みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2011年1月のテーマ: 「悲しみは喜びに」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
当教会は、ホームページ上での聖書の引用に関して、
日本聖書協会の認可を受けています。

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ヨハネによる福音書

2011年1月のみんたたは、ヨハネによる福音書16章20〜24節とします。長谷川さんのリクエストによるものです。
新共同訳の日本語テクストは以下のとおりです。

************************************

ヨハネによる福音書16章20〜24節

20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びあなたがたから奪い去る者はいない。
23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

************************************

以上です。どうぞみなさんたたいてください。
23−24節が、我々がお祈りをする時に、最後に「主の御名によって祈ります……」「イエス・キリストの名によって祈ります……」などの言葉でしめくくる根拠になっている事は、すでに周知の事実であるとは思いますが……
分析や解釈だけではなく、感想や連想、思い出などでもかまいませんよ。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - トマス
2011/01/04 (Tue) 20:48:10
24節後半が山上の説教(マタイ 7:7 )に似ていますね。
ヨハネ福音書は13章に最後の晩餐の記事があり、そのあと18章で逮捕されるまでが告別の説教とか言われている部分ですよね。ですから今月の16章もその一部。
考えてみたら、マタイが山上の説教、ルカが平地の説教、という形でイエスの公生涯の中でも早い時期にイエス説教集を配置したのに対して、ヨハネは受難週の最後にイエス説教集を配置したのですね。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - ノンクリ
2011/01/04 (Tue) 22:19:40
 私も山上の説教と似たものを感じますね。個人的にはマトモな個所で、あまりツッコミどころは感じないです。ひたすら、ええ話やなぁ、と思うだけで。
 それだけに、面白くない(笑)。ああ、もっとツッコミたい。旧約なんか、ボケとツッコミの宝庫なのに・・。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - にじは
2011/01/05 (Wed) 01:22:41
24節後半、私はルカ11:9(祈るときには)を思い出します。
この箇所もそうですが、イエス様は自分の復活を確信しているかの言い方がよく見られますが十字架
にかかると「お見捨てになった」と言う言葉があり、絶望して亡くなったんだなぁと切なくなります。
22節の「その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」が好きです。
永遠の喜びって事ですよね。神の国に行かないと「永遠の喜び」なんて無いと思ってましたが
イエス様の復活についてはこの世でも永遠の喜びが保障されてるんですもんね。

Re: Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - et
2011/01/05 (Wed) 19:30:52
23節を字句どおり解釈すれば、主の名によって祈ると願いがかなえられると、取れますが実際には、祈っても答えられないケースが多いように思います。
皆さんはどのように考えられるでしょうか?

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - @プー
2011/01/05 (Wed) 23:44:00
願ったものが与えられるということではないのだと考えます。また、いつ何が与えられるのか分かりませんし、与えられているものに気が付かないこともあるのだと思います。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - 富田@iChurch.me
2011/01/06 (Thu) 01:05:30
自分の願った通りにはならないものだと思います。
それでも願わずにはおれないことも多々あるのですが。
人間は自分が何のために苦しんでいるのか、わからない時がいちばん苦しいです。
たとえ幻でもいいから、全ての事に意味を与えられることを望んでやまないんです。
幻でもいいから、と言いましたが、幻が空しいという風に割り切る事はできないと思います。
第2次世界大戦中のあるドイツによる捕虜収容所の話だったと思いますが、捕虜となった兵士たちが女性をかくまっているという噂が流れるんですね。
そこで、ドイツ兵たちは必死になって捕虜たちを尋問し、調べ上げるわけですが、決して女性は見つからないのです。
しかし、捕虜たちは「彼女」を守る為に、尋問にも拷問にも耐え、助け合い、生き残ろうとします。
実は「彼女」が、捕虜たちが考えた架空の存在だったのです。しかし、彼らは「彼女」のために誇りを捨てず、へこたれず、毅然とした態度を貫いたのですね。
そういう話を聞いた事があります。出典がどこかは忘れました。調べれば見つかると思います。
まあそういうわけで、希望がある話なのか、却って空しくなるような話かも知れませんが。
ぼくは、「あんたなんかいないんだろう! どうせそうだろう! チクショー、馬鹿野郎!」と祈るときもありますよ。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - にじは
2011/01/07 (Fri) 01:00:35
>祈っても答えられないケース
神様は私達に本当に必要な物はご存じである、ともありますし、
望んではいけない事を望んでいるのかな?と思う時もあります。
ある詩にもあるように毛虫をもらったと思って神様を恨んでいたら蝶だったと言う事もあるかも知れません。
でも、私も富田先生の
>「あんたなんかいないんだろう! どうせそうだろう!
に近い事をやっぱり考える事があります。
「あなたの事を考えれば考えるほど、あなたはいないって分かって来ちゃった。
後でいたって分かっても遅い。今支えて欲しいのに!」と文句言いまくりな時があります。
沢山文句言ったら、叱りに来てくれたらいいのに。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - 毛利
2011/01/07 (Fri) 02:49:01
イエスにとっては、神が祈りを聞いてくれると言わざるを得なかったのではないかと思います。それくらいに苦しんでいる人達が多かったのだろうから、と。
ですので、そういう心の支えを持っていない人達を励ます意味でもイエスは敢えて「祈りは通じる」と言っていたのだと思います。
ではイエス本人はどう思っていたか・・・恐らく本音ではゲッセマネの祈りではありませんが、神の意のままに、という言葉を発していたので、恐らく本音で「祈りは必ず聞き入れられる」とは思っていなくて、それでも僅かな望みを持っていたけれど最終的には処刑されてしまい、その時に発した言葉が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」だったのではないかと。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - 富田@iChurch.me
2011/01/07 (Fri) 22:23:35
そうかもしれませんね。
祈りは聞き入れられない。あるいは神は無力なのかも知れない。あるいは神など存在しないのかも知れない。
まあ、どこかでも書きましたけど(あ、Twitterか)、神が人間とか動物のような存在である保証はないわけで、神は植物のような存在の仕方をされているかもしれないですしね。
ところで話は変わりますが、この妊婦の出産のたとえはどうですか?
産みの苦しみとは言ったものですが、何か新しい事を作り出すには、痛み苦しみが必要だというのは、普遍的な真理のような気がしますが。
It is impossible to achieve the aim without suffering. みたいな。
この台詞、最近買ったロバート・フリップって人の(たぶんみんな知らない)CDの1曲に何度も語りをループで入ってるんですよね。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - 毛利
2011/01/08 (Sat) 01:20:42
産まれてくる時の痛み・・・仏教の世界では「赤ん坊が産まれてきて泣くのは、この世界に送り込まれたことに絶望して泣くのだ」という考えがあるそうです。
キリスト教の世界観では(一般的な道徳的な発想で言えば)産まれてきたことイコール幸せの第一歩だと考えられていますが、仏教では産まれてきたことが不幸の始まりと取っているそうです(そのことについて詳しくどこに書いてあるのかについては知りません、そういう話を聞いただけなので)。
そして私は、どちらかと言うと仏教の教えに共感しています。苦しい思いをして産んだ子供達が、これから様々な苦しみと直面し、その多くは解決できなかったり、更に状況が悪化することすらあるのですから、産まれてきたことが、即「おめでたいこと」と私には全く思えないです。むしろ、産まれてこない方が幸せなのではないかと思います。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - 富田@iChurch.me
2011/01/09 (Sun) 09:45:34
確かに仏教では、一切は苦なりですよね。四苦八苦。でも、そこからの解放を求めてゆきますよね。
死が解放というわけではなくて、解脱する、あるいは悟ることが救いにつながりますよね?
それはそれでなるほどと思うのですが、この世の生を「苦」ととらえるか、「喜び」ととらえるかは、解釈によりけりだと思います。
客観的な現実がどうであれ、それを認識するのは脳なわけで、かなり脳の解釈に酔っている部分が大きいと思います。
また、キリスト教の場合(他でもそういうのがあるかも知れませんが)、「この苦しみがなければ、この人と出会う事ができなかった」、あるいは「この苦しみがなければ、見えなかった事がある」、「この苦しみを共有する仲間がいる」ということが、喜びに転じる事がありますね。
そのような奇跡が起こるのも宗教の世界ですから、二者択一的に「苦」か「楽」かということは言いにくいと思います。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - にじは
2011/01/09 (Sun) 18:18:25
去年読んだベビーマッサージの本に書かれていたのですが、最近の研究で赤ん坊の夜泣きや夕泣きの理由の一つに、産まれてきた時に産道を通った時の記憶を思い出して泣くのでは?と言う説があるらしいです
(バース・トラウマとか言ったかな?)
出産は母子共に苦しいとしても、産まれた後に抱っこすると泣き止みますし、
へその緒から酸素をもらっていた胎児が産まれてすぐに泣く事で肺に酸素を取り込み
自分の力で生きていくことが出来るようになる事を考えれば「泣く」と言う事に
ネガティブな意味だけがある訳でもない気がします。
なんて言いながら「こんな辛い事ばっかりで、何で生まれて来たんだろう?」
としょっちゅう思ってますけど(笑)

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - 毛利
2011/01/10 (Mon) 11:18:15
イエスが、この世を喜び/楽と捉えているとは、どうにも思えないです。人は産まれながらにして罪人であり、自身の死はその罪からの解放と言ってみたり、今回の聖書箇所(20、22、23、24)についても苦しんでいる人をターゲットにして話していると思います。イエスが仮に「この世」を喜びととらえていたとしても、イエスが交わりを持とうとしていた人達は、この世に絶望している人達だったのではないでしょうか。そして宗教を求める人達の大部分は、既に絶望してしまっている人達だと思っています。
ただ仏陀と違うところは、仏陀は「苦しみは苦しみだから仕方なく受け入れる/出家して人々と関わらないようにする」という逃げ(と言うと言葉が悪いですが)を提案しているのに対して、イエスは「その苦しみも癒される/救われる」と説くことで人々に平安をもたらしているのかなと思っています。
「この苦しみがなければ、この人と出会う事ができなかった」という発想はキリスト教が発展していく過程で自然発生的に生まれたことなのかな、と思っています(ことわざでも「人間万事塞翁が馬」「災い転じて福となす」という言葉がありますし)が、イエスがその考えを持っていたのかどうかは良く分からないです。

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - トマス
2011/01/13 (Thu) 16:01:25
リクエストした長谷川さんはどういう切り口からこの箇所が気になったのでしょうね?
何か書いていただけると面白いかも。

Re: Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - 長谷川
2011/01/29 (Sat) 19:08:46
トーマス先生僕がこの箇所に目がいったのは、ポリスのスティングが奥さんの出産の時にとても似たメッセージをいっていたからです。ばかけ゛ていてすみません

Re: 1月のみんたた「悲しみは喜びに」 - トマス
2011/01/29 (Sat) 21:12:01
長谷川さん
ばかげているとは思いませんよ。
長谷川さんでもどなたでも、そのスティングが言っていたメッセージやその時の状況を御存知の方が紹介してくださいませんか?
興味が湧きました。
今月はなかなか出没できずすみません。

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