんが、本当に長い時間病気で横たわる生活を過ごさざるを得なかったことだけはわかります。何を考えて日々を過ごしていたのでしょうか。夢や希望を持つにはあまりにも時間が経ち過ぎているように思います。将来や未来を設計するのは難しいように思います。あきらめてしまっていても当然のように思います。

 イエスはこの病人に「良くなりたいか」と尋ねます。それに対して、病人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」と答えます。わたしはイエスの「良くなりたいのか」というこの言葉に注目します。というのは、病気の人にとって、良くなること・治ることは一番の願いのはずです。それなのにそれをわざわざ確認するようなことをしているからです。どうしてなのでしょうか。イエスは何故「良くなりたいのか」と尋ねたのでしょうか。

 現代の医療技術をもっても治せない病気はあります。が、病気を患っているほとんどの人は治るために懸命の治療を行っているのだと思います。そして、家族や看護する者はその人ができることなら病気が治ることを願いながら接しているはずです。更に、病気にならないように気をつけることは大事だとされています。メタボ検診というのが話題になりましたが、メタボ体型な人は病気になりやすいからそれを予防しようということなのでしょう。病気にならないように、病気になったら治すように、これがわたしたちのあたり前の考え方です。もしわたしたちが病気になったとしたら「良くなりたいのか」と尋ねられたときの答えは「良くなりたいです」なはずなのです。けれども、38年病気で横たわっていた人がイエスに「良くなりたいのか」と尋ねられたとき答えたのは「良くなりたいです」ではありませんでした。「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」という言葉だったのです。

 この病人は自分の過去のことを語っています。これまで38年間誰も自分を助け起こしてはくれなかった、と。他の人は池に降りていくけれど、自分は池の水が動いたとしても助け起こして池の中に入れてくれる人がいなかったのだ、と。だから、あきらめたくもなったでしょう。どうせ自分なんてという思いにもなったのかもしれません。それに対してイエスはシンプルに「良くなりたいのか」と尋ねています。この質問は過去がどうであったのかを問うものではありません。過去ではなく、未来に対する問いかけだと思います。すなわち、病気が治るということは今までの生き方を捨てることを意味します。池の側に横たわっている生活をやめて、自分の足で立ち自分の手で稼ぐということを意味します。イエスは病人に対して、そのことができるかどうか問いかけたのではなかったでしょうか。

3,新しい未来を与える

 そう考えると、イエスが与えたいやしとは新しい未来を与えるという意味を持っているように思われます。これまでの生き方を捨て、全く新しい自分になることを良しとするかどうかの問いかけが「良くなりたいのか」という言葉だったのだとわたしは理解しています。未来のことなんて考えることができない。日々何とか生きている。池の側に横たわって生きている。そのような一人の人に、病気が治ることによって将来や未来を思い描くことを教えたのではないかと思うのです。あなたの過去が問題なのではなく、あなたがこれから先どうしたいかなのだと語りかけたのではないかと思うのです。そして、イエスは「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命じ、その病人をいやしました。

わたしたち自身のことに引き寄せてみるとき、わたしたちもなかなか新しいことにかけることが難しいのかもしれません。少なくともわたしはそういうところがあります。「今のままでいいや」と惰性に流され、楽な方向へ進みがちです。あるいは、過去のことばかりを考え、「昔は良かった」と思い出話をしがちです。
 しかし、イエスは38年横たわっていた人に対してこれからのことを問いかけたように、わたしたちにも語りかけているのではないかと考えます。それぞれ自分自身の未来にかけることができるようにと何らかのヒントを与えてくれているのではないかと思います。聖書という書物もまたそのヒントがつまったものなのだと思います。この先の未来がどうなるか。わからない部分はたくさんあります。けれども、わたしたちには未来がそれぞれ与えられています。どんな年齢の人であったとしてもです。忙しさの中で日々必死にならざる得ないのかもしれません。でも、未来を思い描き、そしてそれを仲間と語り合い、その実現のために努力していくことができたならと願います。


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