たとえ歓迎されない存在であったとしても

2011年12月25日(日)日本キリスト教団 新生釜石教会 クリスマス礼拝説教

 説教時間:約20分

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聖書:詩編21編2〜8節(新共同訳・旧約)

 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び躍る。
 あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まず、彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。
 願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世々限りなく加えられた。
 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。
 あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
 永遠の祝福を受け、御顔を向けられると、彼は喜び祝う。
 王は主に依り頼む。
 いと高き神の慈しみに支えられ、決して揺らぐことがない。

聖書:マタイによる福音書2章1〜11節(新共同訳・新約)

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
 そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、ベツレヘムへ送り出した。
 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

1.繰り返されるエピソード

 しばらく前のことになりますが、自宅で何気なくテレビを見ておりました。北海道の小さな町で医師をしている人を撮した番組でした。すごく生き生きと活躍している様子が伝わってくる番組でした。その様子は取材をしている人たちにも伝わったのでしょう。インタビュアーがこう尋ねたのです。「大変なことも多いでしょうに、その元気や活力はどこから出てくるんでしょうね?」と。すると、その医師はこう答えたのです。「色々大変なことはあります。でも、先生ありがとうとか言われることも多いのです。そういう繰り返されるエピソードに励まされているんだと思います」と。
 「繰り返されるエピソード」という言葉にそのときのわたしははっとさせられました。
 医師とは人の生命を預かる仕事ですから、おそらく困難で辛いことも多いでしょう。無力さを感じることもあるでしょう。でも、そういう中で他人からかけられる感謝の言葉や笑顔に達成感や充実感を感じ、励まされていく。それが何度も何度も繰り返されることで前へ進む勇気を得ることができる。明日も自分の役割を果たしていこうと思える。繰り返されるエピソードとはそういうことなのだと思いました。そして、わたしたちもまた繰り返されるエピソードによって励まされていくのかもしれないと思わせられたのです。

 クリスマスとはイエスの誕生であり、喜びの訪れです。毎年毎年、わたしたちはイエスの誕生の出来事を記念し、忘れることなく祝い続けています。イエスがこの世界に誕生してきた意味を考え、思い起こし、心からの讃美をもって礼拝を行います。そのような意味において、クリスマスとはわたしたち教会が繰り返し続けているエピソードです。キリストと呼ばれるイエスが、クリスマスと呼ばれるときにこの世界に遣わされた。この出来事がなければキリスト教は成立していなかったでしょうし、わたしたちがクリスマスを祝うことはなかったことでしょう。

2.占星術の学者たちの思い

 けれども、イエス誕生の物語を聖書でたどる限りにおいて、「救い主イエスが生まれてきて良かったね。メデタシメデタシ」という単純な構成にはなっていないのです。といいますのは、イエスの誕生にかかわった人々が感じた心の動きや行動が強調された描かれ方がなされているということです。加えて、イエスの誕生を知りそのとき祝った人々もごく限られた人々でしかなかったということをも描き出しています。更に、イエスの誕生の知らせを聞いて不安すら感じた人々がいることをも描き出しているのです。

 マタイによる福音書のイエス誕生物語において、イエス誕生の出来事を一番最初に祝ったのは占星術の学者たちであると書かれています。占星術の学者たちは、東の方からやって来たとわざわざ書いてありますので、当時のペルシアあたりからやって来たのではなかったかと考えられます。旅をするのがとても困難な時代のことです。当時の交通手段と言えば、歩くか馬かロバかラクダくらいしかなかったことでしょう。それに、旅の途中で追いはぎに襲われたり、砂漠の真ん中で砂嵐に遭遇したりということもしばしばあっただろうことが想像されます。そんな時代の中にあって、学者たちは「ユダヤ人の王」が新しく生まれることを知ります。星が教えてくれたのです。だから、ユダヤまで行ってみることを決意します。どうしても会ってみたいと考えたのでしょう。ペルシアあたりからやって来たのではないかとと申しましたが、そうすると、この占星術の学者たちは異邦人ということになります。

 そして、生まれたのは「ユダヤ人の王」です。異邦人である彼らに「ユダヤ人の王」の誕生は関係ないはずです。王とはその国を治める人であり、「ユダヤ人の王」はユダヤ人を治めるべき存在です。異邦人はその範囲に入っていないはずです。それなのに、時間と手間と労力をかけて自分の国から旅して来るのです。皆さんならどうでしょう。わたしなら、面倒くさいとか手間がかかると考えてやめてしまうかもしれません。が、占星術の学者たちはわざわざやって来るのです。ここに学者たちの並々ならぬ熱意と情熱を見る思いがします。

3.歓迎されない存在

 けれども、そんな学者たちを迎えたのはヘロデという人物とエルサレムに住んでいる人々です。学者たちは尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」でも、それに続く聖書の言葉はこうです。「これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」
 「ユダヤ人の王」の誕生の知らせを聞いて、ヘロデという王様も、そしてエルサレムという大都会に住んでいる人々もそれを喜ぶことはできなかったということです。喜ぶどころか不安さえ抱いたというのです。ということはどういうことか。イエスは、当時の人々に歓迎されない存在として生まれてきたということです。今イエスが生まれてきた。この方は救い主(キリスト)だとみんなが歓迎するようなそんな誕生ではなかったということです。

 この世に生まれて来たのに歓迎されない状態。多くの人々はイエスのことを救い主だとは思えない状態。もっと言うならば、「あなたが生まれてきては困る」「あなたがこの世に誕生しない方が良かった」とすら考える状況の中でイエスの誕生が起こったのだと思うのです。その最たる例がヘロデという王様です。
 ヘロデなる王様は本当にひどい王様であったようです。わたしの学校で使っている高校1年の聖書の教科書の中に、「彼は疑い深く、残忍で、人を信じられない性格であった」と書いてあります。ヘロデは自分の家族や肉親も疑いをかけては殺し、あるいは自殺に追いやり、たくさんの人たちを死に追いやった王様として伝えられています。
 ヘロデは新しい「ユダヤ人の王」誕生の知らせを聞かされて、自分の王としての地位が奪われるのを恐れました。そして彼は自分を守るために他人を犠牲にすることしか思いつきませんでした。結果的に、彼はベツレヘム近郊に住んでいた2歳以下の男の子を皆殺しにするというとんでもないことをしたと記してあります。
 自分にとって邪魔な存在が生まれたらしい。これはこの世から抹殺しなければならないと考えたわけです。クリスマスという喜びの裏に、子どもを殺された父親や母親の悲しみが隠されています。イエスがこの世に誕生してきたその出来事の陰には数え切れないほどの不安と悲しみがある。本当であれば、歓迎されて生まれてくる存在が、そうではなかった現実の中で生まれてきたのです。

 自分たちとは本来関係ないのかもしれない他の国の王の誕生を祝いに来た占星術の学者たちと、自分の国で生まれてきたのにその存在を歓迎できないヘロデとエルサレムの住民たち。ここに歓迎と不安のせめぎあいが映し出されています。一握りの数少ない人々の歓迎と、その誕生に変化の兆しを感じ変化を望まなかった人々の対比です。聖書はわたしたちにそのことを伝えているのだと思います。  

4.無力感や暗闇を越えて前へ進む

 わたしたち人間は誰でも、この世に誕生してきたときに喜ばれ歓迎される生命です。いなくていい人など一人もいません。「あなたが生まれてきては困る」とか「あなたがこの世に誕生しない方が良かった」などと考えるのは間違っています。
 でも、今わたしたちが生きているこの社会では親が生まれたばかりの赤ちゃんを、大人が世話すべき子どもを虐待したり放置したりする悲しい、いたましいニュースが耳に入ってきます。子どもを愛せない状況まで追いやられた大人たちの苦悩を思うと、悲しくなります。そして、自分自身の存在を否定し、自分自身を好きでいることのできない子どもたちの切なさを思い胸が痛みます。心の中に暗闇を抱え生きざるを得ない人々がいることを、そしてわたしたち自身の心の中にも無力感や暗闇があることを思わせられます。

 「どうせ何をやっても無駄だ」とか「何ともならない」とかそのように考えてしまうとき、わたしたちの心の中に無力感や暗闇があります。あきらめや仕方なさがあります。そのようなとき、わたしたちは希望を見出し得ない。夢を語り合うことができない。悪いのは誰某のせいだと悪口を言ってしまいたくなる。立ち止まったまま前へ進めなくなります。ヘロデやエルサレムの住民たちと同じように、不安を抱いてしまうのです。何かを信じることが難しい状況を生みだしてしまうのです。信頼や愛のない世界をつくり上げてしまいそうになるのです。

 けれども、わたしたちがつくり上げたいのはそのような世界ではありません。信頼や愛のある、温かくて優しい世界です。一つ一つの生命に、「この世に生まれてきてありがとう、心から歓迎するよと」言葉をかけられる世界をつくり上げたいのです。あきらめたり仕方ないと言い訳したりしないで、そのとき自分のできることを尽くすわたしたちでありたいのです。希望を持ち夢を語り合えるわたしたちでありたいのです。もしかしたら自分たちとは関係ないかもしれないけれど、はるばる旅をしてきて「ユダヤ人の王」に一目会いたいのだと語り、赤ちゃんのイエスに黄金と乳香と没薬を献げる占星術の学者たちの姿勢に学びたいのです。不安に押しつぶされ、自分を守るために子どもを殺してしまうヘロデになってはいけないのです。

 クリスマスとは、わたしたちが励まされる繰り返されるエピソードです。イエスはわたしたちの生きるこの世界に希望や愛をもたらすために来られたのです。たとえ当時の人々が歓迎できない状況であったとしても、イエスはクリスマスと呼ばれる日にわたしたちの世界に遣わされたのです。「どうせ何をやっても無駄だ」とか「何ともならない」とか考えてしまうわたしたちの無力感や暗闇を消し去り、前へ進む勇気を与えるために来られたのです。クリスマスとはわたしたちを毎年励まし続ける繰り返されるエピソードです。

 イエスはわたしたちと同じ人間の姿で、いたいけな赤ちゃんの姿でこの世にやって来ます。彼は暗い現実の中にある人々にも、打ちひしがれ無力感にたたずんでいる人々にも、喜びをもたらすためにやって来るのです。クリスマスのことのき、わたしたちは彼を心から喜んで歓迎したいと思います。たとえ、わたしたちが今辛く悲しい状況にあろうとも、イエスの到来に希望を見出したいと思います。心から喜んで、心から歓迎して、イエスを迎えたいと思います。

 

 

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