みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2009年9月のテーマ: 「神の業がこの人に現れるためである」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
当教会は、ホームページ上での聖書の引用に関して、
日本聖書協会の認可を受けています。

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■ヨハネによる福音書 9章1~3節(新共同訳・新約・p.184)

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。
3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

(毛利さんのリクエストより)

朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師
そろそろ8月も終わりの足音が近づいてきております。
9月の「みんたた」のテーマを募集しております。

聖書の箇所、あるいはメッセージのたたき台でも結構です(メッセージのたたき台の場合は、メッセージの全体、または一部を私にメールで送ってください。テキストファイルでもMSワードでもOKです。

みんなでたたいて学び合いましょう。
どうぞよろしくお願いします。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師
2009/08/25 (Tue) 08:36:39

私がいま思っているのは、ヨハネ福音書9章1?12節、特に目の見えない人についてイエスが、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」という言葉を巡って、思うこと考えることを話し合いたいと思いますが、いかがでしょうか?

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/08/25 (Tue) 13:01:46

なかなか興味深い内容だと思います。ひねくれ者の私はきっと曲解した解釈をしてしまいそうですが。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/08/25 (Tue) 19:42:31

どうぞどうぞ!(笑)ひねくれた解釈大歓迎です。
もちろん、「それはひねくれ過ぎだよ」と思った時にはそう言いますけど(笑)。いろんな異なる意見が飛び交うほうが面白く有意義だと思っています。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - れお
2009/08/26 (Wed) 20:42:01

こんばんは。言われてみれば、ここは気になっていたのに、いざというとき思いつかないのです…私。

私の場合は「目の見えない者」が血縁関係にいるので、かなり躓きになっています。片目の視力がゼロです。私はその人から長年暴力を振るわれてきたので「どこに神の業があるというのだろう?」と、この箇所にはかなり反感を持っています。
冷静に考えられるかかなり不安ですが、考えたいです。

暗い話してすみません。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - トマス
2009/08/26 (Wed) 22:11:50

そういえば、この箇所も謎ですよねぇ。
前に富田先生も何かのスレで書いてましたけど、この人以外はどうなるんだ?治してもらえなかった人は何なんだ?ですものね。

あ、まだ内容について書くとイカンですね。
この箇所、いいんじゃないでしょうか。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/08/26 (Wed) 22:57:31

まあ、先に発言をしていただいても、適当に「みんたた」のサイトのほうで合成しますから、大丈夫ですよ。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/09/04 (Fri) 23:06:47

もう9月も4日になってしまいましたが、今日やっと8月の叩き合いを、本サイトにUPしました。なかなか深い対話になってますよね。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - れお
2009/09/04 (Fri) 23:47:20

神の業は本当に分かりかねるなぁと思います。
「生きているうちに、色んな経験をするし、物凄い傷も次第に癒される。傷も恨み、辛みだけを表していたけれども、時間が経てば解釈が変わる」だけじゃないの?って突っ込みを入れながら読んでいました。
それは「神の業」なの?
人間の忍耐力や「時間」のなせる業なのでは?と思っていました。

まぁ、今ではその忍耐ってヤツも自分で成した感じはせず…やっぱり半分は背負ってもらっていたんじゃないかな、神に…なんて思うようになりましたけど。

神の業って本当に何なのだろう?
信仰歴の長い方に聴くと、確かにいろんなつらいことはあるけれども、そのときは自分の思うようにしてくださらないことは多いけれども、今ふりかえってみると「ああ、これでよかったんだ」と思うのです…そんな話を聴きます。

そういうことなんだろうと思います。
時間が経たないと分かりませんけど、目の見えない人に限らず、生きていると色んな障害がありますが…。

※時折記憶が蘇るので、イラッとすることもありますが、段々と落ち着いてはいますので、昔に比べれば読んだり、考えたりしても大丈夫です。過激な発言をしてしまって、すみませんでした。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/09/05 (Sat) 01:31:53

この話が「歴史的事実」だとすれば本当に素晴らしい話ですが、フィクションだったとしても「人には解決できない問題でも神には簡単に解決することが出来る、そしてその神の業を人々に見せるために問題を敢えて与えているのだ。だから諦めずに待ちましょう」というメッセージを伝えているという意味では人々に希望を与えると思います。

ただ、希望は与えるのですが、現実はどうなんだろうと思えてならないです。例えば子供を亡くした親、これも神の業なのでしょうか。神は一人の人間(親)を救うために、意図的に別の人(子供)を殺したりするのでしょうか。亡くなった人が蘇ることがあれば、それこそ神の業以外は考えられませんが、そんなこと1度も起きていないですよね。そういう悲しい体験をした人が後々になって「子供を亡くしたのは、今にしてみれば良い経験だった」なんて言える筈もないと思うのです。

慰めのつもりが慰めになっていないし希望にもつながらない。それならば、希望は全く与えませんが「あんたの前世での振る舞いが悪いから現世で苦しんでいるのだ」という解釈をする仏教(?)の教えは合理的だと思います。実際、今の私は「前世が悪いから苦しめられている。現世でのお前の将来は真っ暗だ」と言われた方が納得します。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - れお
2009/09/05 (Sat) 13:09:10

毛利さん、こんにちは。
実際に子供さんを亡くした方が「神様が私のためにしてくださったこと」とおっしゃったのを聴いて、私は非常にショックを受けました。
何故なんだろう、どうしてこの人はそんなことを言う(正確に言うと「言える」)のだろうと…。

この箇所は私も慰みなのかな…と思います。

しかし、一方で「神の業」は「私達人間が考える神の業」とは違うのかなぁと思ったりもします。

つい最近ですが、「平和をもたらす」とか「剣をもたらす」の箇所で躓きました。剣なんて物騒なことを言うなぁと思いましたが、どこかの説教では「神様の考える平和と人間の考える平和は違うんです」とありまして、「神の業」とやらもそうなのかなぁと思ったりもするし、「ふざけるなよ?」といらだつ日もあり…結果的に害になるので、この箇所は読まないことが多いですが…。

う?ん、何なのでしょうね、この聖句は…。

>神は一人の人間(親)を救うために、意図的に別の人(子供)を殺したりするのでしょうか。
特にヨブ記なんて読むと、頭が痛くなります。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/09/05 (Sat) 14:40:10

では、次の(10月の)みんたたのテーマは、剣をもたらすためにイエスが来たという「平和ではなく剣を」(マタイ10章34?39節)にいたしましょう。
楽しみが増えましたね。でも、一応ここのスレでは、ヨハネ9:1?12に関する発言でお願いします。

>毛利さん
「子供を亡のは、今にしてみれば良い経験だった」なんて言える筈もないと思うのです。」のことなんですが、私もれおさんのように、子どもを亡くした方を知っています。
「神さまが私のためにしてくださったこと」とは、クリスチャンではないので言っておられませんでしたが、その子が短い間この世に来てくれたことをとても感謝しておられました。
もちろん、死後の魂のことを信じて、「いつかは私もあの子に再会できる」と思っておられることもあるのでしょうが、それとは別に、すべてのことは自分にとってよかったと思っておられるのですね。
ですから、「子どもを失った人が、後から『よかった』と言うことは、可能性としてはありうると思います。

ただ、ここで間違ってはいけないのは、だから「子どもが死ぬことはいいことなんだ」と短絡的に論理をすっとばして結びつけてしまうことですね。
最近でも私は、ある方とメールのやりとりをしていて、大げんかになって着信拒否をされたことがありました。
その方はある病気を患っていて、もうたぶん一生その病気とともに生きていかないといけない人です。その方が、「この病気を与えられたことは、私にとって恵みであった」とおっしゃるのです。しかし、その方は「だから病気は恵みだ」とおっしゃるのです。私は、「それは誰に対しても言えることではない。苦しんでいる最中の人に『あなたのその苦しみは恵みですよ』とは言えない」と反論しました。さらに、「すべての苦しみは神が与えたものだ、という考え方はしないほうがいい」と言いました。
そのために、「病気は神が与えた恵み」と信じていたその人の信仰を否定する形になり、その方は怒って通信を切られました。

しかし、私は思うのですが、やはり「病は恵み」「飢えは恩恵」と言ったりするのは違うと思います。
しかし、神への信仰は、その病の苦悩を喜びに、あるいは喜びを得るきっかけに変えてくれる、ということは言えると思います。信仰、あるいは謙虚な心、でもいいんですが、そういう心の状態が少しあると、苦しみから喜びを生み出したりする奇跡が起こりうるのではないかと思います。

そして、それには時間が必要です。人によって数日だったり、何年もかかるときもありますけど、時間をかけたら、苦しみから喜びが生まれることも不可能ではないと思います。

私自身のことを言えば、やはり心の病を得たことは、最終的には自分にとってよかったと思います。そのために、自分を大事にするようになったし、人も大事にしようと思いますし、学ぶことも多かったです。
最終的にはよかったのですが、しかし、たとえば「死にたい」と悶え苦しんでいるときに、「その苦しみは恵みですよ」と言われたら、その人をどうするかわかったものではありません。よかったと思えるようになるには、心が変化するのにじゅうぶんな時間が必要なんだと思います。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/09/06 (Sun) 01:11:54

「子供が亡くなって良かった」と、そこまで直接的な言い方はしていませんが、それでも「亡くなったことは意味があった」という表現でしたね。ある教会の牧師さんのことですが。牧師という立場からの発言かもしれません。或いは本気で復活を信じているからそう言えるのかもしれません(でもイエスを信じた者でないと復活しないとも一方で言っていて、その子は死産だったのでイエスを信じていないので復活はしないよな、とか、そういう矛盾は感じるのですが)。

病気を患っておられる方の話を聞いて、ある教会で聞いた話を思い出しました。それは「母親を亡くした女性が自殺をしようと電車に飛び込んだけれど脚と腕と指を切断する大怪我を負って命を取り留めて、後にイエスを信じて救われた。結果として、その方は2本しか残っていない指を見ながら『これも神の導きだ』と感謝している」というものです。その教会の牧師さんは「どんな逆境でも神は人を救いに変える」と言いたかったようですが、それを聞いていた信心深くない私には「それって神のすることか?本当に神がいるなら、そんな遠回しなことをして苦しめることをせずに信仰の道に入れるでしょうが」と思ったものでした。

もしも神が本当に恵みを見せるなら、無条件に、誰も傷つける/苦しめることもなく、信じられないくらい見事なシナリオで恵みを提供すると思います。紆余曲折があって何とか今は幸せになったというのではれば、10中8, 9神の恵みではないのだろうと私は思っています(神の考えは知りません、私の独断で申し訳ないです)。

「苦しみは恵みだ」と、どんな辛い状況でもご本人がそれで満足しているのであれば、それはまぁ構わないのかなと思いますが、ただ、それを他人に強要する/同意を求めるのは違うかな、と。実際、聖書の箇所に登場する盲目の方も、イエスが治そうとした時に「治さないで下さい、盲目でいることは恵みです」と言ったのではなく、素直に治してもらった訳ですから。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/09/06 (Sun) 01:32:26

はい。だから私は、「その苦しみは、たぶん神が与えたのではないと思いますよ」と言います。

ところが不思議なことに、とんでもない悲劇を経験した人が、過去を振り返って、「この苦しみを経験する前よりも、今のほうが幸福だ」とおっしゃる時があるのですね。
本人の満足ですからそれでいいのですが、人間の心というのは不思議な力を持っているなと思います。

「素直に治してもらった」そうです! そのとおりです。やはり治りたいという願いを否定してはいけないし、治ることは大事なのです。
しかしその一方で、治る望みがないと現代の医学で宣告されている人もいます。聖書では治っているけど、この2009年の現実においては、治らないという人はたくさんいます。その人を何が救うのか、ということを見つめていたいです。

それから、治らないと信じていた病気が、医学の進展で治る病気に変わったとき、「この病気と共に生きる」ことを生きがいにしてきた人が、治療を拒否するというケースもありうるのではないかと思います。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/09/06 (Sun) 03:01:49

> その人を何が救うのか、ということを見つめていたいです。

当初の私の発言と矛盾したことを言いますが、やはりそれは神の領域なのだと思います。そういう患者さんに対しては原理主義的に「聖書に書いてある通り、貴方の病は神の業を見せる為なのです。聖書にそう約束されています」という説明がベストなのだと思います。

私の知り合いが癌にかかって苦しんでいると聞いて、私は無責任かもしれませんが「聖書の神は貴方を救ってくれる、貴方がするべきことは、聖書を少しでも開いてみるということです」なんて言ったものでした。彼も「自分も聖書の言葉で励まされている、勇気をもらっている」と返事をしてくれました。

仮に病気が治らなかったとしても、その方が精神的に立ち直って前向きに考えられるようになり恐怖を少しでも和らげることが出来るのであれば(更に言えば神に守られているという安心感を得られることが出来るなら)、それは良いことだと思いますし、そういう側面では私は今回の聖書箇所は「素晴らしい」と思うのです。

ただ、先生と同じことを書いてしまいますが、今の自分にその言葉を言われても、何も響かないしむしろ「人ごとだと思って何を無責任なことを言っているのだ」と思うでしょう。もしかしたら、まだそこまで追い詰められていないのかもしれません。自分でも良く分かっていません、すみません。

> それから、治らないと信じていた病気が、医学の進展で治る病気に変わったとき、「この病気と共に生きる」ことを生きがいにしてきた人が、治療を拒否するというケースもありうるのではないかと思います。

これは、神が望んでいる形ではないと思うのですけれど、人の心理は一筋縄ではいきませんので、無いとは言い切れませんね。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - hotaro
2009/09/06 (Sun) 08:10:45

もう、ン十年も前に、岩波新書で「ある盲学校教師の30年」というのを読みました。その中に「心眼をひらく」という印象的な言葉がありました。目に見えない世界を信じている信仰者でも、目に見える世界をいかに頼りにし、それに、依存しているか、ということをこの箇所は指摘しているように感じます。心眼の開かれた視覚障害者のその見えない世界の限りない豊かさに少しでも触れると、私たち晴眼者の依拠している、というかしがみついている、この目に見える世界は、色あせてしまいます。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - トマス
2009/09/06 (Sun) 23:01:41

>今にしてみれば良い経験
>意味があった

なかなか難しいところにいきなり突入していますね。
家族や近しい人ではなく、本人の怪我や病気に限っていえば、いくつかの可能性があると思うのです。既に出ている意見とカブルかもしれませんけど、以下2つほど。

・なっちゃった病気は仕方ない、というある種の開き直り。その上で、もっと大変な症状や後遺症の可能性もあったのに、と考えることはありえます。

・同様の開き直りの上に、それでも今、自分は生きている。いのち与えられた存在だということの重さ。を感じていることもあり得ると思います。

白状すればこれはどちらも私自身の思ったことです。
たとえば、神戸の震災の時、5時46分ではなく、8時過ぎにあの揺れが来ていたら、満員電車ごと高架から滑り落ちて死んでいただろう、ということは私にとっては非常にリアルな想像なのです。そうすると、今を生きている重みと、その後の大病で動きの悪くなった自分の身体とを比較した時、それでもやっぱり生きていて良かったね、と思えるのです。一般化できるかどうかは微妙ですが。

関西、まだ昼はあついですね? - ミサゴ
2009/09/07 (Mon) 04:25:27

参加表明してからのようやくの書き込みです(苦笑

難しい問題ですよね。
「病者の祈り」や「アメイジンググレイス」などの考え方の根底にある個所ではないかな、と思います。

僕自身、幼いころから強烈な精神障害に悩まされて生きてきて、今まで散々神様に恨み事を言ったものですけど、今思うとその「愚痴」が神との出会いであったし、その辛い体験の中得てきたものが自分の財産だと思います。

子供のころから、僕は「本当の優しさ」を求めてきたんですが、今思うと今までの数々の耐えがたいほどの痛みが、その土台になっているなと感じますね。
「本当の優しさ」を求める僕に与えられた『恵み』と言えると、今は確信を持っていますが、荒れていた当時の自分に今の感覚を言ったとしても傷つけてしまうだけでしょうね。
実際苦しみの中にある人に、その苦しみが恵みだとか他人が言えることじゃないと思います。
本人が受け入れ、消化して過去になって、それがステップとして価値観が広がり新しいドアを開くことができたと確信したとき、
悪く言えば喉元を過ぎたあと痛みから気持ちが離れ意味を見いだせた時、恵みになるのではないかな…と思います。

別な視点で考えるとこの箇所は因果応報へのアンチテーゼですよね。
「罪を犯したからこうなったのだ」とヨブがさんざん言われた状況に対してのヨブが求めていた答えをイエスは示したんだろうなと思います。
旧約の時代から新約の時代へのパラダイムシフトがとても顕著に表れている箇所だと思います。

なんにせよ、息災は人類の切なる願いですが欠乏の中に信仰や祈りが生まれる可能性はありますよね。
なれるなら元気になりたい。叶わぬなら意味を見出したい、新たな価値を見出したい。
周囲もその人を単に「欠乏している人」と見るのではなく、その人の独自の世界を重んじることに気付かされる、ような…。
そこで「神の業」という言葉なのかなと。

僕が読むと、この箇所には個人の中・社会の中の「パラダイムシフト」が感じられますね。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - トマス
2009/09/07 (Mon) 22:30:58

>神様に恨み言
なんか(ストイックな)日本のプロテスタントでは祈りの中で恨み辛みを言うことに抵抗を感じる人が多いのかな、と私は感じています。違うかなぁ。

それでですね、ちょっと面白いなと思ったのは、サムエル記の最初の部分なんです。ハンナが神殿でいつまでも祈っているのを見た祭司エリが声を掛ける場面ですね。この箇所をよく読むと、ハンナは恨み辛みも含めて心の中に溜まりに溜まったモノを祈りの中で神にぶつけていたようです。神に向かってカッコつける必要はないのですよね。

本筋からズレたことばかり昨日から書いています。御容赦を。

Re: 神の業は不可解 - トマス
2009/09/09 (Wed) 20:10:15

>神の業は本当に分かりかねるなぁと思います

さて、改めて読み返しまして、最初の頃の発言ですが引用したれおさんの一言。本当にそうだと思います。私の書いたことと絡めると、あの地震が8時過ぎでなく6時前であったことは(とりあえず私にとっては)いわば不幸中の幸いだったわけですが、しかしそもそもなぜあの地震が起こらねばならなかったのか?その疑問はやはり根底にあります。その意味で、「分かりかねる」という気持ちは大きいです。

前にも書いたかもしれませんが、どうもキリスト教は苦しみに意味づけをしたがりますね。苦しみを苦しみとして直視しない傾向があるように思います。それって善し悪しだな、と思います。

イメージで言ってますけど、旧約の時代って(預言者を別にすると)苦しみは苦しみとして受け取っていたように思います。ヨブがそうですよね。その上で、なんでこんなに苦しい目に遭うのですか?と神に問いかけていたのではないかな、と思います。

仏教もそうですよね。今の日本の仏教は2600年分だけ変化が蓄積されていますから、そのままではないですけど、原始仏教は苦しみに意味づけしないですよね。苦しみを苦しみとして直視することが「諦」です。「あきらめ」は「あきらかにみる」ことでしたよね。それもこれも全部引っくるめてあるがままに生きようとするのが原始仏教でした。

キリスト教の場合、苦しみに意味づけすることで生きていくエネルギーを取り戻すこともあるでしょうけど、逆に苦しみに意味を見いださなきゃという強迫観念によって余計に苦しくなることもあるような気がします。

ということで、
>「神の業がこの人に現われるためである」
をあらためて考えないとイカンですよね。
むつかしいなぁ。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/09/10 (Thu) 00:25:42

苦しみを苦しみとして直視し、あるがままに生きる、という境地に興味を引かれます。
しかし、ヨブの場合、確かに苦しみを苦しみとして直視はしていますが、「あるがままに生きる」という境地に比べると、ずいぶん往生際が悪いような気がするのですが……。
まだ、「コヘレトの言葉(伝道者の書)」のほうが、「全ては空なんだ」と言っていて落ち着いている気がします。
ヨブは、最後まで自分の苦しみに意味も目的も発見できないから余計に苦しんでいるのではないのですか? それで神に怒りをぶつけ、友人に怒りをぶつけているのではないでしょうか。

余談ですが、その納得がいかないヨブの思いに、ヨブ記という作品が、いい答を結末に用意しているとは、とうてい思えません。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/09/10 (Thu) 01:23:35

家族を失い家畜を失ったヨブにとって、新しい家族が増えるというのは、どうも釈然としません。亡くなった家族が蘇ってナンボの世界じゃないのかな、と思うのですが。

今回のみんたたの聖書箇所は「盲人の目が開いた」ということなので、苦しみを直接的に解決していて、これこそ神のなせる業だと言えるのですが、ヨブは散々神に弄ばれて終わったような気がします。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/09/11 (Fri) 11:49:37

そうですね。「治る」ということは、やはり大切なことだと思います。
単純にこのヨハネの記事を読むと、「神の業がこの人に現れるためだ」と言って、神の業を行って目が治った、という話ですから、「神の業」というのは奇跡的な治療だということになりますよね。

しかし、私たちが今生きている現実は、障がいというのは治らないから障がいなのだし、治らない病気に苦しむ人も多いですよね。だから、この「神の業」という言葉に、治療以外の何かの意味を発見したくなってしまうのでしょう。

その一方で、トマスさんがおっしゃるように、「諦」という境地も、もうちょっと話題を深めていけたらな、と思います。

Re: 往生際の悪いヨブ - トマス
2009/09/11 (Fri) 17:19:14

ヨブは苦しみを罪の結果としては捉えてないという点では直視しているようですが、一方で確かに往生際が悪いですね。もっとも、「あるがままに生きる」という原始仏教の方も、なかなかそれができないから修行者の目標とされた訳ですから、洋の東西を問わず(って聖書の世界はギリギリ東洋?)ジタバタしながら生きるのがヒトのDNAなのかもしれません。

ついでながら、聞いたような話を書けば、ヨブ記の結末は後代の加筆という意見が強いそうですね。聖書学の難しい部分はわかりませんけど、旧約学者の人達もあの結末はなんか変、と思っていたということでしょうか。

>治らない
そうなんですよねぇ。治らないんだよなぁ。医者の使う言葉としての「治る」と、患者の使う言葉としての「治る」にはギャップがあるんですよねぇ。
自分の身体を取り替えるわけにはいかないのだからしょうがない、と思う心のある一方で、やっぱり病気する前の身体に戻せるモノなら戻りたい気持ちもありますよね。大した後遺症じゃないけど。

そうすると、「治療以外の何かの意味」ってすごく気になりますね。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/09/11 (Fri) 19:44:39

治療以外の何か・・・それは死後の世界に対する期待ではないでしょうか。仏教でも念仏を唱えれば極楽浄土に行けるとか、イエスも天国について示唆しているし。今の世界、死後の世界、と区分することで生きることに期待を持たせようとしていたのではないかと思います。

ヨブの結末が加筆という話は初耳ですが、当時の人達は死後の世界に目を向けられなかったから強引に無理矢理な結論を書いたのかなと思いました。

すみません、暗い方向に話を曲げていますよね・・・

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 牧師 Home
2009/09/12 (Sat) 22:51:09

可能性が全く無いとは言えないでしょうけれど、死後の世界への招きが神の業だというのなら、この世で生き続けることに希望がなくなってしまいますね。楽になるために死にましょうや、ということになってしまいませんか?

死んで楽になるというけれど、たぶん「ああ楽だ」と実感する自分もありませんから、なんだかもったいないんですよね。生きて苦しみを喜びに変えていただきたい、と願います。

イエスも、私が読んだ感じでは、そんなに死後の世界に希望を持とう的なことは言ってなかったような気がするんですが。
「死者の葬りは死者にやらせておけ」みたいな。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/09/13 (Sun) 00:53:09

投稿しようとしたらNGワードがあると言われました。何がまずいんだろう・・・黙示録みたいに、他の言葉に置き換えて投稿しようかな・・・。でも、それだと意味が通じないですよね。

NGワード? - 牧師 Home
2009/09/13 (Sun) 01:04:26

もしよかったら、DMで私のところに送ってみてください。

DM届きました。そのまま転載してみますね。 - 牧師 Home
2009/09/13 (Sun) 16:55:35

死んだ後の世界についてイエスが言ったのか、イエスが言ったことになっているのかは分かりませんが、天国という概念はかなり出てきていませんか?貧しい人は幸いである、天の国はあなたたちの為にあるとか、貧しい人が死後天国に行ったとか、金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しいとか。

毛利さんの発言その2です - 牧師 Home
2009/09/13 (Sun) 16:58:15

これらの言葉は「死後は心配すること無いよ(だから今を精一杯生きなさい)」という励ましなのだろうと思いたいのですが、生きることに疲れた人間が読めば「死んだら神の下に行ける」と死に急いでしまうのではないかと思う箇所はちらほらとある気がします。

毛利さん禁止ワードわかりました。 - 牧師 Home
2009/09/13 (Sun) 17:02:55

「死」という文字が多すぎるから、2つに分けたり、同じ意味の単語を打ち変えたりしてわかりました。
この上の発言の2行目の「死んだら」が、原文では「shineba」(日本語で打つと禁止ワードになりますのでローマ字で)になっていて、それをこの掲示板を運営しているサーバが「shine」と認識したのでしょう。
というわけで、今後皆さんもお気をつけ下さい(笑)。

9月12日まで読んで… - れお
2009/09/13 (Sun) 21:11:09

毎日覗いては自分の考えが述べられず、ため息ついて閉じていました。

現代では寛解するとか、目が見えないのならば、目が見えること以外に可能性を見出せるようになるのが神の業なのかなと思いました。目が見えない分、耳が研ぎ澄まされていて、人の心が、相手の表情をみることができる私達よりもしっかりと読めるとか…。

ただ、読めたとしても、本人がその点で「自分はここにいるんだ」とか「自分の心の安定」を感じられないなら、たとえ素晴らしい能力があっても神の業ではないのでしょう。

できないことに目を向けず、
できることに目を向けて、
そこに生き甲斐を感じるようになることが
現代では「神の業」なのかもしれません。

9月12日(土)までの書き込みを幾度か読んだり、その後も
色々考えてみました。

「病気が、障害が完治することが神の業なのか?
それとも病気や障害による苦しみを抱えつつも、心の底から笑ったり、喜んだりできる方が神の業なのか?」
最初私は完治することを神業だと思いました。
足が動くようになり、耳が聞こえるようになり、喋ることができるようになり…。
しかし、よーーーく、よーーーく考えると、「思いのままにならない状態の中で、喜べる能力を持てる」ほうが神業なのではないかと思うようになりました。
※これは病気などにかぎらず、災難とかもそうだと思います。
※ただ、「神の業が現れるためなんだよ…」と他人が苦しんでいるときには決して言えない事で、本人がいつか感じ取れれば良いということだと思います。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - れお
2009/09/14 (Mon) 21:22:09

いつもダイレクトに掲示板を読み込んでいるので、トップページを久しぶりに読んでみたら、今回と少しかぶるようなテーマがありますね。牧師様、たった今読みました。

ぼちぼち - トマス
2009/09/25 (Fri) 18:30:16

新ネタはないのですが、ボチボチあと1週間を切りましたので、もう一度上に上げておきますね。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - 毛利
2009/09/27 (Sun) 04:00:17

イエスは、その盲人に対しては確かに治療をした。その盲人は、イエスの奇跡を実現する為に盲人になっていた。それは間違いないかもしれない。でも、それを「一般の病人がイエスの奇跡を実現する為に病気になった」と拡張するのは間違いなのかな、と。

捨て猫を拾ってペットにした、その捨て猫は飼い主にとっては必要だった、でも、他の全ての捨て猫がペットになって安定した生活を得られるとは限らない、それに似ているのかな、とふと思いました。

Re: 朝晩も涼しくなりました(関西では)。 - ミサゴ
2009/09/28 (Mon) 08:21:12

元の文に帰るとやはり盲人は実際に癒された…のだろうなぁ。それは全盲を受け入れて生きたことではなく「治ること」ですよね。
そこに神の業があらわれるなら、その人はイエスと巡り合うために、その時癒され奇跡の業を証するために生まれてきたんでしょうか。。。?

ここで比喩をもちだすとややこしくなりそうですよね。
神の愛が見えなかった人々の目が開かれる暗喩、みたいな。

そうなると実をつけないイチヂクを枯らしたのは悔い改めないエルサレムを非難したのだ、とかのどうも座りの悪い「解釈」のような様相をおびてきますが…。まぁ、実のつけないイチヂクも難しい箇所なので僕にはさっぱりだから引用すること自体ズレてるかもしれませんが。

ズレついでにもっとズレますけどイチヂクおいしい季節ですよね。


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「キリスト教・下世話なQ&A」コーナを訪ねる