からし種一粒ほどの

2009年3月8日(日)日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教

説教時間:約20分……ナローバンドの方は、パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

"Masako Chapel"入口に戻る
三十番地キリスト教会・礼拝堂に入る
三十番地キリスト教会・案内図に入る

聖書:ルカによる福音書17章5〜10節(新共同訳・新約)

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

1 「信仰を増す」とは?

 わたしたちは教会において信仰という言葉を用いるわけです。神を信じている気持ちやキリストに従おうとする決意のことを信仰という言葉で言い表しているわけです。
 しかし、多くの場合、非常に曖昧なものとして信仰という言葉をとらえているのではないでしょうか。もちろんわたしも含めてのことです。
 12月に大学時代の恩師を亡くしました。わたしはそれ以来、ときどき、恩師が書いた本を読んでいます。とはいえ恩師の専門の難しい新約聖書の学問的研究書を読んでいるわけではありません。エッセイ集のような、恩師が通っていた教会の月報に書いたコラムをまとめたものを読んでいます。その中にこういう文章があったのです。

 
《私たちが「やさしいイエス」というイメージを持ちたがるのは、私たちが自分の信仰をきちんと考えず、ずぼらでも赦してくれると安易に考えているからではないか。そこには、イエスや神に対する自分勝手な甘えがひそんでいるのではないか、厳しさよりも「なれあい」でうまく済ませたいというわがままが隠れているのではないだろうか。》橋本滋雄著、『聖書のことば・あれこれ検索』「イエス2」より

 この文章を読んで、わたしは、果たして自分はどうなのだろうと考えさせられているわけです。そして、信仰とは一体どのようなものなのだろうかと思わせられているわけです。そのヒントが今日読みました箇所にはあるのかもしれないと思っているのです。
 今日の箇所はイエスの弟子たち(使徒たち)が
「わたしどもの信仰を増して下さい」とイエスに願ったところからはじまります。
 
「信仰を増す」というのはどのようなことなのでしょうか。教会において人一倍奉仕を行ったり献金をたくさん出すようなことによって得られるものを意味しているのではないことだけはわたしにもわかります。何故なら、弟子たちに対するイエスの答えによってです。「わたしどもの信仰を増して下さい」とイエスに願った弟子たちにイエスはこう語るのです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と。
 一読すると、「信仰があれば何でもできる」と読んでしまいたくなります。すなわち、信仰がある人は植えてある桑の木を海に移すことができるのだという読み方です。「信仰があれば不可能なことが可能になる」とか「信仰があれば病気が治る」とか、そのように読む読み方です。
 でも、本当にそうなのでしょうか。わたしにはそうは思えないのです。現実の問題として、信仰があるからと言ってわたしたちにはできないことがなくなるわけではありません。わたしたちが信仰のおかげでスーパーマンになれるわけはないのです。信仰を持っていても、できないことはできないのがわたしたちですし、時として病気になり苦しむこともあるのがわたしたちです。病気が治らないのは信仰のせいなわけはありません。病気で苦しんでいる人々に対して大変失礼な考え方だと思いますし、病気になったことがない人の傲慢だとも思います。
 「この壺を買うと病気が治ります」とか「お祓いを受けて新しく生まれ変わった人生を送りましょう」とかいうある種の人々がいるのも事実です。でも、そのほとんどはお金儲けですし、詐欺であることは皆さんご存じの通りです。イエスの考え方とは遠いところにある考え方だということもおわかりだと思います。それなのに、この箇所を信仰がある人は植えてある桑の木を海に移すことができるのだと読んでしまいたくなるのは何故でしょう。信仰があれば不可能は可能となり、奇跡が起きる。イエスは弟子たちにそのようなことを語りたかったのでしょうか。 

2 桑の木を動かして何になる?

 わたしはそうではないと思っています。もしそうであるなら、イエスは直接的にそのように言ったはずです。イエスが語ったのは、植えてある桑の木を海に移すことができるということです。
 考えてみて下さい。どのくらいの大きさかはさておき、桑の木が海に植わるという場面を。おかしくないですか? 桑の木は海の中でどうなるのでしょう。多くの樹木は海水の中で育つことに適応していません。熱帯と亜熱帯に生きるマングローブと呼ばれる種類の木々が汽水域(海水と淡水が混じり合っているあたり)で生きていけるくらいです。当然桑の木は海水の中では生きていけませんから、やがて枯れてしまうはずです。桑の木にとっては今植えられているところで大きく育つのが好ましいことなわけで、海の中に移されるなんていうことは育てないどころか生命を失う危機なわけです。とっても迷惑な話なわけです。誰かの信仰を増すために桑の木が存在しているわけではないはずです。自分が海に植わって死んで、それで誰かのためになるなんていう馬鹿な話はないわけです。
 他を犠牲にして自分の信仰を増すなんていうことはあり得ません。それは、わたしが立派になるためにあなたは死んで下さいということだからです。犠牲になる方の気持ちを考えてみたら、冗談じゃないですよ。でも、そのようなことは時として起こります。第二次世界大戦のときのこの国はまさにそうでした。この国のためにあなたは死んで下さい、お国のために生命を献げることこそ生きる道ですと教えたわけですから。そして、実際に多くの人々がそう信じて生命を散らしたわけです。
 今まだ続いている自爆テロもそういう面があるかもしれません。アッラーの神のためイスラームのためにテロを行っても良いんだと考える人がいて、テロリストの誰かを送りこむ。テロリストは、自分と同時にあなたたちも木っ端微塵になって下さいと爆弾を爆発させる。テロリストを送りこんだ人は自分たちの目的達成のためにそういう手段をとっているわけです。が、誰かを犠牲にして自分が、あるいは自分たちが生きるというのは反則だと思います。そして、イエスがそんなことを弟子たちに求めたなどとはわたしにはわたしには到底思えないのです。
 さらに、もし桑の木を海に植えることができる人が実際にいたとしたらどうでしょう。その姿を見て、「あの人は信仰のある人だ」と感心するようなことがあるでしょうか。もしそんなことに感心する人がいたとしたらその人の方がどうかしています。信仰というものが他の人にできないことをやってのけることで量れるはずがないのです。
 そう考えていくとき、イエスの言葉の意味をこのように受け取ることができるのではないかと思います。桑の木が海に植わるはずもないし、植える必要もない。そして、桑の木を海へ移せたからといってあの人には信仰があるなどと判断することもできない。しかし、桑の木を海に植えるような(あるいはお国のために死にましょうとか、信じるもののためにテロを行いましょうとかいう)、いかがわしい考え方にだまされたり、憧れたりすることが時として起こることがあるのだと言いたかったのではないかということです。わたしたち人間とは、みんなそのような危なっかしさを持った存在なのだと伝えたかったのではないかということです。
 弟子たちが「信仰を増して下さい」とお願いしたとき、イエスはこの話を通してそういうことは意味のないことだし馬鹿馬鹿しいことだ、時と場合によっては大きな過ちさえもたらすものだと語ったのではないでしょうか。
 言い換えれば、信仰とは他の誰にもできないような素晴らしいことをやってのけたりすることで証明されるようなものではないのだと語っているのではないかということです。小さなからし種一粒の信仰であったとしても、信仰とは他に誇ったり自慢したりするものではないということです。
 「わたしは信仰を持っているから他人とはちょっと違うのよ」とかそういう考え方は間違っているのです。イエスの弟子たちが「俺たちは偉いイエス先生と一緒に行動しているんだ。そんじょそこらの人とは格が違うのよ」と考え、どうしたらもっと格上になれるかをイエスに尋ねた。そしたらイエスはそんなことを考えたり求めたりする必要はないんだと、何を馬鹿馬鹿しいことを言ってるんだと、イエスの側も馬鹿馬鹿しくてわけのわからない話で煙に巻いた。こんな感じなのではないでしょうか。

3 命じられたことを果たしたからと言って

 というのは、次に続いている話からもそう思われるのです。
 僕(家で使っている使用人)が一日の労働を終えて帰ってくる。家の主人はその僕に対して「今日も一日お疲れさま。すぐにご飯を食べよう」とは言わないで、「ご飯の支度をよろしく頼む。お前はわたしが食べ終わってから食べなさい」と言うだろうという話です。イエスは
《命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか(9節)》と言います。使用人ですから、主人の命令を聞かなければなりません。ご飯を食べるのも主人の後というのが当然だったでしょう。仕事ですから、誠実に丁寧にやったからと言って感謝やねぎらいの言葉があるわけでもありません。やって当然のことだったでしょう。当時の身分制度社会が見えるような話でもあります。
 が、僕の待遇問題をお話したいのではありません。
《命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか(9節)》という言葉は、誰かにほめられるから自分は何かをやるという姿勢ではないわけです。《わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです(10節)》。すなわち、これをするのはあたり前のことであって、自分はなすべきことをやっただけですと言いなさいというのです。わたしに素晴らしい能力があるからほめられて当然とか、他人に感謝されるために自分の仕事をしようとかそういうことではないのです。先程からお話していることで言えば、自分は信仰を持っているからちょっと他人とは違うのよというようなあり方ではいけないことを教えてくれているような気がするのです。
 わたし自身もよく間違うのです。信仰というものを自分の所有物のように思ったり、それを持っていて、牧師なんかをやっていると誇れる自分であるような錯覚を起こしてしまったりするのです。自分がたくさんのものを持っているような気になったりもするのです。それ故に傲慢になったりもするのです。自分に甘く、他人に厳しい見方をしていることがあって反省させられるのです。
 今回この説教を準備するにあたって、わたしは信仰を「これこれこういうものだ」と定義するようなものではないと考えるようになりました。それよりも自分のあり方の問題として考えなければならないと思うようになりました。自分を立派に見せるために信仰があるのではない。駄目でどうしようもないところがあるからこそ信仰が必要なのだと再確認させられました。
 そのことも踏まえて、このところ日本キリスト教団というところで起きている様々なことをちょっと引いたところから眺めていて、「正しい信仰とは何か」とか「正しい聖礼典とはどのようなものか」とか言い合っているのは何かが違っているのではないかと思っています。自分たちの正しさや信仰を誇り、相容れない他を排除したりするのであれば、一体信仰とは何のためのものだろうと疑問を感じます。桑の木の迷惑も考えず海の中に移して、「どうだ。わたしたちの信仰はすごいだろ」と得意がっているようにすら思えてきます。小さなからし種なのに「こっちの種の方が立派なんだ」と自慢しているようにも思えてきます。
 「わたしたちの信仰を増して下さい」と願った弟子たちに、イエスが語ったのはそんなことを考える前にやることがあるだろうという皮肉をこめた話でした。しなければならないことを黙々とやり、主人に仕える僕のようになることだと思います。ほめられるからやるのでもなく、ただ自分を無にして自分の仕事をする僕のようになることだと思います。
 
《イエスや神に対する自分勝手な甘えにがひそんでいるのではないか、厳しさよりも「なれあい」でうまく済ませたいというわがままが隠れているのではないだろうか》と我が恩師は書き記しました。
 自らの信仰を問うということは、信仰を得て立派な自分になりましょうと考えそれを追求することではありません。素晴らしいクリスチャンにどうやったらなれるかな。熱心な信徒になれば良いのかなと考えることではありません。それこそからし種一粒ほどのちっぽけな存在である自分がそれでも信仰を持って生きている。そこに神の愛やイエスの導きを見て、自らの場所で懸命に生きることだと思うのです。この世の様々な煩いの中から解放されないわたしたちです。が、自分を低くしてイエスの姿を見習いつつ一歩一歩、歩いていきたいと願うものです。


Masako Chapel トップに戻る

三十番地キリスト教会・礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→三十番地キリスト教会・牧師あてメール