みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2010年8月のテーマ: 「山上の説教(幸い)」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
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■マタイによる福音書5章1~12節(新共同訳・新約・p.6)

2010年8月のみんたたは、にじはさんのリクエストにより、「山上の説教」を取り上げます。大御所正面突破です。
まずは、山上の説教の冒頭部分。「幸い」の部分を取り上げてみましょう。
新共同訳聖書のテクストは以下のとおりです。

******************************

マタイによる福音書5章1〜12節

1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。
2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
9 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

******************************

以上です。どうぞみなさん。たたいてください。
いろんなメッセージの手がかりが出て来るんじゃないかと期待しています。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/02 (Mon) 05:51:57
おぉ、真っ正面ですな。
そういえば、昨日は平和聖日でしたね。
「平和を実現する人は…神の子と呼ばれる」
イエスの自称が「人の子」だったのと対比すると面白いですね。

■Re: Re: みんたた8月:山上の説 - 爽歌*sayaka
2010/08/02 (Mon) 07:23:38
マタイ版とルカ版の違い…
マタイは「心の貧しい者は」と残し
ルカは「貧しい者は」としたわけですが
イエスの言ったもともとの言葉に近いのはどちらでしょうか。
私はルカ版がもともとに近いと信じてます。
イエスさまが心の貧しさに言及したり
また一般に解釈されているような「心が貧しい」=「謙遜」というようなことを考えたりしたのかな…と思います。
本田訳の「心底貧しいされた者には神からの力がある。」という訳がしっくりきます。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - ののか
2010/08/02 (Mon) 07:40:11
昨日の礼拝説教で、9節とりあげました。昨日は平和の日でした。

■Re: マタイとルカ - トマス
2010/08/02 (Mon) 18:01:50
>貧しい者
この点に関しては、ルカの方が原形を留めているだろう、と聞いたように覚えています。貧富の問題に関心高いルカですから、ルカが削った可能性もあるでしょうけど、しかしやはりマタイが付け足した可能性の方が大きい、ということだったと思います。
>「心が貧しい」=「謙遜」
まず間違いなく近代プロテスタントの考えそうなことですね。

■Re: Re: マタイとルカ - et
2010/08/02 (Mon) 18:58:02
「心が貧しい者は幸いである」
「貧しい者は幸いである」
本当はどっちが正しいんでしょうね?
マタイかルカのどちらかが間違って書いたんでしょうか?
しかしながら、イエス様が、単に経済的に貧しいというだけで天国に行けると言ったと考えるのは、少し無理があると思います。
ただ、イエス様は、常に経済的に貧しい人や罪人と言われている社会的な弱者のそばにおられたことは確かです。
そう考えると、単に経済的に貧しいだけでなく、社会から色んな面で疎外されている人々に、イエス様は救いの手を伸ばされていたのは確かでしょうし、そのような人々を伝道の中心に置こうとして、「貧しい人は幸いである」と言われたのかもしれません。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/02 (Mon) 21:29:48
>「心が貧しい」=「謙遜」
はとりあえず無視して(笑)
それ以外の「心が貧しい」状態って何だろう?と考える時、「心が豊か」はどういうことかなぁ?
と考えると「慈愛に満ちた」とか「ポジティブ」だと仮定すると(無理やりですが)
「心が貧しい」のは他人に構う余裕の無いネガティブな状態だとしたら、
「人に優しくできない程辛く悲しい精神状態」の人は幸いである
と言うのは飛躍しすぎかなぁ..?

■Re: Re: みんたた8月:山上の説 - 爽歌*sayaka
2010/08/02 (Mon) 22:06:23
心の、という言葉をマタイが付け加えたとして
「心が貧しい」ということをマタイはどう想定していたんでしょうか。
謙遜やへりくだりのことだと解釈するのはどうも腑に落ちなくて。

■Re: Re: Re: みんたた8月:山上の説 - et
2010/08/02 (Mon) 22:20:23
「心が貧しい人」というのは、一般的な解釈では、自分自身の中に何も良いものが無く、罪しか無いということを自覚している人のことです。
ルカ伝18:9から書かれている ファリサイ派と徴税人のたとえに出てくる徴税人のような砕かれた人のことでしょう。
一般的な謙遜というイメージとはかなり違います。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/03 (Tue) 19:41:36
>自分自身の中に何も良いものが無く、罪しか無いということを自覚している人
と言うのは、「人間は生まれながらに罪人」と言うだけに全ての人が含まれるような気も。
かと言って私も「心が貧しい」とは謙遜やへりくだりには思えません。
私にとっては「義」の解釈も難解です。
これも「心が貧しい」同様人によって解釈が違う様な気がします。

■Re:義と言えば - トマス
2010/08/03 (Tue) 22:39:42
6節の「義に飢え渇く」の「義」もマタイが付け加えたんじゃなかったでしたっけ。
「義」の解釈の方は、旧約の用法がけっこうハッキリしていますから、その理解の援用でいいと思います。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/05 (Thu) 00:03:17
>「義」の解釈の方は、旧約の用法がけっこうハッキリしていますから、その理解の援用
そうですね。旧約の方が「義」よく出てきます。大人気?
「義」に「飢え渇く」と言うのは「義」を求めつつも手に入っていない状態なんですよね。
義に飢え渇いていると満たされて、義によって迫害されると天の国へ..ですか。
憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々などは本人の行動が必要ですが
悲しむ人々は、と言うところにも言及して下さるところがイエス様の素敵なところですね。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 富田@iChurch.me
2010/08/05 (Thu) 09:09:06
比較しやすいように、ルカにおける「幸い(と不幸)」についての新共同訳本文も提示しておきますね。

ルカによる福音書6章20〜26節

20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
21 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。
22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。
25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 富田@iChurch.me
2010/08/05 (Thu) 09:31:40
マタイとルカを比較して、それぞれの末尾の「迫害され、汚名を着せられ……」といったところはとりあえず置いておくとして、箇条書きになっている項目を単純に比較しますと、面白いですね。

目立つ類似点は、マタイの「心の貧しい人々」とルカの「貧しい人々」、マタイの「義に飢え渇く人々」とルカの「今飢えている人々」、マタイの「悲しむ人々」とルカの「今泣いている人々」です。
どれも、「貧しい」「今飢えている」「今泣いている」という言葉遣いから、ルカのほうが切迫した状況を表現しているように見えます。

ルカが「貧しい」「飢える」「泣く」という具体的な目に見える人間の窮状を表しているのに対して、マタイは「心の貧しい」「悲しい」「柔和」「義に飢え渇く」「憐れみ深い」といったように、内面的で目に見えないものを取り上げている点が異なります。
マタイのなかでも「平和を実現する」「義のために迫害される」は具体的ですが。

マタイは「その人たちは……」と3人称で語られるのに対して、ルカでは「あなたがたは……」と2人称で語られます。これも、切迫感が違うという気がします。

マタイは「幸いな人々」についてしか書いていませんが、ルカは「不幸な人々」についても書いています。
この「不幸な人々」の部分は、「富んでいる者」「満腹している者」「笑っている者」を引きずり降ろす、という過激な内容を含んでいます。内容の切迫感と相まってラディカルな言葉であると言えます。
しかし、ルカの中では、たとえばイエス誕生直前の「マリアの賛歌」(ルカ1章46−55節)の「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される」……という言葉と、整合性があるとは言えます。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 富田@iChurch.me
2010/08/05 (Thu) 10:03:21
それから、他にそういう解釈を見た事はありませんが、「ケセン語訳聖書(マタイ)」では、「義」は、富んでいる人が貧しい人に与える施し物(喜捨)であると解釈されていました。
その解釈でいくと、「義に飢え渇く」は、施し物を求めて飢え渇く貧しい民、「義のために迫害される」は、施し物を求められて、追い回され、たかられる富んだ人、ということになるそうです。
そういう風に読む人もいます、という程度の話ですが。

■Re: ルカの切迫感 - トマス
2010/08/05 (Thu) 16:26:40
たしかに並べて読み比べてみるとルカの書いている事って具体的で切迫感がありますよね。それってルカの居た教会とマタイの居た教会の何か違いのようなモノを反映しているのでしょうかね。
ルカバージョンで「不幸な人々」の部分を読むと『平家物語』冒頭を思い出します。
ちょっと違うか?

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 富田@iChurch.me
2010/08/05 (Thu) 21:22:07
あるジーザス・セミナーに参加している学者は、テレビのインタビューで「『貧しい者は幸いだ』と言うのと、『心の貧しい者は幸いだ』と言うのと、どちらが難しいか。それは『貧しい者は幸いだ』である。そして、このような教えは、難しい言葉を分かり易い言葉に置き換える方向で改変がなされて行くものだ。だから、逆に簡単には言えない『貧しい者が幸いだ』のほうが、より原型に近いのだ」と言っていました。
そうなのか、とも思ったり、そうかな? と思ったり(笑)。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/05 (Thu) 21:30:10
>「富んでいる者」「満腹している者」は分かりますが「今笑っている者は不幸」
だなんて、これはちょっと考えてしまいます。
そこまで言うと他人の幸せを妬む?みたいで。貧しくても笑って暮らす人もいますよね。
と書いてから気がついたのですが、現代人の私が考える飢えや貧しさは2000年前のそれとは全く違うものなんでしょうね。
もっともっと貧富の差が激しくて、イエス様は苦しんでいる人達を見て憐れに思い、癒してあげたいと思い、この話をされたのかも知れませんね。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 富田@iChurch.me
2010/08/05 (Thu) 23:23:34
現代の高校生さんたちと読んでいると、彼らは「努力」→「成功」→「金持ち」という図式が頭にありますから、この箇所を読むと「負け犬の遠吠え」と読めるみたいです。
また、「飢えてる者が満たされて、富んでいる者が引きずり降ろされる。引きずり降ろされた人に、またイエスは慰めるのか。満たされた人にまたイエスは呪いの言葉をかけるのか、堂々巡りだろう」とも突っ込まれます。
少なくとも個人の努力や創意工夫で成功が手に入れられる世の中ではなかったと思います。
基本的にカースト制と同じです。父親の仕事を男児が受け継ぐ。
大工の息子は大工。貧農の息子は貧農。女の子は家柄の合う家に嫁いでゆく。
貧しい人の家系はどこまでも貧しい。金持ちの地主はごっそり収穫を持っていっちまう。
それがずーっと何世代も前からそうで、これからもそれが続いていくだろう、という感覚じゃないですかね。
だから、絶対に金持ちは没落するはずが無い体制でしたし、貧しい人がどんなにあがいても貧しさから抜け出せるはずがない状況です。
そんな中で、神が介入するなら……と考えたとき、そりゃあ逆転するに決まってるだろうが! となったのかも知れませんね。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/06 (Fri) 20:39:12
>「負け犬の遠吠え」
分かる気がする(笑)
やっぱり人間お金があって幸せそうな人を見ると羨ましい気持ちってあるんじゃないですか?
求めなさい、そうすれば...とありますが、それが「お金」だったとしても良いのではないでしょうか。
私も人を羨ましいと思う時がありますが「でも、神様に感謝しないと。住む家はあるし、
可愛い子供だっている。明日食べるご飯だってある。神様に守って頂いているんだ」
と思うと同時に「宗教って、諦めたり我慢するためにあるのかなぁ..」と思う事があります。
信仰薄くてすみません。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス URL
2010/08/07 (Sat) 12:57:44
>「負け犬の遠吠え」と読めるみたい
そうだろうなぁ。
でもですね、
>絶対に金持ちは没落するはずが無い体制
それはどうかなぁ。
階級全体としてみたらまぁそうなんだろうけど、けっこう栄枯盛衰はあったんじゃないですかねぇ。例えば北王国の歴史なんかも王朝が倒れるたびに旧王朝の側に付いていた貴族たちや地主や大商人は粛正されている可能性が高いように思います。ローマ帝国もそうなんじゃないかなぁ。だからこそヘロデ大王が次々に組む相手を乗り換えて政治的に生き残った凄さが目立つわけで。
そういうのを庶民はちゃんと見ていると思いますよ。聖書には書いてないけど。
>金持ちの地主はごっそり収穫を持っていっちまう
ってのはその通りだと思います。貧富の差も激しい時代ですから、個人の努力で金持ちになれる時代じゃないのは確かですよね。
ということで、
>そんな中で、神が介入するなら……と考えたとき
以下の結論部分は大いに同意ですが。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - ノンクリ
2010/08/07 (Sat) 15:10:26
 あまり、細かい、詳しい話はわかりませんし、ありきたりな解釈かもしれませんが・・・。
 うまく、説明できないんですが、全体的には自分の弱さ、罪深さ、情けなさ(実際の社会的地位や実力、客観的な幸不幸は別にして)を自覚できない人は、キリスト教やイエスの教えは身にしみては理解もできないし、信じられもしないよ、ってことかなぁ、と取っております。
 そういったことを自覚できる人には「救い」があるよ、ってことかなと。
 実際、自分に自信満々、己の力ですべて困難を克服してきた、と思っている人、自分の価値観、正義感こそがすべてにおいて通用する、という人がキリスト教を信じるのは困難(ただでさえ、体の復活だとか怪しげ(失礼!)な話が多いし、聖書は結構ヘンな話も多い文書ですし)だし、変に信じられても独善に陥るだけだと思いますので・・。
 社会的地位なんかなくても、周囲から蔑まれる存在であっても、ありのままで生きていられる、神様は見捨てないよ、というキリスト教のもっとも良き部分を体現したメッセージかな、と。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/09 (Mon) 18:13:05
>自分の弱さ、罪深さ、情けなさを自覚できない人は、キリスト教やイエスの教えは身にしみては理解もできないし、信じられもしない
とても心に染みる言葉ですね。
最近自分があまりにも弱く、信仰に自信がなくなってしまい、自分の教会から遠ざかっています。
こんな解釈を見ると、どんなことがあっても神様は見守って下さるんだ、と心強い気持ちになれますね。
山上の説教、奥が深いなぁ~(って今頃気付いてるの私だけかも)

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 富田@iChurch.me
2010/08/10 (Tue) 22:23:29
なるほど、ノンクリさん。確かにそうですね。
じーんときました。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/16 (Mon) 19:45:25
スレの進行も御盆休み?
細かいことになりますけど、知られているようで案外に知られていないかも、と思うことを書き込んでおきますね。
>憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
この憐れみは英訳聖書ではmercyと訳されています。実は新共同訳で憐れみと訳されている単語がもう一つあり、その代表例が(ルカですけど)「善いサマリヤ人」の物語に出てきます。こちらは英訳聖書ではcompassionです。元のギリシャ語も違うようです。
違いの方は判ったような、判ってないような…。
ということで説明できません。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/17 (Tue) 00:23:39
日本語だとしても「憐れみ」って判っているような、いないような...。
「憐れに思って」とかも放蕩息子の箇所などで出てきますよね。
二種類の単語がどちらも「憐れ」。日本語では表現しにくいニュアンスなのかな?
色々な単語が「愛」と訳されていたり、意外と日本語って語彙が少ないのでしょうか。
それとも、日本人はあまり「憐れんだり」しない民族なのかな?(それちょっとさみしいけど)

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/17 (Tue) 07:33:25
>放蕩息子の箇所
弟が実家に帰ってくる場面ですね。こちらはcompassionの方です。ひょっとしてルカとマタイでどっちをよく使うとかがあるのかな?今ちょっと調べる余裕ないのですが。
日本語の語彙が全体に少ないわけではないと思いますけど、愛とか憐れみが元来の日本語にあまりないニュアンスの単語であった可能性はあるかもしれません。日本語の世界の感性にピッタリ来る語彙については単語は多いと思います。
話は飛びますけど、カナダ・エスキモーの人達は雪について24種類の単語を使い分けると聞いたことがあります。それも○○雪という表現ではなく、全く別の単語が24種類だそうです。その文化の生活に密着した単語ほど語彙は増えるみたいですね。日本でも雪の多い地方では同じようなことがあるのではないかな?と思いますが、どなたが御存知でしたら…。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - @プー
2010/08/17 (Tue) 23:23:14
>「心が貧しい人」というのは、一般的な解釈では、自分自身の中に何も良いものが無く、罪しか無いということを自覚している人のことです。
この「心の貧しい人」の解釈は、親鸞の悪人正機説に通じる
ものがあるように思えます。悪人=心の貧しい人と解釈すれば。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/18 (Wed) 19:08:47
>しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
>あなたがたはもう慰めを受けている。
>今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
>あなたがたは飢えるようになる。
>今笑っている人々は、不幸である、
>あなたがたは悲しみ泣くようになる。
この箇所の受け取り方ですが、弱者の身になって言っているのだとしても
「今幸せそうな人もいつか不幸になります。だから今は辛いでしょうけど
幸せが来るのを待ちましょうね」と言う前向きなメッセージであると同時に
「引きずりおろす」と言う嫌な味方をすれば「幸せな人を妬む気持ち」も含まれていて、
「他人のものを欲する」様な感じで聖書的にはNGなのではないでしょうか?深読みしすぎ?

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/20 (Fri) 20:45:49
>あなたがたは、不幸である
ルカはどうもこういう書き方をしますよね。他にもルカ冒頭のマリアの賛歌もかなり厳しいことを書いておりますし。その辺りがルカは富の問題や富者と貧者の問題に関心あったと言われる所以なのでしょうけど。それだけルカの目の前に貧しい人が居たということでしょうか。でもマタイやマルコの目の前に居なかったとも思えないのですけどねぇ。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 入谷
2010/08/20 (Fri) 21:00:06
マタイ 19.16 - 22:
-- 永遠の生命を得るにはどうしたらいいでしょう。
-- あなたの財産を全て処分したあと、出直していらっしゃい。
に引き付けて、直接話法ではなく、要求話法に無意識裡に変換して読んでいる私がいます。
貧しい人でありなさい。そして天国をわがものとしなさい。悲しむ人でありなさい。云々。
難しいことを要求する人ですなあ、イエスは。

■Re: Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - et
2010/08/20 (Fri) 23:06:47
結局、マタイやルカ、(多分マルコも)が言いたいことは、キリスト教が組織として確立してから、指導者たちが、政争に明け暮れているのに対して、貧しく弱い立場の人々を忘れるなと言っているのだと思います。
エルサレム教会はもちろんのこと、パウロの開拓した教会は(ガラテヤ、マケドニア等)貧しい人々が多い教会でしたから。
現代の日本の教会も教会成長を言うあまり、貧しく弱い立場の人々に対する視点がかけているのではないでしょうか?

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/21 (Sat) 18:31:30
>エルサレム教会はもちろんのこと、パウロの開拓した教会は(ガラテヤ、マケドニア等)貧しい人々が多い教会でした
どうでしょうか。最近少しずつ使徒言行録を読んでおりますが、ルカの書いた記事を素直に読むかぎりはアンティオキア、リストラやイコニオン(ガラテヤ)、フィリピやベレア(マケドニア)、コリント、いずれも貧しい人々が多い教会とは言えないように思いますが…。もちろん、貧しい人が居なかったわけではないでしょうが、貧しい人が多いとまで言えるかどうか。かなり微妙な気がします。
福音書記者たちが「貧しく弱い立場の人々を忘れるなと言っている」というのはその通りだと思いますけど。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/21 (Sat) 18:37:35
>あなたの財産を全て処分したあと、出直していらっしゃい。
実は-全ての財産-と書いているのはルカだけなのですね。
マタイとマルコは-財産-としか書いておりません。
わざわざルカが-全ての-と付け加えたということはマタイあるいはマルコはそのようには意識していなかった(とルカには読めた)ということかもしれません。
ということでもう少しお気楽に読んでいただいていいかと思われます。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/22 (Sun) 13:39:31
>あなたの財産を全て処分したあと、出直していらっしゃい。
この後に「それでは、誰が救われるのだろうか」と言うと、イエス様は
「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
なので「確かに、人間には無理だよな」と言う解釈をしちゃったりして..。
この後の「神の国のために家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は誰でも・・・」ですが、
夫は捨てられないのか?とか、捨てられた子供はどうなるんだ、とか女性や子供の様な弱者に
厳しくて、イエス様の言葉が当時の価値観によって書きかえられていったものだとは思いますが、
ここは少々引っかかる場所です。

■Re: Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - et
2010/08/23 (Mon) 10:34:28
金持ちが全財産を処分する、また、家族持ちが、家族を棄てる。
イエス様は、わざと出来ないことを言われていると思います。
そうして、人間の努力では救いに到達出来ないことを悟らせているのでしょう。
人間の努力で救われるなら、十字架は必要無いでしょうから。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - ノンクリ
2010/08/23 (Mon) 21:23:43
>金持ちが全財産を処分する、また、家族持ちが、家族を棄てる。
イエス様は、わざと出来ないことを言われていると思います。
 イエスの言動ってどこまでが本気なのか?皮肉なのか?冗談なのか?マジなのか?分かりかねるところがあるようなぁ、と思うのは私だけでしょうか?
 異教徒をも感動させる優しさ、慈愛があるかと思えば、とんでもなく過激な言葉で人を翻弄する・・。
 ある意味、非常に「食えない」人です。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/24 (Tue) 01:56:40
>「食えない人」
そう思いますね。皮肉は相当にきつかったと思います。
それから、得意技は質問返し(笑) お前はどう思うんだ?みたいにして質問をそのまま返して相手の言葉尻をつかまえて立ち往生させていることは何度もありますよね。
敵には回したくないヤツでしょう。
味方としてもけっこう付き合いにくいかも…。
>わざと出来ないことを言われている
それは本当にそうなんじゃないですかねぇ。
だからひたすらに信じなさいという感じでしょうね。
すると親鸞に似てくる…。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/24 (Tue) 19:14:40
>敵には回したくないヤツでしょう。
>味方としてもけっこう付き合いにくいかも…。
笑えます。
弟子達は、色々な意味で苦労したのかもしれませんね。
わざと出来ないことを言って人間の限界とか、愚かさに気付かせて
神の偉大さを説いた、ということなんでしょうかね。
イエス様って、いつ頃から皮肉屋だったのでしょうか。
「お祭り迷子事件?」とかをちょっと思い出すのですが、利発だけど、ちょっと小生意気な子供時代だったりして(問題発言?)

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/24 (Tue) 20:08:16
>利発だけど、ちょっと小生意気な子供時代だったりして
相当にヤンチャだったと思います。
ガキ大将だったんじゃないですかねぇ。
だからこそ、「ついてきなさい」の一言で弟子を集められたりとか、「人の子には枕するところもない」とか言いながら放浪する預言者な生活が出来たり(野宿することも多かったのでは?)、そういうことだったんじゃないでしょうか。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - ノンクリ
2010/08/24 (Tue) 22:25:30
>相当にヤンチャだったと思います。
ガキ大将だったんじゃないですかねぇ
 まあ、極道と紙一重でしょうねぇ。マタイやペテロをスカウトするシーンなんて盛り場でゾクの皆さんや極道業界の方々が不良少年をスカウトするのと大して変わらない、なんていったら怒られますかね??
 共に(あくまでタテマエとはいえ)、構成員同士で疑似家族的な関係をつくりますし、構成員としての証を立てる儀式(杯を交わす、聖餐)があるし、上納金(献金)はあるし、内部抗争もあるし・・・。土建業、風俗などなど(極道)、学校、病院(キリスト教)など「フロント企業」があるのも・・。といった具合で冗談で片づけるにはあまりに共通点が多いんですよね。
 極道屋さんになるよりは、クリスチャンの方が迷惑がかからないし、ずっといいよねぇ、ってくらいのもので・・。
 極道の皆さんも宗教家も社会の底辺で非道や無情に接しているし、人の心を読み、振り回す能力が非常に重要な点は共通しているわけで・・。
 聖書を読むと、皮肉屋だったり、きつかったり、およそ品行方正とか慈愛にみちているとは言い難いイエスの姿がしばしば見られ、初めのうちは「なんだこりゃぁ」と思ったものですが、キリスト教やイエスは別に道徳を説いているわけではない、たまたま世間一般のそれと合致するところも多いけど、基本的には似て非なるもの。
 実際は「任侠」(きれいごとっぽいが)の世界に近いものであること、と理解すれば、常識では理解しがたい「殉教」とか、ときに恐ろしく暴力的な面があったりするのも、すんなり納得がいくのです、私的に。
 暴論かな?

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/25 (Wed) 20:14:26
ノンクリさんの持論が出ましたね。
まぁなんというか、組織である以上はそういう側面は何でアレ持つような気がします。Japanese karoushi なんて言われた日本の会社なんてのも疑似家族関係でしょう。そういうつもりで共通点を探せばいくらでも出てくるように思います。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/26 (Thu) 08:55:07
残りの日数も少なくなってまいりました。
というわけで、あらためて読み直してみましたら、
マタイを基準にして、5節と7-10節とがルカにないのですね。つまり、
柔和な人、
憐れみ深い人、
心の清い人、
平和を実現する人、
義のために迫害された人、
これが全部マタイの付加だとしたら、申し訳ないけど、すごく味気なくなりますね。この幸いの教え。
共通するのは
貧しい人、
悲しむ人(泣いている人)、
飢え渇いている人、
だけですものね。
もし付加だとしたら、マタイはなぜこんなに拡大付加したのでしょうか?
あるいはルカはなぜそんなに縮小削除したのでしょうか?

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/27 (Fri) 12:53:06
仕事が忙しくて見られない間に話が面白い事に..。
弟子たちは、イエス様の元舎弟だったと言う事ですか。
で、トマスさんのまとめですが、マタイが付加しつつ、ルカも削除したと言う可能性もありますよね。
「山上」の説教とありますが、富田先生が書かれていたように「あなたがたは」とか「その人たちは」
とか書かれているので、他の場所(誰か特定された人達に対して)でも以前に類似した話を
されていたとかで、後日他の多くの人に「あの時の話、私達にもして下さい」とか言われて
「幸い」の人の対象がちょっと広がって・・?それも無理があるなぁ~。
テオフィロ様に配慮しての削除とか?(何を?)

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - 富田@iChurch.me
2010/08/27 (Fri) 14:34:46
こういう、同じようなリズムの言葉の繰りかえしというのは、事実の記録というよりは、儀式のなかの式文のようにして伝えられたもの、という考え方もできるみたいです。
もともとイエスの言葉というのは多分あったんでしょうけど、マタイの属していた教会と、ルカの属していた教会とでは、伝えられていた式文が異なっていて、それなりに教会の体質とか主張点が異なるために違うバージョンが伝えられていたのだろう、と。
そう考えると、もうどっちがイエスの言葉に近いんだろう、という問いの土台自体がずぶずぶ崩れてしまう気もしますが(笑)。
でも儀式の言葉にしてしまうのが、実は一番記憶が正確に伝えられるということも言えるのですよね。
聖書の何章何節をまるまるおぼえろと言われると難しいけど、主の祈りや使徒信条だったらおぼえられるし、メロディがついてたら、もっとおぼえやすいじゃないですか。
だから、式文というのはあなどれないです。
そうなると、やっぱりマタイとルカの共通点に注目してゆくのが、イエスに近づくことなのかな……?

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - ノンクリ
2010/08/27 (Fri) 21:42:30
>弟子たちは、イエス様の元舎弟だったと言う事ですか
 極道との対比が適切かどうかは別にして、当時の社会から「卑しい人」「反社会的」「落ちこぼれ」の烙印を押されてしまった人々を積極的に取り込んで、それこそ「舎弟」にしていったのは確かですよね。
 イエスの教えとか、キリスト教の本来の良さって、なんていったらいいのか、うまく説明できないんですが、世間一般の常識に縛られた「いい人」「模範的な人」「優秀な人」の枠にとらわれず、世間がどう思おうが、自分らしく生きていけばいいんだ、何も恥じ入ることなどない、といった自己肯定の気持ちや解放感を与えたことだと思うのですよ。
 「山上の説教」というのはイエスの教えとかキリスト教の本来のいい部分がもっとも簡潔に示されている、ということで人気があるのだと思いますね。
 ただ、そんなイエスの教えもパウロにかかると、随分と世間一般の道徳、常識に近いというか合わせたものとなってしまったような印象が個人的にあるし、さらにローマ帝国やヨーロッパ世界での「国教」となるに至って、それこそ「世間の常識」「束縛」そのものとなってしまうわけですが・・。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/28 (Sat) 07:05:25
>自己肯定の気持ちや解放感を与えたことだと思う
私もそう思います。
その意味でスゴク過激だったでしょうね。
それがローマの国教となるにおよんで変質したというところも同感。
そうやって考えてみると我々現代人(と一括りにしてはいけないのだろうけど)が信じているキリスト教っていったい何なんでしょうね。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/28 (Sat) 07:09:51
>マタイが付加しつつ、ルカも削除した
その手があったか(笑)
その可能性もありますね。忘れてました。
全体としてみた山上の説教はマタイによる集成ですよね。つまり「マタイ版イエス説教集その1」というわけで、それはルカの平地の説教(?)にも言えることですし、そうすると
>もうどっちがイエスの言葉に近いんだろう、という問いの土台自体がずぶずぶ崩れてしまう
ってのがリアルになりますよね。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/28 (Sat) 18:54:47
>もうどっちがイエスの言葉に近いんだろう、という問いの土台自体がずぶずぶ崩れてしまう
聖書を読んでいて、たまに考える事ですよね。イエス様は本当はどんな人だったのか?
「そんなん言うた覚えないわ!」と思ってる箇所もあるかも知れませんね(と言うか関西弁ではない)
2000年経って、削ぎ落とされたり加えられたり、私たちのイメージしているイエス像に?
ま、神様もそうなんだから自然な事なんでしょうけど。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/28 (Sat) 22:20:26
>と言うか関西弁ではない
きっとガリラヤ弁だったと思います。
使徒言行録2章のペンテコステの記事は弟子達がおそらくはガリラヤ訛りのギリシャ語やら何やらで福音を語ったらしいと読めますし、イエスの育ったナザレもガリラヤの隅っこの町ですし、イエスもガリラヤ弁だったことでしょう。
それがエルサレムの人々にはとんでもないイナカモンに見えたはずです。標準語(!!)ではなかったという意味では、関西弁でイメージしてもいいのではないでしょうか。

Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - にじは
2010/08/29 (Sun) 17:03:12
>関西弁でイメージしてもいいのではないでしょうか
と、すると
「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがまだ楽やな」
「医者を必要とするんは丈夫の人とちゃう、病人や」
確かに皮肉屋かもしれない..。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/08/29 (Sun) 20:19:53
>関西弁
妄想モード全開で頭の中で関西弁変換してみましたが、マタイバージョンを関西弁にするのってけっこう難しいですね。まだしもルカバージョンのほうが思いつきます。
公表できるようなキレイな関西弁になっておりませんので、書き込みは遠慮しておきます(笑)
そろそろ月末なんで読み直してみましたら、この言葉が引っ掛かりましたんですが、
>あなたがたより前の預言者たちも
って、山上の説教の聞き手は群衆だったのでは?
それともここだけ弟子達に焦点が集中しているのでしょうか?
どうせ「説教集」つまり伝承的にはツギハギなんだから、と言われてしまえばそれまでですが。と思いましたけど、よく見たらルカにもありますね。てことは元々のイエス言葉伝承の中にひとまとまりの言葉としてあったのかな?

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/09/01 (Wed) 21:02:43
まだ間に合うかな?
なんか最後は私のレスが続いて申し訳ないですけど。
8月も終わりましたのですが、8月ということで、もう一度「平和」の節を見るとですね、この節だけ随分とアクティブというかダイナミックというか、「実現する」となっておりますよね。
マタイが付加したのだとすれば、平和の実現ということについてマタイにはなにがしかの思い入れがあったのかも知れませんね。
ルカの背景が異邦人教会であるのに対して、マタイの背景はユダヤ人キリスト者だという通説に従うなら、ユダヤ戦争によるエルサレム陥落・神殿炎上という出来事の影響を強く受けているのでしょうか?
compassion と mercy も調べつつあるのですが、ここ数日別件で時間とエネルギーを費やした関係もあり、調べ切れていません。私が振ったネタなので調べておきたいのではありますが。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス URL
2010/09/02 (Thu) 11:47:00
まだ間に合うかな~ 第2弾
とりあえず、データだけアップしておきますね。
自分で蒔いた種は自分で拾っておかなければ。
NKJからのデータです。先に compassion と mercy をルカとマタイで好みが違うのかも、とか書きましたけど、それは間違いでした。とりあえず、共観福音書の中だけのこととして、

compassion が
マタイ6回 (9:36, 14:14, 15:32, 18:27, 18:33, 20:34)
マルコ5回 (1:41, 5:19, 6:34, 8:2, 9:22)
ルカ3回 (7:13, 10:33, 15:20)
ルカ10章が善いサマリヤ人,15章が放蕩息子、どちらも有名どころなので、ルカは compassion みたいなイメージもあったのですけど、違いましたね。

共観福音書ですから平行本文になっているところもありますけど、そこまで今は手が回っていません。
mercy の前に merciful いっときましょうか。
マタイ1回 (5:7) このスレの幸いの教えの箇所ですね。
ルカ3回 (6:36,36, 18:13) 2回使っている6:36は愛敵の教えですね。
マルコ無し

mercy は
マタイ9回 (5:7, 9:13, 9:27, 12:7, 15:22)
マルコ2回 (10:47,48)
ルカ5+5回 (1:50,54,58,72,78)と(10:37, 16:24, 17:13, 18:38,39)
となっております。
ルカ1章はマリアの賛歌とザカリアの預言ですね。1:58は新共同訳では慈しむと訳されています。すみません。ギリシャ語までチェックしてません。こうして見るとルカ1章の過激さが目立つのかも知れませんね。
あ、他にも憐れみと訳してないのがあるかも。それもチェックできてません。

その他、
善いサマリア人では compassion と mercy の両方が使われていますね。見落としてました。
マタイ20章(癒しの奇跡)でも mercy を受けてイエスが compassion を返しています。
子細に見るともっと面白そうなことが出てくるだろうな。
平行本文で違ってたりしたら面白いんだけどそれはさすがに無いか。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス URL
2010/09/03 (Fri) 07:31:15
まだ間に合うかな? 第3弾
>同じようなリズムの言葉の繰りかえしというのは、事実の記録というよりは、儀式のなかの式文のようにして伝えられたもの、という考え方もできる
という富田先生の解説でしたが、
念のためと思って原典を当たって「ほぉーすげぇ」と感心。
英語ですと Blessed are 何々という形が続くことは御存知の方も多いでしょう。3節から11節まで全部ですね。
10節までだと Blessed are the 何々です。
でもってギリシャ語では
3節から11節までが マカリオイ という言葉で始まり
そのうち10節までは マカリオイ ホイ であり
そのうち 6節までは マカリオイ ホイ のあとにP(π)で始まる単語が続く
というとても定型化された繰り返しなのですね。
翻訳ではなかなかこの味は出せないのでしょうね。

■Re: みんたた8月:山上の説教(幸い) - トマス
2010/09/04 (Sat) 13:40:38
第4弾 そろそろいい加減にしろと言われそう…
>ガリラヤ弁
先にエルサレムの人からはとんでもないイナカモンに見えたはず、と書きましたけど、ちょっと気になって調べてみたら、むむむなネタを発見。というほどのものじゃないんですが。(前言若干訂正ということで)
それはですね、エルサレムの視点から見たらイナカだったと思うのですが、もう少し広くヘレニズム世界各地のつながりということで見るとエルサレム周辺の方が僻地と思われていた可能性もある。ということに気付いたモノですから。思い込みってこわいな。
あらためて地図を見るとですね、ガリラヤに隣接するのがデカポリス地方なんです。デカポリス、10の町。ヘレニズム時代以降、ギリシャの町をモデルにして作られた町々です。もちろん、デカポリスといわれた10の町以外にも多くの町がヘレニズム風に変えられたり新たに建設されたりしていきます。そういう町は圧倒的にガリラヤ湖周辺に多いのですね。つまりガリラヤ湖周辺はとてもヘレニズム的な地域であったらしい、ということになります。ヘレニズム文化との近さという意味では、ガリラヤ地方よりもエルサレム周辺の方がはるかに遠いようです。
ま、その事を念頭に置きつつ、エルサレム人はガリラヤ人をイナカモンと思っていた、ということで。
なんか関西人が必要以上に関東に対抗意識を持っているのと似ているかも知れませんね。

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