命を救う・命を失う

2007年3月11日(日)日本キリスト教団弘前南教会聖日礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書9章21−27節(新共同訳)

  イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。
  「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
  それから、イエスは皆に言われた。
  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

1 0と1の間

  3月1日はわたしの勤めております学校で卒業式が行われました。233名の生徒たちが学校を巣立っていきました。彼/彼女らのこれからの人生の歩みが神さまに守られたものであるようにと祈るばかりです。
  同時に、少しばかり別れのさびしさをも感じております。
  毎年思うことではありますが、3年間という時間はお互いの関係ができたと思ったら終わりになってしまうようなものです。あまりにも短い。でも、わたしたち教師はその3年間で生徒たちを導き、少しでも大人になってくれることを願いながら教育という業に当たるしかありません。それが役目なのだと思っています。
  わたしは、折にふれて生徒たちに話すことがあります。それは、こういうことです。「若いということは何にでもなれる可能性を持っていることだ。わたしよりも皆さんの方がずっと可能性がある。もちろん、ノーベル賞を取ったり、オリンピックに出たり、総理大臣になったりということは無理だろう。でも、なりたいと願うものになれる可能性をみんな持っているのだよ」と。

  以前、数学の教師と雑談をしておりました。その教師はこう言うのです。「可能性が0なのと1%あるのとは全く違うんですよ。0と1の間は無限大なんです」と。
  わたしたちは普段何につけ可能性を50%で半々、90%で安心と考えているところがあります。だから、可能性の薄いことにかけてみることはあまりしません。少なくともわたし自身はそうでした。でも、その言葉を聞いて以来、可能性が1%あるのであれば、自分がそれだと信じることに賭けてみることも大事なのではないかと思うようになりました。もちろん人生はギャンブルとは違っています。安全策を取ることが第一ということが多いのも事実です。でも、わたしは思います。人間が生きていくということはなにがしかの可能性を持っていることなのだ、と。
  たとえ、こんなにも辛い人生に何か意味があるのかと問いたくなるような場面であったとしても、生きることは可能性が0ではないということなのだと思います。あるいは、年を取っていくと、今までは不自由なくできていたことができなくなっていったりもします。でも、だからといって可能性が0になってしまうわけではないと思います。たとえ何歳になったとしても、新しい出会いや新鮮な気づきが与えられることはある。極端な話、病気になって動けないとしても、できることはあるのだと思います。

  以前聞いた話ですが、大阪にある梅花学院の創設者は澤山保羅(さわやま・ぽーろ)という人物です。
  明治初期、関西地区にいくつかの教会を創り、日本で初めての牧師となった人です。彼は晩年肺結核のためにベットにずっと横たわる生活を余儀なくされたそうです。晩年と言っても34歳で亡くなっていますからとても短い生涯でした。しかし、彼はその病床でひたすらに祈り続けたのだそうです。この話から、そのときの自分にできることをやろうとすること。そのときの最善を尽くそうとすること。人間の可能性はそこにこそあるのかもしれないと考えさせられます。
  そして、わたしたちがたとえ今どのような状況に置かれていても、可能性は0ではないのだと思わせられます。若い生徒たちのように「将来、何にでもなれる」という可能性はないかもしれない。でも、若者であろうともお年寄りであろうとも生きていることはそこに可能性を秘めているということだと考えるのです。

  けれども、そのような可能性を暴力的に奪い去り、0にしてしまう出来事が起こります。死という出来事です。死とは滅びです。死ぬことはその人の可能性を根こそぎ奪い取ってしまうことです。
  昨今社会問題化している自殺の問題に関して「死んではいけない」という言葉がよく語られます。わたしも思います。死んではいけない、と。でも、自殺する人が必ずしも自分の生命を粗末に扱っているわけではないのです。多くの場合、他に方法はないのだ、死んだ方がラクになれるのだという視野狭窄に陥っているのです。これしか選び得る方法はないと思いこんでしまっているのです。自分で自分自身を追いつめていくその考え方を解放してやらない限り駄目だろうと思います。これはなかなかやっかいで難しい問題です。
  そして、自ら死を選ぶことはしなくても、わたしたち人間は(あるいは生き物は)必ず最期を迎えます。生まれてきたということはやがていつかは死ぬということです。人生の長さは平等ではなく、長い人もいれば短い人もいます。長さや終わり方は様々かもしれませんが、みんなやがては死を迎えます。

2 「一緒に死んでくれ」ではない

  そんなことを考えながら、わたしは今日イエスの受難予告といわれる物語を読んでみたいと思っております。
  この物語は、イエスが弟子たちに対して自分がやがてどうなるのかを予告したという内容になっています。イエスはやがて十字架につけられて殺される。イエス自身このことを
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて殺され」るのだと語っています。
  ここでイエスは
「必ず」と言っています。「必ず」ということは可能性が100%だという意味に受け取ることができるでしょう。死ななければならない。それも多くの苦しみを受けた上で、権力者たちから排斥され(嫌われてしりぞけられ)て殺されなければならないのだと語っているのです。生き続けて自然死する可能性が1%も残っていない。100%確実に殺されるのだと語っているのです。イエスは自分の受難予告に際し一体弟子たちに何を語りたかったのでしょうか。
  死にゆく・殺されゆく自分と共に弟子たちも一緒に殺されてくれることを願ったのでしょうか。あるいは、自分に従うことはこんなにも大変な命がけのことなのだと覚悟を迫ったのでしょうか。そのどちらでもないように思います。しかし、
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエスの言葉からそのようなことをイメージしてしまうことは歴史的にも多かったようです。イエスの十字架上での死を真似するような、そういうことを行うことこそがイエスに従う者の本分だというような理解のされ方がなされてきたのも事実です。

  が、本当にそうなのだろうかとわたしは疑問を感じます。自分の生きる可能性を0%にして、死ぬことを100%だとして生活しなさいと言いたかったのでしょうか。もし、そうであれば、自分の信じるもののために生命を犠牲にする生き方こそ素晴らしい生き方だということになってしまいます。極端に言えば、自爆テロを行って自分の信じる主義主張に殉じる生き方が肯定されてしまいます。何かの大義名分のために自ら生命を絶つことが美徳であるということを否定できません。イエスは人間である弟子たちにそんなことを求めたのだろうかと考えてしまいます。そして、実際に弟子たちはやがて来るイエスの受難の際には皆逃げ出してしまうのです。弟子たちはそれぞれが自らの生命を守ろうとしたのです。死ぬのは嫌だったのです。
  
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」というイエスの言葉をそのままに受け取るとそういう読み方になってしまいそうです。でも、繰り返しますが、イエスは弟子たちに、そしてわたしたち人間に命を失う生き方を勧めているのでしょうか。イエスに自分の生命を賭けて従う生き方をし、イエスのために最期を迎えることが一番なのだとかそういうことを伝えたいのでしょうか。死ぬことこそ美しいとか、イエスが十字架につくとき弟子たちも隣で十字架について欲しいとか語っているのでしょうか。

  もし、そうであるならイエスは、もっとはっきりと弟子たちにそれを求めるのではないでしょうか。「わたしは多くの苦しみを受け、権力者たちから嫌われしりぞけられ、やがては十字架について死ぬ。だからあなたたちも一緒に死んでくれ」と。
  イエスはそうは語っていないのです。ただ、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と語っているのです。そこには死んだ後の世界こそが本当にキリスト者の生きる世界なのだとかそういう考え方はないと思います。やはりこの今生きているこの世界において、わたしたちがどのように生きるべきなのかを教えているのだとわたしは理解します。
  
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」という言葉もまた、死ぬために生きなさいという意味ではないと思います。「あれか、これか」の二者択一ではないと思います。

  というのは、イエスは続けて
「人は、全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」と語っているからです。わたしはこの言葉がとても好きです。そして、何度もこの言葉に励まされてきました。この言葉は旧約聖書、箴言の4:23「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」という言葉によく似ていると思っております。二つともわたしたち人間にとって、生命を大切にすることこそが一番なのだと語りかけます。そして、生命をつかさどる中心部分とでもいうべき、心を大事にしなければならないのだ、と。それ以上に大事なものなどないのではないかとすら思います。だから、全世界と引き換えにしてもそれを守らなければならない。
  今わたしたちがこの世界にそれぞれ生きている。そこには日常があり、日々の生活があります。それを犠牲にして、たとえばキリストのために日常や生活を捨てて修道院のようなところへ入ることを勧めてはいないのです。この日々の中で、自分自身の生命や心を大切にしながら生きていくことを勧めているのだと思うのです。

3 命を失う日のために

  ですから、「わたしのために命を失う」とか「自分を捨て」という言葉を、自分が無くなるようなそういう理解の仕方をしてはいけないと思います。イエスと同じように十字架につくのが素晴らしい信仰者のあり方なわけではないのです。
  そして、わたしたちはいてもいなくても同じではないのです。その存在は尊いのです。あるいは、誰か他人まかせで流されて生きるとか、自分の生活をそっちのけで何かに没頭するとかそういうことが自分を捨てるということでもないと思います。
  どこかの家の問題にお節介に首を突っこまなくてもいいし、どこかの国の戦火飛び交う中に実際に行く必要もないのです。自分の今生きているその場その場において、その時できる最善を尽くして、自分の可能性を信じてイエスに従うことが求められているのです。
  今ここに自分はある。日常を日々の生活を送っている自分がいる。自分の生命や心を大切にしながら生きている自分がいる。その自分とは、
「身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得」もない自分なのです。そういう自分がイエスに従って生きていこうとする。誰の人生であろうとも、そこには困難さがあったり苦しみがあったりもします。それでも、人生の歩みを一歩一歩進めていこうとするとき、「自分の十字架を背負って」生きていくことができているのだとわたしは考えるのです。

  生きていることは可能性があることです。イエス自身、自分はやがて死んでいくのだから何をしてもしようがないとは考えていません。それどころか、他者、とりわけ弱い立場に追いやられている人々や困難な状況の中に生きなければならなかった人々に寄り添い、それらの人々の希望となって生涯を送りました。可能性がないと思われている人々、あるいは可能性を奪われている人々に可能性を与えたのがイエスのやったことだったと言うこともできるでしょう。
  わたしの学校の生徒たちに多くの可能性があるように、わたしたちにもそれぞれ可能性は与えられています。若くはないとしてもです。何もできないとか、自分にはできることが限られていると嘆きたくなるのがわたしたちなのかもしれません。しかし、0と1の間が無限大であるということは生きている限り、1の可能性は誰にでもあるのだということだと思います。少なくともわたしたちは「自分の十字架を背負って」生きていくことができる。そのような可能性を持っていることを今日の聖書箇所から学ばせられます。

  やがてわたしたちは死にます。生命を失う運命を避けることはできません。しかし、滅びゆく生命であったとしても、自分の生命を輝かし、誰かの生命を救う可能性を秘めて生きている。それぞれに可能性は0ではないのです。
  わたしはこの物語を読み考えながら思わせられました。いつかは生命を失う、限りのあるわたしたちであったとしてもできることはあるのだ、と。
  
「人は、全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」とイエスは語ります。今ここにあるこの生命を精一杯に生きていきたいと願います。そのことがイエスに従う道であると信じるからです。

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