みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2009年11月のテーマ: 「悔い改めない町を叱る」

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■マタイによる福音書 11章20~24節 および ルカによる福音書 10章13~16節(新共同訳・新約・p.20 および p.125)

みんたた2009年11月は「悔い改めない町を叱る」です。
マタイによる福音書11章20~24節と、
ルカによる福音書10章13~16節が並行していますが、最初と末尾の部分が違っています。この2種類を両方ともここに参照してみたいと思います。


【マタイのみ収録している前置き】
マタイ10章
20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。

【マタイ/ルカ共通部分】……以下はルカの節数で表記します。
ルカ10章
13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
14 しかし(マタイでは「しかし言っておく」)、裁きの時には(マタイでは「裁きの日には」)、お前たちよりまだティルスやシドンのほうが軽い罰で済む。
15 また、カファルナウム、お前は、
  天にまで上げられるとでも思っているのか。
  陰府(よみ)にまで落とされるのだ。

【ルカの末尾】
16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

【マタイの末尾】
23(後半) お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

以上です。
この言葉はマルコ福音書には並行記事はありません。またトマス福音書にも並行箇所はないようです。

では、みなさん、どうぞご自由に意見を述べてください。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - トマス
2009/11/01 (Sun) 01:25:15

こんなふうに並べてみるとまた面白いですね。「みんたた」の新しい展開?

それにしても、相変わらず物言いキツイですね。これでは敵も多かったでしょうねぇ。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - 毛利
2009/11/01 (Sun) 12:46:40
私の理解が浅いのかもしれませんが、「悔い改める」とは具体的にどういうことを指しているのか分からないという点を除いて、特に違和感は感じません。

聖書の中には「神から離れていく人間」と「それでは駄目だよ、罰せられるよ、と忠告する誰か」のやり取りが多いと思うので、イエスの今回の発言も「悔い改めさえすれば許してもらえますよ」と言っているだけじゃないのかな、と。

ただ、上にも触れましたが「悔い改める」とは、どういうことなのかはハッキリしません。イエスの言葉に耳を貸さなかったのか、それとも神から離れてしまっているのか、とか。

ずれたこと言っていたらすみません。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - 牧師 Home
2009/11/01 (Sun) 21:58:19
「悔い改める」というのは「メタノエオー」という動詞で、「後悔して反省する」、「回心(改心)する」、「罪から立ち返る」、「進む道を変える」といった意味があります。
名詞(悔い改め:メタノイア)という言葉はよく知られていますね。
罪を後悔して反省するという意味のみで日本ではよく使われますが、「生き方を変える」という意味にもとれる広がりのある言葉です。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - hotaro
2009/11/04 (Wed) 09:58:49
イエスの宣教の内容は、「神の国」の到来を告げ知らせる、ということでした。この神の国は、貧しい民衆の、「悔い改め」、今風の言葉で言うと、「パラダイムシフト」(いわゆる常識、とか一般的なものの考え方の崩壊)ですよね、これにより、一人一人の中に、決定的な意識変革が起こり、自分の周りのすべての システムを作り替えていくエネルギーが与えられる、というものです。当時のローマの支配にあえいでいた町々、村々の住民にとって、これは救いになったはずですよ。その「神の国」の先触れとして、イエスは、病人の癒しとかの奇跡をおこなったと思われます。(イエスは、今の言葉でいう「気功治療師」でした)しかし、現代人でもそうですが、こういう奇跡は、悔い改めにはつながりません。ですから、イエスの嘆きと裁きのことばは、当然だと思います。旧約聖書の伝統で、「ヤーウェのみ」に従う、ということは、当時の超大国ローマやヘロデ大王、また宗教的には、バアルとかギリシャ神話の神々に従わない、それらを拒否する、ということですから、イエスの運動は、当時の常識的なものの考え方に従えば、「カルト」と言ってもいいと思います。逆に現代日本では、カルトは、オームなんかは小者で、もっとも巨大なカルト「天皇制」を何とかしないといけないでしょうね。政治、マスコミ総ぐるみで、盛り立てて、おべんちゃらで祭りあげています。「王様は はだかだ!」と誰も言わない存在ですよね。ドイツが戦後、ヒットラーの第三帝国の罪責をつぐない続けて現在に至っているのに、日本はその最高責任者の罪責を不問にしているのみならず、ありがたがっているんですから。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - 牧師 Home
2009/11/05 (Thu) 00:31:02
hotaroさんに質問なんですが、イエスの宣教における「パラダイム・シフト」が貧しい人に意識変革を起こし、すべてを変えるエネルギーを与える、ということなんですが、その神の国の先触れとしての気功治療は人びとにパラダイム・シフトを与えることはできなかったということなのでしょうか?
では、奇跡的治療なんか行わずに、教説だけで意識変革を起こすほうがよかったということなんでしょうか?
ちょっとそのあたり、もう少し具体的に教えていただければ、ありがたいと思います。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - nabe
2009/11/05 (Thu) 02:35:26
はじめまして。

ぼくは、イエスの憤った後の言葉に注目しました。
「...そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」
この言葉から、イエスのこの憤りは、人間的な普通の憤りだと思いました。イエスという人間としては、自分が力を尽くして、神様を見るように人々に働きかけているのに、何の成果も上がらない。それで、イエスは思い通りにならないので、怒りをあらわにしたのだと思います。

しかし、ゲッセマネで祈りのときに言われたように、イエスは、自分の考えではなく、父の御心を再び考えて、結局は心をしずめたように思えます。

マルコ14章36節
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

だから、キリスト信徒としては、イエスは何の罪もなかった方だったと告白する人もいるし、それは素晴らしいことだと思いますが、イエス自身は、自分の思いと神様の心は、常に一致しているわけではないことを言っているように思えます。

イエスはただ神様から見て、どうすべきか、そのみこころをよく予想し、行動に移すことのできた人だと思います。彼が神の子だと告白するのは、結局イエスも含めて人だけです。神様がそれを認めていることは、誰にも確認できません。しかし、彼のそのような姿を見て、神の子だと感じる人もいるのは事実だと思います。

神のみこころが、この地で行われるようにと、イエスは弟子たちに祈りを教えるときに祈りました。

だから、彼の運動そのものが神の御心がこの地上で行われることだから、そのための運動が自分の思い通りにならなかったとしても、それを憤るのは矛盾ですよね。でも、それが人間らしさでもあると思います。(自分の行動に対する、自分なりに期待する評価が欲しいのに、それが貰えないことに対する不満)

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - hotaro
2009/11/05 (Thu) 13:42:41
ご質問、ありがとうございます。
イエスの癒しが、人々に、悔い改めの念を起こさせた、ということは、大いにあったと思います。弟子たちも、奇跡的治療とか、魚が急に大量に捕れるなどの奇跡を見て、すべてを捨ててイエスにしたがったと思います。そのようなイエスの群れが、行く先々の町や村で「神の国」宣教をしました。説教だけでなく癒しも治療もすべて、大切なことだったと思います。しかし、このテキストで問題にしているのは、ある町や村が悔い改める、ということは、どういうことか、ということだと思います。もし、全体が悔い改めたとしたら、そこに、ローマや、ローマとぐるになっている宗教的指導者等に対する組織的な反乱が起きて、その町が、一種の自治区として、独立したかもしれません。教説だけでは、意識変革は無理です。私たちのN教団でも、教説と論理だけでは、お互い説得はされても納得はできません。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - 牧師 Home
2009/11/05 (Thu) 23:53:59
>nabeさん
はじめまして! これからもよろしくお願いいたします。
これがイエス自身の言葉だとしたら、人間としての弱さ、苛立ちがでた言葉なのかもしれませんね。

>hotaroさん
なるほど……このやりとりで改めて思ったのですが、ここでイエスは、個人の悔い改めのことを言ってるんじゃなくて、町の悔い改めのことを問題にしていますね。
これってどうなんでしょう?

たとえば、私たちが伝道とか言ってるときって、個人の悔い改めを問題にしていることが多いじゃないですか。
でも、コラジンだとかベトサイダだとか、そういうのは、たとえば、「横浜よ、お前は悔い改めなかった」とか「札幌よ」とか「京都よ、奈良のほうが軽い罰で済む」とか言ってるのと変わらないんじゃないですか。
これって、何人まで悔い改めたら、全体が悔い改めた事があるとか、そういう基準があって言っているんでしょうか?
アブラハムの話を思い出しますが……。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - ノンクリ
2009/11/07 (Sat) 11:22:01
 nabeさん(はじめまして)のコメントが一番、ああ、なるほど、と思わされましたかな。
 イエスも「神とはなんぞや?」「神の意志って何」とあれこれ思考錯誤し、右往左往したり、ときには感情に任せてアホなことをいったりやったりしてしまう、という点では一般人の我々と変わらないんですね。
 まあ、神様ってこの世で出会った人は誰もいないし、わからないのですからそれは当然で。だからこそ「知る」のではなく「信じる」しかないんでしょうね。
 

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - れお
2009/11/12 (Thu) 13:59:59
hotaroさんが「町」に注目したところはとても興味深く読ませていただきました。

ティルスやシドンは異邦人の住む町で、ソドムは商業都市で不道徳な人々が多かったそうですが、イエスが奇跡をこういう町の人々に行えば、彼らの方が悔い改めただろうし、軽い罰で済むだろうということなんだなぁと、読んでいました。

ヨハネ20章29節の「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」とマタイ7章19~24節の
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」

このテーマが選ばれたとき、すぐにこの2箇所を思い出しました。「イエスを見たから信じる」ことや、「主よ、主よとは言うものの、御心に沿おうとしない」ことについて叱られていますよね。まぁ、奇跡をたくさん行われたのに、回心していないんだからそりゃあ叱られてもしかたないんじゃないかなぁと思います。

読んでいてもここは違和感がなかったので、こんな感想になってしまいました。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - 牧師 Home
2009/11/14 (Sat) 00:57:26
私は、町単位で裁かれたのでは、たまったものではないと思います。
それは、たとえば、マグダラは不道徳な人が多いからマリアは娼婦だったに違いないとか、そういう出身地差別を生み出す心理と同じものを底に持っているように感じます。

また、町単位というと、たとえば個人の信仰的決断とか告白ではなくて、その町の宗教として住民が帰依するので、その町の首長が回心すると、その首長の配下の者一同が宗旨替えをする、というような情景を思い浮かべてしまいます。
ユダヤ人にとってのユダヤ教ってのは、そんなものなんでしょうか。ユダヤ人=ユダヤ教徒という状況から見れば、そういうものかも知れません。個人による宗教の選択などというものは考えられない世界でしょうから。それは今でもかなりそうでしょうし、古代ならなおさらのことだったかも知れません。
宗教というものは集団のもので、イエスはそういう人びとを前に活動していったわけですから、町単位で「あいつらは悔い改めない。あいつらよりソドムが受ける罰のほうがましだ!」と言っていたのかも知れませんね……。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - れお
2009/11/14 (Sat) 13:46:08
言葉が足らず、すみません。
私も本当に町単位で裁かれたら、それはひどいと思っています。叱られるまでならまだマシかなぁ…と個人的には思いますが。
※ただ、よほどその町は回心していない人が多かったので、「町」という言葉を使っているだけなんだろうと思っていました。あまりにも多かったから「町」という表現になったのかなぁと思ったのです。

私は「その町の首長が回心すると、その首長の配下の者一同が宗旨替えをする、というような情景」は思いつきませんでした。そうか、そういうことも考えられますね。
・・・・・・・・・・・
追記
私の受け取り方があまりにも軽々しいのかもしれません。ここを読んでも「恐れ」を感じませんでした。でも、イエスにここまで言われた町の人々は脅威を感じたでしょうね…。私の読みは浅いかも…。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - nabe
2009/11/14 (Sat) 14:30:03
町単位での裁きの話を聞くと、アブラハムの話を思い出しますね。それを思い返すと、少数の義人によって、町が正しいとされる神様だと思います。要するに、今、イエスが嘆いている町々には、一人の義人もいなかったんじゃないかと思いますね(いや、義人は一人もいないとも言いますけど)。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - hotaro
2009/11/15 (Sun) 23:01:01
私も、nabe さんのおっしゃっている、少数の義人によってある町が救われる、ということに神様の憐れみというものを感じます。例のアブラハムが、ソドムへ向かって行こうとしている天の使いと談判するシーンですね。この 少数の義人によってある町が救われる、というテーゼを極点にまで収斂させたところに、一人のイエスの死によって、全世界の人々の罪が赦されて義とされる、というキリスト教の教義があるわけです。ところが、このようなテーゼを提出しているパウロ書簡の成立年代が、福音書よりも早い、ということで、私は、そこに福音書記者や、彼らの属する共同体が、「悔い改め」というものに対して持っていた信仰の証しを読み取ります。つまり、平たく言うと、福音書は、すでにあったパウロの共同体のテーゼに対して、洗者ヨハネ寄りのイエス像を提示することによって、神の国と悔い改めの関係を強調しているように感じられます。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - 牧師 Home
2009/11/17 (Tue) 21:31:45
少数の義人によってある町が救われるというテーゼが、イエスの死によって全ての人が救われるという教義に収斂してゆく……というのは、ちょっとぼくには飛躍のように感じられます。
少数の義人は、他の人のために命を捨てるわけではありませんし。
イエスの死は、イエスが正しいから他の人が裁かれずに済むというのではなく、イエスが贖いの子羊と同一化される発想から解釈された要素のほうが強いのではないでしょうか。
イエスが正しいから、他の人が赦されたのではなく、イエスが身代わりとなって罰を受けてくれたから、他の人が裁かれずに赦されたわけでしょう?
イエスはアブラハムのようにネゴシエーションした結果、人間の救いを獲得したわけでもありませんし。

それから、「洗者ヨハネ寄りのイエス像」というのが福音書の特徴であるように読むのも、ちょっと無理な気がします。
イエスは、確かに洗礼者ヨハネと浅からぬ関係を持ったことは読み取れますが、ヨハネが死んだ後、およそヨハネとは正反対な宣教のしかたをしてはいないでしょうか。
ヨハネは荒野で「俺の所に来い」と言って、怒りの神を説いていたわけですが、イエスは町々村々に自分から出かけて行って「あなたの罪は赦された」と宣言して回っているわけでしょう。

それから、「悔い改め」というのは、確かにルカ福音書では強調されているようにも読めますけど、他の福音書では、それほど重視されているわけではないのではないかとも感じるのですが、どうでしょうか。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - トマス
2009/11/17 (Tue) 22:31:58
なかなか参加できずすみません。ちょっと今月忙しくて…。

町に語りかけた、というネタはもう収束してしまいましたか?ちょっと思ったんですけど、マタイの23章(ルカの13章)に「エルサレムのために嘆く」なんて記事もありましたよね。
別になんの関係もないかもしれませんが。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - トマス
2009/11/17 (Tue) 22:38:35
>パウロの共同体のテーゼに対して、洗者ヨハネ寄りのイエス像を提示する
現代の我々から見ると(ヨハネ寄りのイエス像が当たっているかどうかは別途検討課題として)そう見えるような気もしますけど、4人の福音書記者たちはパウロの手紙やパウロ共同体のテーゼをそれほど知っていたのかな?というあたりはどうなんでしょう。時間的には確かに福音書の方が遅いですけど。そこはわたし的にはちょっと落ち着き悪いかな。

Re: みんたた11月「悔い改めない街を叱る」 - トマス
2009/11/20 (Fri) 21:46:04
スレの流れを乱しているような気もしますが、ちょっと気が付いたことがあるので。

11月の箇所ですが、マタイとルカにあってマルコにないということは、いわゆるイエスの言葉集が原資料ですね。さて、その上で、

マタイ末尾(24節)によく似た言葉はルカではその直前、12節に出ています。そして、おもしろいことに、ルカ12節とほぼ同じ言葉が、マタイでは10章15節に出て来ます。つまりマタイにはソドム云々は2回出て来ている訳です。
それで、マタイ11章はちょっと違いますけど、マタイ10章とルカ10章はどちらも「弟子達の派遣」物語の文脈です。
だからどうだと言うところまで考えが纏まってないのですけど、とりあえず、ネタ提供ということで。

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