主の復活、ハレルヤ

2007年4月8日(日)日本キリスト教団藤崎教会復活日礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書24章1−12節(新共同訳)

  そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。
  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
  そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた婦人たちであった。
  婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

1 死の恐怖

  わたしたち人間にとって最も恐ろしいこととは一体何でしょうか。それは、おそらく、この世からいなくなること・死という出来事なのではないかと思うのです。
  ですから、わたしたちは自分自身や家族、友人が死なないことを願って生きています。誰かが病気になったとしたらできる限りの手当を尽くし、その病気を治そうと努めることでしょう。病院に行って治療してもらうでしょうし、時には入院したりもするでしょう。病気を治すことが死を遠ざける一つの方法だからです。
  あるいは、事故を起こさないようにすること。事故に巻きこまれないようにすること。車の運転でも道路を歩くのでも、みんな気をつけなければならないことを知っています。そして、小さな子どもたちには「車に気をつける」ことを教えるわけです。怪我をすることを避けるため、引いては決して死なせないようにするためです。
 
  死んでしまえばその人にもう一度会いたいと思っても会うことはできないのです。そういう意味において、死とは終わりです。わたし自身これまでに何人かの親しい人々の死を経験しました。悲しくない死は一つもありませんでした。「どうしてこんなに早く」とか「残された家族はどうなるんだろう」とか、「もっと頻繁に連絡とるべきだった」などというようなことばかりを思わせられました。その人がこの世からいなくなることがとても悔しいことに思えたのです。
  けれども、わたしたちの人生とは誕生から始まり死へと進んでいく道程です。誰一人死ぬことを免れることはできません。もちろん人生の長さには色々あります。短い人もいれば、長生きをする人もいます。が、確実なことは今生きている人はやがていつか死ぬということです。そして、多くの場合どのような死に方をするのか自分で選ぶことはできないのです。死ぬとは厳しい現実であり、人間であるわたしたちが決めることができないことなのかもしれないとわたしは考えることがあります。
 
  しかし、わたしたちは今日イースターの礼拝を守っております。イエス・キリストが受難の末に3日後に復活なさった。これがイースターと呼ばれる出来事です。
  この出来事は教会の2000年の歴史の中、繰り返し繰り返し語り継がれ、教会はこの日を祝いながら歩んできました。死んだイエスが復活するということについては、わたしたち現代に生きる者の常識としては色々な疑問がありますし、理解しがたいところもあります。
  医学的に考えてみると、一度死んだ人間が息を吹き返すことはあり得ないのだそうです。ホラー映画などでありがちな包帯でぐるぐる巻きになったイエスが突如墓の中から飛び出してきたというようなことではないのだろうと思います。あるいは、神の子イエスは人間にはできないような復活という奇跡を起こしたのだというふうに理解しようとする人々もいます。でも、わたしはどうもその考え方にもなじめません。そんなことを思い巡らしながら、イースターのこの日、イエスの復活の出来事の意味を思い巡らしてみたいと思います。

2 デキソコナイな弟子たち

  福音書によりますと、イエスが逮捕され裁判を受け、ゴルゴタの丘の上に引かれていったとき、それまでイエスに従っていた弟子たちはみな逃げ去っていたようです。「どこまでも一緒に行きます」と宣言した一番弟子のペトロですら、イエスが予告した「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉の通りにしてしまうわけです。
  何故逃げたのか。おそらくは単純な理由です。死が怖かったのです。殺されるのは嫌だったのです。もしかすると、イエスのことを期待はずれだったと思ったのかもしれません。こんなはずじゃない、自分たちの師匠であるイエスが十字架刑などによって無惨に殺されていくはずはないと思いこんでいたのかもしれません。
  けれども、弟子たちの願いとは裏腹に、イエスは十字架にかけられ死にました。そして、アリマタヤのヨセフという人の手で墓の中に葬られたのです。
  それから3日後のことです。安息日が明けた朝早く女性たちは香料を持ってイエスの葬られた墓へと急ぎました。最後のお別れをするためです。せめても遺体に香料をふりかけてイエスのことを偲ぼうと考えたのでしょう。
  しかし、墓の入り口の石がわきに転がしてあった。ということは、自分たちよりも早く誰かがイエスの墓に来て中に入ったと考えたことでしょう。でも、中に入ってもイエスの遺体は見当たりません。当然途方に暮れました。そこに二人の天使が現れて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と語りかけるのです。
  二人の天使が女性たちに伝えたこととは、イエスの死と埋葬という結末では終わらないということです。イエスと弟子たちの物語がまだ続いていくということです。師匠の死という終わりを迎えたはずの弟子たちの解散が延期されたということです。

  普通に考えてみますと、リーダーを失ってしまえばそのグループは終わります。誰か他の人がリーダーになるということもあり得るかもしれませんが、イエスという強力なリーダーを失ってしまった弟子たちはここで解散しても不思議ではなかったはずです。何せメンバーの多くはリーダーをうち捨てて自分の身を守るために身を潜めたのですから。リーダーと一緒に死ぬのが怖かった。共に十字架に打ち付けられるのから逃げたかったのですから。
  ですから、女性たちが墓の中で見たこと聞いたことを弟子たち(使徒たち)に話したけれど、彼らは「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と書いてあります。イエスが死んでしまったのだから自分たちももうお終いなのだ、もはやどうすることもできないのだという気持ちに陥っていたということです。言うなれば、力を失って打ちひしがれていたので、墓の中にイエスの遺体はなく天使が「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、3日後に復活することになっていると言われたではないか。」と語った言葉も「そんな馬鹿なことはあり得ない」と拒否してしまったのです。わたしたち現代に生きる者が復活の出来事を理解することが難しいのと同じように、当時の弟子たちも「そんなことは起こり得ない」と切り捨ててまっていたのです。

  しかし、もしそこで本当に終わりになったとしたなら、おそらくキリスト教会は成立しなかったでしょう。2000年後に生きているわたしたちも、イスラエルから遠く離れたこの地でイースターの礼拝を行っていることもないでしょう。
  終わらなかったのです。そのことは、今日の聖書箇所のすぐ後にエマオという町へ向かう二人の弟子たちにそれとは気づかないままにイエスが伴って歩んでいたこと、そして、この二人がエルサレムに戻ってみると解散したはずのイエスの弟子たちが集まっていたことに示されています。イエスの死という厳しい現実の中でちりぢりバラバラになっていた弟子たちが再び集うのです。自分たちが死ぬことを恐れ、イエスを見殺しにしてひとりぼっちで十字架につけた弟子たちが再結成されていくのです。
  わたしはこの出来事の中に不思議さを見ます。ペトロも含め、イエスに従っていた弟子たちというのは師匠の最期の場面にすら逃げ出してしまうような弱い人間たちです。おそらくわたしたちと大差はありません。そして、そのために、打ちひしがれ、自分を責めたり後悔していたことだろうと思うのです。最後まで一緒に行動できなかったことに申し訳なさを感じていたことだろうと思います。

3 イエスと出会うということ

  そんな弟子たちに再びチャンスが与えられるのです。それがイエスの復活の出来事の意味ではないかとわたしは考えているのです。そして、そのことはイエスと出会うということを通して可能となることなのではないかと思います。
  教会において、イエスと出会うという言葉は良く使われます。わたし自身も色々な機会において使っています。でも、イエスと出会うというのは観念的なものではないとわたしはこの頃強く思わせられています。観念的というよりは、むしろまさにその一瞬そのときそこでしかイエスと出会えないようなそういう仕方でもってわたしたちはイエスと出会わされているのではないかと考えさせられているのです。

  3月1日にわたしの勤めております学校で卒業式がありました。そのとき、一人の卒業生がわたしに手紙をくれたのです。こうありました。

  ――卒業礼拝で、先生(わたしのことです)は、「キリストは落ちこんでいる人に『頑張れ!こんなとこで何をしているんだ!!』と言うのではなく、ただそっと寄り添っている。」と言ったよね。あの春の先生は私にとってのキリストだった気がする。立ち直れた理由なんかわからない。けど、今は、ただこの学校に入って良かったって思うんだ。私みたいに先生にありがとうって言いたい人はたくさんいると思うから、これからもずっと先生を続けて下さい――。

  わたしは、その卒業生の手紙から、イエスと出会う経験とはまさにその一瞬そのときにそこでしか会えないようなそんな出会いなのではないかと強く思わせられたのです。たまたまその卒業生がピンチに陥っていたとき、ただ話を聞き、できるアドバイスをし、励ましたりなだめたりした。たまたまそれがわたしだっただけです。
  けれども、逆に言えば、実はわたしはその頃本当に調子が悪く、その日その日一日を過ごすだけで精一杯でした。「もう駄目だ」と考えることが幾度もありました。わたしにとっては、その卒業生がイエスであったのだと思うのです。どんなにボロボロであったとしても、否ボロボロであるが故にわたしはその卒業生を通してイエスと出会い、イエスの愛を感じ取ることができたのです。そういうことが、まさにその一瞬そのときそこでしかイエスと出会えないようなそういう仕方でもってイエスと出会わされるというです。

  これは復活という不思議な出来事に直面した弟子たちにとっても同じことだったではないでしょうか。イエスを見捨てて、逃げ去り、もう自分たちはお終いなのだと考えていた弟子たち。打ちひしがれたり、自己嫌悪に陥ったり、仕方ないと言い訳したりしていた弟子たち。申し訳なさや後悔を感じていた弟子たち。
  そんな弟子たちに、イエスは「お前たちはここで終わりではないのだ」と語りかけるのです。十字架の上の厳しい死という現実でもってイエスと弟子たちの物語が終わってしまうのではないと語りかけるのです。再びわたしの元に集まりなさいと再結集を呼びかけるのです。
  そして、弟子たちはイエスのその呼びかけに応えエルサレムへと集まるのです。もう生きているイエスはいない。でも、だからといって自分たちはここで終わってしまうのではないのだと勇気を得るのです。勇気を得た彼ら/彼女らはイエスがキリスト(救い主)であったことを人々に告げ知らせようとし、それこそ生命賭けで宣教活動に進んでいくのです。
 
  死という誰にとっても恐るべき出来事で全てが無になってしまうのではない。死は確かに終わりです。しかし、死によって全てが無になってしまうわけではない。弟子たちがそれに気づいたことこそが勇気の源であったのではないかと思います。
  さらに、弟子たちにはこれまでに生前のイエスと過ごした時間がある。語られた言葉がある。弟子たちはそのことをも思い起こしたのではなかったかとわたしは想像するのです。
  このことは、わたしたちにとっても同じです。聖書を読みますときに、わたしたちは生きたイエスと出会います。あるいは、何気ない日常のひとときに、たとえ後でしか気づかないとしても、イエスと出会わされています。
  そのイエスは弟子たちを勇気づけ、宣教へと送り出したイエスです。困難で辛い日々を送らざる得ない世界の多くの人々の希望となるイエスです。そして、わたしたち教会に集う者のキリスト(救い主)なるイエスです。
  今年イースターを迎えるにあたり、わたしはそのようなことを考えさせられております。

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