みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2010年10月のテーマ: 「山上の説教(2)地の塩、世の光」

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■マタイによる福音書5章13~16節(新共同訳・新約・p.6-7)

2010年10月のテーマを提示します。
10月は「山上の説教」パート2「地の塩、世の光」とします。
新共同訳の日本語テクストは以下のとおりです。

*********************************

マタイによる福音書5章13〜16節

13 あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14 あなたがたが世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあげめるようになるためである。

*********************************

以上です。どうぞみなさん、ご自由のご意見をお書き込みください。
何も批判的な意見ばかりでなくても、ここから思うこと、感じることを自由に話してくださってもいいのではないかと思います。
それでは、どうぞ。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/08 (Fri) 23:06:11
>ともし火をともして升の下に置く者はいない
難しいことを言えば、いろいろとある一言だそうですけど、それはさておき、
現代人がこの一言を読む時、スイッチ一つで煌々と電気が点く生活の感覚で考えてしまわないようにしないといけないですよね。2000年前にあかりを灯すということがとても高価な家事であったことに気をつけたいですね。

>山の上にある町
エルサレムをイメージしているのでしょうかね。私には何となくそんな気がします。山上の説教はマタイ福音書でも最初だから違うのかもしれませんが。
でもエルサレムって南から見ると崖の上にある町ですから、まさに「隠れることができない」町なんですよね。

Re: 山上の説教(2) - にじは
2010/10/09 (Sat) 18:52:10
難しい..。難解ですね。
何故塩に例えたのかがちょっと分からないのですが..?
食べ物はそのままでも良いけれど、塩でより美味しくなるように「あなた」のおかげで
何か(人の心とか人生とかですかね?)を素晴らしくする事ができるとかですか?
もしくは「地の」塩と言うあたり、「海」に必ずある塩、に対して人間は「地」の塩なんですか?
それともこの時代は塩がもっと違う意味を持っていたのでしょうか。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/10 (Sun) 09:00:05
塩が塩の味を失ったら・・・人が人としての価値を失ったら、或いは人が本来あるべき姿を失ったら、ということでしょうか。
しかし好きで人間らしさを失う人ばかりではないと思うので、これはどちらかと言うと教訓なんであって、もしも「塩の味を失った塩」にイエスが出会っていたら、また違う発言をしていたのではないかと思いました。それこそがイエスの説く愛なのではないかな。

Re: 山上の説教(2) - ぢょおう
2010/10/10 (Sun) 10:08:28
塩が塩味でなくなる、という現象は
実際に起こりうるのでございましょうか?
もちろん化学的に、NaとClに分かれたりしない、
NaClのままの状態で。
もしなくならないのであれば、
人間は無条件に地の塩であることができるわけですよね。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/10 (Sun) 13:41:19
「地の塩」というのは岩塩の事でないかと思っていました。
パレスチナ地方はもともと(白亜紀?)海底だったそうで、アフリカプレートとアラビアプレートが衝突した結果、隆起して出来上がったらしいです。
その衝突した部分の断層にそってヨルダン川と死海があり、川の水にも比較的塩分が(といっても舐めてわかるほどではなかったでしょうか)高く、死海のように海水の10倍もの塩分になってしまったのですよね。
それで、岩石に含まれた塩分濃度も高く、岩塩があるのだということなのだそうです。

塩が塩の味を失ったら……人が人の価値を失ったら……というのは興味深い読みだなと思います。
ぼくは、世の中の厳しい現実を言っているのかなあと思ったのですが。「岩塩がしょっぱくなくなったら捨てられるだけだ。それが世の中ってもんだろう?」みたいな。
なぜそう思うと言うと、他にもそういう言い方を感じさせるのが、たとえば「持てる者はますます持つようになり、乏しい者は持っている物まで取り上げられるんだ」という言葉があったりするからです。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/10 (Sun) 16:36:19
ぢょおうさん
唾液によってNaとClに分解されるから塩味を感じるとどこかで読んだ記憶が。なので何らかの方法で分解されない塩が開発されれば、塩味を感じないのではないかと思っています。あれ、もしかしたら砂糖が甘いのがそうだったかも・・・。

富田先生
この聖書箇所は16節の「立派であり続けなさい」という意味のメッセージに繋がっていると思っています。なので世の中の世知辛さを伝えていると言うより、希望を与える説教だと私は解釈しています。塩が塩辛く有り続ければ、それで良い、という前向きな意味合いを含んでいると思っています。
参考までに「持てる者はますます持つ・・・」について、どこに記載されているか教えて頂けませんか?

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/10 (Sun) 17:05:48
>プレート衝突
あれ、そうでしたっけ。あ、でも岩塩が取れるということはそうなのかな。ヨルダン川ってこれからプレートが裂けていく地溝帯なのかと思っておりました。
ちょっと調べてみます。
今から書き足ししても遅いかな?(11.10.追記)
パレスチナのあたりは複雑みたいですね。アフリカ大陸東部から紅海を経てパレスチナあたりまでの低地を東アフリカ大地溝帯と呼びます。もちろん、死海とヨルダン川周辺もその一部です。
基本的にはこれはアフリカプレートとソマリアプレートとアラビアプレートの間が広がるプレート境界なんですが、地図を見るとプレートの広がるマークが紅海の北端で途切れてますね。しかも手元の地図ではパレスチナあたりは塗り忘れでしょうか?古期新期造山帯のマークも新しい時代の地形のマークも入っていません。
ちなみに、南アメリカとアフリカが大昔は一つだったのはよく知られておりますが、そこにさらにアラビア、インド、オーストラリア、南極、が引っ付いていたのがゴンドワナ大陸です。
もう少し調べてみますね。

Re: 山上の説教(2) - にじは
2010/10/11 (Mon) 10:32:52
ぢょおうさんの書き込みを見て思ったのですが、今は化学が発達していて
この物質が何であるか、という事が分かりますが、この時代は見た目や味で
判断する事になるのでしょっぱくないと「塩」ではない、と言う事には
ならないのでしょうか?塩気の多い、少ないはあるんだと思いますが..。
あ、だとしたら塩に塩気の多い、少ないの様に人間にも能力の差がある、とか?
能力だとイエス様の話とずれそうなので塩の濃さを信仰の深さに喩えてるとか?
弟子たちはこの話をすぐ理解できたんでしょうか?塩に喩えると漁師には
ピンとくる例えなのか?あ~私にはさっぱり分からないです。

Re: 山上の説教(2) - がん子
2010/10/11 (Mon) 20:15:45
>毛利さん
「持てる者は・・・」
は多分マルコ25:29かルカ19:26ではないかな?と思いました。私には難解な箇所ですが・・・。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/11 (Mon) 21:00:35
がん子さん、ありがとうございます。聖書のリンクを辿って、マタイ13:12と、ルカ8:18、及びルカ19:26に登場していることが分かりました(マルコは、25まで無かったです・・・)。
マタイ13:12については、天の奥義について。
ルカ8:18も雑把に言えば、やはり神の国の奥義の延長について。
ルカ19:26も神の国のたとえ話について。
いずれの場合も現実世界における「金持ちは更に金持ちになり、貧しい人はどんどんと貧しくなる」という生々しい話とは独立していて、むしろ天の国ではそうなっているのだ、という理想を伝えようとしているように読めました。だから更に神を愛せよ/信じろという励ましの意味を込めている、というのは考えすぎでしょうか。

Re: 山上の説教(2) - がん子
2010/10/11 (Mon) 22:35:04
>毛利さん
ぎゃあ、恥ずかしいです。
マルコじゃなくてマタイ25:29でした(>_<)
毎晩酔っぱらいなもので・・・。
たまたまなんですが、数日前に「ムナのたとえ」で頭の中がぐるぐるしてたとこだったので、「あ!ここだ!」と思ったのでした。
今夜は「塩」ってなんぞや?なんてことを調べています。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/11 (Mon) 23:33:13
話が「持てる者、持たざる者」のほうにどんどん行ってしまう(笑)。まあいいんですけどね。
そう言いながらついでのようで申し訳ないんですが……
マタイ13章とルカ8章は、共にイエスがたとえで語る理由について話している記事ですね。これはマルコ4章にもあって、たぶん単純に考えて、マタイもルカも、マルコから引用したんじゃないかと。
そしてその際、ルカはほぼマルコをそのまま写していますが、マタイは話が大幅に膨らんでいます。
その膨らませる作業で、「持っている者は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という語句を挿入したのではないか。
で、この言い回しはマタイ25章のタラントンのたとえ、ルカ19章のムナのたとえにも出てきます。
このタラントン、ムナのたとえは、ほとんど似た話ですが、貨幣が違っているのはなんでなんでしょうね?
タラントン系の伝承と、ムナ系の伝承が、別個に並行して伝えられていたのでしょうか。
どうであれ、両方にこうして収められているということは、この文言は福音書執筆以前の古い時期から、このたとえ話に組み込まれていたんじゃないかな、と。
ところがマタイはこれを13章のたとえを用いて話す理由のエピソードの中に組み込んだ。
ここを読むと、「持っている人は……」の直前の節と直後の節がきれいにつながる。つまり、「持っている人は……」の一言が無くても十分意味をなしているわけです。
だから、ますます、マタイが細工したんじゃないかな、と思ったり。
これを、またまた話を混ぜ返すようで、本当に申し訳ないんですが、たとえばマタイはこういう事を他でもやってます。
5章の山上の説教の中で、31節「妻を離縁する者は……」の戒めですが、あれは同じマタイの19章9節の離縁をめぐる問答の中にあるものです。
また、更にルカ16章18節にも同様の「妻を離縁して……」という文言が、これまた全然違う文脈の中に組み込まれています。
ということは、「妻を離縁して……」というのは、もともと独立した伝承で、福音書作家たちはこれを割合自由にアレンジして使ったのではないかということが想定できます。
マタイの場合は、それが案外分かり易く5〜7章(山上の説教)に集中させる編集がなされているわけです。
というわけで、何を論じているのか、だんだんわかんなくなってきたけど、要するに、「塩に塩気がなくなれば……」は、独立した語録として伝えられていたものだったのではないかと言う事です(笑)。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/12 (Tue) 00:11:29
塩つながりで・・・マルコ9:50で「あなたがたは、自分自身の内に塩けを保ちなさい」と書いてあります。
マルコがマタイに補足した形に変形しているのかもしれませんが、イエスが言いたかったことは「塩けが無くなったら捨てられるぞ」ではなく「塩けを保つことが大切です」だったのではないか、と思います。
「『塩け=塩の持つ特性』を維持しなさい」だとしたら、「『○○=人の持つ特性』を維持しなさい」、ということでしょうかね。では○○に入る言葉は何?という部分は一意には定まりませんが、マタイ5:16から逆算すると○○には「立派な行いをすること」のような意味が入る気がします。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/12 (Tue) 00:59:13
塩に関しては、両方とも同じ発想から話してるんじゃないですかね。
ただ、マルコの方が古いんで、マタイの記事を補足したというのはないと思います。
「塩気が無くなったら捨てられちまうだろ?」と言ってるのと、「塩気を保つ事が大事だよ」というのは、同じ発想から出ているのではないでしょうか。
塩というのは、やぱーりその人の持ち味ということかなあ。
ぼくは、塩に関する短い語りがあって、それをマタイが山上の説教の中に取り込んだ時に、「立派な行いをすること」の意味で読めるように編集したんだと思っています。
つまり16節はマタイの追加です。
「天の父」というのは、マタイに多用される言い回しなんです。
ちょっと楽して日本語のコンコルダンスで見てみると、「天の父」は新約聖書の中で44回使われていますが、そのうち2つがマルコ、1つがルカ。あとは全部マタイにおける用例です。
同様に、「天の国」という言葉は新約聖書中33回出てきますが、全部マタイです。
つまり、「天の」という言葉が入ると、それはマタイの口調ということです。
因って、ぼくは、16節はマタイの付加で、イエスのいろんな意味を含む可能性がある、ちょっと曖昧だけど印象的な物言いを、「立派な行い」という形で解説した結果、つまんない内容になってしまったと思うのです。
ついでに、「天の父」はマタイで多用されますが、単に「父」という呼びかけは、もう圧倒的にヨハネ福音書で使われます。
また、「天の国」ではなく、「神の国」になりますと、これはまあ共観福音書ではだいたい使われていますが、特に多いのはルカですね。
で、逆に言うと、「神の国」というのは共観福音書だけで、あとはヨハネも使徒言行録も、その他の手紙でもちょっとパウロが使っているだけで、あとはほとんど使ってないです。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/13 (Wed) 00:23:00
スレの流れを認識しておりませんのですけど、
マルコやルカの平行本文を見た感触では、やはり元々バラバラの短い箴言がマタイの手によって1箇所に集められたみたいですね。

地の塩の部分はマルコ9章、ルカ14章にあり、
ともし火の部分はマルコ4章、ルカ8章、ルカ11章にあり、
世の光、山の上の町、16節、はマルコとルカにないみたいですね。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/14 (Thu) 18:53:24
>塩に塩気がなくなれば
天然の岩塩なのでNaCl以外の成分が湿気を吸ってしまい、ベトベトになったら捨てられてしまったのではないか、なんて説明をどこかで読んだことがあります。真偽は定かではないですが。

>もしなくならないのであれば、人間は無条件に地の塩であることができるわけですよね。
だとすると嬉しいですよね。

Re: 山上の説教(2) - がん子
2010/10/14 (Thu) 21:29:35
>塩というのは、やぱーりその人の持ち味ということかなあ。
塩って生命を維持するためにはどうしても必要なものだし、腐敗を防ぐ作用もあるし、ローマではお給料になっていたこともあるみたいだし・・・「持ち味」だとしたら、ものすごく貴重な持ち味ということなんでしょうか。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/15 (Fri) 07:42:28
うちの学校では、この聖句は卒業式などでよく読まれます。
これから世の中に出て行っても(といってもほとんど大学に進学するんですが)、地の塩となって世の中に味をつけ、世の光のように世の中を照らす人になってくださいね……という願いを込めています。
貴重な持ち味ですよね。
その人らしい持ち味を出してほしいと思います。
だから「立派な行い」というのは余計なので、カットしたりもします(笑)。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/15 (Fri) 08:14:28
ふと、イエスらしくない発言かなと思いました。
「その人らしさ=塩辛くない塩」だったら、その人は必要ないってことですよね。
塩辛くない塩があっても、それはその人の持ち味であって、塩である限りは価値がある、というのが彼の思想の根底にある気がするので。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/15 (Fri) 13:28:16
>「その人らしさ=塩辛くない塩」だったら
むしろ塩辛くない塩なんて無いだろ、という人生肯定の思想なんじゃないですかねぇ。そう読むととてもイエスらしい気がします。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/15 (Fri) 16:35:21
うーん、でもだからやっぱり、「持ち味」を持たない人(役に立たない人)が捨てられてゆく現実の世の中を皮肉に描いてみせたんではないですかね。
しかーし、でもこういうイエスの思いを推測するのって、けっこう推測する本人の内面が現れるのかなあ、と話しているうちに思い始めました。
いや、前からそういうことには気づいてたはずなんですが、こうして互いに何人かで話してみると、改めてそういうことを思い知らされますね(笑)。

Re: 山上の説教(2) - にじは
2010/10/16 (Sat) 08:38:29
「その人らしさ」もそうだと思うんですが、私は「欠点」と考えてしまいました。
人は他人の欠点を責めたり、自分の欠点が嫌で落ち込んだりしますが
「その欠点もあなたの「味」なんだからそのままでいいんだよ。
「味」である欠点が無くなったら価値はないんだよ。そのままでいいんだよ」
と言うメッセージかなぁと自分に都合の良い解釈です。

Re: 山上の説教(2) - 入谷
2010/10/16 (Sat) 11:36:40
「あなたがたは地の塩である。... あなたがたは世の光である。」といっているのだから、塩 = あなたがたのもつ徳、だと思っていました。
イエスのもとに来て、その教えに従う「あなたがた」。
そのような「あなたがた」の徳とは何かというと、また難しい話になるのかも知れませんが、人のもつ個性一般のことではなく、イエスがそれ「ついて証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」真理に関わる何かであるというふうに読んできました。
抹香臭過ぎる解釈でしょうか。

Re: 山上の説教(2) - にじは
2010/10/18 (Mon) 23:22:17
>あなたがたの立派な行いを見て
とありますが、マタイの6章なんかでは
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」なんて言ってますよね。
どっちやねん!とちょっと思ったり。立派な行いと善行は違うと言う事でしょうか?

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/19 (Tue) 09:16:24
にじはさん
善行を行うことを前提としていて、結果として他人に見てもらうのは良いが、他人に見てもらう為に善行を行うのは良くない、と言っているのだと思います。
つまり慈善は良いが偽善は良くないと言っている気がします。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/19 (Tue) 09:17:33
>イエスのもとに来て、その教えに従う「あなたがた」。
私は無条件な「あなたがた」と読んでいました。
イエスの噂を聞いただけの人も、イエスにケンカを売った人達も…という感じで。

>立派な行いを見て
>(善行を)見てもらおうとして
並べてみると確かに迷いますよね。
見てもらうためではない立派な行い、と読んでしまうと安直に過ぎるでしょうか?
ギリシャ語で(立派な行いと善行の)ニュアンスをちゃんと汲んだら何か違いが出てくるかな?
あ、毛利さんと投稿被っちゃった(笑)
とりあえず手元の英語(KJV)で見たら、
 立派な行い good works
 善行(をする) charitable deeds
なので何か違いそうですね。

>けっこう推測する本人の内面が現れる
ホントそうかもしれません。
私の場合、徹底して人生肯定型に読むのはあの震災の影響でしょうねぇ。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/19 (Tue) 12:50:09
ボランティアのサイトなどを作って、活動を紹介したり報告したりすると、時々「右手のすることは左手には知らせるな」みたいな言葉が脳裡に浮かぶということはあります(笑)。
また、じっさい、サイトで紹介するために、写真を撮ったりしていると、嫌な顔をされることがあります。
生徒さんはニコニコ応じてくれますけどね。
でも、こういうサイトを公開していることがきっかけで、関心を持ってくださって、メールを送ってくださったり、お米を寄付してくださったり、おかずを寄付してくださったり、現地で参加したいという申し出を受けたりもするんです。
すると、やっぱり「右手のやってることを左手に知らせる」のも意義あることなのかな、と思いますよ。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/19 (Tue) 12:57:49
連投おゆるしください。
上の記事と関連するんですが、自分のやってる施しなどの善行を、人に見せびらかすことを「偽善」だと言ってイエスは非難しています。
当時の社会では、金持ちや身分の高い少数の者が、大多数の貧困者から収穫や税を取り立てている、つまり、金持ちは泥棒だ、という観念があったのだという資料を読んだことがあります。
そういう金持ちが、さも善行のような顔をして、施しを見せびらかしている姿を見て、「あれはおかしい」とイエスは思ったんではないでしょうか。
しかし同時に、違う角度で見てみると、施しを受けた人にとっては、屈辱的かも知れないですが、その時必要なものをとりあえず受け取ることができるという意味では、やはりありがたいものではないか。
また、当時は印刷物やウェブなどで「情報提供」するという発想がまだなかったのだと思います。
ですから、話が「あれは偽善だ」で済んでしまうんですが、これはイエスが古代人だからであって、現代的には「右手から左手へ」と情報を発信するのは、よいことなのではないかと思うわけです。

Re: 山上の説教(2) - にじは
2010/10/19 (Tue) 22:57:04
>毛利さん
そうか、なるほどそれなら納得です。

>施しを受けた人にとっては、屈辱的かも知れないですが、その時必要なものを
とりあえず受け取ることができるという意味では、やはりありがたい

ホームレスの人を見かけて「この人に何かしてあげたいけどこの人の為にならないかも」
と思って通り過ぎるのと、偽善で「これで何か食べて」と何かをあげるのと、
その人が元気になるのはどっち?って事ですよね。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/20 (Wed) 08:10:23
にじはさん
偽善と慈善の切り分けだと思います。富田先生のようにボランティアを広く知ってもらう為に告知をするということでしたら、その活動を更に広げるという意味でも慈善に相当しますが、例えば活動を世間に広く伝える事で自分の「偉大さ」を知らしめるということでしたら、偽善になる。
杓子定規に右手のしていることを左手に知らしめるのがNGと言っているのではなく、イエスは常に、その人の心の中がどのようになっているのかを問うているのだと私は考えています。
ちなみに(聖書箇所をすぐに引用できないので説得力が無くて申し訳ないのですが)金額は少なくても、その人が心から寄付したなけなしの献金の方が、気持ちのこもっていない金持ちが寄付した多額の献金よりも価値があるとイエスは説いています。これも神にとっては額面ではなくて、信仰の深さが大切だと伝えたいのでしょう。
私は、ある難病の子供の為に寄付金を募るボランティアをしたことがありました。その時に、その募金活動を見て、小さな子供(小学生くらい)が自分のお小遣いからいくらか寄付していたのを見ました(case A)。一方で、100万円の寄付金をした社内の上層部の人が、周囲の人に伝わるような形で「私は寄付を100万円した」とアピールし、その後、この人は副社長まで出世しました(case B)。
額面だけを見れば子供のお小遣いよりも100万円の方が価値はあります。しかし私が感じたことは、名を告げることもなく、自分自身には何の見返りもないのに、恐らく少ないであろう自分の小遣いの中から寄付したcase Aの子供達の方が神は愛されるというイエスの言葉を思い出しました(case Bですが、出世したくて寄付をしたのか、寄付したことで出世に繋がったのかどうかは定かではありません。ただ自分の名前を堂々と発表している時点で私にはしっくり来ませんでした。私がこの人物の人間性を知っているということも含めて偏った見方をしているかもしれません)。
なお、偽善によって施しをした結果、ホームレスの人が救われたのだとしたら、そのホームレスの方にとっては「ありがたいこと」ですが、神は厳しく見ている気がします。神は人の心の細部まで見抜いているような気がしますので、助けてあげたいけれど、助けたことでその人が屈辱的に感じるかもしれない、という心の葛藤まで神は知った上で判断をしている筈です。そういう思いを持っている人を神が裁くとは私には思えません。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/20 (Wed) 12:19:37
>偽善による施し
4世紀後半、ニュッサの司教でグレゴリウスという人が居たのですが、面白い説教をしています。施しを勧める説教なのですが、その途中で高利貸しが施しをすることを無意味なこととして批判しています。偽善という言葉は使ってないみたいですが、貧しい人から搾り取った金で他の貧しい人に施しをするのは間違っている、と言っています。
とても厳しい批判ですが、振り返って現代人である我々も(しかもいわゆる先進国に住んでいる)何がしか同じようなことをしているのだろうな、と思わされます。

>立派な行い( good works )
善行と偽善の方にネタが流れてますが、ちょっと「立派な行い」の方で、しかも元のギリシャ語がどうとか、そういうことは抜きにしての話しですが、私の読みとして、こんな事を思います。
立派な行いというのは、自分の襟を正すような日常の立ち居振る舞い、ピッと背中が伸びたような生き様、自分が生きていく上での矜持が自然に外から見えるような生き方、そういうモノ全般を指して「立派な行い」と言っているような気がします。日本語よりも KJV の good works に引き摺られた読みのような気もしますが。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/20 (Wed) 18:49:12
>トマスさん
KJVではGood worksですか。NIV(割と福音派でよく読まれているはず)ではGood deedsでした。
より意味が狭く解釈されているのかも知れませんね。

>毛利さん
マルコ12章41節以降(ルカ21章1節以降にも並行記事)じゃないですかね。
同志社では、新島襄がらみでこんなエピソードがあります。
帰国を前にして、彼がヴァーモント州のラットランドにあるグレイス組合教会で、涙ながらに日本に学校を作る為の募金を呼びかけたことがあったのですね。
で、お金持ちが1000ドルとか500ドルとか献金予約するわけです。
ところが講壇から降りようとした新島に、一人の老人が2ドルを差し出して、「これは汽車賃だ。わしにはこれだけしかないが、歩いて帰るよ」と言ったそうです。
また、教会を出てからも、ある老婦人が「みなさんが高額の寄付をなさるので、恥ずかしかったのですが」とやはり2ドルの献金を新島に渡したそうです。
そういうわけで、この聖書の箇所は、よく話されますねえ。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/20 (Wed) 20:28:26
うわ−、信じられない感動秘話ですね!これは感動です!

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/20 (Wed) 21:16:04
>2ドル
その頃のドルって今の日本の感覚で言うとどれぐらいなんでしょうかね?汽車賃2ドルってけっこう高いのかも。かなり遠くから来ていた人なのかもしれませんね。それを歩いて帰ったんだ。
考えてみたら、その時代は「汽車」だから駅間が短いはずはないですね。しかもアメリカだし(笑)
ということで隣の駅まで歩いて数十分とは考えにくいです。軽く数時間は歩いたのでは?なかなか大変ですよね。そういうところが現代の都市生活者の感覚ではなかなかピンと来にくいところかもしれません。
実は随分前のことですが『大草原の小さな家』を読んでいて気になって考えてみたことがあるのです。簡単には現代日本の物価になりませんでしたけど、おおむね5千円から2万円でした。中を取って1万円?
新島の時代のドルもザッとした換算で1万円とかになるのでしょうか?
100円じゃないのは確かですが(苦笑)

Re: 山上の説教(2) - にじは
2010/10/20 (Wed) 22:10:41
>毛利さん
そうですね。金額より、どんな気持ちで寄付をするか。それを神様は見ているんだと思います。
前通っていた教会で聞いた説教なんですが、お金ではなくお水に例えていましたが
「水道の水はつい無駄遣いしてしまうけど山登りしている時、水筒の水は大切にする」
「お金持ちの人がする高額の寄付」より「裕福でない人の少しの寄付」
を神様は喜ばれるのではないでしょうか。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/21 (Thu) 13:31:51
またまた話が脱線してよござんすか?
ぼくは以前、うちの学校の山岳部の顧問だったのですが、夏山に入って5〜6日かけて徒歩旅行すると言うのが夏合宿だったんです。
当然、水は貴重品ですよね。飲料水は、ポカリスエットを薄めて運んでいました。そのほうがお茶や水より吸収がいいんですね。
ところがぼくは、生徒の1人がその飲料水を運んでいるザックから水が漏れているを発見しました。
水はすぐに取り出せるように、ザックの一番上に入れているんですね。
案の定ポカリはすっかり流れ出てしまっていました。
運んでいた生徒は、ひどく落ち込んでしまいました。「みんなに迷惑をかけてしまった……命に次いで大事な水を……」。
まあしかたない、次の小屋で水を売ってたら買おうよ、と励まして歩きました。
やがてある小屋に着きました。そして、運良くポカリスエットが売っていたのです。
その生徒は、「ここは自腹で補充します!」と言って、クラブの会計からではなく自分の財布から払って、ポカリの缶を買ってきました。そして、みんなの前でぐびぐびぐびーーっと飲み干して、満足げに笑いました。
その夕方の反省会で、ぼくはさりげなく「あのポカリを補充するんだったら、クラブのポリタンに戻すのがスジじゃね?」と指摘して、初めてその子は目を剥いて真っ青になって、「おおおおー!」と口を開けてあわてました。
「す、す、すいませーーん!」

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/22 (Fri) 13:08:34
>KJVとNIV
そうか、そういう読み方があるか。
日本語の読み(立派な行い)に引き摺られているのかもしれませんが、わたしは work を広く解釈していました。つまり職業とかに限らず、家事とか趣味とか課外活動(!?)も含めた「働き」だと読んでましたから work と do を同じに取っていたのですね。他の箇所も合わせてKJVやNIVを読み比べると面白いかもしれませんね。
あれ、でもそうすると私は新共同訳とKJVのどっちの読みに引き摺られているんだろ(笑)

レスを分けてもいいんだろうけど、追記(現在時刻 23日03:47 )
使徒言行録を見ていたら、9:36に "good works and charitable deeds" を発見(KJV)。
新共同訳では「たくさんの善い行いや施し」となっています。じゃぁ施しは charitable deeds かと言えばそうでもなく、10:4の施しは alms ですね。
NRSVで見ると、9:36は good works and acts of charity
マタイに戻って、5:16(立派な行い)は good works 、6:1(善行)は piety
こらやっぱりちゃんとギリシャ語で見んとあかんかな?

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/23 (Sat) 10:01:39
NRSVもメインラインチャーチではよく使われているみたいなんで、そちらも確かに参照すべきでした。
先のレスを書いた時は、手元に無かったので。
NRSVでは、今回のみんたた課題の聖句は、「good works」になってますね。
そうですね、やはりギリシア語で「立派な行い」の「立派な」というのは「カロス(καλoς)」という形容詞で、「善い、良い、正しい、適切な、ましな、名誉ある、心地よい、美しい、すばらしい……」といった意味を包含してます。
ですから、日本語でも曖昧に「よい」とでも訳すしかないのかも知れませんね。「立派な」と言うと、ちょっと意味が狭くなるような気がするし、偽善との関係などで、いろいろ余計なややこしいことを考えてしまうきっかけにもなってしまいますね。
この「καλος」はマタイによる福音書に多用されている言葉です。
まあ他でも使われていますけど、マタイは好んで使っていますね。
行いは「エルゴン(εργον)」ですけど、これも「仕事、行為、行動、課題、職業、企て、他にも効果、とか作られた結果、作品」という意味もあるようです。
行い、または仕事(職業というせまい意味でなく)とでも、訳しておいて、広く解釈の幅を広げるほうがいいように感じます。
この「εργον」、新約聖書では「行い」「業」「働き」「仕事」という日本語に訳されている頻度が高いようです。
「行いを」ではヨハネ福音書に頻繁に、また「行いの」だと、ローマ、ガラテヤ、ヘブライ、ヤコブに多用されてますが、なるほどーそりゃあそうだろ、と思わされる検索結果ですね。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/23 (Sat) 20:04:20
>ギリシャ語
早速ありがとうございます。
いや一応見た、んですけどまだ全然調べてないのです。
それにしても、それぞれそういう意味があるのですね。

>NRSV
私もたまたま出てきたというか、インターリニアを引っ張り出したら英語の部分がNRSVだっただけです。
あ~、わたしKJVって書いてる。NKJです。ゴメンナサイ。なに大ボケやってるんだろ。今から書き直すとマズイかな?

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/24 (Sun) 09:40:14
少し話が飛んでしまいますが
「14 あなたがたが世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」の部分、何か言葉が足りない気がするのですが。
世の光である、という部分は完結しているのですが、それと「山の上にある町は・・・」が結びつきません。恐らくあちらの山は森で囲まれた日本の山と違って岩肌の山なのだろうと思うので、そこに町があると隠れることは出来ないというのは良いとして、それと「世の光」が連結しないです。これは、何を意味しているのでしょう。
13、15、16は○○である、故に△△である、という結びつきがあるのですが、14のみ話が飛躍しすぎているように見受けられます。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/24 (Sun) 21:50:47
>14節
確かに言葉足らずな感じがありますね。ちゃんと調べずに書いておりますけど、あるいは14節の前半と後半で別々の箴言だったものをマタイが引っ付けたのかもしれません。少しだけ調べてみましたところ(あまりアテになる話しではないような気もしますが)、トマス福音書の語録32に14節後半だけが取り込まれております。

Re: 山上の説教(2) - 毛利
2010/10/26 (Tue) 00:22:27
トマスさん
トマス福音書って、外伝ですよね。そういう資料は、普通に入手できるものなのですか?

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/26 (Tue) 00:43:29
>外典
モノによりますけど、
『トマスによる福音書』 講談社学術文庫
『新約聖書外典』 『使徒教父文書』 『旧約聖書外典 上/下 』 講談社文芸文庫
なんてのは概ね1000-1300円ですし、流通的にも簡単に手に入る部類でしょうか。いわゆるキリスト教書店でなくとも、都心の大きな書店でしたら置いてあると思います。もちろん、偽典外典は数も多いですから、文芸文庫に収録されているのはごく一部ですが、重要なものは入っているのだと思います。偽典外典の全集なんかもありますが、それは専門家向け?私も持っておりません。

Re: 山上の説教(2) - 富田@iChurch.me
2010/10/26 (Tue) 12:08:37
世の光についても、調べておけばよかったですね。
光が「フォース」というギリシア語単語なんですが、ぼくは密かにこれがスターウォーズの「フォース」の起源ではないかと勝手な推測をしています。
トマス福音書については、前にトマスさん(ややこしい)からご紹介いただいた、『福音書対観』(?)という本も重宝しています。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/27 (Wed) 11:43:20
>スターウォーズの「フォース」の起源
監督はルーカスでしたっけ。意識しているでしょうねぇ。いやルーカスだけでなく、欧米のしっかりした大学出の観客も意識しているだろうな、と思います。そうすると、ギリシャ語のフォースのどのニュアンスにルーカスが注目しているか、を考えるような楽しみ方もあるのでしょうね。
世の光と言えば、ヨハネ福音書 8:12 でも使われている言葉ですね。

>ややこしい
すんません。
対観表は便利なんですけど、いいお値段しましたね(溜息)冷静に考えれば当然のお値段ではあるのですが。
補足説明
ちょと説明不足だったかな。欧米の有名大学あたりでは、高校生からギリシャ語ラテン語の基礎を学んでおり、大学でももちろん古典語教養として学ぶ、というのが定番だそうです。
日本の感覚で言えば、ちゃんとした大学を出ておれば、国文科や歴史科の卒業でなくても枕草子とかが普通に読めて当たり前というところでしょうか。
あ、わたし随分と判ったような書き方してますね。私も以前に別スレで富田先生から指摘されて気付いたクチですので、大きな事は言えません。

Re: 山上の説教(2) - トマス
2010/10/29 (Fri) 22:20:18
月末だけど明日明後日は書き込みできないだろうから…
14節が気になって手元の本をいろいろ見たのですが、スッキリしませんね。
13a(地の塩)と14a(世の光)がキレイに対応しているのでマタイの編集(付加?)だろう、13の残り(塩気が無くなれば云々)はQ由来だろう。14後半(山の上の町)はよくわからん。ということみたいです。
逆に14節の前半後半は(繋がりが悪いからこそ)マタイの手元に来るまでに既に引っ付けられていたんじゃないか、という解説もあるようですし…。
この部分全体として、マタイの最後にある世界宣教の命令の先取りじゃないか、という解説もありました。そう読むのも面白いかも。それに絡んで、ここは迫害下の教会に向けたマタイのメッセージだという読みもあるみたいです。
16節で神のことを「父」と呼んでいるのはマタイ福音書の中では初出だということを指摘している本は複数。
ま、そんなところでしょうか。

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