異なる言葉で語る

2008年10月19日(日)日本キリスト教団藤崎教会主日礼拝説教

説教時間:約20分……ナローバンドの方は、パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:創世記11章1〜9節(新共同訳・旧約)

 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

1 「言葉」の仕事

 わたしは教師という仕事を生業としております。キリスト教主義学校の教師であり牧師である「宗教主任」という肩書きで仕事をしているわけです。
 教師でも牧師でも言葉を扱う仕事だということは同じなのではないかと思っております。文字を読む。文字を書く。話をする。あるいは、話を聞く。全て言葉に関することです。考えるときも、言葉にして(言語化とでも言うのでしょうか)思いを巡らしています。日々言葉を使わざるを得ないで仕事をしています。黙っていては商売にならないのです。だから、何とかして自分の使う言葉を磨き、そつなく使いこなせるようにしたいという思いがわたしの中にはあります。
 しかし、最近言葉をそつなく使えることが一番大事なことなのだろうかと考えるようにもなってきました。このことは、ある意味では今でも大事だと思っています。が、もっと大事なこともあるのかもしれないと考えるようになってきたのです。

 昨今の若者(わたしの学校の生徒たちも含めてです)の言葉遣いはひどいものです。皆さんもTVなどで耳にすることがあるかもしれません。「カンケーないし」「イミわかんない」「ウザイ」「キモイ」「キショイ」「ムカツク」などなど、聞いていて「何じゃこれは!」と思うことがあります。まあ、わたしのような怖い教師の前だとそういう言葉はあまり出さないようにしているようです。でも、学校で、あるいは町中で、そのような言葉が用いられているのが現代の若者たちの状況なのでしょう。そのような若者たちに言葉を通じさせるためには、言葉をそつなく使えることでは駄目なのだろうと考えるようになってきました。わたしが彼/彼女たちが用いている言葉を同じように使うことが大事だと思っているわけではありません。それこそ彼/彼女たちにすればかえって「イミわかんない」「ムカツク」になってしまいます。

 「カンケーないし」「イミわかんない」「ウザイ」「キモイ」「キショイ」「ムカツク」というような言葉は、おそらく彼/彼女たちが自分を守るために口にする言葉なのだろうとわたしは思っています。多くの場合、本当に関係がない赤の他人に向かって「カンケーないし」とは言わないのです。家族や友人、教師というような関係がある人々に言うのです。「イミわかんない」は自分が同意できないとき、「イミわかりたくない」ときに用いるのです。あるいは、理解できる範疇を超えた出来事に出会ったとき、他の言葉で言い表すことができないで使うのです。「ウザイ」「キモイ」「キショイ」「ムカツク」も同じです。自分が相手よりも優位に立つために、相手をおとしめるために用いられるのです。言うなれば、自分と誰かを分断し、何とかして自分を守るために使われる言葉なのだろうとわたしは分析しているのです。多分無意識のうちにです。言葉がコミュニケーション、すなわち伝達の手段ではなく分断するための方法となっているということです。

2 神は《降って来る》

 旧約聖書、創世記にはバベルの塔と呼ばれる物語が記してあります。人間の傲慢を神が打ち砕いた話だとか、世界中にたくさん言葉があるのは何故か説明するための話だとか言われています。が、おそらくこの物語の一番大事なテーマは言葉ということだと思います。
 物語の展開はそんなに難しくはありません。東の方から移動してきた人々がシンアルの地に住みやすそうな平野を見つけ移動します。そこに住み着きます。そして、天まで届く高い塔のある町を建てようとするのです。建築資材を工夫して、石の代わりによく焼いたれんがを、しっくいの代わりに丈夫なアスファルトを用いて塔のある巨大な都市を建設しようとしたわけです。けれども、その企ては途中で中止させられてしまうのです。神は介入し、建設の途中にして人々は全地に散らされてしまうのです。

 《さあ、天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう》と考えた人々にとって、言葉が通じることは極めて大事だったかもしれません。意志が伝わるのです。理解もしやすいのです。通訳は要りません。言葉がお互いに通じます。更に、おそらく財力もあったことでしょう。建築作業ってどこでもそうですけれども、みんな一緒に「わっせ、わっせ!」とはやらないですよね。やっぱり現場監督がいて実際に働く人たちがいるわけですよね。だとすれば、まわりの人々に命令ができる、支配をすることができる、そのような権力ある人々がいただろうと想像されます。しかし、そのときに、神は人間たちのもとに《降って行って》、人々の言葉を混乱させたのです。《主は降って来て》と書いてあります。神は高いところから降りてきて、人間の暮らす地平まで目線を下げたことが強調されているわけです。

 もうひとつ。このことは、人間の用いていた言葉を神が理解していたことを意味してはいないでしょうか。人間が考えていることや思うことを理解しない神であったなら、建設を途中でやめさせることもできなかったでしょう。もっと言えば《降って来て》言葉を乱し、お互いの言葉を聞き分けられなくする必要はなかったのではないでしょうか。
 このことは、もしかすると、このとき話されていた言葉に問題があったのかもしれないとは考えられないでしょうか。人と人とをつなぐため、理解し合い、尊重し合うためではない言葉を語っていたからやめさせたのではなかったでしょうか。そこにいるみんなが必死になって、一緒になって同じ作業するのではなく、命令する者と命令される者、作業させる者と作業をする者となっていたらどうでしょうか。
 それは、言葉がコミュニケーション、すなわち伝達の手段ではなく分断するための方法となってしまっているということです。通じることが一方の利益と一方の不利益を生み出しているということです。上下関係を作り、支配する者と支配される者、ラクをする者とラクができない者を分かち区別しようとしていたらどうでしょうか。

 散らすこととは、一致できなくなることです。混乱することとは、めんどくさいことです。言うことを聞き、それに必ず従うようにするためには言葉が通じる方が便利なはずです。でも、神はそうはしなかった。最先端技術を用いて建設作業をすることが見えない壁を作ってしなうことにつながるとしたならどうでしょう。言葉がお互いに通じないことよりも大変な事態になってしまうのだと考えたのではなかったでしょうか。言葉が分かり合えるが故にお互いの意志や思惑や願望が通じてしまう。過剰に通じ過ぎてしまうのであれば、それはそれで困ったことになるのではないだろうかと考えるのです。

3 同じじゃなく違うことが豊かさを生む

 そう考えると、言葉って一体何なのだろうと思います。
 海外旅行に行く人はたくさんいます。その国の言葉が全く話せないのに一人で楽しく無事に旅行してきたという人の話を聞くことがあります。どうやって意志を伝えるのでしょうか。日本語で何とかなるという人もいました。身振りや手振り、ありとあらゆる手段を用いて言いたいことを伝えようとしたというのです。そして、相手が何を話しているか耳を傾け仕草をしっかり見、わかりたいと思うと自然に通じてくるというのです。普段の日常は異なる言葉で生活していたとしても、非日常において何とか言葉が伝わることはあるのだというのです。言葉が人々を分断していくものとなってはいけないのだと思うのです。そうではなく、人々をつないでいくものとなならなければならないのだということです。「OK?」と聞くと「It is OK」と答えてくれるようなものだということです。異なる言葉で語っていることがマイナスに働くのではなく、お互いに歩み寄るその瞬間を作っていくということです。何とか必死に伝えよう、何とか必死に受け取ろうとしたことが生きてくることがあると思うのです。 

 神はわたしたち人間に対して一致団結をし、「同じ」ことを「同じ」ようにやることを望んではおられないのではないかと思います。あるいは、支配する者と支配される者という関係を作り出したくはなかったのではないかと思うのです。分け隔てや分類や疎外を拒否したのではなかったかと思うのです。そうなる前に、人々の言葉を混乱し、人々を散らしていくことで豊かさを、多様性を生み出す可能性を示したのではないかと思うのです。
 どうしても「異なる」こと、「違っている」こととは良くないことであるイメージをわたしたちは持ってしまいます。「違い」が「間違い」だとされてしまいがちなのです。だから、「同じ」になることを求めてしまいがちなのです。「同じ」だと安心できるし混乱しません。

 でも、この物語において、神はわたしたちに示します。「異なる」ことや「違う」ことが生み出す豊かさや多様性をです。わかるという思いこみから解放されていけるのです。言葉が「違う」ことがわたしたちを分断していくことにつながっていくのではなく、言葉が「違う」からこそお互いに丁寧に関係を作り出すことができるのだという可能性を教えてくれているのだと考えるのです。お互いを再び出会わせ、思いを語り合い、対話し合い、関係を深める可能性を与えてくれるのだと考えるのです。

 最後に、使徒言行録の2章のことに触れます。《すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした》と4節にあります。この場面は聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の記述として知られています。イエスの弟子たちはみんなガリラヤの出身で他の言葉など話せるわけはないのに、どうして話せたのだろうと見ていた人は不思議に思ったと書いてあります。
 わたしは、このとき弟子たちがこの出来事から力を得てイエスの福音を宣べ伝えて行ったということに注目します。自分が普段使っていない言葉を話した。神の偉大な業を語った。そして、そこから宣教がスタートしていく。「異なる」言葉で語ることがマイナスになってはいないことがわかります。分断されたのではないことがわかります。そこから力を与えられたことがわかります。

 わたしたたちが目指すものもそのようなことではないでしょうか。他人を切り捨てたり分断したりすることではない。お互いの違いを認め合い、豊かさや多様性をつくり出すあたたかな社会を作り上げていくことが求められているのだと思います。わたしたちの生きるこの時代、同じ言葉を話しているにもかかわらずお互いに思いが伝わらない現実の中におかれています。言葉がコミュニケーション、すなわち伝達の手段ではなく分断するための方法となっているということも多々起きています。でも、あきらめてはいけないと思います。まず、わたしたちの生きる小さな生活の中において、お互いに通じ合う言葉を通わせたいと願います。


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