みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2010年3月のテーマ: 「主の晩餐」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
当教会は、ホームページ上での聖書の引用に関して、
日本聖書協会の認可を受けています。

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■コリントの信徒への手紙(一)11章17~34節(新共同訳・新約・p.314~315)

3月のみんたたは、Sayakaさんのリクエストにより、聖餐(主の晩餐)をテーマにした第一コリント11章17~34節とします。

以下に新共同訳の日本語テクストを紹介しますが、この訳に拘泥する必要はないと思います。いろんな角度からみなさん意見を述べてください。

17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26 だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。


■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - 毛利
2010/03/03 (Wed) 20:01:03
この手紙はパウロが書いたものだそうですが、彼は最後の晩餐にも、イエスが引き渡される場面に同席していませんよね。

どうして23~25の描写を出来るのでしょうか。

その場に居た人達から後になって聞いた話なのか、後から付け足された話なのかは分かりませんが、引っかかりました。

また26以降も、パウロの個人的な意見なのか、当時の教会では常識となっている考え方をパウロが語っているのかというところも気になります。

■なぜ「聖餐」か? - 爽歌―Sayaka
2010/03/04 (Thu) 07:43:57
聖餐問題は「フリー聖餐」というものに出会ってから考え続けてきたことのひとつですが
私の中で教団のあり方を考える一つの事件がありましたので
そのことをまずお話ししたいと思います。
ちなみに「フリー」と言っているのは「フリー聖餐」に否定的だからではなく、聖餐形態を(クローズ・オープン・フリー)の3つに分けて考えているからです。
フリー聖餐に対しては否定的どころか積極的にやったらいいという考えですが
うちの教会の年寄りのことを考えたときに、老い先短い年寄りに聖書の読み直しを迫ることは酷だよな…無理だよな…とも思います。

1月末、札幌地区のある教会で牧師就任式がありました。
教団副議長のある牧師が司式に呼ばれたんですが
そのときの説教が
「『正しい』福音を述べ伝え、『正しい』聖餐を行えば信仰は継承される」
というものでした。
その時点でもうアレルギーが…。
就任式の礼拝が終わったあとの牧師招聘経緯の説明でも役員さんの口から
「教団信仰告白に言い表されている通り福音を「正しく」述べ伝え、「正しい」聖餐を行う人を…」
という言葉が。
この人たちは自分たちの行っていること「だけ」を本気で「正しい」と思っているのか?!と憤慨しました。

>21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
>22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

ここを読むだけでも、
今、教団で一般的に行われている聖餐がここで語られている食事のことと必ずしも一致するとは言えない、ということがわかります。
コリントで行われていた食事はやろうと思えばお腹いっぱいになったり酔っぱらったりできるわけですが
どう考えても教団の聖餐でお腹いっぱいになるわけがありません(汗)

>27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
>28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
>29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
この言葉も「人の分まで食ったら腹こわすだろ自業自得だ」という意味ではないでしょうか。

>30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
この言葉を無視してはいけないと思います。
人の分まで食べたから死人が出たんだよ、考えろ、というパウロの言葉のように思います。

自分たちの信仰を吟味し議論を尽くした上でどのような聖餐を行うのか決め、その決定を誰もが尊重するという形になればと願います。
最終的に人間にはせいぜい「いろいろ考えたけどうちの教会ではこれでいきます」程度の事しか言えないと思います。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - 牧師
2010/03/04 (Thu) 10:09:08
Sayakaさん、ちなみに、クローズ・オープン・フリーの3つの概念を、教団以外の方(もここを読んでいる方はたくさんおられる)や、ノンクリスチャンの方々のために、わかりやすく説明していただけますか?


■3分類 - 爽歌―Sayaka
2010/03/04 (Thu) 16:35:11
不親切でしたね。失礼しました。

「洗礼・信仰告白をし(堅信礼を受け)、その教会もしくは教派に所属している者しか聖餐に与れない」=クローズ
例:東方教会、カトリック、聖公会(原則)
「洗礼・信仰告白を済ませた方ならその教会・教派に所属していなくても聖餐に与れる」=オープン
例:ほとんどのプロテスタント教会(日本キリスト教団の「正しいとされる」聖餐はこれ)
「与りたいと願う方は誰でも」=フリー

聖餐概念を二つに分ける場合、「クローズ」と「オープン」になると思いますが
3つに分けた場合の「フリー」が「オープン」に相当します。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - 牧師
2010/03/04 (Thu) 17:19:17
この分類で言うと、いま、日本基督教団では、「フリー」聖餐を行なっている牧師たちが、「正しくない」聖餐を行なっていると裁かれている状況ですね。

フリー聖餐を行なっている牧師はけっこう多いんですが、政治的にはどちらかというと否定的な人びとのほうが多数決的には実権を握っていて、最近出た「免職」戒規の決議も、そういう人たちが論議が決裂しているまま多数決で決めて出したわけです。

で、けっこうフリーでやっている、あるいは教会ではやってなくてもフリーを主張している、そういう牧師はけっこういるにも関わらず、ひとりの牧師が狙い撃ちにされましたね。
まあ、この問題は、ここで何を書き込んでも無責任な話になるので、あまり突き詰めた話はできないと思いますが……。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - ノンクリ
2010/03/04 (Thu) 21:22:29
 こちらのBBSに結構、長く出入りしているくらいですから、宗教とか信仰に対する考え方は、「リベラル」なのかもしれませんが、フリー聖餐に関しては、私個人としてはあまり興味がわかないというか、どちらでも良いという立場ですね・・。是が非でも聖餐に授かりたければ、受洗しますし。
 
 もちろん、信仰面でいい加減でお気楽な私と違い、受洗したくてもできない立場の方々を慮っての議論なのでしょうけど。
 ちょっと、「外国人地方参政権」をめぐる議論に似てるなぁ、って思いました。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - にじは
2010/03/04 (Thu) 21:28:09
私も聖餐には嫌な思い出が...。
教会に通い始めて間もない頃、初めての聖餐式が。
全く知識がなかった私は「もらったんだからありがたく」とばかりブドウ酒を飲んでしまいました。
後から牧師さんに「説明してなくてすみませんでした。何でもらえないのかと思ったでしょ」
と言われたので「いえ、持ってきてくれましたよ」と言うと「え!飲んだんですか!?」
と言われたのでつい「飲んでません」と嘘を...。(申し訳ありません)
「主の体と血に対して罪を犯すことになります」この箇所は非常に読むのが辛いです。
実は、洗礼を受けたい理由の一つは知らなかったとはいえ洗礼前に聖餐に与ってしまった
と言う罪悪感もあります(しかもそれを牧師さんに隠しているので)
そういう意味ではフリー聖餐、許して欲しいなぁ~と思う一人です。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - 牧師
2010/03/04 (Thu) 21:57:56
いやー、うちの学校の生徒にも、あちこち教会に行かしてるんですが(1学期に1回、どこの教会に行くかは個人の自由)、カトリックの聖体拝領のときに、列に加わってしまったんですね。
で、食べてしまってから、シスターに詰め寄られて、「あなたたちは、汚(けが)れた体のまま、主の御体をその身に入れたのですね!!(怒)」と叫ばれて、もう何がなんだかわからなくなって、お互い顔を見合わせて「やばい! 逃げろ!!」と全速力で教会から逃げた、なんてことがかつてありました。

その一方で、フリーでやってるところでは、とても嬉しい気持ちを抱く子がいました。
あるいは、逆に「本当に自分がもらってもいいのか」と、申し訳ない気持ちになった子もいたようです。

ここですね。
27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。

洗礼を受けた人だけが聖餐に与るべきだと主張する人たちは、ここがその根拠だと言うみたいです。
でも、ここだけつまんで出すと、そういうことを言っているように感じてしまうかもしれませんが、前後の文脈から読み取ると、ここで問題になっているのは、洗礼の有無ではありませんね。
ここでパウロが問題にしているのは、主の体と血を受けるという喜びの食事において、不公平が起きているということですよね。

当時の聖餐は、ちゃんとした食事というか、要するに先に来た人がたらふく食って飲めるくらいのしっかりした食事だったということでしょう。
で、比較的生活時間の余裕のある人が先に来て、食べてしまって酔っぱらってる。長時間労働せざるを得ない身分の低い人がやってくる頃には、食べるものがなくなっている。
それでSayakaさんが言っているように、弱い者や病人が命を失うようなことになっている。
だから「自分の身をわきまえなさい」という警告をパウロが発しているわけです。
この食事は、キリストが命を捨てたことを記念する食事ですよ、と。それが不公平や、人の命を奪うような結果になってていいのか、と。

ということは、主の晩餐というのが、貧しい人にとっては大事な食事の機会になっていたのではないか、ということも考えられるのですよね。
このパウロの怒り方からすると、本当にこの食事にふさわしいのは誰か、という問題も改めて考え直さざるを得ないでしょう。
つまり、キリストが命を捨てて人を救ったことを記念するこの食事に、本当に「ふさわしい」のは誰か。それは、「弱い者」や「病人」ではないか、とも考えられるのです。
そういう風に考えると、「主の晩餐」というのはフリーで、しかも貧しい者や病弱な人優先だ、という解釈もできるでしょう。

まあ、そこまで考えなくても、文脈からしてパウロがコリントの「教会員たち」に対して、「ふさわしくないままで……食べたり飲んだりする者は……」と叱りつけているわけです。教会員に対して、おまえたちはふさわしくない、と怒っているのですから、これを「教会員=ふさわしい」と読むのは、頭がどうかしているとしか言いようはないでしょうね。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - 桜泉 Home
2010/03/05 (Fri) 12:48:01
はじめまして。桜泉と申します。2児の母×勤め人×最近「グレグレ耶蘇」を自称し始めたクリスチャンです。
富田先生には、相互リンクをお願いして、それっきり、相互リンクし逃げでした。
というのは、育児と仕事で日々忙しく、ケータイからネットを閲覧するのと自分のブログを管理するのでいっぱいで、掲示板でのやり取りなどに責任を持ちきれないなあーと思っていたからです。でも、ホットな話題、ちょっとお邪魔したくなり、馳せ参じました。

>27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
>28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

のことで、少しずれるかもしれませんが、桜泉の体験を書かせてください。
桜泉はルーテル教会の信徒で、そこでは、オープンコミュニオン(他教会の人でも、受洗者ならOK)で聖餐式をやっています。
以前所属の教会では、礼拝奉仕をしていて、聖餐補助をするお役目を拝命しておりました。
桜泉がするのは、前に出てきた会衆に、グラスをお配りするだけのことなんですが。

でも、そのお役目をしていたころ、教会ではいろんなごたごたがありました。
桜泉、行くたびにイライラ怒りながらの礼拝でした。
で、特にある日は、もうブチ切れブチ切れブチ切れ3秒前。
心の中では、「えーいっ、くそっ!こんな状況で、何が聖餐だ、主にある交わりだ、クソ喰らえっ!」とグラスを床にたたきつけてやりたい衝動に駆られておりました。(もちろん――一応大人なんで衝動を行動には移しませんでしたよ。)
その後のある日も、また、礼拝直前にいろんなトラブルがありました。
ぜーったい、こいつらと一緒に並んで、聖餐をいただく気になんかなれない。ボイコットしたれと思いました。
でもそんなことしたら目立ってしまう。ますます場の雰囲気を悪くしてしまう…その思いだけで、なんとか前に並び、しぶしぶグラスを受け(その日は私が奉仕者じゃなかったので)、注いでいただきました。

思えば、この時の桜泉も、教会の状況も、「ふさわしくない」状況だったように思います。

場の雰囲気のことを考えて聖餐に与ったけど、思えば、嫌がらせ的な意味ではなく、今は受けるときじゃない、受けるべきじゃない、という判断において、その日の聖餐をパスし、ベンチでそのイライラした気持ちについて神様にぶつけて祈っていてもよかったのだと思えます。

受洗歴があるか否かがふさわしいかどうかではない、そう確信したような体験でした。

勿論、これだけがふさわしいかどうかの判断基準ではないと思いますが、何がふさわしいのかどうかを、各人および、教会という群れで、真剣に考えることに、何かポイントがあるように、そう思っています。

すみません。たぶんずれてるし、少々書き逃げになるかもしれませんが、また、時間ができたら議論に参加させてください。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - がん子
2010/03/05 (Fri) 19:52:21
がん子です。

「主の晩餐」が食事の場であったとしたら・・・
教会で皆でご飯を食べる時に「あなたは信仰告白して洗礼を受けてないから食べちゃだめですよ。」って言えるのかなあと、素朴に思いました。

礼拝でちっちゃなパン、ちっちゃなワインではなく、ほんとにゴハンにしたらいいのいになあと。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - ノンクリ
2010/03/05 (Fri) 22:37:04
 桜泉さん、はじめまして

>そのお役目をしていたころ、教会ではいろんなごたごたがありました

 みんたた、とも聖餐とも関係ないですが、これも、考えさせられますね。人間関係のゴタゴタ、ストレスなんて職場だけでたくさん、と考える私にとって、そんなことがあっても教会に関わり続けるのは、なぜ?と思ったりもしますね。

 人間関係の濃密な教会にいる、あるいは教会組織に深く関わっている場合、ハマれば楽しいけれど、一方でそういう煩わしさも付いて回るわけで、どっちがいいか(大人数の人間関係が希薄な教会と比べて)、迷うところですね。

 ところで、桜泉さんのブログを拝見したところ藤田まこと氏の死去にショックを受けられたそうで、私もそう。氏の「必殺仕置人」の中村主水のファンでした・・。関係ないけど合掌。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - にじは
2010/03/06 (Sat) 15:59:42
私も昔Q&Aにある「生徒さんが知らずにホスティアを食べちゃった」話を読んで
私と一緒だ、普通逃げるよな(笑)私なんて知らん顔してまだこの教会通ってるし..
と後ろめたい気持ちがずっとありました(このサイトに間違って食べちゃった話があった
からこそここならバラしても大丈夫と思ったのですが)

でも「洗礼の有無ではない」そう言えばそうですよね。
イエス様が「この様にしなさい」と言った時、弟子たちだけで食べてたから受洗者のみで、
分け合って食べていて、たらふく食べたと書いてないので弟子の数より信徒が増えたので
実際の聖餐の時に比べて量は少なめなのかな?と思っておりました。

ちなみに私の教会の日曜学校にもたまに、同志社香里の生徒さんが二人来ます。
いつも「富田先生ってどんな人?」など喋りたいのですが、一応私がこのサイトに
はまっていることを教会の人達に話してないのでジッと我慢です(ずるくてスミマセン)

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - トマス Home
2010/03/07 (Sun) 00:36:51
スレの流れからはズレるかもしれませんが、

あらためてこの箇所を読んでみて思ったのですが、パウロは前半(17-20節)で非常に厳しいことを言っているのは確かですけど、その一方で、後半(31-34節)では厳しさに行きすぎがないように気を遣っていますよね。
特に34節。ここを読むと、「まぁ私が行くまでちょっと待ってなさい。いろいろ問題はあるだろうけど、カッカしないで、私が行くまでにケンカしちゃダメですよ。」と言っているように読めるのですけど、違うかな?

Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - 牧師 Home
2010/03/07 (Sun) 14:47:35
203.140.72.82

そういえば、冒頭で毛利さんが投げかけた疑問に答えるの忘れていました。すいません。

23~26節の聖餐の制定の言葉、イエスがこうこうしたという情景の描写なんですが、これは、もう既にパウロが聞き知っていたのは、主の晩餐という一種の儀式になってしまっていた、ということです。
パウロが言っている「あたながたに伝えたものは、私が主から受けたもの」というのは、パウロが直接イエスに会ったということではなくて、主イエス以来、主の晩餐という儀式的な食事の形で自分にも伝えられ、そして、自分もコリントの人に伝えた、ということなのだというのが、割と通説になっていたのではないかと思います。
そして、実際、そういう言葉のやりとりの形で、(パウロより後に書かれた)福音書の場面にも取り入れられ、後々の教会にも伝えられ、そして現在もクリスチャンたちはそれを受け継いでいる、というわけです。

儀式、という形で記憶を伝達するのが、たいへん優れた方法であるということの1つの例ではないか、と思います。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - 毛利
2010/03/08 (Mon) 19:36:45
回答頂きありがとうございます。

儀式にしたのは確かに賢い伝達方法ですが、今度は儀式に捕らわれてしまって、今回のように様々な意見が出ているのですよね。

儀式とか形式にしがみつくのではなく、神のみを信じろとイエスは言っていたと思うのですが、どうして2000年過ぎた今でも儀式のあり方に振り回されているのか私には不思議です。

イエスが今の状況を見たら、どう思うのでしょう。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - トマス Home
2010/03/09 (Tue) 13:50:08
17-34節という少し長いスパンで読んでみて思ったのですが、いわゆる聖餐式文って大抵は29節までしか読んでないですよね。これ、30節まで読んでいたら、聖餐式文が規定する意味合いが随分と変わっていたかもしれませんね。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - にじは
2010/03/09 (Tue) 23:56:25
わ~!トマスさん、ご指摘本当にありがとうございます。
訂正してお詫び申し上げます。


>イエスが今の状況を見たら、どう思うのでしょう。

wikipediaの日本基督教団の所で配餐問題の事が書かれていました。
こんなことはきっと望んでいなかったはずですよね。

イエス様の大切にされていた「愛」と「赦し」これを忘れないでいたいですね。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - @プー
2010/03/12 (Fri) 23:34:23
聖餐に関して興味深い話しをひとつ。
日本基督教団に溝部さんというかなり年輩の牧師さんがいる
と思うのですが、その弟がカトリック高松教区の司教です。
で、兄弟で「共同聖餐式」を行うことがあると弟さんの方が言っておりました。プロカトを超えた共同聖餐式でどんなやり方をするのだろうと興味を持っております。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - トマス Home
2010/03/21 (Sun) 22:10:39
とりあえずもう一度上にあげておきますね。

>33節 食事のために集まる時には
 ってことは、礼拝のために集まるのと食事のために集まるのとは別だったのかな?私はなんとなく当時は礼拝に続いて主の晩餐があったと思っていたのだけど。

■新たな「主の晩餐」へ - まいまい
2010/03/23 (Tue) 22:35:45
単に、私が好ましいと思っているパン割きと食事のイメージを。
礼拝はパウロ書簡にあるように愛餐中心にする。
で、その途中で、パンを割き葡萄酒を掲げてイエスを記念する儀式をする。
で、愛餐は当然フル・フリー。聖餐にあたる部分は… イエスを記念したい人のみ,かなぁ… 要は普通言われるフリーね。 少なくとも洗礼は関係なさそう。あれ、そもそも洗礼者ヨハネ教団の残党が原始キリスト教団に流れ込んだときに持ち込まれた、いわば他派の儀礼でしょうに… 少なくともいわゆる12使徒たちは、洗礼を受けずに聖餐にあたるものを飲み食いしてたわけで…
洗礼も聖餐もプロテスタントが神秘化するのは止めましょうよ。福音書に記された儀礼なんて、フィレンツィの指摘を待つまでもなく他にいくらもあるし、洗礼はイエスは施していないんだから… 
〔管理人注……フィオレンツァですね〕

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - トマス
2010/03/24 (Wed) 16:31:33
まいまいさん、随分とお久しぶりのお出ましですね。
一年以上は経ってますでしょうか。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - トマス
2010/03/24 (Wed) 16:32:45
あらためて読み返してふと気になったのですが

爽歌―Sayaka さんの記事で牧師就任式を教団副議長がしたとありますよね。牧師就任式を教団副議長がするのって何か特別な事情があったのでしょうか?普通は教区議長がするモノだと認識しておりますのですが、違うのかな?実際に教区の頭越しに教団副議長が出て来て就任式したとしたら揉めそうですね。

■Re: 2010年3月みんたた「主の晩餐」 - hotaro
2010/03/24 (Wed) 17:11:33
聖餐の根拠には、二つの源流がありそうです。一つは、愛餐、もう一つは最後の晩餐に象徴されるものです。愛餐については、マルコが強調していて、5千人の給食についてだけでなく、4千人の給食の記事まで追加しています。私は思うに、すでに初代教会において、共に食事をすることから、これを弟子とか信仰告白した者に限る聖餐として分離して権威化する動きがあったようです。それに対して、マルコは、イエスはそうでなかった、ということを言いたかったのではないでしょうか。貧しい者も富める者も、言わんや信仰告白した者もしていない者も、一切の分け隔て無く共に、全ての食物を天の恵みとして感謝して分かち合う、というのが、イエスの共同体のあり方だと思います。イエスは、最後の晩餐のシーンで、「再び天で食事をする時まで、二度と、このような食事はしない」と言って、天国においても、共に食事をすることを期待しています。

■Re: Re: 2010年3月みんたた「主 - 爽歌―Sayaka
2010/03/24 (Wed) 17:41:19
>>トマスさん

>牧師就任式を教団副議長がするのって何か特別な事情があったのでしょうか?(中略)実際に教区の頭越しに教団副議長が出て来て就任式したとしたら揉めそうですね。

本当にその通りなんです。
実際にその教会と教区が揉めていて
牧師を招聘したのはいいけれど
教会と教区が和解できず
教区的には就任式あげることができない状況だったのですが
教会側としては就任式をこれ以上待てず
教区飛び越えて就任式やってもらうよう副議長にお願いしたというところだと思います。

私の所属教会はその教会の枝教会でしたので牧師、教会員有志で就任式に参加しましたが
その教会と合同前にも同じ教派だった教会やその教会の枝教会、新しく招聘された牧師に縁のある教役者以外の出席はなく
北海教区三役も出席しない(できない)異様な就任式でした。

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