結果ではなく過程を

2007年1月21日(日)日本キリスト教団藤崎教会聖日礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書8章11−13節(新共同訳)

  ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
  イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
  そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

1 「予定は未定にして、決定にあらず」

  昨日・今日と大学入試センター試験という受験生にとっては正念場とでもいうべき試験が行われております。わたしの勤めております学校でも3年生の生徒が40名程度でしょうか受験しております。昨日の朝、わたしも含めて教員たちが弘前大学に行き、激励というのか生徒たちに声をかけてきました。
  今のこの時間も必死に答案に向き合っている生徒たちがおります。全国で50万人を超える受験生たちがセンター試験に臨んでいるそうです。月曜日の朝元気な顔を見せてくれることを願うばかりです。しかし、何人かは思うような点数を採ることができずに、打ちのめされたような疲れた表情で学校に出てくるのだろうとも思っております。これは今年に限ったことではありません。毎年毎年のことです。
  大学入試というのはセンター試験もそうですが、1点2点の奪い合いです。それによって合否が決まってしまいます。そのとき体調が悪かったとか、思うように調子が出なかったとかそういうことは考慮されません。採った点数が全てです。後になって後悔したとしても、「こうしていれば、ああしていれば」と反省したとしても、「時すでに遅し」です。
  そういう意味において言えば、まさに一発勝負の結果だけが問われる厳しい瞬間なのだと思います。だからこそなおさら、今日必死になっている生徒たちが自分の持っている力を十分に出してくれることをわたしは願っています。実力以上のことはどうやっても出せませんが、せめて持っている力だけは出し切ってくれれば良いなあと考えています。
  けれども、試験だけではなく、何事においても「こんなはずじゃなかった」と考えてしまうことが多いのがわたしたちの人生なのかもしれません。わたしはときどき「予定は未定にして、決定にあらず」という言葉をつぶやいてしまうことがあります。予定を立てたとしても必ずしもその通りにはいかないことがあるんだという意味です。
  もちろんそのつぶやきの中には、物事を予定通りに進めることができなかった自分自身への言い訳もかなり含まれています。もう少し頑張ればできたかもしれないとか、あと1時間遅くまで残っていればできたかもしれないとか、そういうことは仕事の上でも多々あります。でも、その「もう少し」が頑張れなかった。あと1時間遅く残るのが嫌だった。できなかった言い訳に「予定は未定にして、決定にあらず」と言ってしまうわけです。
  何事でもきちんとできて、何か不測の事態が起こったとしてもそれに対処し、予定通りに全ての物事を進められる人は偉いと思います。わたしもそうなりたいと思ってはいます。が、そういう人ってそんなにいないのではないでしょうか。わたしも含めて多くの凡人たちは「こんなはずじゃなかった」ということに数多く直面し、うろたえたり打ちのめされたりしながら何とかかんとか自分で尻ぬぐいをして生きているのではないでしょうか。この仕事だけは終わらそうと思ったけれど、突然ある人かがやってきて人生相談の時間になってしまったとか、今度の試合には勝つつもりだったけど負けてしまったとかそういうことが起こるのがわたしたちの人生なのだと思います。

  わたしは12月末に生まれて初めて救急車に乗りました。と言っても、わたしが搬送されたわけではないのです。怪我をした生徒が出て、その生徒を病院に連れて行くのに救急車の方が良いだろうと判断して、電話をかけ、救急車に来てもらい、付き添いとして乗ったわけです。今振り返っても、一連の行動は自分でもびっくりするくらい落ち着いていました。一人ではありませんでしたが、よく対応できたなあと思います。そのときまで、救急車に乗るなんていうことが自分に起こるとは予定していませんでした。何が起こるかわからないのがわたしたちの日常であり人生なのだということを何だか実感したように思いました。
  このことは、現代を生きているわたしたちだけにあてはまることではありません。いつの時代であったとしても、どこの場所であったとしても、そうであったのだと思います。聖書の中にも、そのことを伺わせるものは数多く見出すことができます。旧約聖書で言えば、詩編の中には、神が自分を見捨ててしまったのではないかと考え、神の助けを願い求める言葉がたくさん載せられています。
  例えば、
詩編88編はこのように語っています。「主よ、わたしを救ってくださる神よ。昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります。わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府(よみ)にのぞんでいます。」(2−4節)「主よ、なぜわたしの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」(15節)
  大変な苦しみの中にあって、神の助けが与えられないことを嘆いている語りかけだと思います。思うようにいかない出来事の中で苦しみ、神からの助けが早く与えられることを願い求めている姿がにじみ出ているように思います。

2 神の意志はわたしたちにはわからない

  今日の聖書において、イエスはこう語っています。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。」と。この言葉はイエスを試そうとしてファリサイ派の人々が議論をしかけたことに答えた言葉です。「しるし」という言葉の意味を奇跡を起こす力と解釈する仕方が一般的なようです。が、今日わたしはこの「しるし」という言葉をそのようには考えないでお話したいと思っております。
  先程語りました詩編88編を書いた詩人は、状況として苦しみの中にあることが読み取れるわけです。彼が求めているのは、神が自分を助けてくれること、自分を救って下さることです。助けてもらえれば、救われれば一番望ましいわけです。
  誰もが苦しみに出会ったとき、その苦しみから一刻も早く解放されることを望みます。「こんなはずではない」という出来事に直面するとき、予定外の場面に出くわすとき、その問題が一刻も早く解決することを望みます。そのようになれば、わたしたちはうろたえたり打ちのめされたりしながら何とかかんとか自分で尻ぬぐいをして生きていく必要はありません。
  そして、神という圧倒的な存在が自分の側にやってきて、強制的な力でもって良い結果を導いてくれるとしたらそれ以上の喜びはないことでしょう。全ての物事は自分が予定した通りにきちんと進んでいくことでしょう。センター試験に臨んでいる受験生だって、そうしてくれるならどんなに助かることでしょうか。「予定は未定にして、決定にあらず」というような言葉をつぶやくこともなくなることでしょう。それぞれが思い描くような「しるし」がいつも与えられることになることでしょう。
  わたしたち人間はとかくそう考えてしまいがちです。わたしもこれまで幾度そう願ったことか数え切れません。けれども、そのような考え方の中に大きな落とし穴があります。それは、自分自身が願うことや求めること、すなわち自分の思いを神の思いとすり替えてしまっているという過ちです。自分自身が望む結末を出すことが同じように神の願うことであり、神の意志なのだと考えて思い違いをしてしまっているということです。
  ということは、言い換えれば、自分自身が神に一体化してしまっているということです。神にはなれないわたしたち人間が神になってしまっているということです。幾つかの宗教は「これを信じればあなたの思い通りになります」と言って巧みに勧誘します。その考え方と同じになってしまうのです。自分の人生が自分で思うようになるということが神の意志なのだと勘違いをしてしまうのです。

  神の意志がどのようなものであるか計り知ることはわたしたち人間にはできないのです。冷たい言い方なのかもしれませんが、わたしたちには神がどのように考えておられるのか推測することしかできない。知ることはできないのです。さらに、キリスト教が語る神の姿とはわたしたちの悩みや困難を直接介入して解決してくれる存在ではないのです。だから、わたしは時々問われます。「神がいるのなら、どうしてこんなに辛い目に遭わなければならないのか」と。
  牧師としてどう答えていいのかわかりません。つい先日も愛する家族が突然亡くなってしまうといういたましい出来事に出会った生徒がいます。わたしは一体その生徒に何と声をかけて良いのかわかりません。「神がいるのなら、どうしてこんなに辛い目に遭わなければならないのか」と問われても答える言葉を持っていません。
  では、どんな不条理な出来事に出会ったとしても、それを堪え忍んで「これは神さまの与えた試練なのだ」などと考えて生きていくことしかできないのでしょうか。じっと我慢をして試練に向き合い、祈りながら生きていけばいいのでしょうか。そういう姿が信仰者としてのあるべき姿であって、そういう姿になることを神はわたしたち人間に求めておられるのでしょうか。
  私はそうではないような気がします。聖書の語る神とはそんなにも冷酷で無情で無慈悲な存在ではないように思うのです。少なくとも、わたしが信じている神はそんな存在ではないと考えています。そうであるならば、わたしはそんな神さまを信じたくはないと思います。
  神の意志をわたしたちが本当には知ることができないということと、神はわたしたちを指1本で思いのままに動かし試練を与えるということはイコールではないと考えています。違うことだと考えています。が、キリスト教会はここのところをイコールにしてしまって、いつも謙虚で、試練を堪え忍び、苦しいときにも悲しいときにも祈り続けることこそ美しい信仰者であるとのイメージを作り上げてしまったような気がしています。それはちょっと違うのではないかとわたしは思うのです。
  それこそ、キリスト者としての「しるし」を得たようなそんな姿です。到達するべきところまで到達してしまった仙人のようなキリスト者、信仰者の姿です。結末がついてしまった、行き着くべきとこまで行ってしまった姿です。でも、何でもそうですけど「しるし」っていうものはとてもわかりやすいものです。これがあるのとないのとはわかりやすさが全く違ってきます。わかりやすいものとは、みんなが納得しやすいものでもあります。みんなを納得させやすいものでもあります。

3,「しるし」を求めるよりも

  イエスは「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」とファリサイ派の論争を仕掛けてきた人々に答えています。わたしたちの状況に合わせてみると、目に見えるすっきりとしたわかりやすさは与えられないのです。神がわたしたちの人生に介入してきて悩みや困難をすぱっと解決してくれることはないのです。また、勧善懲悪でもないのです。
  だから、強制的な圧倒的な力でもって、この世の悪を退治してくれることも起こり得ないのです。どこかの国で銃を持って戦っている兵士たちの銃を取り上げることもなければ、どこかの国の指導者が突然方向を180度換えて非武装・非暴力を切々と論じるようにし向けることもないのです。神の意志がどのようなものであるか計り知ることはわたしたち人間にはできないのです。
  でも、今述べたようなことはしないということだけはわかります。もし、神がそうやって人間世界に介入してくるのであったなら、人間は何度滅ぼされても不思議ではない歴史を刻んできたのですから。あるいは、わたしたち自身が今この地球上に生命を得て、今という時代を生きてはいなかったのかもしれないのですから。
  イエスはこの論争に答える際、
「心の中で深く嘆いて」と記してあります。この「心の中で深く嘆いて」というのは、岩波訳の聖書によりますと「心の中で深いため息をついて」という訳になっております。
  わたしは、神がわたしたち人間を眺めておられる姿も、
「心の中で深いため息をついて」見ておられるのではないかと想像します。特に、今の時代、わたしたちが生きるこの国も含めて平和を求める方向とは逆の方向へと進んで行っているような気がします。
  あるいは、「How To本」と呼ばれる「こうしたら人生幸せになります」「こういう考え方をすると人生を豊かにできます」「前向きに生きるためにはこうしましょう」みたいな本が巷にあふれています。
  聞くところによると、テスト問題やプリントをやっても当たったかはずれたかだけにこだわる子どもたちが増えてきたそうです。誰もがわかりやすさだけを求めている時代なのかもしれません。やややこしいことは避ける時代なのかもしれません。自分と直接利害関係のないことには声を上げるのもめんどくさいと考える時代なのかもしれません。
  だから、「こんなはずではない」という出来事に直面したり、予定外の場面に出くわしたりするときにも、何となくで済ませてしまおうとしてしまうのかもしれません。深くその出来事の意味を思い巡らすよりも、それはそれで仕方なかったと考えた方が簡単で時間もかかりません。誰か他人のせいにできたら一番楽な解決方法かもしれません。
  しかし、わたしはこの聖書箇所を読む中で、様々な物事に直面する中にあって、どのような結論が導き出されようともそれぞれが自分で自分自身のあり方を考えて生きていかなければならないということを受け取ったように思います。
  何度も繰り返しますが、神の意志はわたしたちにはわかりません。でも、わたしは思います。神がわたしたちに望んでおられるのは、楽に何となくとか、物事を深く考えないような生き方ではないと思います。そして、安易に結論を出したり、すぐに答えが出るような道程がわたしたちの人生ではありません。究極的には人生の結果を判断するのはわたしたち自身ではなく、神です。
  「しるし」はわたしたちの目に見えるものとして与えられないのかもしれません。わからないから、わかりにくいから不安になったりもします。神もまたわたしたちの目には見えません。それでも、わたしたちの神に信頼し、それぞれの人生を一歩一歩誠実に歩んでいきたいと願うものです。

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