みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2010年9月のテーマ: 「十分の一の献げ物」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
当教会は、ホームページ上での聖書の引用に関して、
日本聖書協会の認可を受けています。

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■マラキ書3章6~12節(新共同訳・旧約・p.1500)

2010年9月のみんたたテーマを提示させていただきます。
9月はetさんのリクエストによる「マラキ書」です。
ここのところ什一献金に関する話題が熱く語られている第1談話室なので、一応ここでは什一献金をクリスチャンの義務であると考える人が根拠としてあげるであろうマラキ書3章を引用しました。
しかし、このスレでは、什一献金の是非について論じるのではなく、マラキ書そのものの書かれた背景や目的などを中心に意見交換をしたいと思います。
日本語、新共同訳のテクストは以下のとおりです。

***************************************

マラキ書3章6〜12節

6 まことに、主であるわたしは変わることがない。
 あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。
7 あなたたちは先祖の時代から
 わたしの掟を離れ、それを守らなかった。
 立ち帰れ、わたしに。
 そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると
 万軍の主は言われる。
 しかし、あなたたちは言う。
 どのように立ち帰ればよいのか、と。
8 人は神を偽りうるか。
 あなたたちはわたしを偽っていながら
 どのようにあなたを偽っていますか、と言う。
 それは、十分の一の献げ物と
 献納物においてである。
9 あなたたちは、甚だしく呪われる。
 あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。
10 十分の一の献げ物をすべて倉に運び
 私の家に食物があるようにせよ。
 これによって、わたしを試してみよと
 万軍の主は言われる。
 必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き
 祝福を限りなく注ぐであろう。
11 また、わたしはあなたたちのために
 食い荒らすいなごを滅ぼして
 あなたたちの土地の作物が荒らされず
 畑のぶどうが不作とならぬようにすると
 万軍の主は言われる。
12 諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。
 あなたたちが喜びの国となるからだと
 万軍の主は言われる。

***************************************

日本語のテクストでも、詩のような体裁で書かれています。
これは歌ですね。じっさいユダヤ人はヘブライ語聖書(旧約聖書)を歌で暗記しますし、このようにもともと歌になっていた所もたくさんあります。
全体としては、とてもポジティブな国民への励ましと読めるような気がしますが、いかがでしょうか。
どうぞご自由にたたいてください。
20。

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - et
2010/09/04 (Sat) 18:19:49
マラキ書の書かれた時代は、確かユダヤの民が、バビロン捕囚後、ペルシャによって帰還を許されたものの国土は荒れはて、不正が蔓延っていました。
そして、そのような現状を目の当たりにしたユダヤの民は、神など信じてもしょうがないという、あきらめの気持ちになっていたのではないでしょうか。
ですから、神様は立ち帰れという愛の言葉を、投げかけているのではないでしょうか。
こうして、什一献金抜きにマラキ書を読むと神様の愛を感じますね。

■Re: Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - et
2010/09/05 (Sun) 23:00:07
9節の
「あなたたちは民全体で私を偽っている」
ということは、十分の一規定は民全体で守れば良いという解釈もできますね。
そして、金持ちは十分の一以上課税され、貧しい人は非課税もあり得る。
つまり、この箇所は現代の累進課税制度の原点と言えるかもしれません。

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - 毛利
2010/09/06 (Mon) 08:22:14
ここに限った話ではなく、預言書全般に思うことなのですが、預言は「神からのメッセージを伝えている」ということになっているはずです。

しかし本当に神がそのようなメッセージを語ったのでしょうか?どうにも、当時の問題であったイナゴや不作という目の前の問題に対して「神が怒っているに違いない」と考えた預言書の著者が、「神が怒っておられるので、怒りを鎮めねばならない」と思って書いた詩のように思います。

著者が意識的に「神が怒っているに違いないから」と思って、神の名を使って書いたのだとしたら、それは神に対する冒涜ではないでしょうか。つまり一部の人間の勝手な価値基準と思い込みで「神は、きっとこう考えている」と決めつけている訳ですから、同じ論法で病人などは呪われていると言っていたイエスの時代の人々と何ら違いはない気がします(そして、それをイエスは真っ向から否定された訳ですが)。

最近、どこかの国で魔女狩りが始まっていると読みました。家族に不幸が起きるのは、この子供(=魔女)のせいだ、という理屈で子供たちが大勢犠牲になっているそうです。しかも、それを主張しているのは牧師なのだそうです。

現代の魔女狩りは明らかに「人の命を奪う行為」なので野蛮であると見なされますし、事実かつての魔女狩りはカトリックでは闇の歴史の如く扱われています。しかし、イナゴなどによって不毛となった時代、ただでさえが食物に困っていた時代に、十分の一を捧げよと命じた結果、食料にありつけず命を落とした人も多かったのではないでしょうか。そう思うと、直接的か間接的かは別にしても、権力者の発言によって命を落としているという点では魔女狩りの論法と何ら違いはないように思えてならないです。

# 凄く否定的ですみません。今の私が、そういう「暗い」気分だからかもしれません・・・

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - 富田@iChurch.me
2010/09/06 (Mon) 17:46:05
>著者が意識的に「神が怒っているに違いないから」
>と思って、神の名を使って書いたのだとしたら、
>それは神に対する冒涜ではないでしょうか。

んー、そのへんはビミョーですよね。
古代人から見れば、地球の丸いことも、高気圧や低気圧があることも、エルニーニョ現象も、全然知らなかったし、異常気象やイナゴの大量発生などは、神の怒りや呪い以外に理由を考えられなかったでしょう。
いや、多神教の人たちだったら、いろんな善い神や邪悪な神などの力がひしめき合って、結果としてイナゴの神が勝ったからだ、とかいうことになりますけど、彼らは一神教ですから、神の怒りしかないんです。
でのその原因は、と言ったら、自分たち人間の罪以外に考えられなかったんでしょうね。

でも、この聖句は、もう一度神に立ち返って、民としての義務を果たせば、イナゴも不作も起こりませんよ。神が豊作を約束してくれますよ、ということなので、まあ基本的には民に希望を語った預言だと思います。

でも、これは民全体で悔い改めよう、と呼びかける時はいいですけど、個人に適用されると、確かに毛利さんの言うように危険で、その災いはお前の罪のせいだ、と他人を断罪する材料になってしまうのですよね。
個人差に神の呪いとか報いとかを適用するのが、間違いのもとでしょうね。

ところで、魔女狩りが復活しているって本当ですか?
詳しい情報をご存知ですか?

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - et
2010/09/06 (Mon) 18:35:35
10節
「十分の一の捧げ物を全て倉に運び、私の家に食物があるようにせよ」
この箇所は申命記の14章22〜29のところから私が社会的弱者の為の福祉目的税だと書いたところとシンクロさせると良く理解できます。
つまり、十分の一規定は、社会的弱者の為の規定と考えれば、神様が私の家に食物があるようにせよと命令されている本当の意味が良く理解できます。
あたり前ですが、神様はお金や物を必要としません。必要としているのは人間です。
社会的弱者の為に十分の一を捧げる。これは隣人愛そのものです。新約聖書に書かれている献金(募金)も隣人愛によるものですからなんと、献金基準は新約聖書も旧約聖書も同じ隣人愛ということになります。
10節は聖書の中で最も悪用されている箇所ですが、人間が勝手な解釈をして、律法的な什一献金を推奨 強要しているだけです。

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - 毛利
2010/09/06 (Mon) 20:02:39
魔女狩り、YAHOOにも出ていたのですが、今は消されているみたいですので別のリンクです。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2577969/3859845

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - et
2010/09/06 (Mon) 23:28:05
10節
「これによってわたしを試してみよと万軍の主は言われる」
この箇所は一番理解に苦しむ箇所ですね。
マタイ4:7に「イエスは『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてあると言われた。」と書いてありますから、完全に矛盾していますね。
まさかとは思うけど、献金だけは例外という解釈する人もいるのかな?。
でも、それじゃあ、聖書を字句通りに受け取っているだけで解釈したことには、ならないでしょうね。
マラキの時代の特殊性に答えがありそうです。
マラキ1:7〜8を読むとこの時代の祭司たちは汚れたパン、目のつぶれた動物、足が傷ついたり、病気の動物を神に捧げていたので、神様は怒って、それを総督に献上してみよ。とまで、言っているのでしょう。
そりゃ、こんなもん、持って来られたら誰でも怒るでしょう。
例えば、腐って食べられないケーキをもらって喜ぶ人がいないのと同じです。
「試してみよ」というのは、こういう、特殊事情で語られている言葉です。
「お前ら、いっぺん試しにやってみんかい。」と神様がタンカを切っているのでしょう。
だから、やはり、神を試してはならないのです。

■Re: Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - et
2010/09/07 (Tue) 23:05:49
10節
「必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」
この箇所もよく悪用されています。
すなわち、什一献金したら祝福されるよと言って什一献金を推奨しているのである。

律法を守れば、祝福され、守らなければ呪われるという思想は旧約全体を貫く思想である。
例えば、詩1編 「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人(中略)その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
是非、聖書を実際に読んでいただきたいが詩1編なんて、そのものである。
でも、旧約聖書を読むと分かるが、旧約聖書はユダヤの民が律法を守れなかった歴史が書かれていると言っても過言ではない。
600余りある律法を100%守ることなど、人間にはまったく不可能なことである。
だから、律法を守って祝福されようとすることが、どんなに非現実的なことかは、言うまでもないことであろう。
しかも、600余りある律法の一つにしか過ぎない十分の一規定を守ったくらいで、祝福されるはずはないが、普通、一般信徒には什一献金だけでも完全に守ることは難しいでしょう。
もし、十分のニくらい、いつも献金してたら守ったと言えるかもしれないが、自分の力で、律法を守れたと思った瞬間、今度はごう慢という罪に陥るでしょう。
だから、什一献金して祝福されるというならば、それは聖書を曲解していると言わざるを得ないでしょう。

ところで、今回のみんたたは、私のマラキ書講解説教みたいになっておりますが、皆さんそれでよろしいですか?

まあ、内容は確かに難しいとは思いますね。今回は、私もけっこう苦労して書いています。

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - et
2010/09/08 (Wed) 19:24:11
11節
「また、私はあなたたちのために、くいあらすイナゴを滅ぼして...」 注目すべきは、あなたたちと複数形で書かれている所です。
つまり、これは民全体を指しています。
また、イナゴ(本当は殿様バッタまたはサバクトビバッタらしい)の害やぶどうの不作も個人的なものではなく、民全体におよびものである。ある人が十分の一規定を守り、隣の人が、十分の一規定を守らなかった場合でも、イナゴの害は民全体に及ぶので、十分の一規定は民全体で守らなければ意味がありません。
つまり、今まで、いろいろ書きましたが、マラキ書は、個人に什一献金を勧めているのではなく、民全体、国家単位で十分の一を貧しい人のために使うことを、勧めていると考えられないでしょうか?日本の国民総所得は約500兆円ですから、その十分の一は、50兆円になります。
例え3年に一度にしても、50兆円を貧しい人の福祉目的に使うなら、日本から貧困はなくなり、犯罪も減少し、世界から注目される福祉国家になるはずです。
12節にあるように、こんな国に住む国民は本当に幸せでしょうね。
私の個人的な結論ですが、マラキ書は決して個人が教会に什一をすることを求めているのではなく、誰もが幸せに住める福祉国家を作ることを勧めているのではないのでしょうか?
それが、マラキ書の与えられた本当の意味ではないのかなと今私は考えています。

私の書き込みは、これで、一旦終了しますので、皆さんもどうぞ叩いてみて下さい。
私は、今回の書き込みによって、本当に勉強になりました。
富田先生、こんな小さな者にも書き込みの機会を与えて下さって感謝です。

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - 富田@iChurch.me
2010/09/09 (Thu) 11:15:43
福祉目的税という解釈を展開していただきました。
なるほど、そういう福祉国家へのヴィジョンを示していると解釈すれば、現代の私たちの社会のあるべき姿への指針も読み取れますね。
賀川豊彦なども、そういうヴィジョンを持って、キリスト教的社会運動を進めていたのでしょうね。
旧約聖書の時代、民全体の罪とか民全体への恵み、という思想がよく出てきます。
このあたりは、現代人のように信仰を個人的なものととらえる傾向が強い者が読み間違えがちなところではありますよね。

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - トマス
2010/09/09 (Thu) 12:53:50
>今回のみんたたは、私のマラキ書講解説教みたいになっておりますが、皆さんそれでよろしいですか?

「みんたた」ですからねぇ。つまり「みんなでたたこう」ですから、etさんに限らず特定の人の独演会になるのは避けたいところではありますが、

なんというか、
どうもとりつく島がないんですよね、この箇所。

■時代背景 - 富田@iChurch.me
2010/09/09 (Thu) 23:39:08
参考になるかどうかわかりませんが、日本基督教団出版局から出ている『新共同訳旧約聖書注解(3)』から、マラキ書の時代背景についての記事を要約してみたいと思います。

マラキ書は、バビロン捕囚からユダヤ人が解放されて、パレスチナに帰還し、神殿も再建した後しばらくして、ユダヤ人の祭儀が乱れてきた時期に語られた預言のようです。
神殿再建がBCE515年、エズラによる祭儀改革がBCE458年、その間の時期であると推定されています。

パレスチナへの期間と神殿の再建は、民に熱狂的な興奮をもたらしました。
しかし、バビロンから解放してくれた救世主としてペルシアの王を讃えたのもつかの間、今度はペルシアの支配に甘んじなければなりませんでした。

ハガイ書やゼカリヤ書は、神殿再建のあかつきには、イスラエルは栄光に満ち、土地も豊かな恵みをもたらすと預言しましたが、そのしるしが現われないばかりか、ペルシアの支配が続き、神殿再建がもたらした興奮も冷め、やり場のない失望感が民の間に広まっていました。
そして、神殿での祭儀も乱れてゆきました。

マラキはこのような時代に、祭儀の乱れを批判し、祭司や民の心を再び神へと立ち帰らせようとした、とされています。

ちなみに「マラキ」というのは人名ではなく、「使者:マルアーク」の一人称単数の語尾がついた、「マルアーキー」(私の使者)
という言葉だそうです。

この書物の著者が誰であるか知られていなかったので、3章1節の「見よ、わたしは使者(マルアーキー)を送る」から「マルアーキー」を取って、この書物の呼び名にした、と推測されています。

■Re: みんたた9月「マラキ書3章6〜12節」 - 富田@iChurch.me
2010/09/09 (Thu) 23:59:21
それから、さっき引用したマラキ3章の1節以降ですが、ここはキリスト誕生預言と解釈される場合もあるようです。

ちょっと長いですが、マラキ3章1〜5節を引用してみますね。

1 見よ、わたしは使者を送る。
 彼はわが前に道を備える。
 あなたたちが待望している主は
 突如、その聖所に来られる。
 あなたたちが喜びとしている契約の使者
 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。
2 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。
 彼の現れるとき、誰が耐えうるか。
 彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。
3 彼は精錬する者、銀を清める者として座し
 レビの子らを清め
 金や銀のように彼らの汚れを除く。
 彼らが主に献げ物を
 正しくささげる者となるためである。
4 そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は
 遠い昔の日々に
 過ぎ去った年月にそうであったように
 主にとって好ましいものとなる。
5 裁きのために、わたしはあなたたちに近づき
 直ちに告発する。
 呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者
 雇い人の賃金を不正に奪う者
 寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者
 わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。

……とこうして読んでみると、洗礼者ヨハネの登場、キリストの到来、マリアの賛歌などに影響を与えているのかな、と読めない事もないですね。
推測の域を出ませんが。

■Re:マラキ書3章1節 - トマス
2010/09/30 (Thu) 16:12:40
よっこらしょと。月末だし、いつものようにもう一度上げておきますね。えらく下の方にあった。

3章1節ですが、何処かで読んだなと思えば、マルコ冒頭部分で引用されていますね。ということでヨハネの出現を預言した箇所ですね。
ところが、面白いことに、というと語弊がありますが、マルコではマラキとイザヤ(40章)を切り貼りしてヨハネ預言としていますけど、マルコを見ていたはずのマタイもルカもイザヤだけでヨハネ預言としていますね。ヨハネ福音書も同様。2000年前もマラキは人気なかったんでしょうか?

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