みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2010年6月のテーマ: 「人生はため息のよう」

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■詩90編1~17節(新共同訳・旧約・p.929-930)

がん子さんのリクエストにより、2010年6月は詩90編をテーマとします。
以下に、新共同訳の日本語本文を記します。

**********************

詩90編

1 祈り。神の人モーセの詩。
 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
2 山々が生まれる前から
 大地が、人の世が、生み出される前から
 世々とこしえに、あなたは神。

3 あなたは人を塵に返し
 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
4 千年といえども御目には
 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
5 あなたは眠りの中に人を漂わせ
 朝が来れば、人は草のように移ろいます。
6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
 夕べにはしおれ、枯れて行きます。

7 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り
 あなたの憤りに恐れます。
8 あなたはわたしたちの罪を御前に
 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
9 わたしたちの生涯は御怒りに消え入り
 人生はため息のように消えうせます。
10 人生の年月は七十年程のものです。
 健やかな人が八十年を数えても
 得るところは労苦と災いにすぎません。
 瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。
 あなたを畏れ敬うにつれて
 あなたの憤りをも知ることでしょう。
12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。
 知恵ある心を得ることができますように。

13 主よ、帰って来てください。
 いつまで捨てておかれるのですか。
 あなたの僕らを力づけてください。
14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ
 生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と
 苦難に遭わされた年月を思って
 わたしたちに喜びを返してください。

16 あなたの僕らが御業を仰ぎ
 子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。
17 わたしたちの神、主の喜びが
    わたしたちの上にありますように。
 わたしたちの手の働きを
    わたしたちのために確かなものとし
 わたしたちの手の働きを
    どうか確かなものにしてください。

*************************

さあ、ではご自由にご意見をお寄せ下さい。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/03 (Thu) 22:40:36
なんか震災の時のことを思い出してしまいそうな詩編ですね。特に第4連(13-15節)あたり。
モーセってもうちょっと勇ましい歌を歌いそうな気がするんだけど、それって単なる思い込みかなぁ。
何にしてもどこかしんみりした感じになってしまいます。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - et ホーム
2010/06/04 (Fri) 08:20:54
> 人生はため息のように消えうせます。
>10 人生の年月は七十年程のものです。
> 健やかな人が八十年を数えても
> 得るところは労苦と災いにすぎません。
ここの箇所だけ読むと本当に人生、はかな過ぎる。
めっちゃ暗と感じます。
コレじゃ夢も希望もないですね。
人生を達観し過ぎかな?
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/04 (Fri) 23:05:45
読み直してみると、2連、3連あたりはむしろスゴク前向きかな?人間の小ささと言うよりも神の偉大さの方に目が行ってますよね。
12節はソロモンの逸話(夢の中に神が顕現してソロモンにお前は何が欲しい?と尋ねた話し)を思い出しますね。全然調べないで書いてますけど、モーセの詩とはいうけど、まさか本当にモーセから口伝されたわけじゃないでしょうし、この詩がモーセの詩とされた背景は何なんでしょうね?
読んでいくと色々疑問がわいてきます。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - がん子
2010/06/05 (Sat) 18:08:58
まだきちんと読めていませんが、心から畏れ敬い、すべてが偉大な神さまの手の中にあるのだという信仰がすごいなあと思ってしまいます。
信頼をおいているからこそ13節~15節の「お願い」ができるのだろうと。
16節からは希望を感じます。
モーセにとって神は畏れ敬うものであっても近しいのだろうなあと感じました。
私の好きだった方は病床にあってこの詩を読み「死の中にあって生きる」希望を与えられたそうです。
もちっとじっくり読みたいと思います。
みなさんの学問的な意見も聞きたいですし、「信仰」の目から見ての意見も聞きたいです。よろしくお願いします。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - にじは
2010/06/06 (Sun) 13:47:35
旧約聖書に出てくる人達って100歳なんて当たり前みたいに生きてるので
(これは、何割引して考えるのかな?)とか思っていましたが、10節の
>人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても..
とあると、ちょっと現実に近づいてるのかな?とも思います。
それとも、アブラハムとかダビデとかは長生きで、「ただの人」は七十年程、と言う
事なのでしょうか?こんな昔に七十年も生きれたら長いほうかもしれませんが。
人間の寿命は神様がお決めになってるのでしょうか。
だとしたら、イエス様が死んだ人を生き返らせるのって..?
あ~また話が違う方向へ...。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/06 (Sun) 21:16:43
>長生き
確認せずに書いてますけど、御容赦を。
創世記の人物はやたら長生きしてますけど創世記の中でも段々と短くなってくるのですよね。創世記の最後のヨセフでも110歳でしたっけ。ノアは900歳ぐらいだったかな。モーセは創世記よりもあとになりますが120歳ぐらいでしたっけ。半額とは言いませんが、3割引ぐらいしたいところですよね。
ところが神話の時代はともかくとして、ダビデぐらいになってくると書かれている物語もだんだん「歴史」っぽくなってきてダビデもたしか70歳でした。
一般に古代といえば平均寿命は短いですけどそれは子どものウチに死ぬ分がカウントされるからで、大人になるまで生き延びた人は(今で言う)中年ぐらいまでは普通に生きていたようです。
そう考えると
>人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても
ってのは現代とあまり変わらないのかもしれませんね。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - 牧師 ホーム
2010/06/06 (Sun) 21:44:23
70年生きるにしろ、80年生きたとしても、味わうのは苦労ばかりで……と言っているわけですよね。
ちゃんと毎日栄養のあるものを食べて、それなりに衛生的に暮らしていた人じゃないですかね、これだけ長生きできるのは。
まあ、詩なんか書き残せるくらいの知的エリートだから、こういう寿命の感覚になるんじゃないでしょうか。
多くの庶民はもっと短い生涯だっただろうと思います。
90編は悲観的な言辞が多いですが、その前後の章は、神を賛美する高らかな勇みが感じられる詩になっていますね。

■Re: Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - et ホーム
2010/06/06 (Sun) 22:18:39
創世記に出てくるアダム930歳、エノク365歳、ノア950歳、アブラハム175歳、サラ127歳イサクの誕生はアブラハムが100歳、サラが90歳の時、DNA研究によって人間の寿命は120歳が限度と言われているので、これは事実とは考えにくいと思います。
これらの数字に何か隠された意味があるのかもしれませんが、少なくとも、聖書に書いてあるとおり、そのまま信じるのは、危険だと思います。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - にじは
2010/06/07 (Mon) 20:34:28
生きてる間は辛いことばかりだけど、神様さえいれば...と言った感じの詩ですよね。
辛くて、苦しいからこそ余計に神様にすがりたい。
これはきっと昔から、そしてこれからも人間が抱く気持ちなのかも知れませんね。
もしかして、全ての人間が幸せに生きてきたのなら「神様」は今のようなイメージでは
なかったりして(異論ありそうですが、すみません)
寿命の事ですが、もしかして昔は年齢の数え方が違っていたのかな?と思うのです。
今で言う一年の間に何歳か年をとっていたとか?
ところで、今で言う「中年」って何歳くらいなんですか?
学生の頃は三十代の男性は中年だと思っていましたが、自分が年をとると
三十代の男性はまだまだ若いなぁ~なんて思うようになってしまいました。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/07 (Mon) 21:24:18
>中年
あ、それほど厳密に考えて書いたわけではないのですが、40代とか50代とか。ホントは気持ちの持ちようが大事なのかも知れませんけどねぇ。
>味わうのは苦労ばかりで
>生きてる間は辛いことばかりだけど、神様さえいれば
そうですよねぇ。そう思います。そういう感覚が社会全体に閉塞感がある中で生きている私達現代人に響いてくるのかも知れません。
一方で、辛いなぁと書きつつも厭世的になっていないのが面白いですね。キリスト教ってこういう時すぐに厭世的になる感じしませんか?あの世で報われるから今はしんどくてもいいんだ、みたいな。ユダヤ教って辛くてもしんどくても現世肯定的なところがあるのかな?

■Re: Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - et ホーム
2010/06/07 (Mon) 23:00:01
本当は、叩き台にしないといけないんでしょうが、何度か読み返しているうちに、恵みがあふれてきました。
特に13節~15節なんかいいですね。
私、次週の礼拝の司会者なので、さっそく、この詩編90を使うことにしました。
http://www.eonet.ne.jp/~mount-zion/index.html

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - 牧師 ホーム
2010/06/09 (Wed) 01:19:57
でも、15節なんかを読むと、やっぱり自分を苦難に陥れたのは神自身だったのか、と思わされてしまいます。
私は苦しみも神が与えたものという信仰には、半分くらい懐疑的ではあります。
自分が負ってきた苦労は、確かに神が恵みに「変えてくださった」という気はするのですが、最初から神が「与えてくださった」とは思いたくないのです。

■Re: Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - et ホーム
2010/06/09 (Wed) 19:09:06
そうですね!
モーゼの時代は、苦しみは、律法を守らなかった為に、神様から来た罰という発想ですね。
恵みの時代でも、苦しみはずいぶん、ありますが、先生の言われるように、神様が苦しみを背負ってくださり、恵みへと変えて下さっているということでしょうね。
教会は、重荷を降ろせる、憩いの場所であるべきですね。
http://www3.ezbbs.net/cgi/bbsi?id=et1812&dd=34

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - 牧師 ホーム
2010/06/09 (Wed) 20:04:33
もっとも、私のように、「苦しみは神が与えたものだとは思いたくない」という発想を、信仰的に未熟だとお思いになる方もおられるでしょう。
たとえば、私は今、Twitterでマザーテレサの語録をフォローしています。一日に何個か、マザーの言葉が流れてくるわけですが、マザーの発想の根底にあるのは、「苦しみは神が与えた尊い賜物」という信仰です。
そして、死を待つばかりの人に対して、「あなたの苦しみは神さまが与えてくださった物なのですよ」と語ってゆくわけです。
私は、そういうことが言えるというのは、ものすごい信仰だけれど、そういう信仰を持つということが実感としてわかりません。
それが自分でも少し悔しく(?)思う所です。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - がん子
2010/06/09 (Wed) 21:01:08
ほんとにそう思います。
モーセの祈りもそうですし、牧師さんの書かれたマザーテレサの言葉もそうです。
ほんとうに心からこう思えたら幸せなのだろうと思いますが、自分に当てはめるととても無理だろうと思います。いつかそう思える時が来るのかなあ?
そう思うと私って神さま信じてないのかもしれないなあ・・・。
あ、・・・ただ、苦しみを経験することで気づくことは多々あります。そういうと~~っても遠い意味では賜物と言えるのか?とも思えますが。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/09 (Wed) 22:59:01
時間を経て振り返った時に、あの苦しみは結果的には恵みでもあったのだ、と思うことは出来るでしょうけど、苦しんでいるさなかに恵みだと思えるというのは凡人には難しいですよね。斜に見れば、だからこそマザーテレサのような人の凄さがスゴイと感ぜられるのやもしれません。
>苦しみを経験することで気づくこと
それってとっっても遠くない意味で賜物だと思いますよ。

■Re: Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - et ホーム
2010/06/09 (Wed) 23:22:27
確かに、マザーテレサは、愛の働きをなし、私たちは、凄いなと思います。
しかし、クリスチャンの行動は、一生懸命努力して行うものではなく、神様の側で全て成し遂げて下さるものではないでしょうか?
そして、行いの原動力になる信仰は、私たちが信じようと努力して獲得するものではなく、神様から、一方的に与えられるものであることを思い出せば、マザーテレサが凄いのではない、マザーテレサも私たちと同じように、弱い人間にしか過ぎないと考えます。
http://www3.ezbbs.net/cgi/bbsi?id=et1812&dd=34

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - にじは
2010/06/10 (Thu) 19:16:21
>時間を経て振り返った時に、あの苦しみは結果的には恵みでもあったのだ
確かに辛い事があって、成長する自分があったりもするのですが、
やっぱり辛いときに「いつか恵みに変わる」なんて思えないですよね。
苦しみは神が与えたもの、と思えば辛くても頑張れる人もいるのかもしれませんが
やっぱり心の強さも人それぞれで、「神様、もう頑張れないよ~!」と思うことがあります。
図々しいですが、「神様、今日も幸せにしてくださってありがとうございます」
と毎日感謝のお祈りばかりできる毎日を送りたいです。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/12 (Sat) 00:30:16
>恵みでもあった
>いつか恵みに変わる
なかなか難しいと思うんです。ホントに。ただ、苦しさやしんどさが時を経ても苦しみとして消えない中にも何かそこから得たものも見つけたい、という願望であるのかもしれません。苦しさだけで終わってしまうことによってより一層の辛さを感じるのかもしれません。何か少しでも得たものがあったとでも思わないとやってられないよ、というところでしょうか。全面的な恵みには変わりようがないと思います。ウマク言葉になりませんが。
苦しみの中でも、何か見つけたものについてありがとうと祈れるようになりたいですね。なんでこんな事になるんだと祈りつつも。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/12 (Sat) 00:40:32
>信頼をおいているからこそ13節~15節の「お願い」ができるのだろう
と、がん子さんが最初の方に書いておられましたが、その通りだと思います。根底に深い信頼があるからこそ、なんでこんな目に遭わなきゃイカンのだ、という文句が遠慮無く言えるような気がします。
その意味ではこの90編全体を通じて神への信頼はあふれていますよね。
>主よ、帰って来てください
であって、私はもう他の神の所に行きますとは言ってないですものね。だからこそ苦しみの中にも何か得られるものを見つけたいと思う私に響いてくるのかもしれません。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - にじは
2010/06/12 (Sat) 07:42:35
トマスさん
>苦しさやしんどさが時を経ても苦しみとして消えない中にも何かそこから得たものも見つけたい、という願望
まさにそうです!苦しさだけでは終わりたくない。転んでもタダでは起きたくない、と思います。
この詩は最近元気のない私に少し前向きな気持ちをくれました。
>苦しみの中にも何か得られるものを見つけたいと思う私に響いてくる
と言うわけでモーセにぴったり?と思いつつ、聖書って辛い事があって「神様に何とかしてください」
と願う人がいっぱい出てくるのでモーセじゃなくても良いのでは?と言う気もします。
聖書は「そうか、辛い事があるのは私だけじゃないんだ。そんな時は神様にすがればいいんだ」
と言う読み方もありかな?とちょっと思いました。
リクエストを下さったがん子さんに感謝します。

■Re: 6月のみんたた「詩編90章」 - トマス ホーム
2010/06/29 (Tue) 13:10:26
6月も終わりだし、もう一度あげておきますね。

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