みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2010年3月のテーマ: 「求めなさい(ルカ版)」

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■ルカによる福音書 11章5~10節(新共同訳・新約・p.127~128)

ノンクリさんのリクエストにより、2010年3月は、ルカによる福音書11章の「求めなさい。そうすれば、与えられる」の前に置かれた風変わりなたとえ話を叩くことになりました。

ルカによる福音書11章5~10節(新共同訳)
5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

■求めよ、さらば与えられん -ノンクリ
すでに3月の「みんたた」は始まってしまってますが、ちょっと気になるところが・・。

マタイ7章7-8節の「求めなさい。そうすれば、与えられる・・」の個所。一般的には「努力は報われる」とか「何もしないのにいいことはないよ」とか「案ずるより産むがやすし」みたいな意味に取られてますよね?まあ、マタイの方の該当箇所をみれば確かにその通りかもしれませんがが・・。

 ところが、これがルカの方(11章5-13)にはトンでもない解釈が・・。以下その引用(新共同訳聖書より)

《5また、弟子たちに言われた「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸して下さい。旅行中の友達が私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」。
7するとその人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでください。もう戸はしめたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。
8しかし、言っておく。その人は友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、執拗に頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう。
 以下「求めなさい、そうすれば与えられる~」に続く』
 
うーん、なんか、図々しくしつこく繰り返せば、みんな根負けするよ、といわんばかりな・・。「友達」はかなり迷惑しただろうなぁ・・これって迷惑行為の勧め?悪徳セールスマンを抱えるブラック企業への励まし?
こんなこと実行したら、間違いなく周囲からつまはじき・・。
とにかく、いいのかよこれ?みたいな内容で頭を抱えてしまいます。皆さんはどう解釈されますか?

■Re: 求めよ、さらば与えられん - @プー
2010/03/06 (Sat) 23:39:03
はじめまして。@プーと申します。一応クリスチャンです。ただし、洗礼を受けたのは、プロテスタントの教会ではなく実はローマ・カトリック教会です。

私もうろ覚えではっきり覚えてはいないのですが、ルカ(11章5-13)の件につき、どこかでどう解釈したらいいか読んだ記憶があります。そのことを思い出して、私なりの解答を書くとすれば、・・・・・

ノンクリさんの感じ方が正解です。私もそう思いますよ。
ただし、それは、日本人独特な感じ方だそうです。

大和民族では「他人に迷惑かけないこと」が美徳
とされているようですが、中東ではそうは考えず、「とかく
困っていることは主張し続けることが正義」と考えているそうです。

またうろ覚えで申し訳ないのですが、正当的なイスラーム
の人々は困っている人を助けるのは当たり前なんだそうです。

ある日本人が、砂漠で何か困ったことになったところ、
通りすがりのサウジアラビア人が助けてくれた。後日
その日本人がそのサウジアラビア人にお礼を言いにいった
ところ、変な顔をして、「当たり前のことをしただけだ」
と言ったそうです。

ところ変われば常識も変わるといったところでしょうか?

■Re: 求めよ、さらば与えられん - トマス
2010/03/07 (Sun) 00:29:37
@プーさん、はじめまして。
@プーさんの解説もひとつの読み方だと思います。

私はこう読みましたね。
結局これはある種の比喩である、と。友人は何も人間の友人と考える必要はないのであって、これは神のことである。だから、人間の友人であれば嫌な顔をするようなしつこいお願いでも神に向かってはお願いしてもいいのだよ(お願いしたから聞いてくれるかどうかは別だけど)。しつこくお願いしましょう。

ダメかな?

■Re: 求めよ、さらば与えられん - にじは
2010/03/07 (Sun) 13:49:25
私もつい最近この箇所の解釈を自分の通っている教会の先生に聞いたことがあるのですが、
トマスさんと同じでお願いするのは神様と言う解釈でした。

「神様にしつこく、何度でもお願いしてすがるのですよ」と言うことでした。
(ちょうどこの時自分の悩みを相談していたのでこの様におっしゃって下さったのですが)
裁判官とやもめの箇所と同じ感じなのかな?と思ったのですが...。
間違っていたらすみません。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - 牧師
2010/03/07 (Sun) 14:39:06
>プーさん

こんにちわ。
サウジアラビアということでしたら、やはりムスリムなんでしょうかね?
ムスリムにはいろいろやらなくてはならないことがあって、喜捨とかもその1つですが、それを人間なら当然すること、という感じで日常生活に染み付いているんではないかと思います。

問題はそのような喜捨の意識が、ユダヤ人にあったかどうかでしょうね。
実は私、そこまでは詳しくありません。
喜捨が人間として当然という意識があれば、しつこく言えば聞いてくれるもんだよ、というのはよく理解できる情景ではないか。
まあ、でも、喜捨がなくても、しつこく言えば聞いてもらえるだろう? だったら神さまだって聞いてくれるんだから、しつこくお願いしてみな、という教えだったでしょうね、たぶん。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - ノンクリ
2010/03/07 (Sun) 16:27:25
>サウジアラビア

 私事でなんですが、少年時代、1年半ほど親の仕事の関係で滞在したことがあるんですが、思い当たる節はありますね、確かに・・。でも、彼らはムスリムですしね。確かに世界には今でも日本人とは異なった道徳観念を持つ民族は多くありますし、ましてや、2千年以上前のことですからね、現在の価値基準でどうのこうのいえないところもあるでしょうね。

>神様にお願い

 だと、いいんですけど、私に読解力がないのか?はたまた翻訳が悪いのか?個人的にはどうみても「友達」周囲の人間」にしつこく言え、としか読めなかったです、神様なら神様っていってよ、ルカさ~ん、変な誤解をしちゃうじゃない、って言いたくなりますね(笑)。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - 牧師
2010/03/07 (Sun) 17:28:40
あ、それはそうですね。確かにルカは言ってません。
だから、人間同士の関係でも、「だめもとで言ってみな」という教訓(?)も入っていたと思いますよ。
そして、じっさい、ぼくも人間同士の関係の中で、「もしよかったら……してくれない?」とか、言わずに後悔するよりも、言ってみてだめだった時のほうがさっぱりしてるということはあるんじゃないかと思います。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - カーコ
2010/03/07 (Sun) 22:42:24
何もしつこくしろなんてことじゃないですよ。
必要なものって何ですか?この世のものなら、友だちに言うものなら、食べるものか、お金かなんかでしょう。
でも、本当に必要なものは、こころでしょ。信仰でしょ。
神様により頼む心でしょ。人を愛するこころでしょ。
それを求めなさいって、イエズス様は仰ってるんですよ。
それを本当に求めるならば、与えられるってことで、
ルカ書での話しは、友だちですら頼めばくれるんだから、
神様ならきっとくれるはずだってことでしょう。
僕はそう読みますよ。
そんな現世的な事じゃないでしょう。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - 牧師
2010/03/08 (Mon) 19:09:35
ぼくは、現世的なものと、そうでないもの、という風に分けなくてもいいと思いますし、どっちが尊いという風に言わなくてもいいと思うんです。

パンだけで生きてるわけじゃないでしょ、とイエスは言ったけど、パンじゃなくて、とは言わなかったわけじゃないですか。

何かパン以上のことを言おうとしてるんだけど、それを譬えで話すには、パンでたとえるしかなかったわけですよね。
これは、パンが貴重でいいものだ、という前提があったからではないでしょうか。

ひっくり返すと、食べること、という大変日常的で基本的なことの中に、大切な意味があるんだ、ということでもあるんです。
食べることは実はそれだけで聖なる行為になりうるんだ、ということです。
それがあるから、主の晩餐というのも成り立ちます。
儀式のなかの食事なんだけど、実際腹一杯食べられる、文字どおりの晩餐だったんです。

しかし、それが、現世的でない部分だけ切り離されていくと、ちっこいパンの切れ端と、おチョコより小さなワインになっちまったり…
あんなんでは満たされまへんがな、ということになりかねないですね。

話が広がってしまいましたが、食べることやお金が大切だったからこそ、イエスはそういうもので譬えたり、実際に一緒に食べるということをよくやっていたんじゃないですかねえ。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - トマス
2010/03/09 (Tue) 13:46:42
>しつこくお願いしましょう。
ちょっと勢い余ったかな。ま、しつこくしてもいいのであって、しつこくしなければならないということではないです。
ちょっと微妙な表現の違いですが。

一方でですね、マタイ版の方ではちょっと離れたところには神はあなたがたに必要なものが御存知である、と。そうすると神が既に人間の必要とするものを御存知ならなんでしつこくお願いする必要があるのか?となるわけです。
結局、マタイ版の方からだと、何が必要であるのかを自覚して祈りなさい、ということになるのかな、と思います。

ルカ版だとそういう解釈出来ますでしょうか。私はあんまりルカ版で詰めて考えてないのですが。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - 牧師
2010/03/09 (Tue) 20:54:25
なるほど、マタイ版とルカ版の違いがはっきりわかるのは面白いですね。
マタイ版では、神は私たちに必要なものはご存知です、か。
ルカ版では、しつこく頼めば与えられます、ね。
でもそのほうが現実に近いですよね。
なかなか神さまは自分に微笑んではくれませんから。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - ノンクリ
2010/03/10 (Wed) 21:49:39
>ルカ版では、しつこく頼めば与えられます、ね。
でもそのほうが現実に近いですよね。
なかなか神さまは自分に微笑んではくれませんから。

 なるほど、それも世の真理ではありますね。しかし、表現がなんとも露骨というか、ずいぶんと世俗的に聞こえる言い回しだな、と思いますが。それにしても、キリスト教とか聖書というのは、ああ見えて(どう見えて??)、世俗的、現世的な面も結構重視してるように思いましたね。
 「主の祈り」でも「日ごとの糧をお与え下さい」としっかり唱えますし・・。
 
■Re: 求めよ、さらば与えられん - 牧師
2010/03/10 (Wed) 22:06:53
世俗的でいいんじゃないかと思います。
イエスはものすごい世俗的な宗教家だったと思います。
イエスの話には抽象的な話がないでしょう(ヨハネ伝は別として)。
いつも具体的な事物を用いてたとえ話をします。まあ、題材がめちゃめちゃ具体的な割には、結論が謎めいているものは多いですが(笑)。
題材に使われているのは、農夫とか漁師とか麦とかブドウだとか、常に具体的です。

中でもルカはお金の話が多いんです。
無くした銀貨を見つける話とか、塔を立てるために費用を見積もる話とか、遺産を使い込んだ放蕩息子の話とか、借金をごまかした不正な管理人の話とか……。

それが教会の中で、権威とか栄光とか全能とか、そういう観点からしか解釈しなくなっていってしまったわけだと思います。
教会とかクリスチャンというと、世俗的/現世的(つまり「この世的」!!)であってはいけないとか、そういうイメージを自ら演出しているグループもあるわけですが、聖書は必ずしもそうではないよ、ということだと思います。

■Re: 求めよ、さらば与えられん - トマス
2010/03/10 (Wed) 22:19:24
>世俗的
日本の特にプロテスタントの世界しか見ていないとキリスト教は非現世的な宗教と見えますけど、本当にそうなのかなぁ。

南米のカトリックなんてスゴク現世的ですよね。おそらくカトリックは世界的に見てもプロテスタントよりも現世的みたいですし、プロテスタントだって欧米の一般信徒層の信じ方って日本よりももっと現世的なような気がします。外国映画を見ていると御守りを持っている人ってけっこう居るじゃないですか。
ということで
>ああ見えて(どう見えて??)、世俗的
ってのは当たっているんじゃないですかねぇ。

日本のプロテスタントの非現世的な部分というのはたぶんに宣教師が持ちこんだもの、欧米のキリスト教の上澄み部分のような気がします。

この世的であるかどうかということに限らず、自分のイメージしているキリスト教がキリスト教の唯一のイメージではないということを、いつも考えておきたいな、と思います。イエスだって弟子達がビックリするようなことを度々言ってましたものねぇ。

■ルカ版はやっぱり… - トマス
2010/03/27 (Sat) 22:27:46
どうもルカ版はやっぱりこの箇所も神へのしつこいぐらいのお願いと読んでいいと思います。

最初の方でノンクリさんが神へのお願いと読んでいいのか?と疑問を呈しておられましたのがずっと気になっていましたのです。それでですね、ちょっと調べてみました(土曜の夜に仕事から逃げています)。

ルカ版ではこの話は主の祈りの直後に書かれています。ちなみにマタイではかなり離れています。ということは、そこにルカやマタイの編集意図が現れているわけです。この場合は、ルカとしてはこの譬え話は祈りについての話題を書いているのだ、と考えていいでしょう。そうすると(祈りはお願いだけではないですけど)この物語は神へのお願いについての譬え話である、ということになります。

加えて、ルカでは18章の「やもめと裁判官」でも同じような状況が設定されており、こちらも神へのお願いは人間相手なら嫌われるぐらいしつこくしてもいいのだ、と読めます。これもこのスレの該当箇所(求めなさい…)が神へのお願いについて書いている可能性を示唆すると言えます。

そのように読むと15章の「失われた羊」「失われた銀貨」も根気よく(=しつこく?)探す神と読めるような、根気よい神に向かっては根気よくお願いしましょう、と繋がってくるような…、ちょっと考えすぎでしょうか?

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