その時がいつなのか

2007年2月24日(日)日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教

説教時間:約20分……ナローバンドの方は、パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書13章32−37節(新共同訳)

  「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ言えの主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

1 眠りたいときに眠る

  若い頃は平気だったけれど今はもうできないということの一つに徹夜があります。
  若い頃、それこそ大学時代などは徹夜でレポートを書いて何とか提出期限に間に合わせたり、あるいは朝方まで寝ないで遊んでいたりということができました。が、この頃は無理です。少し夜更かししたくらいで次の日の調子が悪くなってしまいます。毎日夕飯を食べて何だかんだしているうちにすぐ眠くなります。朝特別早起きするわけでもないのですが、早い時間から布団へ行く生活を送るようになってきました。夜起きているというのが苦手になってきました。体力がなくなってきたのも影響しているのだろうと思っています。

  眠るということは人間の生命維持のためには大事なことです。人間は眠らないと駄目になっていくように思います。
  一時期わたしは病気をいたしました。眠りたいのだけれど眠れない、あるいは眠ったのだけれど朝方早く目が覚めてしまってそのまま朝を迎えてしまう。そんなことが続きました。相当ダメージを受けました。食事を食べられない以上に眠れないことの方が辛かったように思います。
  だから、今の状態は自分にとってはある程度好ましいのだろうと思っています。一体何時間の睡眠時間が良いのかということには個人差があるとのことです。それぞれが自分で充分だと思える睡眠時間を確保できればそれで良いのでしょう。わたしの場合今の状態は充分過ぎるくらいだと思っています。
  しかし、眠ってはいけないときに眠ってしまうという場合もあります。
  授業のとき、特に午後の時間などはそうなりがちなのですが、教室で居眠りをしてしまう生徒もいます。部活で疲れているのだろうと思われる生徒や夜更かしをしてしまった生徒。単にやる気のない生徒というのもいるかもしれません。居眠りをしてしまうわけです。わたしの時間はあまり数は多くない(怖いと思っているのでしょう)のですが、教師同士で寝ている生徒のことが話題になることがあります。とはいえ、寝ないという緊張感をずっと持ち続けているのは至難の業でしょう。わたしたち教師は生徒の居眠りに対し、ときどき見ていないふりをし、ときどき起こしてそれぞれの授業をやっているのだろうと思います。

2 目を覚ましていなさい

  福音書において、イエスは弟子たちに何度となく「目を覚ましていなさい」と語りかけています。
  有名な箇所としては、イエスが逮捕される寸前のゲッセマネで弟子たちにイエスはこう語ります。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(マルコ14:34)。そう言われたにもかかわらず、弟子たちは目を覚ましていることができず眠っていたと記されています。
  イエスは弟子たちに
「目を覚ましていなさい」と語ることで何を告げたかったのでしょうか。眠らずに起きていることにどのような意味を持たせたかったのでしょうか。今日はそのようなことを思い巡らしてみたいと考えています。

  今日の聖書において、イエスは
「気をつけて、目を覚ましていなさい」という言葉を語ります。
  というのは、
「その時がいつなのか、あなたがたには分からないから」だというのです。「その時」というのは、この世の終わり、終末のことと理解するのが一般的なようです。
  この世の終わり、終末はわたしたち人間にはいつ来るのかわからない。神さまだけが知っていることなのだと読むことができます。
  が、今日難しい神学論をお話するつもりはありません。そして、やがてこの世の終わりが来て人間は皆裁かれるのだ、だから悔い改めてキリスト者となりましょう、さもないと滅びますよというようなことをお話するつもりもありません。「いついつこの世の終わりが来る」と予告した人々はノストラダムスという人をはじめ古来からたくさんいます。しかし、今に至るまでその誰もがあたってはいませんでした。まだこの世の終わりは来ていないのです。そのことだけは確かです。
  ですから、わたしは考えるのです。神が考えておられること、神の意志とはわたしたち人間には本当にはわからないのだ、と。
  神のひとり息子がクリスマスにベツレヘムで生まれた小さな人間の赤ちゃんになってこの世にやって来たことも当時の多くの人々は気づきませんでした。神は人間誰にでもにわかるような仕方でもって近づいてきたのではなかったのです。それと同じように、いつ終わりの日が来るのかをわたしたち人間は知ることはできないのです。計算上はこうなるとか、聖書のこの箇所によればどうだとか、予測することは無意味なのだと思います。
 
 「その日、その時は、だれも知らない」とは、わたしたちそれぞれの人生がいつ終わるかについても言えるのだろうと考えるのです。

  昨年11月に友人を亡くしました。突然の死でした。
  もし死ぬことがわかっていたなら、彼自身もっともっとやっておきたいことがあっただろうと想像します。彼自身のことだけではなく、わたしも彼に対してしたいことがありました。かなわないまま天に召されました。
  この日で人生が終わるとわかっているならば、わたしたちは自分の人生の最期を輝かして生きられるのではないか、やり残したことなく終わることができるのではないだろうかという思いがわたしの中にはあるのです。この世界が終わるということに対しても、そのことをみんなが知ったならばもう少しこの世の中は良くなるんじゃないかという期待があるのです。が、神はわたしたちにそのようなことを教えてはくれないのです。
  これは、とても厳しいことでもあります。終わりを知ったから変われるのであれば、今この瞬間に変わることもできるはずなのです。このままではいけないと思ったときから変われるはずなのです。でも、わたしも含めて多くの人々はそうはしません。まだまだ時間があると考えています。まだまだ間に合うと思いこんでいます。だから、自分に厳しくすることをしません。会いたいときにあの人には会えるだろう、だから先延ばしで良いと思っています。
  そのようなわたしたちに、イエスは
「目を覚ましていなさい」と語っているのです。
  
「目を覚ましていなさい」とは、備えて待っていなさいということだと思います。注意して待っていなさいということだと思います。それが、わたしたち人間にできる唯一のことなのだと教えているのです。
  唯一のことであるにもかかわらず、難しいことでもあります。じっと待っていることは辛いのです。同じ場所にとどまっているよりもあっちこっちと動き回りたくなってしまうのです。いつも緊張感を持って生活するのは難しいのです。なかなかができないのです。眠りたいのに眠れず、眠ってはいけないときに眠ってしまうのがわたしたち人間なのかもしれません。だから、「気をつけて、目を覚まして」いなければならないとはわたしたち人間にとって厳しい言葉なのだと思います。

  さらに、ただ単に目を覚ましていればそれで良いわけでもないと思います。
  先日、千葉県の沖で海上自衛隊のイージス艦と漁船の衝突事故が起こったのはニュースなどでご存じの通りです。
  早朝の時間帯でした。イージス艦には見張りの隊員がいたのです。衝突する12分前には漁船の灯りを確認してもいるのです。でも、衝突したのです。一体見張りの乗組員は何を見ていたのでしょうか。目を覚ましていたはずです。乗組員としての仕事を果たしていたはずのです。詳しいことはこれから次第に明らかになっていくことと思います。が、事故が回避されなかったこととは、漁船が見ていたのに見えていない、目を覚まして見張りをしていたにもかかわらず見張りの役目をしっかりと果たしていなかったのではないかとすら思えるのです。今日の聖書箇所はどういうわけかタイムリーだったような気もします。
  続けてイエスが語ったたとえは、主人から僕たちが仕事を割り当てられ責任を持たせられ、門番には目を覚ましていなさいというところからはじめられるものです。
  いつ帰ってくるのかわからない主人を待ち続けるのは大変なことです。が、わざわざ「仕事を割り当てて、責任を持たせ」と書いています。誰が何をやっても良いのではなく、それぞれに役目があるわけです。「責任を持たせ」とはそういう意味です。誰かに代わってはもらえないその人の仕事を、その人が責任を持ってやるということです。

3 責任ある役目

  このたとえは福音書の中にあるいくつかのたとえに似ている部分があります。
  「主人が旅に出かける」というところから思い出されるのは、
マタイによる福音書25章14節からのタラントンのたとえと呼ばれる物語です。
  簡単にストーリーを紹介します。主人が旅行に出かけるとき僕たちに自分の財産を預ける。それぞれの力に応じて一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン預けます。かなり日がたって主人が帰って来る。5タラントン、2タラントン預かった僕は商売をしてさらにお金を増やした。が、1タラントン預かった僕は穴を掘って埋めておいた。そのことを主人に責められるという物語です。
  わたしは最初読んだとき、どうして主人が1タラントンの僕を烈火のごとく怒るのかわかりませんでした。が、1タラントンの僕は自分が何もしなかったことを「主人が恐ろしい人だと知っていたので」と言い訳しているのです。自分で自分に限界をつくって、「能力ないからやらなくて良い」と自己完結しているのだと思いつきました。
  確かにわたしたち人間の能力は平等ではありません。が、たとえ能力があまりないとしても、だからといって何もしなくていいことにはならないのだと思います。任された以上はやってみることが必要なのだと思います。今日のこのたとえと重ねてみるとき、1タラントンの僕には主人から1タラントンの責任が負わされていたのだと思います。門番には「目を覚まして」いる責任があるのと同じです。

  振り返って考えてみるとき、わたしたちも注意力散漫なことが多々ある存在です。大事なときに眠りこけていることもあります。できなかった言い訳をして自分を正当化してしまうこともあります。
  日々の生活において夜は眠らなければなりませんし、ときどき居眠りもするでしょう。いつこの世が終わるのかわかりません。わたしたち自身の生命がいつ最期を迎えるのかすらわたしたちは知らないでいます。
  けれども、神はそのようなわたしたちに「目を覚ましていなさい」と命じておられます。この言葉を心に留めたいと思います。神はわたしたちに何らかの責任を与え、それを全うすることを求めておられるのだと考えます。どんな人の人生にも意味はあると信じます。そして、意味を持たせるのは他ならぬその人自身なのだと思います。

  神さまの意志はわたしたちには本当にはわからないのかもしれません。わからないのだと思います。でも、想像することはできます。そして、それを実現しようとすることもできます。それぞれの生活においてです。その日がいつなのかわかりません。
  でも、わたしたちには生きている今日があります。
マルティン・ルター「世界がたとえ明日滅びるとしても、それでも今日わたしはリンゴの木を植える」と言ったそうです。目を覚まして、しっかり生きていきたいと願います。今日できることを尽くしたいと願います。

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